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適塾:江戸の私塾から現代へ、受け継がれる学びの系譜

大阪府大阪市の適塾に行きました。 この日は、中之島美術館で開催されている『フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展』を見るため、朝から大阪市を訪れていました。大阪市立科学館、国立国際美術館、中之島美術館と巡ったあと、適塾に向かいました。 適塾については、以前、全国に残る古い学校を調べていたときに知っていました。ただ、訪れるまでは「江戸時代にあった私塾の一つ」という程度の認識でした。 適塾は、蘭方医・蘭学者の緒方洪庵が1838年に開いた蘭学塾です。当初は瓦町にありましたが、1845年に現在の場所へ移りました。全国から蘭学を志す若者が集まり、福沢諭吉、大村益次郎、長与専斎、大鳥圭介など、幕末から明治にかけて活躍する多くの人物を輩出しました。現在残る建物は、蘭学塾の遺構として非常に貴重なもので、国の史跡・重要文化財になっています。 入場料を払って中に入ると、大阪大学の学生さんがボランティアの説明員をしていました。せっかくなので解説をお願いすることにしましたが、これが今回の訪問を非常に充実したものにしてくれました。 まず緒方洪庵の肖像画の前で、その医学者としての業績について説明してくれました。 洪庵が大きな仕事として取り組んだものの一つが、ドイツ人医師フーフェラントの医学書をオランダ語訳から日本語へ翻訳した『扶氏経験遺訓』です。全30巻にもなる大著で、日本に西洋の内科学を紹介するうえで重要な役割を果たしました。 もう一つ印象に残ったのが牛痘による種痘の話です。天然痘が大きな脅威だった時代、洪庵は1849年に大坂に種痘所を設け、牛痘種痘法の普及に力を尽くしました。しかし当時は、「種痘を受けると牛になる」といった風評まであり、新しい医療を人々に受け入れてもらうこと自体が大変だったそうです。 学生さんの説明では、子どもにお金を払って種痘を受けてもらい、そこから痘苗をつないでいったという話も聞きました。現代ではワクチンは医学として当たり前の存在ですが、医学的に正しい知識があるだけでは社会には広まりません。人々の不安や迷信と向き合いながら普及させなければならなかったところに、洪庵の医師としての仕事の大きさを感じました。 『扶氏医戒之略』についても説明してくれました。これはフーフェラントが記した医師の心得を洪庵が十二カ条にまとめたもので、「人の為に生活して己のために生活せざるを医業の本体と...

高松塚古墳 / 高松塚壁画館:極彩色の壁画が語る、古代明日香の記憶

奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳(たかまつづかこふん)に行きました。 この日は、朝から明日香村を訪れ、キトラ古墳の壁画を見学していました。キトラ古墳で古代の星や四神の世界に触れたあと、同じく極彩色の壁画で知られる高松塚古墳へ向かいました。明日香村は古墳や宮跡、寺院跡が点在しており、歩いているだけでも、古代の都の中を少しずつたどっているような気分になります。 高松塚古墳は、飛鳥歴史公園の中にあり、少し小高い場所に築かれていました。周辺はきれいに整備されていて、古墳そのものも静かな緑の中に落ち着いて見えました。大きくそびえる古墳というよりも、風景の中に自然に溶け込んでいるような印象です。古墳の周囲を歩くと、ここで大きな発見があったことが少し不思議に感じられるほど、現在の姿は穏やかでした。 高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初めごろに築かれたと考えられている終末期古墳です。1972年に石室内から極彩色の壁画が発見され、日本中に大きな衝撃を与えました。壁画には、人物群像や四神、日月、天井の星宿図などが描かれており、特に西壁女子群像は、高松塚古墳を象徴する存在としてよく知られています。古代の衣装をまとった女性たちの姿は、教科書や資料集などでも見た記憶があり、実際にその古墳の場所に立っていると思うと、歴史上の知識が現実の風景とつながっていくように感じました。 古墳を見た後、同じ公園内にある高松塚壁画館へ向かいました。壁画館は非常に小さな博物館でしたが、展示内容は高松塚古墳を理解するには十分に濃いものでした。館内には、壁画と同じ材質で作られた原寸大の模写が展示されており、実際の石室の中にどのように絵が描かれていたのかを想像しやすくなっていました。 有名な西壁女子群像だけを取り上げた展示もありましたが、特に印象に残ったのは、天井を含めて四面を再現した大きな模写です。石室という限られた空間の中に、人物、方角を守る神々、天の星々が描かれていたことが分かり、単なる装飾ではなく、死後の世界や宇宙観を表す空間だったのだろうと感じました。同じ形式の大きな模写が複数展示されていたことで、壁画をさまざまな角度から確認できるのも面白いところでした。 展示では、飛鳥時代の衣装や、副葬品である銅鏡、金具などのレプリカも見ることができました。高松塚古墳の被葬者ははっきりとは分かっていませんが、壁画や副葬品か...

