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斑鳩文化財センター / 藤ノ木古墳:一つの石棺、二人の眠り、いくつもの謎

奈良県生駒郡斑鳩町の斑鳩文化財センターに行きました。 この日は、「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修を支援するクラウドファンディングに参加したことから、支援者限定の収蔵庫公開のために法隆寺を訪れていました。収蔵庫や境内を見学したあと、近くにある藤ノ木古墳について学ぼうと、斑鳩文化財センターへ向かいました。 藤ノ木古墳を今回の訪問先に加えたのは、法隆寺周辺の見どころをAIに調べてもらったことがきっかけです。そのときは、初めて知った古墳のつもりでした。ところが、このあと訪れた橿原考古学研究所附属博物館で、実は5月にも藤ノ木古墳の出土品の修復に関する特別展示を見ていたことに気がつきました。 博物館を巡っていると、さまざまな古墳の出土品に出会います。鏡や刀剣、土器など、同じ種類のものも多いため、見た記憶はあっても、それがどの古墳から出土したのかまでは、なかなか結びつきません。今回は、展示室で見ていた品々と、実際にそれらが眠っていた場所とが、ようやくつながる訪問になりました。 一つの石棺に眠っていた二人 藤ノ木古墳は、6世紀後半に築かれた、直径約50メートル、高さ約9メートルの円墳です。法隆寺の西側に位置し、1985年に始まった発掘調査によって、その内部の様子が明らかになっていきました。 大きな特徴は、盗掘を受けていない状態で、多くの副葬品が残されていたことです。さらに、1988年の調査では、石棺の中に二人の被葬者が確認されました。石室に二つの棺が置かれていたのではなく、一つの石棺に二人が葬られていたという点が印象に残りました。 これほど豪華な品々とともに葬られた二人は、どのような人物だったのでしょうか。被葬者については皇族や有力豪族と結びつけるさまざまな説がありますが、誰であるかは確定していません。副葬品から大きな力を持っていた人物の姿は想像できても、その名前までは簡単にたどり着けないところに、古墳を学ぶ難しさがあります。 レプリカで見る、馬具の豪華さ 斑鳩文化財センターの常設展は、藤ノ木古墳から出土した主要な品々約60点の精巧なレプリカを中心に構成されています。実物の一部は橿原考古学研究所附属博物館で展示されており、こちらでは複製品と映像を通して、古墳や出土品について学べるようになっています。 展示で目を引いたのは、馬具の豊富さです。馬具全体についての説明があり、鞍な...

高松塚古墳 / 高松塚壁画館:極彩色の壁画が語る、古代明日香の記憶

奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳(たかまつづかこふん)に行きました。 この日は、朝から明日香村を訪れ、キトラ古墳の壁画を見学していました。キトラ古墳で古代の星や四神の世界に触れたあと、同じく極彩色の壁画で知られる高松塚古墳へ向かいました。明日香村は古墳や宮跡、寺院跡が点在しており、歩いているだけでも、古代の都の中を少しずつたどっているような気分になります。 高松塚古墳は、飛鳥歴史公園の中にあり、少し小高い場所に築かれていました。周辺はきれいに整備されていて、古墳そのものも静かな緑の中に落ち着いて見えました。大きくそびえる古墳というよりも、風景の中に自然に溶け込んでいるような印象です。古墳の周囲を歩くと、ここで大きな発見があったことが少し不思議に感じられるほど、現在の姿は穏やかでした。 高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初めごろに築かれたと考えられている終末期古墳です。1972年に石室内から極彩色の壁画が発見され、日本中に大きな衝撃を与えました。壁画には、人物群像や四神、日月、天井の星宿図などが描かれており、特に西壁女子群像は、高松塚古墳を象徴する存在としてよく知られています。古代の衣装をまとった女性たちの姿は、教科書や資料集などでも見た記憶があり、実際にその古墳の場所に立っていると思うと、歴史上の知識が現実の風景とつながっていくように感じました。 古墳を見た後、同じ公園内にある高松塚壁画館へ向かいました。壁画館は非常に小さな博物館でしたが、展示内容は高松塚古墳を理解するには十分に濃いものでした。館内には、壁画と同じ材質で作られた原寸大の模写が展示されており、実際の石室の中にどのように絵が描かれていたのかを想像しやすくなっていました。 有名な西壁女子群像だけを取り上げた展示もありましたが、特に印象に残ったのは、天井を含めて四面を再現した大きな模写です。石室という限られた空間の中に、人物、方角を守る神々、天の星々が描かれていたことが分かり、単なる装飾ではなく、死後の世界や宇宙観を表す空間だったのだろうと感じました。同じ形式の大きな模写が複数展示されていたことで、壁画をさまざまな角度から確認できるのも面白いところでした。 展示では、飛鳥時代の衣装や、副葬品である銅鏡、金具などのレプリカも見ることができました。高松塚古墳の被葬者ははっきりとは分かっていませんが、壁画や副葬品か...

