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上野の森美術館:大ゴッホ展 夜のカフェテラス:限られた時間の美術鑑賞の難しさ

東京都台東区の上野の森美術館で開催されている「大ゴッホ展 夜のカフェテラス」に行きました。 この展覧会を知り、1か月半ほど前にチケットを購入しようとしたところ、空いていたのは7月29日だけでした。日時指定制の展覧会だったため、入場者数はある程度抑えられていると思っていましたが、会場に少し早く着くと、すでに多くの人が並んでいました。展示室の中もかなり混雑しているだろうと予想しながら入館しました。 会場となった上野の森美術館は、日本美術協会の美術展示館を改修し、1972年に開館した美術館です。常設展示を持たず、国内外の美術を紹介する企画展や公募展などを開催してきました。今回の展覧会では、オランダのクレラー=ミュラー美術館が所蔵する作品を中心に、ゴッホのオランダ時代からパリ時代を経て、南フランスのアルルへ向かうまでの画業が紹介されていました。 私は最近、大学の授業に備えて西洋美術の見方を少しずつ学んでいます。そのため、以前であれば「有名なゴッホの絵を見る」というだけだった展覧会を、今回は「少しは構図や光の使い方を理解できるだろうか」と考えながら見始めました。 特に印象に残ったのは、「第2章 オランダ時代」に展示されていた織工を描いた作品です。 ゴッホは1883年末から1885年にかけて、オランダ南部のニューネンで暮らしました。この時期には、農民や織工など、土地に根差して働く人々を数多く描いています。織工は自宅に置かれた大きな織機を使い、厳しい生活の中で長時間働いていました。ゴッホは、そうした労働者の生活を重要な題材として捉えていたようです。 会場には、織工を横から描いた作品や、斜め前から捉えた作品など、さまざまな構図のデッサンや油彩画が並んでいました。最初に横から見た構図が続いたときには、西洋美術史の勉強で比較したカスターニョとレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を思い出しました。同じ題材であっても、画家は人物や空間をどの方向から見せるかを考え、何度も試行錯誤するのだと感じました。 その後、織工を斜め方向から見た作品が現れると、今度はティントレットの「最後の晩餐」が思い浮かびました。もちろん、描かれている題材も時代もまったく違います。しかし、正面や真横からではなく、斜め方向から空間を捉えることで奥行きや動きが生まれるという点で、授業で学んだ作品と目の前の作品が結びつき...

日本科学未来館:特別展「大南極展」:猛暑の東京で触れた南極の氷

東京都江東区青海にある日本科学未来館に行きました。 厳しい猛暑が続いていたため、都内で手軽に行ける屋内施設を探していたところ、日本科学未来館で特別展「大南極展」が開催されていることを知りました。南極という言葉だけでも少し涼しい気分になれそうだったので、久しぶりに日本科学未来館を訪れることにしました。 「大南極展」は、日本の南極観測70周年を記念して開催された特別展です。日本の南極観測は、1956年11月8日に第1次南極地域観測隊を乗せた観測船「宗谷」が東京港を出発したことから始まりました。翌1957年1月29日には隊員17人が東南極のオングル島に上陸し、そこを日本の観測拠点として「昭和基地」と名づけました。それ以来、南極では気象、地質、生物、海洋、宇宙など、さまざまな分野の観測が続けられています。 特別展の入口近くでは、実物の南極の氷が展示されていました。ケース越しに見るだけではなく、実際に手で触れられる展示だったため、多くの人が列を作っていました。日本科学未来館は常設展にも体験型の展示が多く、見るだけではなく、触ったり動かしたりしながら科学を学べるところが、いかにも科学館らしく感じられます。 南極の氷に触れるという体験は、単に冷たさを感じるだけではありません。はるか遠くにある南極大陸が、一時的に東京まで運ばれてきたようでもありました。猛暑の東京で南極の氷に手を触れるという状況も、少し不思議なものでした。 その先には、歴代の南極観測船などの模型が並んでいました。船体には「PL107」「5001」「5002」「5003」といった番号が記されていました。これは、初代観測船の「宗谷」、その後を継いだ「ふじ」、初代の「しらせ」、現在の「しらせ」へと続く日本の南極観測船の歴史を示しています。宗谷は第1次から第6次、ふじは第7次から第24次、初代しらせは第25次から第49次の観測を支えました。現在の「しらせ」は艦番号AGB-5003の砕氷艦で、厚さ約1.5メートルの氷を連続して砕きながら進む能力を備えています。 模型の近くには、南極地域観測隊が使用する防寒服も展示されていました。南極というと、氷と雪に覆われた静かな世界を想像しますが、実際には強風によるブリザードが発生し、短時間で視界が悪化することもあります。昭和基地周辺でも最大瞬間風速が毎秒50メートル前後に達することがあり、...