大森貝塚遺跡庭園/大森貝墟の碑:都市の片隅に残る、縄文の時間

品川歴史館を見学した後、 大森貝塚遺跡庭園を訪れました。品川歴史館で古代の遺跡や品川の歴史に触れた後だったので、実際にその歴史の現場を歩けることに、少しワクワクしながら庭園の入口に到着しました。 入口や広場は、どこか土器を思わせる丸みや曲線を活かした造りになっていて、過去と現代をつなぐ不思議な雰囲気が漂っていました。 園内には、アメリカ人動物学者エドワード・S・モース博士の像が建てられています。モース博士は1877年(明治10年)、この地で日本初の本格的な考古学的発掘調査を行った人物であり、大森貝塚を世界的に有名にした立役者です。その像の前に立つと、100年以上前の発見の感動が少しだけ伝わってくる気がしました。 庭園の奥へ進むと、貝塚の断面を見ることができます。黒ずんだ貝殻や土層が幾重にも重なり、縄文時代の人々の暮らしや日常の痕跡が感じられます。解説パネルも設置されており、当時の食生活や文化に思いを馳せることができました。 その後、庭園から徒歩ですぐの場所にある「大森貝墟の碑」も訪れました。NTTのビルの裏手という少し分かりにくい場所ですが、道や階段がきちんと整備されており、迷わずたどり着くことができました。入口には「9時から17時までは通行可能」とあり、訪問時間に少し気を付ける必要があります。 また、ビルの前には時間外の訪問者向けなのか、碑の2分の1スケールのレプリカが設置されていました。手軽に碑の雰囲気を感じられる工夫がされているのも、歴史を大切にするこの地域らしい配慮だと感じました。 大森貝塚は、ただの「遺跡」ではなく、日本の考古学や縄文文化の出発点の一つともいえる場所です。現地を歩き、モース博士の功績や、土の中に眠る遠い昔の人々の暮らしを身近に感じられるひとときとなりました。 旅程 大森駅 ↓(徒歩) 品川区立品川歴史館 ↓(徒歩) 大森貝塚遺跡庭園 ↓(徒歩) 大森貝墟の碑 ↓(徒歩) 大森駅 関連イベント 周辺のスポット 品川区立品川歴史館 ニコンミュージアム しながわ水族館 地域の名物 関連スポット リンク 大森貝塚|品川区立 品川歴史館 大森貝塚遺跡庭園 | しながわ観光協会 大森貝塚遺跡庭園 | agataJapan.tokyo

加曽利貝塚:貝殻が語る歴史物語、縄文文化の魅力

千葉市埋蔵文化財調査センターの特別展「貝と人」を見れたので、貝塚の特別史跡の加曽利貝塚(かそりかいづか)に行くことにしました。 加曽利貝塚は、千葉県千葉市若葉区に位置する、日本最大級の縄文時代の貝塚です。この遺跡は、約7000年前から3000年前にかけての縄文時代中期から後期に形成されたもので、特にその規模の大きさと保存状態の良さから、2017年(平成29年)に国の特別史跡に指定されました。縄文時代の暮らしや文化を知るうえで、非常に貴重な場所となっています。 加曽利貝塚の大きな特徴の一つは、二つの環状貝塚「北貝塚」と「南貝塚」が存在することです。環状貝塚とは、貝殻が円を描くように積み上げられたもので、当時の人々の集落跡として考えられています。北貝塚は直径約140mのドーナツ型で、南貝塚は長径約190mの馬蹄型(ばていがた。馬のひづめの形)で、日本最大級の大きさです。貝殻のほかにも、魚や動物の骨、土器、石器、装身具など、多くの遺物が出土しており、これらは当時の生活様式や食文化、さらには信仰や社会構造を探る手がかりとなっています。 特に加曽利貝塚からは、イボキサゴ、ハマグリやアサリなどの貝が多く見つかっています。これらの貝類は、海や川から得られたものであり、縄文人たちが自然の豊かな食資源を上手に活用していたことがうかがえます。また、出土した土器や石器も、独自のデザインや技術が施されており、縄文文化の豊かさを実感できます。 加曽利貝塚を訪れる際には、併設されている「加曽利貝塚博物館」も見逃せません。この博物館では、貝塚から出土した数々の遺物が展示されているほか、縄文時代の生活を再現した展示も楽しめます。実際に土器作りや火おこし体験ができるワークショップも開催されており、大人から子どもまで、体験を通じて学べる貴重な機会となっています。 また、野外展示エリアには、縄文時代の住居である「竪穴住居」を復元したスペースがあります。当時の人々がどのような空間で暮らしていたのか、実際に目で見て体感することで、より深く歴史に触れることができます。定期的に行われる体験プログラムも人気で、地域の歴史や文化を楽しく学べるイベントとなっています。 加曽利貝塚へのアクセスは、千葉都市モノレールの「桜木駅」から徒歩で約15分ほどです。車で訪れる場合も、駐車場が完備されているので安心です。また、千葉市...

