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お札と切手の博物館:触れてわかる信用の設計、紙幣の偽造防止を覗く

東京都北区にある「お札と切手の博物館」を訪れました。名前から、どこか懐かしい紙ものの展示を想像していましたが、実際に足を運ぶと、そこは「紙に刷られた歴史」だけでなく、「国家が信用を守るための技術史」まで体感できる場所でした。お札や切手は日常的に目にする存在ですが、当たり前すぎて、その背後にある工夫や積み重ねを意識する機会はあまりありません。今回は、紙片のように見えるものが、どれほどの知恵と手間で支えられているかを改めて感じました。 まず一階の展示は、現在のお札を入口にして、偽造防止技術を具体的に学べる構成になっていました。実物のお札を使いながら、マイクロ文字やホログラム、潜像模様、すき入れ(すかし)、凹版印刷、特殊発光インキなどが、どの位置に、どのような意図で組み込まれているのかが分かるように示されていました。知識として聞いたことのある言葉でも、実際に目を近づけたり、角度を変えて眺めたりすることで、「なるほど、こうやって見分けるのか」と腑に落ちます。さらに、識別マークのように、視覚に頼らない配慮が組み込まれている点も印象的で、お札がただの印刷物ではなく、多様な利用者を想定した公共インフラであることを実感しました。 偽造防止の展示は「現代の技術紹介」で終わらず、歴史と連続して語られていたところが良かったです。偽造という“攻撃”がある以上、通貨の側は常に“防御”を更新し続ける必要があります。原版製作の直刻彫刻から、機械彫刻へと精度と再現性が高まっていく流れや、製版技術における転写法や電胎法といった手法の変遷は、「信用を刷る」行為が、職人技と工業技術の両方に支えられてきたことを示していました。凹版印刷のように、触れることで分かる立体感を生む技術は、見た目だけではなく触覚も検証に利用する発想で、単に複雑にすれば良いのではなく、人が確認できる形で複雑さを設計している点に説得力がありました。 また、日本最古の近代印刷機の一つとされるスタンホープ印刷機の実物展示も、目を引く存在でした。お札や切手の世界は、つい「図柄」や「人物」に意識が向きがちですが、実際にはそれらを大量に、同じ品質で、そして安全に刷るための機械が不可欠です。印刷機の存在を目の前にすると、お札や切手は美術品でもあり工業製品でもある、という二面性がはっきりと見えてきました。 二階に上がると、展示は一気に時間をさかのぼ...

渋沢史料館:教育と福祉にも心を注いだ日本資本主義の父の軌跡

晴れ渡る空の下、東京都北区にある渋沢史料館を訪れました。以前、同じ飛鳥山公園内の紙の博物館や北区飛鳥山博物館は足を運んだことがありましたが、その時は渋沢栄一の大河ドラマが放送中で、しかもコロナ禍だったため予約が必須となり、見学は叶いませんでした。以来、いつか訪れたいと心に残っていた場所でした。 今回ようやくその念願が叶い、渋沢史料館の門をくぐることができました。あいにく企画展示は開催されていませんでしたが、常設展だけでも十分に見応えがありました。館内には渋沢栄一の生涯が、1年ごとにまとめられた91枚のパネルで丁寧に紹介されていました。彼の歩んだ軌跡を、年表ではなく一つひとつの「年」として追体験できるのは新鮮な体験でした。 渋沢栄一といえば、日本資本主義の父と呼ばれるほどの実業家としての顔が有名です。しかし、展示を読み進めるうちに、彼が経済界だけでなく教育や福祉の分野でも大きな功績を残していたことに改めて驚かされました。例えば、学校の設立や養育院の運営に携わるなど、社会を広く見渡し、未来を見据えた活動に尽力していたことが印象に残ります。 史料館の見学を終えた後は、同じチケットで入場できる青淵文庫と晩香廬にも立ち寄りました。青淵文庫は、重厚な建物の中に差し込むステンドグラスが美しく、静かな光に包まれて、当時の知の薫りを感じることができました。 一方、晩香廬では復元されたカーテンも見応えがありましたが、特に目を奪われたのは温かみを感じさせる暖炉でした。洋館の雰囲気の中にある暖炉は、渋沢が過ごした静かな時間を想像させてくれます。 飛鳥山の豊かな緑の中で、渋沢栄一の人生と、その志の広がりに思いを馳せる一日となりました。ビジネスだけでは語りきれない彼の人物像や社会貢献の精神に触れ、また新しい視点から歴史を感じることができました。再びこの場所を訪れる日が楽しみです。 旅程 王子駅 ↓(徒歩) 渋沢史料館 ↓(徒歩) 王子駅 周辺のスポット 北区飛鳥山博物館 紙の博物館 お札と切手の博物館 旧古河庭園 リンク 渋沢史料館|公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 | 飛鳥山3つの博物館 渋沢史料館/東京の観光公式サイトGO TOKYO

