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江東区芭蕉記念館

芭蕉稲荷神社のあと、北へ進み江東区芭蕉記念館に向かいました。 江東区芭蕉記念館(芭蕉記念館)は、日本を代表する俳人・松尾芭蕉(1644年~1694年)の足跡や作品世界を紹介するために設立された記念館で、東京都江東区に位置しています。 芭蕉記念館は、芭蕉がかつて暮らし、代表的な作品を生み出したとされる深川(現在の江東区)エリアにあります。特に江戸時代の当時、この地域には閑寂な雰囲気が漂い、芭蕉はその環境から着想を得て多くの俳句を残しました。記念館は、芭蕉が晩年を過ごした「芭蕉庵」があった土地に近く、彼の文学的遺産を伝え、地域の文化的価値を発信する場として整備されています。 常設展示では、芭蕉の生涯と芸術観、紀行文「奥の細道」をはじめとする著作や、弟子たちとの交流、当時の出版物、肉筆資料などが紹介されています。墨蹟や版本、芭蕉の足跡をたどる古地図、門人とのやり取りを示す書簡類など、貴重な資料が観覧できます。 また、企画展示では、俳諧文化全般や江戸期の文学者をテーマにした特集が組まれ、時期ごとに内容が変わるため、リピーターでも新たな発見があります。 明日12月15日までは、「野ざらし紀行の旅340周年記念企画展「旅の詩人・芭蕉 ~野ざらしを心に~」」が開催されています。 「野ざらし紀行(甲子吟行)」では、芭蕉は1684年(貞享元年)に門人の千里(ちり)とともに深川を出発し、東海道から、伊勢、伊賀、大和などをめぐり、故郷の伊賀で越年後、1685年(貞享2年)に奈良、京都、名古屋を回遊して、尾張から甲斐を経由して江戸にもどりました。 芭蕉稲荷神社が建てられるきっかけとなった石造の蛙も展示されています。 江東区芭蕉記念館は、松尾芭蕉の文学世界や江戸時代の俳諧文化に間近で触れ、学ぶことができる貴重な文化スポットです。深川の街並みに残る芭蕉の面影を感じながら、俳句・文学に関心のある方はもちろん、江戸期の歴史・文化に興味を抱く幅広い層にとって、有意義な訪問先となるでしょう。 旅程 清澄白河駅 ↓(徒歩) 芭蕉庵史跡展望庭園 ↓(徒歩) 芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡) ↓(徒歩) 江東区芭蕉記念館 ↓(徒歩) 清澄白河駅 関連イベント 周辺のスポット 芭蕉庵史跡展望庭園 芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡) 清澄庭園 地域の名物 深川めし 関連スポット リンク 芭蕉記念館 | 公益財団法人 江東...

芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)

芭蕉庵史跡展望庭園のあと、すぐ近くにある芭蕉稲荷神社(ばしょういなりじんじゃ)に向かいました。 芭蕉稲荷神社は、東京都江東区(深川エリア)に鎮座する小規模な神社で、松尾芭蕉ゆかりの地とされる周辺環境からこの名が付けられています。芭蕉が深川の「芭蕉庵」に居住し、数多くの句作を行ったことから、この地域は「俳諧の聖地」の一つとして文学愛好家に知られています。 芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して1680年(延宝8年)から1694年(元禄7年)大阪で病没するまで芭蕉庵を本拠とし「古池や蛙飛び込む水の音」などの名吟の数々を残しました。 また、ここより全国のたびに出て「奥の細道」などを著しました。 芭蕉没後は芭蕉庵は武家屋敷となり滅失しました。1917年(大正6年)に芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、ここに芭蕉稲荷神社が祀られました。 芭蕉稲荷神社は、そうした土地柄に因み、文芸的な意味合いを帯びた稲荷神社として存在しています。 「稲荷神社」と名が付くように、穀物の神・商売繁盛の神として知られる稲荷信仰を基盤に持つ神社ですが、同時に「芭蕉」の名を冠することで、松尾芭蕉の偉業を讃え、地域の文学・文化の記憶を伝える存在にもなっています。当地には芭蕉に関連する句碑や、芭蕉庵跡にまつわる記念碑、文学散策路などが点在しており、芭蕉稲荷神社もこれらの文学遺産の一環として、参詣者や散策者に深川の俳諧文化を想起させます。 旅程 清澄白河駅 ↓(徒歩) 芭蕉庵史跡展望庭園 ↓(徒歩) 芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡) ↓(徒歩) 江東区芭蕉記念館 ↓(徒歩) 清澄白河駅 関連イベント 周辺のスポット 芭蕉庵史跡展望庭園 江東区芭蕉記念館 清澄庭園 地域の名物 深川めし 関連スポット リンク 観光情報 | 江東おでかけ情報局