文武天皇陵(檜隈安古岡上陵 / 栗原塚穴古墳):開けた畑の先に広がる飛鳥の余韻

奈良県高市郡明日香村の文武天皇陵に行きました。古墳としては栗原塚穴古墳や檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)とも呼ばれている場所です。この日は、キトラ古墳の壁画を見るために朝から明日香村を訪れており、壁画を見学した後、高松塚古墳へ向かう途中で立ち寄りました。 キトラ古墳の周辺から文武天皇陵の方へ歩いていくと、畑が広がる先に鳥居と古墳の姿が見えてきました。明日香村らしい、空の広さと田園風景の中に古墳がある眺めです。天皇陵とされる古墳の中には、現在では周囲が住宅地や道路に囲まれ、全体の姿を見渡しにくい場所も少なくありません。その点、ここでは畑の向こうに陵墓全体が静かに見え、晴天だったこともあって、とても美しい景色に感じられました。 文武天皇は第42代天皇で、飛鳥時代から奈良時代へ移っていく直前の重要な時期に在位した天皇です。藤原京を都とした時代の天皇であり、大宝律令の制定など、古代日本が律令国家として形を整えていく時代と深く関わっています。華やかな壁画で知られるキトラ古墳や高松塚古墳と同じ明日香の地に、その時代の終わりと新しい国家の始まりを感じさせる陵墓があることに、飛鳥という土地の歴史の厚みを改めて感じました。 鳥居の前まで行くと、陵墓の中へ入ることはできませんが、拝所から参拝することができます。大きな観光施設のような派手さはありませんが、かえってその静けさが印象に残りました。古墳を遠くから眺め、鳥居の前で手を合わせるだけの短い滞在でしたが、明日香の風景の中では、その短さも自然な時間の流れに思えました。 一方で、後から調べてみると、現在宮内庁が文武天皇陵として治定しているのはこの栗原塚穴古墳ですが、学術的には少し北にある中尾山古墳こそが本来の文武天皇陵である可能性が高いと考えられているようです。中尾山古墳は八角形の墳丘を持つ終末期古墳で、火葬骨を納めるための施設があったと考えられています。文武天皇が火葬されたと伝えられることとも合い、こちらを真陵とみる説が有力になっているようです。 そう考えると、文武天皇陵への訪問は、ただ一つの「正解」として古墳を見るというよりも、伝承、宮内庁の治定、考古学の成果が重なり合う場所を歩く体験だったように思います。古代の陵墓は、現在の地図に名前が書かれているからといって、すべてが単純に確定しているわけではありません。むしろ...

