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縮景園/広島県立美術館:400年の大名庭園と「2000年後」の現代アート

広島県広島市にある縮景園を訪れました。 広島観光の2日目です。この日は朝から平和記念公園や広島城などを巡り、その後、広島城からもほど近い縮景園へ向かいました。 入口に着くと、大名屋敷を思わせるような大きな黒い門がありました。いかにも歴史がありそうな姿だったため、江戸時代から残る門なのだろうかと思いながら中へ入ります。 縮景園は、広島藩初代藩主の浅野長晟が、広島城に入城した翌年の1620年から別邸の庭園として築いた大名庭園です。作庭を担当したのは浅野家の家老で、武将でありながら茶人としても知られた上田宗箇でした。当初は「泉水」や「泉邸」と呼ばれていましたが、のちに儒学者・林羅山の文章に由来して「縮景園」と呼ばれるようになったとされています。山や川など、さまざまな景勝を一つの庭園の中に縮めて表現するという発想が、その名にも表れています。 門を抜けると、中央に大きな池が広がっていました。縮景園は、この濯纓池を中心に歩いて巡る池泉回遊式の庭園です。池の向こうに木々や建物が重なり、その間に橋や小さな島が配置されています。広島市の中心部にいることを忘れてしまいそうな、典型的な日本庭園の風景でした。 池の周囲を歩きながら、清風館、跨虹橋、明月亭、夕照庵などを見て回りました。 中でも目を引いたのが、池の中央付近に架かる跨虹橋です。大きく弧を描いた石橋で、名前の通り虹を跨ぐような形をしています。現在の縮景園は江戸時代の姿がそのまま残っているわけではありません。1758年には大火で多くの建物を失い、1783年から大規模な改修が行われました。そして1945年8月6日には原子爆弾によって壊滅的な被害を受けています。その中で、濯纓池や築山、跨虹橋などは大きな損傷を受けながらも形を残しました。 園内を歩いていると、原爆犠牲者慰霊碑もありました。 この日の広島観光では朝から平和記念公園を訪れていましたが、縮景園にも原爆の歴史があります。原爆によって清風館をはじめとする建物や多くの樹木が失われ、園内にも被災した人々が避難してきました。現在の美しい庭園を見ていると忘れそうになりますが、ここもまた被爆地の一部です。 戦後の復旧が始まったのは1949年でした。池の浚渫や瓦礫の撤去、植樹、橋の修理などが少しずつ進められ、1951年には再開園しました。その後も正門や清風館、夕照庵、明月亭などが復元され、約3...

広島城:平和の街、夏空の下で歴史を感じる一日

真夏の猛暑の中、平和記念公園で静かな時間を過ごした後、広島城(ひろしまじょう)へと足を延ばしました。 平和公園を離れて少し歩くと、徐々にその姿が見えてきます。広島城は別名「鯉城(りじょう)」とも呼ばれ、かつて毛利輝元が1589年(天正17年)に築城を開始し、中国地方の政治の中心地として栄えました。江戸時代は、浅野氏一族の居城となり、約5倍の大きさに拡充されました。広島城は、明治以降も陸軍施設として利用されるなど、歴史の波を経てきましたが、1945年(昭和20年)の原爆によって完全に破壊され、現在の天守閣は1958年(昭和33年)に復元されたものです。 城の中に入ると、常設展が広がっていました。ここでは広島城の歴史だけでなく、戦国時代から江戸時代にかけての武具や文書、そして広島の街の移り変わりをわかりやすく展示していました。展示物をゆっくりと鑑賞していると、外の暑さを忘れてしまうほどでした。 常設展をひと通り見終え、階段を上がって最上階の展望室に向かいました。展望室からの眺めは素晴らしく、眼下には広島市の街並みが一望できます。暑さを伴った空気がかすかに揺れる中、目を凝らすと遠くには瀬戸内海も見え、その景色の美しさにしばらく見入ってしまいました。 展望室から見る広島の街は、かつての悲劇を乗り越えて再建され、活気に満ちています。その風景は、広島が持つ過去と現在、そして未来への希望を感じさせるものでした。 暑さが少し落ち着くまで展望室で過ごした後、再び城を後にしました。猛暑の日に訪れた広島城は、その歴史の深さと街の復興の力強さを感じさせてくれた、印象深い場所でした。 五奉行 豊臣秀吉が政権の頂点にあった時代、その行政機構の中枢を担ったのが「五奉行」と呼ばれる五人の官僚たちです。石田三成、増田長盛、長束正家、浅野長政、前田玄以。この五人は、豊臣政権において政策の実務を司る重要な役割を果たし、それぞれが個性豊かで、後の歴史に大きな影響を与えました。 石田三成は、近江国出身で、幼少期に観音寺で学んだとされます。秀吉に仕えるようになると、その卓越した事務能力と理知的な性格から、五奉行の筆頭として政務の中心を担いました。彼が居城とした佐和山城は、現在の滋賀県彦根市にその遺構を残しており、訪れると当時の緊迫した政治状況を肌で感じることができます。また、彼の出生地に近い長浜市石田町には石...