上田端八幡神社

子規の墓所がある大龍寺に行ったところ、道中にお祭りののぼりがあったので、上田端八幡神社(かみたばたはちまんじんじゃ)に寄ってみました。 現在の北区の田端は、江戸時代に田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端に分かれていました。各地域に八幡神社が祀られていて、上田端の八幡神社が上田端八幡神社です。下田端の方は田端八幡神社です。 八幡神社(はちまんじんじゃ、八幡宮)は、八幡神(やはたのかみ)を祀る神社です。八幡神は誉田別命(ほんだわけのみこと、品陀和気命)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされています。 上田端八幡神社は、1189年(文治五年)に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定(奥州征伐)し、その帰路に駐留した証として、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し、郷土の鎮守として創建されました。この由緒は、田端八幡神社と同じで、もともとは一つの神社であったとも言われています。 上田端八幡神社の近くには、「争いの杉」という杉がありました。これにはいくつかの逸話があり、奥州へ源義経を討伐に向かう途中の畠山重忠が杉か松かで家来と言い争ったという話、太田道灌が杉か松かで家来と言い争ったという話、二本杉で争うように立っていたからという話があります。この杉は鉄道の敷設の際に道灌山に移植されました。 具体的な日にちは分かりませんが、近いうちに祭があるようで、神輿の準備がされていました。 旅程 駒込駅 ↓(徒歩) 大龍寺 ↓(徒歩) 上田端八幡神社 ↓(徒歩) 田端駅 周辺のスポット 大龍寺 田端八幡神社 旧古河庭園 六義園 東洋文庫ミュージアム 地域の名物 関連スポット 田端八幡神社 リンク  

大龍寺

東京都北区の大龍寺(だいりゅうじ)に行ってきました 以前、愛媛県松山市の子規記念博物館に行ったため、子規ゆかりの大龍寺にいつか行きたいと思っていました。入口にも子規の墓所があることの碑があります。 精舎(しょうじゃ)というのは、仏教の修行僧が修行するお寺のことです。「祇園精舎の鐘の声」の祇園精舎などが有名です。 大龍寺の創建は慶長年間(1596~1615年)で、もともとは不動院浄仙寺という名前でした。 その後、天明年間(1781~1789年)になって湯島霊雲寺の観鏡光顕が中興して、大龍寺と改称したと言われています。 所々に、徳川の葵の紋があります。大龍寺と徳川の関係は分かりませんが、大龍寺は真言宗霊雲寺派で、総本山の霊雲寺が徳川との繋がりが強いため、その影響かもしれません。 大龍寺には、正岡子規(1867年(慶応3年)~1902年(明治35年))のお墓があるため、子規寺とも呼ばれています。子規は生前に「静かな寺に葬ってほしい」と伝えていたため、田端の大龍寺に埋葬されました。 また、他にジャーナリストで宮廷音楽家のエドワード・ハワード・ハウス、柔道家の横山作次郎、子規を短歌の師と仰いだ歌人で鋳金家(ちゅうきんか)の木村芳雨、陶芸家の板谷波山、実業家の大川平三郎のお墓もあります。 エドワード・ハワード・ハウス(1836年~1901年)は、アメリカ出身のジャーナリストで、アメリカのNew-York Tribuneの記者をした後、日本に渡り東京タイムスという英字新聞を創刊しました。明治政府の外交をサポートしたり、日本人の黒田琴を養女にしたりしました。明治天皇から勳二等瑞宝章を下賜されています。 木村芳雨(きむらほうう)(1877年(明治10年)~1917年(大正6年))は本業は鋳物工ですが、子規の根岸短歌会の設立時の6名のうちの一人で、子規の死後は歌誌「アララギ」にも関係しました。鋳物工としては、夏目漱石の自用印二顆も造りました。 横山作次郎(よこやま さくじろう)(1864年(元治元年)~1912年(大正元年))は、柔道家です。嘉納治五郎が創設した柔道の総本山である講道館の四天王と呼ばれました。お墓の横の碑にも「柔道界の大先輩」と記されています。 板谷波山(いたや はざん)(1872年(明治5年)~1963年(昭和38年))は、茨城県出身のの陶芸家です。出身の茨城県には板...