東京復活大聖堂:御茶ノ水で出会った異国のような大聖堂

東京都千代田区の東京復活大聖堂に行きました。 この日は、聖書考古学資料館を探して歩いていました。その途中で、周囲の建物とは明らかに雰囲気の違う、大きな教会らしい建物が目に入りました。それが東京復活大聖堂でした。最初から予定していた場所ではありませんでしたが、聖書考古学資料館を見学したあと、せっかくなので立ち寄ってみることにしました。 日本にある教会というと、海外の大聖堂のような大規模なものではなく、街の中に控えめに建っている姿を想像しがちです。しかし、東京復活大聖堂は、その印象とはかなり違っていました。御茶ノ水の街中にありながら、ドームを持つ外観は堂々としていて、海外の教会を思わせる存在感がありました。ビルの多い東京の中心部で、突然このような建物が現れることに驚かされます。 東京復活大聖堂は、一般には「ニコライ堂」の名でも知られています。日本に正教を伝えた亜使徒聖ニコライが、函館から東京に移ったのち、神田駿河台に正教の拠点を置いたことが始まりです。現在の大聖堂は1884年に着工し、1891年に竣工しました。主イイスス・ハリストスの復活を記憶する聖堂として成聖されたことから、「復活大聖堂」と呼ばれています。 建物は明治時代の宗教建築としても貴重なもので、煉瓦造および石造の大聖堂です。文化遺産オンラインによると、1891年の建築で、建築面積は813.36平方メートル、1962年には国の重要文化財に指定されています。 こうした歴史を知ると、単に大きな教会というだけでなく、明治以降の日本とキリスト教、さらにロシア正教との関わりを伝える建物でもあることが分かります。 中に入ると、外観とはまた違った荘厳さがありました。いただいたパンフレットには、正教会と他のキリスト教との違いについても説明があり、普段あまり意識することのないキリスト教内部の違いにも触れることができました。聖堂内には、キリスト教の宗教画であるイコンが並び、ステンドグラスも美しく、光の入り方によって静かな祈りの空間が作られているように感じました。 特に印象に残ったのは、祭壇周辺の装飾です。金色を基調とした華やかな造りでありながら、派手というよりも、儀礼の場としての重みを感じさせるものでした。日本正教会の案内によると、1990年代の修復では、聖堂内のシャンデリアが明治時代のものをもとに新調され、聖堂奥のイコノスタスに...

聖書考古学資料館:小さな展示室に凝縮された聖書の背景

東京都千代田区にある聖書考古学資料館に行きました。 聖書考古学資料館は、御茶ノ水クリスチャンセンターの5階にあります。名前から独立した資料館のような建物を想像していたため、最初は少し場所が分かりにくく感じました。建物の外には「聖書考古学資料館」という表示がなく、同じキリスト教に関係する施設なのでおそらくここだろうと思い、御茶ノ水クリスチャンセンターの中に入りました。中のフロア案内に資料館の名前があり、そこでようやく場所が確認できました。 5階に上がると、聖書考古学資料館は一室を使った小さな資料館でした。大きな博物館のような広さはありませんが、中に入ると部屋の中央に実物大のブラック・オベリスクのレプリカが置かれており、まずその存在感に目を引かれました。ブラック・オベリスクは古代アッシリアの王に関係する記念碑で、聖書の世界と古代オリエントの歴史がつながっていることを感じさせる資料です。 周囲には、楔形文字が刻まれた粘土板、ランプなどの土器、ロゼッタストーンの縮小レプリカ、古代のコインなどが展示されていました。ギルガメッシュ叙事詩に関する資料もあり、聖書そのものだけではなく、聖書が成立した背景にある古代メソポタミアやエジプト、オリエント世界の文化に触れられる展示になっていました。 訪れる前は、聖書考古学という名前から、キリスト教が成立した紀元前後の資料が中心なのだろうと想像していました。しかし、聖書には新約聖書だけでなく旧約聖書もあり、その背景にはさらに古い時代の人々の生活、都市、文字、信仰、国際関係があります。そう考えると、楔形文字の粘土板や古代の土器が展示されていることも納得できます。聖書の記述を理解するためには、キリスト教の成立期だけでなく、その前提となる古代西アジアの歴史や文化を知ることが重要なのだと思いました。 購入した図録によると、この資料館は考古学の研究や学びを通して聖書理解を助け、キリスト者の生活にも反映させることを目的としているそうです。たしかに展示を見ていると、信仰のための資料館であると同時に、古代史や考古学に関心がある人にとっても興味深い場所でした。 規模は小さく、展示室も一部屋だけなので、最初に想像していた資料館とは少し違いました。それでも、限られた空間の中に古代オリエントの文字、生活道具、記念碑、貨幣などが凝縮されており、短い時間でも多くのことを...