平和記念公園(広島):千羽鶴の祈りとともに、祈りの火が灯る場所で、平和の尊さを感じる旅

今日は一泊二日の広島観光の二日目です。まず、広島平和記念資料館が朝早くから開館しているので、平和記念公園(へいわきねんこうえん)に向かいました。 広島の平和記念公園は、広島市の中心部に位置する、世界的に知られる平和の象徴です。1945年(昭和20年)8月6日、広島に原子爆弾が投下され、多くの命が奪われました。その惨禍を後世に伝え、再び同じ過ちを繰り返さないという願いから、この公園は造られました。現在では、国内外から多くの人が訪れ、静かに祈りを捧げたり、平和の大切さについて思いを巡らせたりする場所となっています。 園内にある原爆ドームは、もともと広島県産業奨励館という名前の建物でした。原爆による爆風で壊滅的な被害を受けながらも、外壁の一部が残り、その姿は今も当時の惨状を物語っています。1996年(平成9年)にはユネスコの世界遺産にも登録され、広島の、そして世界の平和への願いを象徴する存在となりました。 もうひとつ、訪れた人が必ず足を運ぶのが「広島平和記念資料館」です。ここでは、被爆の実態を伝える写真や遺品、被爆者の証言が数多く展示されています。実際に見てまわると、その生々しさに胸が締めつけられるような思いがこみ上げてきます。改めて、核兵器の恐ろしさと平和の尊さを深く実感できる場所です。 公園の中央には、「原爆死没者慰霊碑」があります。この碑には、「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」という有名な言葉が刻まれています。この言葉に立ち止まり、静かに手を合わせる人の姿が絶えません。そのすぐ先には「平和の灯」が灯されています。この灯火は、核兵器がこの世から完全になくなる日まで消さないと誓われており、昼も夜も静かに燃え続けています。 また、園内には「原爆の子の像」もあります。これは、原爆で被ばくし、のちに白血病で亡くなった佐々木禎子(ささき さだこ)さんという少女をモデルにした像です。千羽鶴を折り続けて回復を願っていた彼女のエピソードは世界中に知られ、像のまわりには今でも多くの千羽鶴が捧げられています。子どもたちの未来を守りたいという思いが、形になって表れている場所だと感じます。 平和記念公園の敷地内は緑も豊かで、四季折々の風景も楽しめます。春には桜が咲き誇り、夏にはセミの声が響き渡り、秋には落ち葉が舞い、冬には凛とした空気の中で静かな時間が流れます。そうした自然の...

弥山:千年の祈り、瀬戸内に浮かぶ、神々が見下ろす天空の聖地

世界遺産の厳島神社に行くために広島県廿日市市に来ました。 厳島神社の背後にそびえ立ち、世界遺産「厳島神社」の構成資産の弥山(みせん)にも登ってきました。 まずはロープウェイで中腹の獅子岩駅まで。 正直なところ、観光気分の軽いノリで来ましたが、ここから頂上までが結構遠いです。 弥山の原生林は天然記念物です。 途中の広場に、弥山本堂、霊火堂、三鬼堂があります。 そこから頂上に向かうとくぐり岩があります。 途中ですれ違う海外の方たちが(もちろん日本人もですが)元気に「こんにちは」と声をかけてくれて、暑い中でも頂上まで登ることができました。 帰りは結構急なので気をつけて帰りつつ、嚴島神社奥宮に寄りました。 弥山は世界遺産に厳島神社と共に登録されるように、古くからこの地域の信仰の対象となっています。 瀬戸内海国立公園の一部にもなっており、貴重で多様な植物や鹿などの動物がいます。 旅程 東京 ↓(新幹線) 広島駅 ↓(電車) 宮島口 ↓(フェリー) 宮島港 ↓(ロープウェイ) 獅子岩駅 ↓(徒歩 それなりの距離/斜面) 弥山頂上 ↓(徒歩 それなりの距離/斜面) 獅子岩駅 周辺のスポット 嚴島神社 豊国神社 大聖院 清盛神社 リンク 弥山とは | 宮島弥山 大本山 大聖院 弥山|観光スポット|一般社団法人宮島観光協会 弥山エリア | 宮島ロープウェー 宮島・弥山の歴史探訪 | 宮島ロープウェー 弥山:登山コース(全体マップ) - 広島県廿日市市(はつかいち)けん玉発祥・宮島のあるまち 弥山 - 広島県廿日市市(はつかいち)けん玉発祥・宮島のあるまち 弥山展望台 | 【公式】広島の観光・旅行情報サイト Dive! Hiroshima