伊能忠敬旧宅

佐原町並み交流館から伊能忠敬旧宅に向かいました。 伊能忠敬旧宅は、江戸時代の日本地図作成者として有名な伊能忠敬(いのう ただたか)が、1762年(宝暦12年)に17歳で伊能家に婿養子に入り、1795年(寛政7年)、50歳で江戸に出るまで住んでいました。 正門、店舗、書院(母屋)、土蔵が国指定史跡に指定されています。正門は忠敬が婿養子に入る以前の建物で、書院は忠敬が設計したと伝えられています。店舗は桁行(けたゆき)七間、梁間三間の切妻、土蔵造りです。 土蔵は、桁行四間、梁間三間切妻造りで、入口の扉は観音開きが普及する以前の引き戸のもので、貴重な土蔵です。 伊能忠敬は、全国の測量を行い、正確な日本地図を完成させたことで広く知られています。彼の旧宅は千葉県香取市(旧佐原市)にあり、彼の功績を記念して保存されています。 旧宅は江戸時代の建築様式を残し、当時の生活や文化を感じることができる場所です。忠敬がどのような環境で育ち、測量技術や天文学に対する興味を深めていったのかを知ることができます。また、隣接する伊能忠敬記念館では、彼の生涯や業績に関する展示が行われており、彼が日本の地図を作成する際に使用した器具や資料も展示されています。 伊能忠敬は50歳を過ぎてから本格的に測量を始め、その精密な測量技術は現代にも影響を与えています。 庭には、伊能忠敬が1791年(寛政3年)に、長男の景敬(かげたか)に与えたという家訓の碑があります。 第一 仮(かり)にも偽(いつわり)をせす孝弟忠信(こうていちゅうしん)にして正直たるへし 現代訳: かりそめにも人をあざむくことをせず、親に孝行兄弟仲良く、人には真心を尽くし、正直にしなさい 第二 身の上の人ハ勿論(もちろん)身下の人にても教訓異見(きょうくんいけん)あらは急度(きっと)相用(あいもちい)、堅(かた)く守るへし 現代訳: 目上の人はもちろんのこと、目下の人のいう事でも、なるほどと思ったら取り入れるようにしなさい 第三 篤敬謙譲(とくけいけんじょう)とて言語進退(ごんごしんたい)を寛容ニ諸事(しょじ)謙(へりくだり)り敬(つつし)ミ、少(いささか)も人と争論(そうろん)など成べからず 現代訳: あつく敬い、ヘリ下るというように、物の言い方や動作をこせこせせず、総べての事につけてへり下り慎み、決して人と争いなどしてはいけません 彼の旧宅と...