寿徳寺/谷津大観世音菩薩:モダンな伽藍と幕末の記憶

板橋駅からいくつかの神社を参拝したあと、石神井川を渡って寿徳寺へ向かいました。 境内に入る前からまず目に飛び込んできたのは、川沿いに鎮座する谷津大観音です。観音橋の北詰、寺へと上る坂の入口に据えられた堂々たる聖観音菩薩像で、平成8年(1996)に当時の住職の発願で建立されたものだと知り、地域を見守る目印のような存在感にうなずきました。 そのまま北へ歩くと寿徳寺に着きました。近づくほどに建物の意匠が現代的で、街の生活のなかに溶け込む寺のたたずまいに少し驚きます。寿徳寺は北区滝野川にある真言宗豊山派の寺院で、本堂前の大イチョウにまつわる信仰から「谷津子育観音」としても知られています。大イチョウの皮を供え祈願すると母乳がよく出る——かつてはそんな素朴な願いを携えた人びとの参拝が続いたことを思うと、都市のなかの寺が果たしてきた役割の広さを感じます。 入口では新選組局長・近藤勇の石碑にも手を合わせました。寿徳寺は近藤勇の菩提寺として知られ、板橋駅東口近くにある墓地は同寺の境外墓地です。近藤は慶応4年(1868)に板橋で斬首され、首は京都へ、胴は滝野川に葬られたと伝わります。のちに新選組の永倉新八らの尽力で1870年代に墓所が整えられ、今も命日の4月25日前後には法要が営まれているとのこと。駅前の喧騒と、史跡としての静けさが隣り合う風景に、幕末の時間の厚みが重なって見えました。 谷津大観音の大きな手と、モダンな寺の建物、そして石碑に刻まれた名。川風に吹かれながらそれぞれを順に巡ると、日常の道筋に歴史の層がふっと立ち上がってきます。 散歩がてらに訪れたはずが、帰り道には、地域の記憶を受け継いできた人びとのまなざしに触れたような、静かな余韻が残りました。 旅程 板橋駅 ↓(徒歩) 近藤勇と新選組隊士供養塔 ↓(徒歩) すがも鴨台観音堂 ↓(徒歩) 瀧野川八幡神社 ↓(徒歩) 谷津大観世音菩薩 ↓(徒歩) 寿徳寺 ↓(徒歩) 板橋駅 周辺のスポット 瀧野川八幡神社 リンク 寿徳寺・谷津子育観音 | 東京都北区観光ホームページ 寿徳寺(東京都北区)の概要・価格・アクセス|東京の霊園.com|

瀧野川八幡神社:七五三の色が揺れる、晩秋の小さな祝祭

冬の入り口に差しかかる本日、板橋駅の周辺をスクーターで巡りながら、静かな社の気配に導かれるように瀧野川八幡神社へ立ち寄りました。コロナ禍で人混みを避ける旅を続けており、境内にも観光客らしい人影はほとんどありませんでしたが、入り口には七五三の幟がはためき、地域の日常は途切れずに続いているのだと感じました。大勢が集う賑わいではなく、それぞれの家族が距離を保ちながらゆっくりとお参りしている様子が目に浮かぶようで、風に揺れる幟の音が静けさをやさしくほぐしていました。 瀧野川八幡神社は、鎌倉時代前期の創建と伝わります。まさに関東に武士の秩序が整えられていくころ、武の守護神として厚く信仰された八幡神を祀る社が、この地でも崇敬を集めはじめたのでしょう。八幡信仰は、源氏をはじめとする東国武士にとって精神的な拠りどころでしたから、荒川の段丘が続く瀧野川の台地に社が据えられたのも、当時の人々がこの土地に見た“拠り所”の感覚と重なります。中山道や石神井川の流れにほど近い北の文化圏は、江戸の外縁として栄え、農の暮らしと往来の道、祈りの場が結びついて独特の景観を形づくってきました。社殿の前に立つと、そうした時間の層がゆるやかに重なり、いま目の前にある静けさに、遠い昔の鼓動がまじるように感じられます。 本殿へ進むと、木肌のあたたかさと淡い香りに背筋が自然と伸びました。無事にここまで辿り着けたことへの感謝を静かに伝えました。見上げる社殿の意匠は華美ではありませんが、地域の人々の手で守られてきた気配があり、柱の一部に刻まれた細かな傷や、屋根の反りのやわらかな線に、長い歳月の手触りが宿っています。境内の片隅には色づき始めた木々があり、秋の色が少しずつ濃くなる途中の、季節の“移行期”ならではの落ち着きが漂っていました。 七五三の幟が示すとおり、11月は子どもたちの節目を祝う月です。疫病や災いの多かった時代、子どもが無事に成長することは何より大切な願いでした。鎌倉から江戸、そして令和へと暦が変わっても、その願いの核は変わらないのだと思います。コロナ禍で大きな祭礼が縮小された年も、家族で静かに詣でる姿が受け継がれていく――その連続性こそが、神社という場所の力なのかもしれません。祭囃子が鳴らない日でも、幟一本が風を受けて立っているだけで、地域の時間が確かに進んでいることが伝わってきます。 短い滞在でしたが、...