すみだ水族館:街の高層施設で出会う、幻想的な時間

東京都墨田区のすみだ水族館に行きました。台風が近づいていて、あまり遠くまで出かける気分にはなれなかったため、屋内で行ける場所を探していたところ、東京スカイツリータウンにあるすみだ水族館にはまだ行っていないことに気づきました。 以前、スカイツリーに来た時にも行こうとしたことがありましたが、その時はチケット購入の列が長く、入館を諦めました。今回は事前にチケットを購入していたため、入口ではほとんど待たずに入ることができました。小雨の日でしたが、当日券の列は20分ほどできていたようで、やはりスカイツリー周辺の人気施設なのだと感じました。 すみだ水族館は、2012年に東京スカイツリータウンの開業とともに誕生した、都市型の屋内水族館です。海沿いではなく、東京の街中、それも高層の商業施設の中にある水族館という点が特徴的です。昔ながらの大きな水族館とは少し違い、限られた空間の中で、照明や展示の見せ方によって雰囲気を作っている印象がありました。 中に入って少し進むと、クラゲのエリアになりました。薄暗い空間の中で、クラゲがゆっくりと漂っていて、かなり幻想的な雰囲気でした。水槽の前では多くの人が立ち止まっていましたが、にぎやかに話すというより、ぼんやりと眺めている人が多かったです。クラゲは動きが大きいわけではないのに、見ていると時間の感覚が少しゆるむようで、雨の日の外の空気とも合っていました。 さらに進むと、雰囲気が大きく変わり、明るく開けたサンゴ礁のエリアに出ました。サンゴのまわりを熱帯魚が泳ぎ、砂の中から細い棒のように伸びているチンアナゴの姿も見えました。クラゲのエリアが静かな夜のような空間だったのに対して、こちらは一気に南の海に出たような明るさがありました。同じ屋内でも、展示のつくり方によってこれほど印象が変わるのは面白いところでした。 すみだ水族館は5階と6階の2フロアを使っており、途中には吹き抜けになっている場所もあります。6階から下を見ると、5階の大きな水槽やペンギンのエリアが見え、限られた建物の中に立体的に水族館が組み込まれていることが分かりました。普通の水族館では横に広がって見ていくことが多いですが、ここでは上の階から下の展示を見下ろすような場面もあり、スカイツリータウンの中にある施設らしい構成だと思いました。 その後、5階に下りてペンギンのエリアに向かいました。かなり大...

