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開化天皇陵(念仏寺山古墳):都会の谷間に眠る古代の輪郭、扉の隙間に浮かぶ鳥居

奈良市の開化天皇陵(念仏寺山古墳)を訪ねました。 奈良に来るのは、コロナ直後の2020年3月以来およそ5年ぶりです。今回は奈良国立博物館の正倉院展(11時入場の予約)に合わせての再訪で、朝の時間を使ってまずは古墳へ向かいました。 大阪の百舌鳥・古市古墳群では、周囲に高い建物が少なく、外周道路から墳丘のボリューム感をそれなりに確かめられました。しかし、都心部に位置する開化天皇陵は様子が異なります。周辺はビルなどに囲まれ、古墳をぐるりと回る道もありません。参拝できるのは拝所のみで、その拝所も鳥居の手前に扉が閉じられており、視界は限られます。扉や塀のわずかな隙間から、うっすらと鳥居のシルエットが見える程度でした。静けさの中に、都市の気配と古墳の気配が重なり合い、見えるものが少ないぶん、かえって「ここに古墳がある」という存在感だけが強く迫ってくるように感じます。 開化天皇は、記紀に記される初期天皇のひとりで、実年代や事績は伝承の色合いが濃い人物です。各地の「○○天皇陵」は、古代の埋葬実態と後世の比定・治定が折り重なって現在の姿になっており、学術的検討の余地を残しつつも、宮内庁によって静謐が守られています。内部に立ち入れない不自由さはあるものの、拝所から頭を垂れると、文献と考古学、そして近代以降の「保護するまなざし」が一歩ずつ重ねられてきた歴史の層に触れている実感がありました。 百舌鳥・古市のように雄大な墳丘線を眺める体験とは別種の、見えないものを想像する時間。朝の澄んだ空気の中で短い滞在を終え、正倉院展の開場までまだ余裕があったので、興福寺へと足を延ばしました。奈良の町では、世界遺産や名刹の華やかさの陰に、こうした静かな古墳の佇まいが確かに息づいています。次に来るときは、地図の空白に見える小さな社や陵墓も織り込みながら、奈良の“見えない”歴史をもう少し丁寧にたどってみたいと思いました。 旅程 東京 ↓(新幹線/近鉄) 近鉄奈良駅 ↓(徒歩) 開化天皇陵(念仏寺山古墳) ↓(徒歩) 興福寺 ↓(徒歩) 奈良国立博物館 ↓(徒歩) 東大寺ミュージアム ↓(徒歩) 平城宮跡歴史公園 ↓(徒歩) 大和西大寺駅 周辺のスポット 興福寺 奈良国立博物館 東大寺:  2020/3 ,  2025/11 春日大社 リンク -天皇陵-開化天皇 春日率川坂上陵(かいかてんのう...

岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵):王権のかたち、軍事のかたち、祈りのかたち

藤井寺市の岡ミサンザイ古墳を訪ねました。以前に応神天皇陵には足を運びましたが、今回はアイセルシュラホール見学のあとに、まだ見ていなかった仲哀天皇陵へ向かいました。歩いていくと、他の天皇陵と同じく、前方後円墳の方墳側の先に、きれいに整えられた白い砂利の広場と鳥居があらわれます。結界の内と外をやわらかく区切る空間で、風が通るたびに砂利の乾いた音がして、ここが日々ていねいに守られていることを感じました。 外周を眺めていると、古墳そのものはやはり巨大で、近くに立つと全体の形がつかめません。堤の傾斜と樹木の緑、堀を思わせる低地が視界に断片的に入ってきて、遠近の尺度が失われていくようです。古市古墳群は世界遺産にも登録された巨大古墳の集中地帯ですが、岡ミサンザイ古墳もその一角らしく、個々の説明を超えて「古墳景観」がひとつの文化を形づくっているのだと実感しました。 案内板には、この古墳が室町時代には城として利用されたことが記されていました。堀と高まりを備えた地形は、有事には自然に防御施設へと転用されます。王権の象徴として築かれた墳丘が、時代を経て軍事的な機能を帯び、さらに現代では静謐な聖域として保全されている――同じ土の高まりが、歴史の局面ごとに意味を変え続けることに、時間の厚みを思いました。 鳥居の前で一礼し、しばらく砂利の広場に立っていると、アイセルシュラホールで耳にした祭りの掛け声がふとよみがえりました。台地の上に連なる前方後円墳、地域に根づく祭礼、そして今を生きる私の歩みが、一瞬だけ一本の線で結ばれたように感じます。古墳そのものの内部に立ち入ることはできませんが、外縁をめぐるだけでも、この土地が抱えてきた記憶の重さは十分に伝わってきました。次は古市古墳群の他の墳丘とも道をつなぎながら、季節を変えて歩いてみたいと思います。 旅程 東京 ↓(新幹線/JR京都線/JR関空線/JR阪和線) 信太山駅 ↓(徒歩) 大阪府立弥生文化博物館 ↓(徒歩) 池上曽根史跡公園 ↓(徒歩) 信太山駅 ↓(JR阪和線/JR関空線/近鉄南大阪線) 藤井寺駅 ↓(徒歩) アイセルシュラホール ↓(徒歩) 岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵) ↓(徒歩) 藤井寺駅 周辺のスポット アイセルシュラホール 関連スポット 古市古墳群 誉田御廟山古墳(応神天皇陵) 仲津山古墳(仲津姫命陵) 市野山古墳(允恭天皇陵) ...

稲荷台古墳群:「王賜」銘鉄剣が語る古代日本

市原歴史博物館で近くに稲荷台古墳があるということを教えていただき、見に行くことにしました。 千葉県市原市にある稲荷台古墳群は、歴史的に重要な遺跡のひとつです。この古墳群は市原市山田橋に位置し、4世紀後半から7世紀にかけて築造された12基の円墳で構成されています。その中でも特に注目されるのが稲荷台1号墳です。 稲荷台1号墳は、直径約28メートルと、この古墳群の中で最大の規模を誇っていました。しかし、開発の影響により現在は消滅しており、元の場所には3分の1の大きさで復元された墳丘が「稲荷台1号墳記念広場」として整備されています。この広場を訪れることで、かつての古墳の姿を偲ぶことができます。 稲荷台1号墳からは、考古学的に非常に重要な「王賜」銘鉄剣が出土しました。この鉄剣は、X線撮影によって銀象嵌の銘文が確認され、「王賜□□敬□」と刻まれていたことが判明しています。この銘文は、5世紀中頃の畿内と東国との関係を示す貴重な資料であり、日本古代史を研究する上で大きな意味を持っています。 現在、この鉄剣は市原市埋蔵文化財調査センターに保管され、市原歴史博物館で展示も行われています。古代の歴史に興味のある方は、ぜひ訪れてみることをおすすめします。稲荷台古墳群は、市原市の歴史を感じることができる貴重なスポットであり、古代のロマンを体感できる場所でもあります。 旅程 都内 ↓(JR総武線) 八幡宿駅(やわたじゅく) ↓(徒歩 約1時間) 市原歴史博物館 ↓(徒歩) 稲荷台古墳群 ↓(徒歩) 上総国分尼寺跡 ↓(徒歩) 上総国分寺跡 ↓(徒歩 約50分) 五井駅 ↓(JR総武線) 本千葉駅 ↓(徒歩 約30分) 千葉県立中央博物館 ↓(徒歩) 亥鼻城跡 ↓(徒歩) 千葉教会 ↓(徒歩) 本千葉駅 ↓(JR総武線) 都内 関連イベント 周辺のスポット 市原歴史博物館 上総国分尼寺跡 上総国分寺跡 地域の名物 梨 関連スポット リンク 稲荷台1号墳~5世紀中頃の市原と畿内の考察~ | 市原市ウェブサイト 稲荷台1号墳/市原歴史博物館

武蔵府中熊野神社古墳/熊野神社:府中に眠る歴史の証人!