芭蕉庵史跡展望庭園

先月深川を探索したときの資料を見直していて、松尾芭蕉が深川に住んでいて資料館もあることが分かり、本日は再度深川探索をしてきました。 まずは、 芭蕉庵史跡展望庭園(ばしょうあんしせきてんぼうていえん)に向かいました。 庭園に向かう小名木川(おなぎがわ)沿いの道には芭蕉の句のモニュメントがいくつか並んでいます。 芭蕉庵史跡展望庭園は、江東区深川エリアにある、俳人・松尾芭蕉ゆかりの地をしのぶ庭園施設で、芭蕉が晩年を過ごした「芭蕉庵」の跡地近くに整備されています。 松尾芭蕉は元禄時代に深川(現在の江東区一帯)に草庵を結び、ここを拠点に多くの名句を生み出しました。 「芭蕉庵」は正式には現存せず、その跡地も確定的ではありませんが、現在の芭蕉記念館周辺から、隅田川・小名木川など水辺と近しい環境が当時の情趣を物語っています。芭蕉庵史跡展望庭園は、この芭蕉庵ゆかりとされる一帯に位置し、来訪者が芭蕉の暮らした風土を体感し、芭蕉や江戸期の景観に思いをはせる空間として設けられました。 名前に「展望庭園」とある通り、敷地内には眺望スポットがあり、周辺地域や水辺の風景を見渡すことが可能です。かつて芭蕉が眺めたであろう風情や水運を想起しながら、江戸情緒に浸ることができます。 江戸時代の風情とは異なりますが、展望庭園から見える清洲橋はドイツのケルンに架けられたライン河の吊橋をモデルにしています。 庭園内は、石碑や句碑、簡素な茶亭風の施設、植栽などが配されており、芭蕉が好んだ閑静な環境を模した趣深い空間です。特に、樹木や草花、石組などによる和風庭園的な演出は、喧噪の都市空間とは一線を画し、静かなひとときを過ごせます。 入り口には、「奥の細道」の旅を終えた50歳の芭蕉が1693年(元禄6年)に詠んだ「川上とこの川下や月の友」という一句が掘られた句碑があります。平成20年に住友セメントシステム開発会社が同敷地内に作ったものを平成24年に寄贈されました。 園内には芭蕉にまつわる説明板や俳句の紹介、江戸期の地図や資料を示すコーナーもあり、単なる風景鑑賞にとどまらず、芭蕉の足跡や創作世界をより深く理解する助けとなります。また、庭園と芭蕉記念館を合わせて訪ねることで、芭蕉と深川の関わり、当時の生活背景、俳諧文化の源流などを総合的に学ぶことができます。 季節の移ろいを感じやすい庭園です。春は花、夏は緑陰、...

清澄庭園/清澄公園

東京都現代美術館、深川江戸資料館に続き、今週も清澄にある清澄庭園に来ました。 清澄庭園(きよすみていえん)は、東京都江東区にある日本庭園で、江戸時代から続く歴史を持ち、美しい景観が特徴です。一説には、江戸の豪商、紀文(きぶん)こと紀伊國屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)の屋敷跡とも伝えられています。紀伊國屋文左衛門は松下幸之助が尊敬していたことでも知られています。享保年間(1716~1735年)に下総国 (しもうさのくに)、関宿(せきやど)藩主久世大和守(くぜやまとのかみ)の下屋敷となりました。 1878年(明治11年)に三菱財閥の岩崎弥太郎によって所有され、現在の形に整備され、1880年(明治13年)に深川親睦園を開園しました。清澄庭園は回遊式林泉庭園で、池を中心に配置され、四季折々の景色が楽しめます。 池には鯉が泳いでおり、餌やりを楽しむこともできます。 庭園には全国各地から集められた名石が配されており、岩崎弥太郎の趣味を反映しています。これらの石は「石庭」として見応えがあり、訪れる人々に驚きと感動を与えます。 園内にある石仏は、江東区の登録文化財です。真ん中の阿弥陀供養塔は1679年(延宝7年)に法印慶光の供養塔として作られました。右の庚申塔(こうしんとう)は1670年(寛文10年)に建てられました。左後ろの庚申塔は1815年(文化12年)に建てられました。左前の馬頭観音供養塔は1774年(安永3年)に農耕や運送などに使役された馬を供養するために建てられました。これらは由来は不明ですが、清澄庭園を造成する際に出土したものと言われています。 春は桜、夏は緑、秋は紅葉、冬は雪景色と、季節ごとの表情が楽しめます。特に秋の紅葉は人気で、多くの観光客が訪れます。 松尾芭蕉の句「古池や かはづ飛び込む 水の音」の句碑も園内に建てられています。1680年(延宝8年)から1694年(元禄7年)まで、深川の地の草庵に住み、1686年(貞享3年)にこの句を詠みました。この草庵は芭蕉庵と呼ばれ、現在の芭蕉稲荷神社にありました。 園内には大正記念館という建物があり、結婚式などにも使用されます。歴史的な建物として、庭園の雰囲気に溶け込んでいます。大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移築したものです。 清澄庭園は、都会の中にありながら静かで落ち着いた雰囲気を持ち、散策や写真撮影、自然観...