池袋氷川神社/池袋東貝塚再発見の地:池袋の住宅地に眠る縄文の記憶をたどる

大学の考古学の授業のために、池袋周辺の遺跡を調べていたところ、氷川神社裏貝塚と池袋東貝塚という名前を知りました。池袋というと、現在では大きな駅や商業施設の印象が強い場所ですが、少し調べてみると、縄文時代の貝塚があった地域でもあることが分かります。 最初に向かったのは、東京大学総合研究博物館でした。博物館のデータベースによると、氷川神社裏貝塚の出土品を所蔵しているようでしたが、残念ながら展示はされていませんでした。実物を見ることはできませんでしたが、大学の博物館に出土品が収められているというだけでも、この地域の遺跡が研究対象として扱われてきたことを感じます。 その後、時間が余ったため、池袋氷川神社と池袋東貝塚再発見の地へ行くことにしました。どちらの周辺も、現在は密集した住宅地になっています。地図を見ながら歩いていると、ここに貝塚があったのだと想像するのが少し難しいほど、日常の町並みの中に溶け込んでいました。 池袋東貝塚再発見の地の石碑は、碧山巖寺東京別院の入口にありました。碧山巖寺東京別院はとてもモダンな建物で、貝塚の石碑とは少し不思議な組み合わせに見えました。後で調べてみると、台湾に関係する寺院のようで、池袋の町の中に、縄文時代の痕跡と台湾とのつながりを感じさせる場所が並んでいることも印象的でした。 石碑によると、池袋東貝塚は蒔田鎗次郎(まいたそうじろう)によって1896年、明治29年に発見された縄文時代の貝塚です。氷川神社裏貝塚、別名池袋西貝塚とともに知られていましたが、周辺の開発が進む中で、正確な位置が分からなくなっていったそうです。その後、2017年、平成29年に行われた発掘調査で貝塚が確認されたことから、「再発見の地」とされているようです。 次に池袋氷川神社へ向かいました。境内はとても整っていて、掃除も行き届いていました。街中の小さな神社というと、場所によってはひっそりとした印象を受けることもありますが、池袋氷川神社は地域の中で大切にされてきた神社であることが伝わってきました。境内には神輿などを収める蔵も複数あり、地域の祭礼との結びつきも感じられます。 境内の石碑によると、天保元年、1830年の記録にはこの村の氷川社が記されており、少なくともその頃にはすでに神社が存在していたようです。また、境内からは縄文時代後期の土器片が発掘されていること、さらに明治時代に...

東京大学総合研究博物館:氷川神社裏貝塚を追って、鉱物・化石・考古資料に出会う

大学の授業で池袋周辺の遺跡を調べることになり、氷川神社裏貝塚について調査していました。調べているうちに、その出土品を東京大学総合研究博物館が所蔵していることを知り、展示されている可能性は低いと思いながらも、東京都文京区にある東京大学総合研究博物館へ行ってみることにしました。 東京大学の入口には「関係者以外入構禁止」と書かれており、少し不安になりました。しかし、警備員の方に聞いてみると、「全然大丈夫」とのことで、無事に構内へ入ることができました。大学の敷地内にある博物館というだけで、普段の博物館とは少し違う緊張感があります。 東京大学総合研究博物館は、国立博物館や県立博物館のような大規模な施設と比べると、展示室の広さは控えめです。しかし、内容は非常に幅広く、隕石や鉱物、生物標本、化石、考古資料まで、大学の研究機関らしい多彩な資料が並んでいました。東京大学が長い研究と教育の歴史の中で蓄積してきた標本や資料を、一般にも公開している場所という印象を受けました。 石が展示されているエリアでは、小惑星イトカワの模型やレアアースなど、宇宙から地下資源までを感じさせる資料が並んでいました。単にきれいな鉱物を眺めるというよりも、自然科学の研究対象として石を見る展示になっており、大学博物館らしさがよく表れていました。 環境と生物に関する展示では、白亜紀の爬虫類の前肢の化石や、さまざまな全身骨格、化石標本を見ることができました。生物の形や進化を考える展示が多く、自然史博物館のような楽しさもあります。 さらに、生物系コレクションのエリアには馬などの剥製やアジアゾウの骨格もあり、標本の迫力を間近で感じることができました。 今回の目的にもっとも近かったのは、考古学コレクションのエリアでした。ここに氷川神社裏貝塚の出土品があればと思って見て回りましたが、やはり展示はされていませんでした。総合研究博物館へ行く前に豊島区にも問い合わせており、見学後に回答をいただきましたが、残念ながら出土品は公開されていないとのことでした。 それでも、考古学コレクションの展示は見応えがありました。特に印象に残ったのは、モースや坪井正五郎に関するコレクションです。モースは大森貝塚の発見で知られ、日本の考古学史を語るうえで欠かせない人物です。坪井正五郎もまた、日本の人類学や考古学の初期に大きな役割を果たした研究者です。氷...