大國魂神社から旧甲州街道を西へ向かうと武蔵府中熊野神社古墳がある熊野神社と府中熊野神社古墳展示館が見えてきます。 武蔵府中熊野神社古墳は、東京都府中市にある珍しい形式の古墳です。全国的にも6例しか確認されていない「上円下方墳」という形状を持ち、その特異な構造から考古学的にも大変貴重な遺跡とされています。 この古墳の築造時期は7世紀中頃から後半と考えられています。飛鳥時代に入るこの時期は、古墳文化の終焉が近づき、中央政権との関係が一層強まる中で、新しい埋葬様式が見られるようになりました。武蔵府中熊野神社古墳もまた、そうした時代の変化を象徴する存在といえるでしょう。 古墳は三段に分かれており、第一段の基壇は一辺32メートル、高さ0.5メートルの方形をしています。その上に築かれた第二段は一辺23メートル、高さ2.2メートル、さらに第三段となる上円部は直径16メートル、高さ2.1メートルの円形を成しています。この三層構造が、一般的な前方後円墳や円墳とは異なる独特の形を作り出しており、発掘調査の際にも注目されました。 武蔵府中熊野神社古墳は明治時代にはすでに開口していたため、副葬品はわずかしか出土しませんでした。その中でも、鉄地銀象嵌鞘尻金具(てつじ ぎんぞうがん さやじり かなぐ)は、当時は先進の技術で作られた、鉄製の地金(じがね、じきん)に銀で模様がつけられた(銀象嵌)、刀の鞘(さや)の先端(鞘尻)につける金具です。この模様は七つの円で構成される「七曜文(しちようもん)」で、同じ時代に作られた国産初の貨幣の「富本銭(ふほんせん)」に見られるだけの、国内外では他に例のないものです。 この古墳は、熊野神社の境内にあるため、現在も良好な状態で保存されています。訪れると、その墳丘の姿を間近に見ることができ、飛鳥時代の府中の姿に思いを馳せることができます。 府中熊野神社古墳展示館 旧甲州街道から来た時に最初に見えるのは古墳ではなく、街道に面している展示館が見つかります。 この展示館には、武蔵府中熊野神社古墳の説明や使用されていた石材が展示されています。また、石室が復原されており、中に入ることができます。 熊野神社 武蔵府中の熊野神社は、もともと府中内の別の場所にあったものであり、神社と古墳は直接の関係は無いようです。 本殿は虹梁絵様(こうりょうえよう)や彫刻などの構成が簡素であるこ...

