曇りがちな空に雨の気配が漂うある日、午前中は靖国神社と遊就館をめぐり、将門塚に立ち寄ったのち、午後は日本橋の日本銀行金融研究所 貨幣博物館(かへいはくぶつかん)を訪れました。東京の中心にありながら、静けさと重みを感じさせるこの博物館は、まるでお金の歴史を通して日本の時間そのものを辿る場所のように感じられました。 貨幣博物館では、古代から現代にいたるまでの日本の貨幣の変遷を学ぶことができます。その背景には、単なる経済的な制度だけでなく、人々の暮らしや価値観の変化、国際情勢とのかかわりが色濃く映し出されていました。 古代の展示では、富本銭(ふほんせん)や和同開珎(わどうかいちん)といった初期の貨幣に加え、円形に方孔を持つ開元通宝(かいげんつうほう)などが紹介されていました。日本でも一時期は写経所(しゃきょうじょ)を中心とした国家的な宗教事業と結びつけて貨幣が使われましたが、しばしば「銭離れ」が起こり、米や絹といった実物財が交換の手段として重んじられる時期もあったようです。 中世に入ると、日本は自国で通貨を発行せず、主に中国の宋・元・明などの渡来銭が流通するという独特のスタイルが続きました。市の発達とともに有徳人と呼ばれる裕福な層が現れ、貨幣による商取引が活発になります。また、代銭納や撰銭といった制度も生まれ、徐々に「お金で納める」という発想が人々の生活に浸透していったようです。 そして、近世には徳川家康による貨幣の統一が大きな転換点となります。天正菱大判(てんしょうひしおおばん)や慶長小判といった金貨、銀貨が登場し、「金は天下のまわりもの」という言葉通り、貨幣が経済の血流として社会を循環していきました。石見銀山(いわみぎんざん)をはじめとする鉱山の開発は、この時代の経済活動を支えた柱の一つです。また、藩札や私札の発行、偽札防止の技術、両替屋の役割、さらには「付け払いや掛け払い」など、当時の人々のお金の使い方からも、今に通じる信頼や信用の基盤が築かれていく様子がうかがえました。 近代に入ると、金銀の流出や物価の高騰に悩まされつつ、円という新たな単位が誕生し、新貨条例が施行されます。開拓使兌換証券や政府紙幣の登場、西南戦争での紙幣乱発などを経て、日本銀行が設立され、やがて金本位制が導入されます。米騒動や金融恐慌、関東大震災といった社会の激動とともに、管理通貨制度へ...