浦上天主堂:長崎の丘に響く祈りの光、戦争の爪痕と再生の物語

平和公園のあと、浦上天主堂(うらかみてんしゅどう)を訪れました。丘の上にたたずむこの教会は、日本のカトリック史と、戦争の歴史を静かに語り継ぐ場所です。 中に入ると、まず目に入ったのは、原爆によって破壊された遺物や、当時の様子を伝える説明資料の展示です。瓦礫となった鐘や崩れた聖像、焼け焦げた十字架の写真などは、戦争の爪痕をいまも色濃く残しており、訪れる人に平和の大切さを訴えかけているようでした。 教会内部はちょうど礼拝の最中で、写真撮影は禁止されていました。しかし、静寂のなか、陽の光を受けて輝くステンドグラスがとても印象的でした。鮮やかな色彩のガラス越しに差し込む光は、まるで希望や癒しを象徴しているようで、思わずしばらく立ち尽くしてしまいました。 浦上天主堂は、1945年8月9日の原爆投下で一度壊滅的な被害を受け、当時の信者や地域の人々も多く犠牲になりました。その後、多くの人々の努力と祈りによって再建され、現在では長崎の平和を願う象徴的な場所となっています。教会の外にも、当時のまま残された遺物が展示されており、崩れた壁や、溶けた鐘の破片などに触れることで、戦争の悲惨さと平和への誓いを改めて感じることができました。 歴史を刻みながら、いまも多くの人々が祈りを捧げる浦上天主堂。そこは、信仰だけでなく、長崎の記憶と希望が受け継がれる特別な場所だと、強く感じました。 旅程 羽田空港 ↓(飛行機) 長崎空港 ↓(バス) 中央橋バス停 ↓(徒歩) 眼鏡橋 ↓(徒歩) 出島 ↓(徒歩) 旧長崎英国領事館 ↓(徒歩) 大浦天主堂 ↓(徒歩) グラバー園 ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) オランダ坂 ↓(徒歩) 長崎駅 ↓(バス) 長崎原爆資料館 ↓(徒歩) 平和公園 ↓(徒歩) 浦上天主堂 ↓(徒歩) 平和公園バス停 ↓(バス) 長崎空港 周辺のスポット 平和公園 長崎原爆資料館 国立長崎原爆死没者 追悼平和祈念館 地域の名物 卓袱料理(しっぽくりょうり) リンク 浦上教会 | 教会めぐり | 【公式】長崎観光/旅行ポータルサイト ながさき旅ネット 浦上教会(浦上天主堂) | スポット | 長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」 長崎原爆と浦上天主堂 — Google Arts & Culture 浦上天主堂|写真|ライブラリ|九州観光機構 KYUSHU ONL...

さきたま古墳公園:悠久の眠りに寄り添う、金錯銘鉄剣に刻まれた謎

本日は、埼玉県の行田市に来ています。古墳をメインに、忍城あたりを探索しました。バスの本数も多いわけではなさそうなので、全部徒歩で廻りました。忍城、水城公園へ行ったあと、さきたま古墳公園へ向かいました。 埼玉県行田市に位置するさきたま古墳公園は、古代日本の歴史を肌で感じることができる特別な場所です。この地には5世紀から7世紀に築かれたとされる大型の前方後円墳を中心に、大小さまざまな古墳が点在しています。特に有名なのは、国の特別史跡に指定されている「稲荷山古墳」で、ここからは金錯銘鉄剣と呼ばれる歴史的に非常に重要な鉄剣が出土しました。この鉄剣には、当時の支配層の名前や出来事が刻まれており、日本古代史の謎を解く鍵とされています。 公園内は広々とした緑地に整備され、訪れる人々は、古墳の周囲を散策しながら悠久の時に思いを馳せることができます。春には桜が咲き誇り、古墳群とピンク色の花々が織りなす美しい景色が広がり、多くの人々がカメラを手に訪れます。また、公園内には「さきたま史跡の博物館」が併設されており、出土品や古墳時代の生活を紹介する展示を見ることができます。特に稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣の実物展示は見逃せません。この日は残念ながら改築中で将軍山古墳に併設されている展示館のみ見学しました。 古墳群を眺めながら芝生の上でのんびりと過ごすもよし、博物館でじっくりと古代史に触れるもよし、それぞれのスタイルで楽しめるのがさきたま古墳公園の魅力です。周辺には「行田市郷土博物館」や「足袋とくらしの博物館」など、行田の歴史や文化に触れられる施設もあり、併せて訪れるとさらに深い理解が得られるでしょう。 静かな公園内を歩いていると、現代とは異なる時の流れを感じ、古代の人々の営みに思いを馳せるひとときが訪れるはずです。歴史好きの方はもちろん、自然の中でゆっくり過ごしたい方にもおすすめの場所です。 稲荷山古墳出土鉄剣 稲荷山古墳は、5世紀後半に築かれたと考えられる前方後円墳です。この古墳が全国にその名を知られるようになったのは、1968年(昭和43年)に行われた発掘調査で、驚くべき出土品が発見されたことによります。それが、後に「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」と呼ばれるようになった鉄剣でした。 この鉄剣は、見た目こそ地中に長い間眠っていたことによる錆びが目立ちますが、X線撮影によって刃...