キトラ古墳:小さな古墳に閉じ込められた、飛鳥時代の宇宙

東京の博物館で、キトラ古墳の壁画公開のちらしを見つけました。奈良県明日香村にある有名な古墳であることは知っていましたが、実際に壁画を見られる機会は限られているようでした。せっかくなら見てみたいと思い、応募して、キトラ古墳を訪れることにしました。 キトラ古墳は、飛鳥時代の終わりごろ、7世紀末から8世紀初頭ごろに造られたと考えられている小さな円墳です。高松塚古墳に続いて発見された壁画古墳として知られ、石室の中には四神、獣頭人身の十二支像、そして天井の天文図などが描かれていました。現在は古墳そのものに入るのではなく、取り外され、保存・修復された壁画を、保存管理施設で期間を限って見学する形になっています。 当日は、応募した見学時間よりかなり早めに到着しました。まず向かったのは、キトラ古墳壁画体験館「四神の館」です。ここでは、キトラ古墳の石室の構造や、壁画に描かれた内容について、模型やパネルを通して学ぶことができました。 特に印象に残ったのは、石室の壁面と天井が、古代の宇宙観をそのまま閉じ込めたような構成になっていることです。東西南北の壁には、玄武、青龍、朱雀、白虎の四神が描かれ、その下には方位に対応する十二支像が配置されていました。さらに天井には、星々を描いた天文図があります。古墳というと、被葬者を葬るための場所という印象が強いですが、キトラ古墳の場合は、死後の世界や方位、天と地の秩序まで含めた、非常に大きな世界観が石室の中に表現されているように感じました。 今回公開されていたのは、天井に描かれた「天文図」でした。展示パネルを見ると、四神や十二支像など、他にも貴重な壁画が残っていることが分かります。最初は、なぜ今回は天文図だけなのだろうと思いました。しかし、この疑問は後で実物を見たときに自然と理解できました。 次に、発掘や調査、保存の歴史についての展示を見ました。1972年に高松塚古墳の壁画が発見された後、地元の人たちから似たような古墳があるという情報が寄せられ、それがキトラ古墳の調査につながったそうです。その後、石室の中に外気を入れないようにしながら、ファイバースコープなどを使った慎重な調査が行われました。 この調査の展示は、エンジニアとしても興味深いものでした。初期の調査では、映像の解像度も現在の感覚からするとかなり粗いものでしたが、調査のたびに機材が進歩し、より鮮明に...

開化天皇陵(念仏寺山古墳):都会の谷間に眠る古代の輪郭、扉の隙間に浮かぶ鳥居

奈良市の開化天皇陵(念仏寺山古墳)を訪ねました。 奈良に来るのは、コロナ直後の2020年3月以来およそ5年ぶりです。今回は奈良国立博物館の正倉院展(11時入場の予約)に合わせての再訪で、朝の時間を使ってまずは古墳へ向かいました。 大阪の百舌鳥・古市古墳群では、周囲に高い建物が少なく、外周道路から墳丘のボリューム感をそれなりに確かめられました。しかし、都心部に位置する開化天皇陵は様子が異なります。周辺はビルなどに囲まれ、古墳をぐるりと回る道もありません。参拝できるのは拝所のみで、その拝所も鳥居の手前に扉が閉じられており、視界は限られます。扉や塀のわずかな隙間から、うっすらと鳥居のシルエットが見える程度でした。静けさの中に、都市の気配と古墳の気配が重なり合い、見えるものが少ないぶん、かえって「ここに古墳がある」という存在感だけが強く迫ってくるように感じます。 開化天皇は、記紀に記される初期天皇のひとりで、実年代や事績は伝承の色合いが濃い人物です。各地の「○○天皇陵」は、古代の埋葬実態と後世の比定・治定が折り重なって現在の姿になっており、学術的検討の余地を残しつつも、宮内庁によって静謐が守られています。内部に立ち入れない不自由さはあるものの、拝所から頭を垂れると、文献と考古学、そして近代以降の「保護するまなざし」が一歩ずつ重ねられてきた歴史の層に触れている実感がありました。 百舌鳥・古市のように雄大な墳丘線を眺める体験とは別種の、見えないものを想像する時間。朝の澄んだ空気の中で短い滞在を終え、正倉院展の開場までまだ余裕があったので、興福寺へと足を延ばしました。奈良の町では、世界遺産や名刹の華やかさの陰に、こうした静かな古墳の佇まいが確かに息づいています。次に来るときは、地図の空白に見える小さな社や陵墓も織り込みながら、奈良の“見えない”歴史をもう少し丁寧にたどってみたいと思いました。 旅程 東京 ↓(新幹線/近鉄) 近鉄奈良駅 ↓(徒歩) 開化天皇陵(念仏寺山古墳) ↓(徒歩) 興福寺 ↓(徒歩) 奈良国立博物館 ↓(徒歩) 東大寺ミュージアム ↓(徒歩) 平城宮跡歴史公園 ↓(徒歩) 大和西大寺駅 周辺のスポット 興福寺 奈良国立博物館 東大寺:  2020/3 ,  2025/11 春日大社 関連スポット 天皇陵 初代 神武天皇(畝傍山東北陵 / 四...

仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳):王権のかたち、軍事のかたち、祈りのかたち

藤井寺市の岡ミサンザイ古墳を訪ねました。以前に応神天皇陵には足を運びましたが、今回はアイセルシュラホール見学のあとに、まだ見ていなかった仲哀天皇陵へ向かいました。歩いていくと、他の天皇陵と同じく、前方後円墳の方墳側の先に、きれいに整えられた白い砂利の広場と鳥居があらわれます。結界の内と外をやわらかく区切る空間で、風が通るたびに砂利の乾いた音がして、ここが日々ていねいに守られていることを感じました。 外周を眺めていると、古墳そのものはやはり巨大で、近くに立つと全体の形がつかめません。堤の傾斜と樹木の緑、堀を思わせる低地が視界に断片的に入ってきて、遠近の尺度が失われていくようです。古市古墳群は世界遺産にも登録された巨大古墳の集中地帯ですが、岡ミサンザイ古墳もその一角らしく、個々の説明を超えて「古墳景観」がひとつの文化を形づくっているのだと実感しました。 案内板には、この古墳が室町時代には城として利用されたことが記されていました。堀と高まりを備えた地形は、有事には自然に防御施設へと転用されます。王権の象徴として築かれた墳丘が、時代を経て軍事的な機能を帯び、さらに現代では静謐な聖域として保全されている――同じ土の高まりが、歴史の局面ごとに意味を変え続けることに、時間の厚みを思いました。 鳥居の前で一礼し、しばらく砂利の広場に立っていると、アイセルシュラホールで耳にした祭りの掛け声がふとよみがえりました。台地の上に連なる前方後円墳、地域に根づく祭礼、そして今を生きる私の歩みが、一瞬だけ一本の線で結ばれたように感じます。古墳そのものの内部に立ち入ることはできませんが、外縁をめぐるだけでも、この土地が抱えてきた記憶の重さは十分に伝わってきました。次は古市古墳群の他の墳丘とも道をつなぎながら、季節を変えて歩いてみたいと思います。 旅程 東京 ↓(新幹線/JR京都線/JR関空線/JR阪和線) 信太山駅 ↓(徒歩) 大阪府立弥生文化博物館 ↓(徒歩) 池上曽根史跡公園 ↓(徒歩) 信太山駅 ↓(JR阪和線/JR関空線/近鉄南大阪線) 藤井寺駅 ↓(徒歩) アイセルシュラホール ↓(徒歩) 岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵) ↓(徒歩) 藤井寺駅 周辺のスポット アイセルシュラホール 関連スポット 古市古墳群 誉田御廟山古墳(応神天皇陵) 仲津山古墳(仲津姫命陵) 市野山古墳(允恭天皇陵) ...

