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塚原ト伝生誕の地:鹿島神宮への道すがら出会った剣聖のまなざし

鹿島神宮を目指して鹿島神宮駅を出て歩き始めると、思いがけない出会いがありました。駅から神社へ向かう道の途中、「剣聖 塚原卜伝生誕之地」と書かれた大きな看板と、公園の一角に立つ堂々とした卜伝の像が目に入ったのです。目的地はあくまで鹿島神宮でしたが、戦国時代の剣豪として名前だけは知っていた人物ゆかりの場所に偶然行き当たったことがうれしく、足を止めて眺めていきました。 石像の卜伝は、両手で刀の柄に手を添え、静かにこちらを見つめていました。実際の顔立ちは分からないものの、「生涯無敗」とも伝わる剣士にふさわしい、隙のない立ち姿です。周囲には生誕地を示す石碑もあり、駅前の住宅や車の往来を背景にしながらも、この一角だけ時間が少しだけ戦国時代にさかのぼったような、不思議な空気をまとっていました。 案内板などによると、塚原卜伝は延徳元年(1489年)、常陸国一之宮である鹿島神宮の神職・卜部家の次男として生まれ、のちに沼尾の塚原城主・塚原安幹の養子となったとされています。幼いころから実父からは「鹿島の太刀」、養父の系統からは天真正伝香取神道流を学び、その二つの流れを統合して「鹿島新當流(鹿島新当流)」を開いた人物です。十代で廻国修行に出て各地の武士と立ち会い、のちに三度の修行でおよそ生涯の半分近くを旅と鍛錬に費やしたともいわれています。 修行を終えて鹿島に戻った卜伝は、鹿島神宮に千日籠もって精神修養に励み、その中で自らの剣の到達点ともいえる「一之太刀」を会得したと伝えられます。この太刀は「国に平和をもたらす剣」とされ、卜伝は「剣は人を殺める道具ではなく、人を活かす道である」という考えのもと、将軍足利義輝や多くの大名たちにも剣を教えました。戦乱の世にあっても平和を志向したその姿勢が、彼を「剣聖」と呼ばせた所以なのだろうと想像します。 ネットで調べてみると、鹿嶋市内には卜伝の墓が梅香寺にあり、そちらも「パワースポット」として知られているようです。ただ、今回はあくまで鹿島神宮への参拝が主目的で、墓所は市内の別の方向にあるため、時間的に足を伸ばすのは断念しました。それでも、生誕の地に立つ銅像だけでも、鹿島の地と卜伝のつながりを実感するには十分でした。 こうして「塚原卜伝生誕の地」は、鹿島神宮への道すがらふと立ち寄った小さな寄り道となりました。しかし、その寄り道のおかげで、鹿島という土地が単に古...

祖谷渓の小便小僧:狭い山道の先に待つ祖谷渓の絶景

香川・徳島観光の2日目は、少しだけ冒険心をくすぐられるような一日になりました。徳島ローカルの小さなバスツアーに参加し、大歩危小歩危のあたりを巡るコースで、その途中の立ち寄り先のひとつが、祖谷渓の小便小僧でした。 バスツアーと聞くと、大きな観光バスを思い浮かべますが、この日は小さなバンタイプの車でした。最初は「参加者が少ないのかな」と不思議に思っていましたが、小便小僧に近づくにつれて、その理由がよく分かってきます。祖谷街道はカーブの多い山道で、その先にある小便小僧付近の道は、車同士がすれ違うのもやっとというような狭さでした。大きな観光バスではとても入っていけない道で、むしろこの車のサイズだからこそたどり着ける場所だったのだと実感しました。 祖谷渓は、V字型に深く切れ込んだ渓谷で、谷底にはエメラルドグリーンの祖谷川が流れています。古くから平家の落人伝説の舞台として知られ、日本三大秘境のひとつにも数えられている場所です。渓谷の形から「ひの字渓谷」とも呼ばれ、秋には谷底から山の上まで一面が紅葉に染まり、季節ごとに違った表情を見せてくれるそうです。 そんな秘境の渓谷の中でも、とりわけ人の目を引くのが、断崖の上に立つ小便小僧です。祖谷街道一の難所といわれた七曲のあたりに「小便岩」と呼ばれる岩が突き出しており、その先端に小さな裸の少年の像が立っています。実際に目の前にすると、像そのものは思っていたよりも小さく感じましたが、背後に広がる谷のスケールがあまりにも大きいため、かえってその対比が印象に残りました。足元の遙か下をのぞき込むと、谷底まではおよそ200メートルあるといわれ、思わず足がすくみます。 この小便小僧には、少しユニークな由来があります。昔、この祖谷街道を行き来していた地元の子どもたちや旅人、工事の作業員たちが、この断崖の上で度胸試しをしていたという話が残っており、そこから小便をしたという逸話にちなんで像が建てられたとされています。現在の像は、徳島県出身の彫刻家・河崎良行によって1968年に制作されたもので、日本人の少年らしい姿にかたどられています。 観光客用の展望スペースからは、手すり越しに小僧の後ろ姿と、その向こうに広がる祖谷渓の深い谷を眺めることができます。周囲はのどかな山の景色なのに、断崖に立つ小さな像だけが、どこかシュールで少し可笑しくもありました。とはいえ、こ...