豊島区立郷土資料館:池袋の足元に眠る遺跡を探して

大学の考古学の授業で、近隣の遺跡について調べる必要があり、池袋東貝塚と氷川神社裏貝塚の手がかりを探すため、東京都豊島区の豊島区立郷土資料館に行きました。池袋というと、現在では繁華街やアニメ文化のイメージが強く、縄文時代の貝塚とはすぐには結びつきにくい場所です。そのため、実際に地域の資料を見れば、何か手がかりが得られるのではないかと思いました。 館内に入ると、まず目に入ったのは江戸時代から始まる大きな年表でした。歴史好きとしてはそれだけで興味を引かれましたが、今回の目的は貝塚や古い時代の遺跡だったので、少し嫌な予感もしました。一般的に、旧石器時代や縄文時代の資料が充実している展示であれば、年表もその時代から始まっていることが多いからです。豊島区の歴史展示は、どちらかというと近世以降に重点が置かれているように見えました。 とはいえ、その年表には豊島長崎の富士塚、自由学園明日館、長崎村、長崎神社など、自分がこれまでこのブログで取り上げてきた場所もいくつか登場していました。本来の目的からは少し外れますが、知っている場所が地域の歴史の流れの中に位置づけられているのを見るのは面白く、思わず時間をかけて眺めてしまいました。何度も歩いてきた場所でも、年表の中で見るとまた違った姿が見えてきます。 年表の向かい側の壁には、土器や石器などの考古資料が展示されていました。残念ながら、池袋東貝塚や氷川神社裏貝塚に直接関係する資料は見当たりませんでしたが、巣鴨遺跡や学習院大学周辺遺跡の資料がありました。目的の貝塚にたどり着けなかったのは残念でしたが、豊島区内にも古い時代の人々の痕跡が残っていることは確認できました。調査対象を変更する場合には、これらの遺跡も候補にできそうで、結果的には良い情報収集になりました。 その後の展示では、江戸時代の豊島区周辺の村の構成が紹介されていました。長崎村、池袋村、巣鴨村、上駒込村、雑司ヶ谷村など、現在の地名につながるような村の名前が並んでいます。特に長崎については、現在の椎名町駅周辺の印象が強かったため、椎名町という地名の方が古いのかと思っていました。しかし、地域としては長崎の名が古くから使われていたことが分かり、地名の由来や変化にも興味が湧きました。 近代以降の展示では、巣鴨監獄や戦時・戦後に関する資料も紹介されていました。展示の規模としては大きくありませんが...

江戸東京博物館:特別展「大江戸礼賛」:リニューアル後の博物館でたどる、花のお江戸の記憶

東京都墨田区の江戸東京博物館に行きました。リニューアルオープンしたばかりということで、訪れるのを楽しみにしていました。 両国駅周辺ではちょうど大相撲が行われており、国技館のまわりには出待ちの人も含めて多くの人が集まっていました。そのため、最初は博物館へ向かう人はそれほど多くないようにも見えましたが、新しく作られた赤いアーチを進んでいくと、チケット売り場には長い行列ができていました。 今回は事前に特別展「大江戸礼賛」のチケットを購入していたため、長い列に並ばず、そのまま展示室へ向かうことができました。展示室内には行列こそありませんでしたが、企画展としては最終日であり、リニューアル後の注目も重なっていたため、会場内はかなり多くの人でにぎわっていました。ゆっくり一つひとつを見ていくには少し難しいほどでしたが、それだけ江戸という都市への関心の高さも感じられました。 展示の序章では、入口付近に「武蔵野図屏風」が展示されていました。現在の東京や埼玉の一帯は、かつて広く武蔵野と呼ばれていました。今では都市のイメージが強い東京も、江戸以前には野や林が広がる土地であり、その風景から展示が始まることで、江戸という都市がどのように形づくられていったのかを考える導入になっていました。 第1章の「将軍のお膝元」では、徳川家康が慶長8年、1603年に江戸幕府を開いたころから、明暦の大火までの江戸が紹介されていました。江戸はもともと日本の中心だったわけではなく、徳川政権の成立とともに、武士の都として急速に整えられていきました。江戸城を中心に大名屋敷や町が広がり、政治都市としての性格を強めていきます。明暦の大火以前の江戸城を描いた資料からは、後に大きく姿を変える前の江戸の様子を想像することができました。 この章では、紺糸素懸威五枚胴具足などの甲冑、鞍、刀、香箱、打掛なども展示されていました。絵画や書物が中心となる後半の展示に比べると、武家文化を象徴する実物資料が多く、海外から訪れた人にとっても、いかにも江戸時代らしい印象を受けやすい展示だったように思います。武士の都として始まった江戸の姿が、視覚的にもわかりやすく伝わってきました。 第2章の「江戸繁華」では、町人文化の開花がテーマになっていました。江戸は政治都市であると同時に、やがて巨大な消費都市、娯楽都市としても発展していきます。「江戸名所図会」...