稲荷台古墳群:「王賜」銘鉄剣が語る古代日本

市原歴史博物館で近くに稲荷台古墳があるということを教えていただき、見に行くことにしました。 千葉県市原市にある稲荷台古墳群は、歴史的に重要な遺跡のひとつです。この古墳群は市原市山田橋に位置し、4世紀後半から7世紀にかけて築造された12基の円墳で構成されています。その中でも特に注目されるのが稲荷台1号墳です。 稲荷台1号墳は、直径約28メートルと、この古墳群の中で最大の規模を誇っていました。しかし、開発の影響により現在は消滅しており、元の場所には3分の1の大きさで復元された墳丘が「稲荷台1号墳記念広場」として整備されています。この広場を訪れることで、かつての古墳の姿を偲ぶことができます。 稲荷台1号墳からは、考古学的に非常に重要な「王賜」銘鉄剣が出土しました。この鉄剣は、X線撮影によって銀象嵌の銘文が確認され、「王賜□□敬□」と刻まれていたことが判明しています。この銘文は、5世紀中頃の畿内と東国との関係を示す貴重な資料であり、日本古代史を研究する上で大きな意味を持っています。 現在、この鉄剣は市原市埋蔵文化財調査センターに保管され、市原歴史博物館で展示も行われています。古代の歴史に興味のある方は、ぜひ訪れてみることをおすすめします。稲荷台古墳群は、市原市の歴史を感じることができる貴重なスポットであり、古代のロマンを体感できる場所でもあります。 旅程 都内 ↓(JR総武線) 八幡宿駅(やわたじゅく) ↓(徒歩 約1時間) 市原歴史博物館 ↓(徒歩) 稲荷台古墳群 ↓(徒歩) 上総国分尼寺跡 ↓(徒歩) 上総国分寺跡 ↓(徒歩 約50分) 五井駅 ↓(JR総武線) 本千葉駅 ↓(徒歩 約30分) 千葉県立中央博物館 ↓(徒歩) 亥鼻城跡 ↓(徒歩) 千葉教会 ↓(徒歩) 本千葉駅 ↓(JR総武線) 都内 周辺のスポット 市原歴史博物館 上総国分尼寺跡 上総国分寺跡 地域の名物 梨 リンク 稲荷台1号墳~5世紀中頃の市原と畿内の考察~ | 市原市ウェブサイト 稲荷台1号墳/市原歴史博物館

武蔵府中熊野神社古墳/熊野神社:府中に眠る歴史の証人!

大國魂神社から旧甲州街道を西へ向かうと武蔵府中熊野神社古墳がある熊野神社と府中熊野神社古墳展示館が見えてきます。 武蔵府中熊野神社古墳は、東京都府中市にある珍しい形式の古墳です。全国的にも6例しか確認されていない「上円下方墳」という形状を持ち、その特異な構造から考古学的にも大変貴重な遺跡とされています。 この古墳の築造時期は7世紀中頃から後半と考えられています。飛鳥時代に入るこの時期は、古墳文化の終焉が近づき、中央政権との関係が一層強まる中で、新しい埋葬様式が見られるようになりました。武蔵府中熊野神社古墳もまた、そうした時代の変化を象徴する存在といえるでしょう。 古墳は三段に分かれており、第一段の基壇は一辺32メートル、高さ0.5メートルの方形をしています。その上に築かれた第二段は一辺23メートル、高さ2.2メートル、さらに第三段となる上円部は直径16メートル、高さ2.1メートルの円形を成しています。この三層構造が、一般的な前方後円墳や円墳とは異なる独特の形を作り出しており、発掘調査の際にも注目されました。 武蔵府中熊野神社古墳は明治時代にはすでに開口していたため、副葬品はわずかしか出土しませんでした。その中でも、鉄地銀象嵌鞘尻金具(てつじ ぎんぞうがん さやじり かなぐ)は、当時は先進の技術で作られた、鉄製の地金(じがね、じきん)に銀で模様がつけられた(銀象嵌)、刀の鞘(さや)の先端(鞘尻)につける金具です。この模様は七つの円で構成される「七曜文(しちようもん)」で、同じ時代に作られた国産初の貨幣の「富本銭(ふほんせん)」に見られるだけの、国内外では他に例のないものです。 この古墳は、熊野神社の境内にあるため、現在も良好な状態で保存されています。訪れると、その墳丘の姿を間近に見ることができ、飛鳥時代の府中の姿に思いを馳せることができます。 府中熊野神社古墳展示館 旧甲州街道から来た時に最初に見えるのは古墳ではなく、街道に面している展示館が見つかります。 この展示館には、武蔵府中熊野神社古墳の説明や使用されていた石材が展示されています。また、石室が復原されており、中に入ることができます。 熊野神社 武蔵府中の熊野神社は、もともと府中内の別の場所にあったものであり、神社と古墳は直接の関係は無いようです。 本殿は虹梁絵様(こうりょうえよう)や彫刻などの構成が簡素であるこ...