たつこ像:湖に秘められた伝説、永遠を望んだ乙女のまなざし

今日は角館に行ってきました。 その前にちょっと遠回りですが、田沢湖駅で降りてたつこ像を見てきました。 たつこ像は田沢湖の西岸にあります。 ひっそりと建っている姿は、デンマークの人魚象を思い出しました。辰子伝説は辰子という女性が龍になり田沢湖に身を投げ、水深の深い田沢湖ができたというお話です。 水がとんでもなく澄んでいてきれいでした。 田沢湖は水深423.4mで日本で最深の湖です。 この後、タクシーでそのまま角館に向かいました。もともと古城山公園から角館駅に向かって観光スポットをまわる予定でしたが、熊出没のため登山禁止になっていました。タクシーの運転手が結構本気で「絶対に行かないように!」と注意されていたのですが、その後の東北での熊被害を見ると従っておいて良かったです。 旅程 東京 ↓(新幹線) 田沢湖駅 ↓(タクシー) たつこ像 ↓(タクシー) 角館武家屋敷通り ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) 武家屋敷 小田野家 ↓(徒歩) 外町史料館 たてつ ↓(徒歩) 新潮社記念文学館 ↓(徒歩) 西宮家 ↓(徒歩) 安藤醸造本店 ↓(徒歩) 神明社 ↓(徒歩) 角館駅 ↓(新幹線) 東京 周辺のスポット 角館武家屋敷通り リンク たつこ像 観光情報 | 仙北市 たつこ像 | 観光・体験スポット | アキタファン 田沢湖・たつこ像 |東北の観光スポットを探す | 旅東北 - 東北の観光・旅行情報サイト

実物大ユニコーンガンダム立像:海風とネオンが描くモビルスーツの輪郭

夕暮れを迎えると、ふとどこかへ出かけたくなることがあります。この日はマダム・タッソーが19時まで開いていると知り、思い立ってお台場へ向かいました。館内の人形たちと過ごす不思議な時間を抜けると、外はすでに夜の色。海風に当たりながら散歩をしていると、そういえば実物大のガンダムがあったはずだと思い出し、地図で場所を確かめて足を延ばしました。 広場に現れたのは、白い装甲のユニコーンガンダムでした。子どものころにテレビで見ていた“最初のガンダム”の姿をどこかで期待していたので、目の前の機体が新しい世代の象徴に置き換わっていることに、少しだけ肩すかしを食ったような感覚を覚えます。それでも、鋭いシルエットと硬質な白が夜気に映え、見上げるうちに「いま」のお台場には、この機体のほうがよく似合うのかもしれないと納得していきました。1979年に始まった『機動戦士ガンダム』が長く愛され、21世紀に入って『機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)』の物語が広がったことを思えば、像の交代は作品の世代交代そのものを目にする体験でもあります。 実物大と聞くと圧倒的な巨大さを想像しますが、ユニコーンの背後にはフジテレビの球体展望室や商業施設の外壁などスケールの大きな建物が控えています。そのせいか、最初に受けた印象は「意外と小さい?」というものでした。都市の大きさの中に置かれると、18メートルという数字が錯覚を起こすのだと気づきます。けれど、足元に近づいて見上げると、関節の面取りや装甲の段差、脚部のボリュームが急に現実味を帯び、視線が装甲の合わせ目を追うほど、スケールが身体感覚に戻ってきました。 この夜は特別なライトアップは見当たりませんでしたが、周囲の建物が放つ光が装甲に反射し、陰影が自然に浮かび上がっていました。海からの風に人の流れがゆるみ、写真を撮る人々の間にささやかな会話が往来します。昼間の演出を知らなくても、夜の静けさのなかに立つユニコーンは、それだけで十分に「ここにいる理由」を語っているようでした。お台場という人工島が日本のポップカルチャーを受け止めてきた歴史――実物大ガンダム像が観光の象徴として定着してきた歩み――を思い返すと、像は単なる展示物ではなく、時代ごとの憧れを実寸で確かめるための“物差し”のようにも感じられます。 帰り道、遠ざかる機体を振り返ると、肩の角度やアンテナの輪郭が、ビルの明...