さきたま古墳公園:悠久の眠りに寄り添う、金錯銘鉄剣に刻まれた謎

本日は、埼玉県の行田市に来ています。古墳をメインに、忍城あたりを探索しました。バスの本数も多いわけではなさそうなので、全部徒歩で廻りました。忍城、水城公園へ行ったあと、さきたま古墳公園へ向かいました。 埼玉県行田市に位置するさきたま古墳公園は、古代日本の歴史を肌で感じることができる特別な場所です。この地には5世紀から7世紀に築かれたとされる大型の前方後円墳を中心に、大小さまざまな古墳が点在しています。特に有名なのは、国の特別史跡に指定されている「稲荷山古墳」で、ここからは金錯銘鉄剣と呼ばれる歴史的に非常に重要な鉄剣が出土しました。この鉄剣には、当時の支配層の名前や出来事が刻まれており、日本古代史の謎を解く鍵とされています。 公園内は広々とした緑地に整備され、訪れる人々は、古墳の周囲を散策しながら悠久の時に思いを馳せることができます。春には桜が咲き誇り、古墳群とピンク色の花々が織りなす美しい景色が広がり、多くの人々がカメラを手に訪れます。また、公園内には「さきたま史跡の博物館」が併設されており、出土品や古墳時代の生活を紹介する展示を見ることができます。特に稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣の実物展示は見逃せません。この日は残念ながら改築中で将軍山古墳に併設されている展示館のみ見学しました。 古墳群を眺めながら芝生の上でのんびりと過ごすもよし、博物館でじっくりと古代史に触れるもよし、それぞれのスタイルで楽しめるのがさきたま古墳公園の魅力です。周辺には「行田市郷土博物館」や「足袋とくらしの博物館」など、行田の歴史や文化に触れられる施設もあり、併せて訪れるとさらに深い理解が得られるでしょう。 静かな公園内を歩いていると、現代とは異なる時の流れを感じ、古代の人々の営みに思いを馳せるひとときが訪れるはずです。歴史好きの方はもちろん、自然の中でゆっくり過ごしたい方にもおすすめの場所です。 稲荷山古墳出土鉄剣 稲荷山古墳は、5世紀後半に築かれたと考えられる前方後円墳です。この古墳が全国にその名を知られるようになったのは、1968年(昭和43年)に行われた発掘調査で、驚くべき出土品が発見されたことによります。それが、後に「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」と呼ばれるようになった鉄剣でした。 この鉄剣は、見た目こそ地中に長い間眠っていたことによる錆びが目立ちますが、X線撮影によって刃...

大仙陵古墳/仁徳天皇陵:かまどに煙が立つとき、世界遺産に眠る仁政の帝

世界遺産の「百舌鳥・古市古墳群」を見るために、大阪府の堺市と藤井寺市に来ました。まず、藤井寺市の古市古墳側をまわったあと、堺市に移動して百舌鳥側の探索を始め、大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)/仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)に向かいました。 仁徳天皇陵は、大阪府堺市堺区に所在する古墳時代の巨大前方後円墳で、正式名称を「大仙陵古墳」といいます。日本最大の古墳として知られ、全長は約525メートル、高さは約40メートルにも達し、世界的にも有数の規模を誇ります。 この古墳は、5世紀前半に築かれたと考えられており、第16代・仁徳天皇の陵墓に比定されています。仁徳天皇は『日本書紀』などに登場し、聖帝として名高く、「民のかまど」の逸話で知られています。これは、民の生活が苦しいときに税を免除し、その様子を見て「かまどに煙が立つようになって、民は豊かになった」と喜んだという逸話で、日本の理想的な君主像の象徴ともなっています。 古墳の構造は、前方部と後円部からなる鍵穴型で、三重の堀(濠)と土塁によって囲まれており、周囲には陪塚(ばいづか、陪冢(ばいちょう))と呼ばれる従属的な小古墳も多く存在します。この一帯は「百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)」として、2019年(令和元年)にユネスコの世界文化遺産に登録されました。 堺市博物館 なお、宮内庁はここを「仁徳天皇百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として管理しており、内部に立ち入ることはできませんが、外周には遊歩道が整備されており、堺市博物館では古墳に関する資料や模型、発掘調査の成果などを見学できます。 また、仁徳天皇陵は、空から見るとその巨大さと整った形状がよくわかり、しばしばGoogle Earthなどで「世界三大墳墓」(他は中国の秦始皇帝陵とエジプトのギザのピラミッド)とも比較される存在です。 旅程 東京駅 ↓(新幹線) 新大阪駅 ↓(地下鉄/近鉄) 土師ノ里駅 ↓(徒歩) 古市古墳群 ↓(徒歩) 古市駅 ↓(近鉄) 百舌鳥駅 ↓(徒歩) 大仙陵古墳/仁徳天皇陵 ↓(徒歩) 堺市博物館 ↓(徒歩) 上石津ミサンザイ古墳/履中天皇陵 ↓(徒歩) (略) 周辺のスポット 百舌鳥古墳群 仁徳天皇陵古墳(大仙古墳) 上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵) 田出井山古墳(反正天皇 百舌鳥耳原北陵) 大仙公園 リンク...