さきたま古墳公園:悠久の眠りに寄り添う、金錯銘鉄剣に刻まれた謎

本日は、埼玉県の行田市に来ています。古墳をメインに、忍城あたりを探索しました。バスの本数も多いわけではなさそうなので、全部徒歩で廻りました。忍城、水城公園へ行ったあと、さきたま古墳公園へ向かいました。 埼玉県行田市に位置するさきたま古墳公園は、古代日本の歴史を肌で感じることができる特別な場所です。この地には5世紀から7世紀に築かれたとされる大型の前方後円墳を中心に、大小さまざまな古墳が点在しています。特に有名なのは、国の特別史跡に指定されている「稲荷山古墳」で、ここからは金錯銘鉄剣と呼ばれる歴史的に非常に重要な鉄剣が出土しました。この鉄剣には、当時の支配層の名前や出来事が刻まれており、日本古代史の謎を解く鍵とされています。 公園内は広々とした緑地に整備され、訪れる人々は、古墳の周囲を散策しながら悠久の時に思いを馳せることができます。春には桜が咲き誇り、古墳群とピンク色の花々が織りなす美しい景色が広がり、多くの人々がカメラを手に訪れます。また、公園内には「さきたま史跡の博物館」が併設されており、出土品や古墳時代の生活を紹介する展示を見ることができます。特に稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣の実物展示は見逃せません。この日は残念ながら改築中で将軍山古墳に併設されている展示館のみ見学しました。 古墳群を眺めながら芝生の上でのんびりと過ごすもよし、博物館でじっくりと古代史に触れるもよし、それぞれのスタイルで楽しめるのがさきたま古墳公園の魅力です。周辺には「行田市郷土博物館」や「足袋とくらしの博物館」など、行田の歴史や文化に触れられる施設もあり、併せて訪れるとさらに深い理解が得られるでしょう。 静かな公園内を歩いていると、現代とは異なる時の流れを感じ、古代の人々の営みに思いを馳せるひとときが訪れるはずです。歴史好きの方はもちろん、自然の中でゆっくり過ごしたい方にもおすすめの場所です。 稲荷山古墳出土鉄剣 稲荷山古墳は、5世紀後半に築かれたと考えられる前方後円墳です。この古墳が全国にその名を知られるようになったのは、1968年(昭和43年)に行われた発掘調査で、驚くべき出土品が発見されたことによります。それが、後に「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」と呼ばれるようになった鉄剣でした。 この鉄剣は、見た目こそ地中に長い間眠っていたことによる錆びが目立ちますが、X線撮影によって刃...

