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川崎市立日本民家園:日本の暮らしと文化を知る旅

藤子・F・不二雄ミュージアムからGoogle Mapにも名前が載ってない小川に沿って西に向かい、日本民家園へ行きました。もともと登戸には藤子・F・不二雄ミュージアムと岡本太郎美術館が目的で来ていて、日本民家園は時間が余った時に立ち寄る予定だったのですが、藤子・F・不二雄ミュージアムにそれほど時間がかからなかったため、先に日本民家園に行くことにしました。行く前に軽くChat GPTで調べた程度だったので、完全に舐めていましたが、規模も内容もすばらしく5時間ほど滞在して、結果的に岡本太郎美術館は別の日に行くことにしました。 川崎市立日本民家園は、神奈川県川崎市多摩区の生田緑地にある野外博物館です。1967年(昭和42年)に開園し、日本各地から移築された歴史的な民家を展示しています。江戸時代から明治時代にかけての農家や商家、武家屋敷など、全国から集められた25棟の建築物が復元され、訪れる人々に日本の伝統的な生活文化を伝えています。 まず入ってすぐに、展示室があります。民家の建て方や屋根、構造、間取りなどについて、コンパクトにまとまっています。 園内では、各地域の風土に適した建築様式を見ることができます。例えば、岐阜や富山などの豪雪地帯で見られる合掌造りの家は、茅葺きの三角屋根が特徴的です。また、東北地方の曲り家は、家と馬屋が一体となった構造で、寒さの厳しい環境でも馬と共に暮らせる工夫がされています。関東や近畿地方に多く見られた町屋は、商人の家として建てられ、間口が狭く奥行きのある造りになっています。 これらの古民家は「当初復原(とうしょふくげん)」という方法で移築されており、住んでいく中で近い年代の技術で改造された部分(水道など)や傷んだ部分を当初の状態に戻すようにしています。建築の世界では、復元(ふくげん)と復原という単語は使い分けれており、失われた建物を推測で再現することを復元、旧部材や残っている文献などを根拠が確かな場合を復原といいます。障子にはユネスコ無形文化遺産の細川紙(ほそかわし)が使われています。茅葺屋根(かやぶきやね)は7~8年ごとに差茅(さしがや)という部分的な修理を行い、20~30年ごとに全面的な葺き替え(ふきかえ)を行います。 国指定重要文化財 25棟すべてが、現地のものを移築し、建築された時期のものを復元しており、非常に貴重なものですが、中には7件...

天昌山 光源寺:駒込大観音が見守る大都会の静寂

本日は当初、文京区の小石川植物園と井上円了記念博物館に行く予定でした。小石川植物園は休園で、井上円了記念博物館は入試中で入構禁止で入れませんでした。残念ですが、完全に時期を誤りました。少し歩けば、文京区立森鴎外記念館と旧安田楠雄邸庭園があるので、今日はそちらを見ることにしました。文京区立森鴎外記念館に向かって東に進むと、見た目がユニークな建物のお寺がありました。光源寺という名前で、ユニークな建物内には非常に大きな観音像が立っていました。 文京区の静かな住宅街にひっそりと佇む天昌山 光源寺は、浄土宗に属する歴史あるお寺です。最寄り駅は南北線の本駒込駅や千代田線の千駄木駅で、いずれも徒歩圏内という便利な立地にあります。光源寺は江戸時代の1589年(天正17年)に仙石秀久に 開基(かいき) されたとされており、長い歴史の中で地域の人々の信仰の拠り所として親しまれてきました。元々は神田四軒町(現・東京都千代田区神田美土代町)にありましたが、1648年(慶安元年)に現在地に移転しました。 大観音像は、駒込大観音(こまごめおおがんのん)という名前の十一面観音像です。初代の像は江戸時代前期の豪商丸屋吉兵衛の発願により建てられましたが、第二次世界大戦の夜襲で焼失しました。1993年(平成5年)に、現在の2代目の大観音像が再建されました。 光源寺の境内は、季節ごとの表情が豊かで、四季折々の自然を感じることができます。歴史的な墓地もあり、江戸時代や明治時代の著名な人物(明珍本家(54世宗介など)、甲賀源吾、柳田正斎、柳田泰麓、服部波山、寺田宗有など)が眠っていることから、歴史好きな方にとっても興味深い場所となっています。古い墓石には時の流れが刻まれており、静かに手を合わせると、過去と現在が穏やかに繋がる感覚を味わうことができます。 日常の忙しさを忘れて、静かに心を落ち着けたい時には、天昌山 光源寺を訪れてみてはいかがでしょうか。その静寂と美しい景観は、きっと心に安らぎをもたらしてくれることでしょう。 旅程 茗荷谷駅 ↓(徒歩) 小石川植物園(休園日) ↓(徒歩) 井上円了記念博物館(入試中で入構禁止) ↓(徒歩) 天昌山 光源寺 ↓(徒歩) 文京区立森鴎外記念館(観潮楼跡) ↓(徒歩) 旧安田楠雄邸庭園 ↓(徒歩) 田端駅 関連イベント 周辺のスポット 文京区立森鴎外記念館(観潮楼跡)...

旧安田庭園:安田善次郎と江戸の面影

刀剣博物館の後、旧安田庭園(きゅうやすだていえん)にも寄りました。今日は最高気温38度の猛暑で、木陰で少し涼もうと思いましたが、そんなレベルの暑さではありませんでした。 東京・両国の喧騒から少し足を伸ばすだけで、静寂と緑に包まれた空間に出会える場所があります。それが、旧安田庭園です。この庭園は江戸時代後期に本庄松平氏の常陸国笠間藩主・本庄宗資 (ほんじょう むねすけ)の下屋敷の庭園として造られ、明治時代に安田財閥の創始者である安田善次郎(やすだ ぜんじろう)によって整備されたことで知られています。現在は東京都墨田区が管理する、入園無料の日本庭園として多くの人々に親しまれています。 本庄宗資は江戸時代中期から後期にかけて活躍した常陸国笠間藩の藩主であり、笠間藩約8万石を治めていました。本庄家は徳川幕府に仕える譜代大名として、幕政において重要な役割を担っていました。宗資は政治的な手腕だけでなく、文化や庭園造りにも深い関心を持っていたと考えられています。その証として、旧安田庭園は江戸の大名庭園の特徴を色濃く残しており、彼の美意識と統治理念が反映された空間となっています。 安田善次郎は、幕末から明治・大正時代にかけて活躍した実業家であり、安田財閥の創始者として知られています。1838年に現在の富山県高岡市で生まれ、商才に恵まれた彼は若くして江戸に出て両替商としてのキャリアをスタートさせました。明治維新後の経済変革期において、1876年に安田銀行(現在のみずほ銀行の前身)を設立し、金融業界で大きな成功を収めました。その後、不動産業や保険業など幅広い事業に進出し、安田財閥を日本四大財閥の一つにまで成長させました。 安田善次郎は事業だけでなく、文化財の保護や社会貢献活動にも積極的に取り組んでいました。その一環として、旧安田庭園を所有し、整備したことで知られています。もともと本庄宗資の下屋敷だったこの庭園を取得した善次郎は、美しい景観を維持しつつ、一般の人々にも楽しんでもらえるように工夫を凝らしました。彼の死後、庭園は東京市に寄贈され、現在は墨田区が管理する公園として多くの人々に親しまれています。 旧安田庭園の魅力は、都会の真ん中にありながらも、訪れる人々に心安らぐひとときを提供してくれるところにあります。庭園は池泉回遊式と呼ばれる形式で、中央には心字池と呼ばれる大きな池が広がり、...