成田山新勝寺/成田山公園

成田山新勝寺(なりたさん しんしょうじ)に参詣するため佐倉駅からJRで成田駅まで移動しました。 成田駅から成田山表参道を上っていくと、途中で猿芸をやってました。猿の芸もすばらしかったですが、関西の芸人でしょうか、しゃべりも面白かったです。 成田山新勝寺は、千葉県成田市にある真言宗智山派の寺院です。平安時代の940年に、関東で起きた平将門の乱の平定を祈願するために創建されました。朱雀天皇の命により、寛朝(かんちょう/かんじょう)大僧正が、不動明王の像を安置して平和を祈るために建てたと言われています。その後、千年以上にわたり関東一円の人々から篤い信仰を集めてきました。新勝寺は、特に不動明王を本尊として祀り、多くの参拝者が「成田不動」として親しみを込めて呼んでいます。 新勝寺は広大な敷地を持ち、多くの堂宇や塔が点在しています。 総門(そうもん)は2006年(平成18年)に建てられた、比較的新しい建物です。 仁王門(におうもん)は、国の重要文化財で、1830年(天保元年)の建立です。 大本堂(だいほんどう)は、新勝寺の中心であり、参拝の場となっています。ここでは護摩祈祷が行われ、不動明王のご利益を授かることができます。1968年(昭和43年)建立です。 三重塔(さんじゅうのとう)は、国の重要文化財です。1712年(正徳2年)に建立され、1757年(宝暦7年)、1801年(享和元年)、1858年(安政5年)に大修理が行われています。 聖徳太子堂(しょうとくたいしどう)は、1992年(平成4年)に建立されました。堂内には、大山忠作画伯の壁画が6面に描かれています。 一切経堂(いっさいきょうどう)は、1722年(享保7年)に建立されました。一切経蔵とも呼ばれています。入口上部の額は白河楽翁(しらかわがくおう、松平定信(まつだいら さだのぶ))の筆によるものです。 鐘楼(しょうろう)は、1701年(元禄14年)に照範上人によって建立されました。梵鐘(ぼんしょう)は香取正彦の設計です。 額堂(がくどう)は、国の重要文化財です。1861年(文久元年)に2番目の額堂(第二額堂)として建立されました。 額堂の中には7代目市川團十郎の石像があります。 光明堂(こうみょうどう)は、重要文化財に指定されている建物で、美しい欄間彫刻が特徴です。1701年(元禄14年)建立です。 光明堂の後ろに奥之...

旧安田庭園:安田善次郎と江戸の面影

刀剣博物館の後、旧安田庭園(きゅうやすだていえん)にも寄りました。今日は最高気温38度の猛暑で、木陰で少し涼もうと思いましたが、そんなレベルの暑さではありませんでした。 東京・両国の喧騒から少し足を伸ばすだけで、静寂と緑に包まれた空間に出会える場所があります。それが、旧安田庭園です。この庭園は江戸時代後期に本庄松平氏の常陸国笠間藩主・本庄宗資 (ほんじょう むねすけ)の下屋敷の庭園として造られ、明治時代に安田財閥の創始者である安田善次郎(やすだ ぜんじろう)によって整備されたことで知られています。現在は東京都墨田区が管理する、入園無料の日本庭園として多くの人々に親しまれています。 本庄宗資は江戸時代中期から後期にかけて活躍した常陸国笠間藩の藩主であり、笠間藩約8万石を治めていました。本庄家は徳川幕府に仕える譜代大名として、幕政において重要な役割を担っていました。宗資は政治的な手腕だけでなく、文化や庭園造りにも深い関心を持っていたと考えられています。その証として、旧安田庭園は江戸の大名庭園の特徴を色濃く残しており、彼の美意識と統治理念が反映された空間となっています。 安田善次郎は、幕末から明治・大正時代にかけて活躍した実業家であり、安田財閥の創始者として知られています。1838年に現在の富山県高岡市で生まれ、商才に恵まれた彼は若くして江戸に出て両替商としてのキャリアをスタートさせました。明治維新後の経済変革期において、1876年に安田銀行(現在のみずほ銀行の前身)を設立し、金融業界で大きな成功を収めました。その後、不動産業や保険業など幅広い事業に進出し、安田財閥を日本四大財閥の一つにまで成長させました。 安田善次郎は事業だけでなく、文化財の保護や社会貢献活動にも積極的に取り組んでいました。その一環として、旧安田庭園を所有し、整備したことで知られています。もともと本庄宗資の下屋敷だったこの庭園を取得した善次郎は、美しい景観を維持しつつ、一般の人々にも楽しんでもらえるように工夫を凝らしました。彼の死後、庭園は東京市に寄贈され、現在は墨田区が管理する公園として多くの人々に親しまれています。 旧安田庭園の魅力は、都会の真ん中にありながらも、訪れる人々に心安らぐひとときを提供してくれるところにあります。庭園は池泉回遊式と呼ばれる形式で、中央には心字池と呼ばれる大きな池が広がり、...