近藤勇と新選組隊士供養塔:駅近の静寂に立つ、新選組を弔う石碑

東京都北区の「近藤勇と新選組隊士供養塔」を訪ねました。このころはコロナ禍で、人の多い場所を避けながら週末に関東近郊をスクーターで探索しており、この日も「どこか静かに歩ける場所はないか」という軽い気持ちで板橋周辺に立ち寄りました。板橋駅近くの駐輪場にスクーターを停め、駅前から少し歩きながら地図を眺めていると、すぐ近くに「近藤勇と新選組隊士供養塔」という表示が見え、自然に足が向きました。 現地は、交通量のある駅前に、人通りの多い場所でした。供養塔は想像以上に大きく、堂々とした墓石が据えられていて、幕末という遠い時代の出来事が、いまの生活圏のすぐ隣に折り重なっていることを実感します。 そばには「近藤勇埋葬当初の墓」という立札が添えられた大きな石もあり、いったんここに“埋められた”という生々しい事実が、観光地の説明以上の重みで迫ってきました。さらに周囲には近藤勇の像や石碑もあり、個人の墓というより、時代の記憶を受け止める場として整えられている印象でした。 背景を少し辿ると、この一帯は新選組局長・近藤勇(こんどう いさみ)の最期と深く結びついています。近藤は慶応4年(1868年)4月25日、板橋平尾宿の一里塚で斬首され、首は京都でさらされ、胴は滝野川の無縁塚に埋葬されたと伝えられます。その後、明治9年(1876年)に新選組隊士の永倉新八が発起人となり、旧幕府典医の松本順(良順)の協力も得て、近藤勇や土方歳三、そして殉死した隊士たちを弔う墓碑(供養塔)が建てられました。側面には多数の関係者名が刻まれ、北区の文化財にも指定されているという点からも、単なるファンの“聖地”に留まらない史資料としての価値がうかがえます。 板橋駅のすぐ近くに、こうした供養の場が静かに残っていること自体が、江戸が「都市として更新され続けた場所」であると同時に、「記憶が消え切らずに地面の下に層をなしている場所」でもあることを教えてくれます。駅前という日常の動線の中で、歴史が急に立ち上がってくる感覚は、現地を歩いた人にしか得られない体験でした。 もともと板橋に明確な目的があったわけではありませんが、結果としてこのあと寿徳寺にも足を運ぶことになり、気づけば一日が「近藤勇をめぐる日」になりました。供養塔を起点にして周辺を歩くと、幕末史が本や映像からではなく、地名や道の曲がり方、駅と寺の距離感といった“現実のスケー...

赤羽自然観察公園:旧家が語る、まちの歴史と自然の記憶

コロナ禍で遠出が難しい日々が続いていますが、本日は東京都北区の赤羽自然観察公園を訪れました。天気は晴れ。気分転換も兼ねてスクーターで出かけられる範囲で、これまで訪れたことのない赤羽エリアに足を伸ばしてみることにしました。 普段、どうしても運動不足になりがちなので、広めの公園を探していたところ、地図で見つけたのが赤羽自然観察公園です。公園の名前の通り、園内には池が広がり、木々が豊かに茂っています。鳥のさえずりや木漏れ日が心地よく、都会の中とは思えないほど自然を感じることができました。 この公園の魅力は、自然だけにとどまりません。なんと、園内には江戸時代後期の旧家・松澤家住宅が移築保存されているのです。茅葺屋根の古民家がそっとたたずむ様子は、まるで時代をさかのぼったかのような気持ちにさせてくれます。松澤家住宅は、もともと北区赤羽にあった農家で、江戸時代後期に建てられたものだそうです。公園の自然とともに、地域の歴史や文化にも触れられるのは嬉しいポイントです。 都心からさほど離れていない場所で、豊かな自然と歴史を同時に味わえる赤羽自然観察公園。散策の合間に池のほとりでのんびりしたり、旧家のたたずまいに思いをはせたり、思い思いに過ごすことができました。何気ない日常の中で、身近な場所にこんな贅沢な空間があるのだと気づかされた一日でした。 旅程 東京 ↓(スクーター) 赤羽自然観察公園 ↓(スクーター) 東京 関連イベント 周辺のスポット 地域の名物 関連スポット リンク 赤羽自然観察公園 - 北区・赤羽地区 赤羽自然観察公園|東京都北区