反正天皇陵(田出井山古墳):都市の中に守られた古代の眠り

大阪府堺市にある反正天皇陵、田出井山古墳に行きました。 この日は、世界遺産に登録されている百舌鳥・古市古墳群をめぐるため、朝から大阪を訪れていました。午前中は藤井寺市側の古市古墳群を見て回り、午後からは堺市側の百舌鳥古墳群へ移動しました。大仙陵古墳や堺市博物館などを訪れたあと、この日の最後に向かったのが反正天皇陵でした。 百舌鳥・古市古墳群は、3世紀から6世紀にかけて造られた古墳時代を代表する墳墓群で、古代日本の政治的な権力や社会構造を今に伝える遺産です。2019年にはユネスコの世界遺産に登録され、反正天皇陵古墳もその構成資産に含まれています。 反正天皇陵は、宮内庁では第18代反正天皇(はんぜいてんのう)の百舌鳥耳原北陵とされています。古墳としては田出井山古墳とも呼ばれ、百舌鳥古墳群の北端に位置する前方後円墳です。堺市の資料によると、墳丘の全長は約148メートルで、5世紀後半ごろに造られたと考えられています。現在は一重の周濠がめぐっていますが、発掘調査によって、かつては二重の濠があったことも確認されています。 この日、すでに多くの古墳を見てきていました。最初のうちは、古墳の大きさを感じようとして周囲を一周したりもしました。しかし、実際に歩いてみると、地上から古墳を見る場合、その姿は大きな森や濠として見えることが多く、教科書や航空写真で見る前方後円墳の形をそのまま実感するのは難しいことも分かってきました。 そのため、反正天皇陵に着いたころには、無理に全体を歩いて把握しようとするよりも、拝所で静かに向き合う形になっていました。拝所は、他の天皇陵と同じようにきれいに整えられており、周囲の市街地の中にありながら、空気が少し改まるような場所でした。巨大な古墳を前にしているというより、長い時間守られてきた聖域の前に立っている感覚がありました。 百舌鳥古墳群を歩いて印象的だったのは、古墳の大きさそのものよりも、現代の街の中に古代の巨大な墳墓が残り続けていることでした。周囲には住宅や道路があり、駅も近くにあります。それでも、濠と木々に囲まれた古墳は、都市の中で別の時間を保っているように見えました。 反正天皇陵の参拝を終えると、この日の古墳めぐりも終わりになりました。朝から古市古墳群、午後から百舌鳥古墳群と歩き続けた一日だったため、最後は少し疲れもありましたが、古墳というものを実際に...

履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳):日本で三番目の巨大古墳、五世紀の王墓を訪ねて

大阪府堺市にある履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)に行きました。 この日は朝から、世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」を巡っていました。午前中は藤井寺市の古市古墳群を歩き、午後から堺市の百舌鳥古墳群へ移動しました。堺市博物館などを見学した後、履中天皇陵に向かいました。 履中天皇陵は、宮内庁によって第17代履中天皇の「百舌鳥耳原南陵」として管理されている前方後円墳です。履中天皇は、宮内庁の系譜では仁徳天皇の皇子にあたります。 考古学では「上石津ミサンザイ古墳」や「石津ヶ丘古墳」などとも呼ばれています。墳丘長は約365メートルあり、仁徳天皇陵古墳、応神天皇陵古墳に次いで、日本で3番目に大きな前方後円墳です。築造時期は5世紀前半と考えられています。 日本で3番目に大きな古墳と聞けば、かなり迫力がありそうですが、地上から古墳を巡っていると、その巨大さは意外と分かりません。 この日だけでも、午前中から誉田御廟山古墳をはじめとする古市古墳群を巡り、堺市に移動してからは仁徳天皇陵などを見ていました。そのため履中天皇陵に着いたころには、正直なところ「また大きな森がある」という感覚に近くなっていました。 濠の向こうには木々に覆われた墳丘があります。しかし地上から見ている限り、教科書や航空写真で見るような前方後円墳の形は分かりません。拝所まで行き、これまでに訪れた天皇陵と同じように参拝しました。 現在では木々に覆われていますが、築造された当時の姿はまったく違っていました。墳丘は三段に築かれ、葺石が施され、円筒埴輪や形象埴輪が並べられていました。また、もともとは二重の濠を持っていたことも確認されています。 さらに履中天皇陵の周囲には、かつて10基ほどの陪塚があったと考えられていますが、現在残っているのは寺山南山古墳など4基です。巨大な一つの墓だけが存在したのではなく、大王墓を中心として複数の古墳が配置された景観だったことになります。 興味深いのは、「履中天皇陵」という名称と考古学的な年代の関係です。 宮内庁はこの古墳を履中天皇陵として管理しています。一方、古墳の形や埴輪、周囲の陪塚から出土した資料などを研究すると、仁徳天皇陵とされる大仙古墳よりも先に築造されたと考えられています。 宮内庁の系譜では履中天皇は仁徳天皇の皇子ですから、単純に考えれば父である仁徳天皇の墓のほうが先に造られそうです...