祖国記念碑 (キーウ):キーウの屋台のTシャツで出会った歴史のモニュメント

キーウ観光の2日目では、まずペチェールシク大修道院を訪れ、その壮麗な建築や厳かな雰囲気に圧倒されました。修道院の前には小さな屋台がいくつか並んでおり、そこでTシャツを買ったときのことが、今でも鮮明に思い出されます。店主が「すぐそばに大きな像があるから、ぜひ見ていって」と教えてくれたのです。 その像こそ、「祖国記念碑(Mother Ukraine)」でした。なぜかガイドブックには載っていませんでしたが、1981年に完成したこの像は、まさにキーウのランドマークともいえる存在です。高さは台座を含めて100メートル以上に及び、両手に剣と盾を掲げて立つ姿は、堂々たる威厳とともに、ウクライナという国の強さや誇りを感じさせてくれました。 祖国記念碑の周囲には、第二次世界大戦中に活躍した戦車やヘリコプター、ミサイルなどが屋外展示されており、博物館に入らなくてもその迫力を間近に感じることができます。軍事的な展示は、日本ではなかなか見ることのできないものばかりで、戦争という歴史の重みをあらためて実感する場ともなりました。 観光の合間には、近くのレストランでボルシチを味わう時間もありました。赤ビーツの鮮やかな色彩と、優しい酸味が広がるスープは、旅の疲れをほっと和らげてくれるものでした。そして、そのあとはウクライナ国民の自由の門へと足を運び、キーウのもう一つの歴史の象徴に出会うことができました。 祖国記念碑は、ウクライナの激動の20世紀を象徴する存在です。ソビエト時代に築かれ、現在では新しい時代のウクライナを見守るようにそびえ立つその姿を前に、平和と自由の意味について自然と考えさせられる時間となりました。観光地としての知名度は日本ではそれほど高くないかもしれませんが、キーウを訪れるなら一度は足を運んでみたい場所だと感じます。 旅程 (略) ↓(徒歩) 聖ウラジーミル大聖堂 ↓(タクシー) キーウ・ペチェールシク大修道院 ↓(徒歩) 祖国記念碑 (キーウ) ↓(タクシー) ウクライナ国民の自由の門 ↓(タクシー) (略) 周辺のスポット キーウ・ペチェールシク大修道院 国立ウクライナ第二次世界大戦中歴史博物館 地域の名物 ボルシチ リンク Why is Ukraine changing the Motherland monument in Kyiv? Visit Ukraine - Ukra...

聖ローランドの像:ブラックヘッドハウスの守護者、騎士像が語るリガの過去と未来

 GWを利用して、ラトビアの首都リガ(Riga)に来ました。 リガは、リガ旧市街(ヴェツリガ、Vecrīga)が世界遺産で、中世のヨーロッパの街並みが残っており、長い間来たいと思っていた街です。 ブラックヘッドハウス前にある聖ローランドの像は、リガ旧市街の象徴的なランドマークです。この像は、聖ローランド(St. Roland)を讃えるものであり、彼は中世ヨーロッパにおいて正義と秩序の象徴とされていました。 聖ローランドは、フランク王国の軍人であり、シャルルマーニュ(カール大帝)の甥として知られています。彼は伝説的な英雄であり、特に「ローランの歌」(La Chanson de Roland)という中世の叙事詩でその名声を高めました。ローランドはキリスト教徒の騎士として、異教徒との戦いで殉教したとされ、後に聖人として崇められるようになりました。 リガの聖ローランド像は、もともと1897年に建てられました。この像は、市の守護者としてのローランドの姿を描いており、彼が剣を持ち、盾を掲げる威厳ある姿で表現されています。このようなローランド像は中世のヨーロッパ各地にあり、特にドイツや東ヨーロッパの都市で市庁舎や広場に設置されることが一般的でした。これらの像は、法と秩序の象徴として、市の独立と自治を示すものとされていました。 リガの像も同様に、市の自治や独立を象徴するもので、特にリガがハンザ同盟の一員として重要な貿易都市であったことを思い起こさせます。 聖ローランド像は、リガ市民にとって歴史的な誇りと市の独立精神を表現するシンボルであり続けています。また、観光客にとっても、この像はリガの歴史と文化に触れる貴重な機会を提供します。 現在でもブラックヘッドハウスの前に立つ聖ローランド像は、訪れる人々に市の豊かな歴史とその守護者としてのローランドの役割を思い起こさせる重要な存在です。 旅程 ホテル ↓(徒歩) 聖ローランドの像 ↓(徒歩) ブラックヘッドハウス ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) 聖ペテロ教会 ↓(徒歩) 聖ヨハネ教会 ↓(徒歩) リガ航海史博物館 ↓(徒歩) リガ大聖堂 ↓(徒歩) 三人兄弟 ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) スウェーデン門 ↓(徒歩) 火薬塔 ↓(徒歩) 猫の家 ↓(徒歩) Great Guild ↓(徒歩) (略) 周辺のスポット ブラックヘッド...