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カップヌードルミュージアム 横浜:麺と発明の冒険譚、安藤百福のキッチンをのぞく

コロナ以降、週末の一日は都内の観光スポットをまわるのが習慣になっていますが、今日は都内で雨が降りそうだったので、少し距離を伸ばして横浜のカップヌードルミュージアムに行きました。 子供向けのアトラクションが多く小さな子供のいる家族が過ごすのに良い場所です。 自分だけのカップラーメンやチキンラーメンを作れるアトラクションもありますが、事前予約や先着順でこの日はすでに満員でした。そもそも子供向けで私は大人一人で行っているので、空いていてもよっぽど閑散としていないと参加しないと思います。 創業者の安藤百福さんのことを映像で学ぶことができます。 安藤百福さんは、48歳のときにインスタントラーメンを発明し起業されました。今の自分とほぼ同じ歳なので、この年齢でも新しいことに挑戦することが大切だと感じました。 その後、91歳で宇宙食用のラーメンを開発されているので生涯を通して挑戦されていました。 旅程 みなとみらい駅 ↓(徒歩約10分) カップヌードルミュージアム ↓(徒歩約10分) みなとみらい駅 周辺のスポット よこはまコスモワールド 横浜ランドマークタワー 横浜赤レンガ倉庫 山下公園 リンク カップヌードルミュージアム 横浜

日本郵船氷川丸:山下公園の海に浮かぶ、昭和の豪華船をたどる旅

横浜・山下公園の海に、黒と白と赤の船体が静かに浮かんでいます。この船、日本郵船氷川丸を本日の締めくくりとして訪れました。朝から三渓園を歩き、港の見える丘公園で港を見下ろしたあと、夕方の山下公園へ下りてくると、冬の澄んだ空気の中で氷川丸が待っていてくれたのが印象的でした。 氷川丸は、1930(昭和5)年に横浜で建造された日本郵船の貨客船で、太平洋横断のシアトル航路に就航した船です。戦前日本を代表する高速貨客船として活躍し、チャーリー・チャップリンや皇族、柔道の嘉納治五郎など、当時の著名人も乗船したことで知られています。太平洋戦争が始まると海軍の特設病院船となり、触雷しながらも沈まずに任務を続け、戦後は再び貨客船として太平洋を行き来しました。30年ほどの現役生活を終えたのち、1961年に山下公園前に係留されて保存され、現在は戦前に建造された唯一の現存貨客船として、国の重要文化財にも指定されています。横浜港のシンボルとして、単なる観光スポットという以上に、日本の海運史を物語る存在だと感じます。 船内に足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは、客席へと続く狭くて長い通路でした。現代のクルーズ船のような開放感とは違い、壁が迫ってくるような細い廊下を歩いていくと、かえって「ここから船旅が始まる」という期待感が高まります。 やがて通路の先が開け、アールデコ様式で整えられた食堂にたどり着きました。白いテーブルクロスがぴんと張られ、食器がきちんと並んだテーブルが規則正しく並ぶ様子は、まるで映画の中で見る昔の豪華客船の一場面そのものでした。実際、氷川丸の一等食堂や社交室は、シアトル航路で活躍していた時代の資料を基に復原されたもので、当時の雰囲気を今に伝えています。 食堂の先には、ソファーのある広間が続き、そこには暖炉もありました。船の中でどこまで実際に火を入れていたのかは分かりませんが、木目と暖炉の組み合わせは、海の上というよりも洋館のサロンにいるような不思議な感覚を与えてくれます。太平洋を何日もかけて渡る時代、人々はただ移動するだけでなく、こうした空間で食事をし、談笑し、音楽を楽しみながら時間を過ごしていたのだろうと想像すると、「船旅」という言葉の重みが今とはまったく違っていたのだと実感しました。 客船エリアから先へ進むと、展示パネルや写真で氷川丸の歴史が紹介されています。就航当...

三渓園:横浜の静けさの中にある贅沢、古建築と自然のハーモニー

今日訪れたのは旅行業務取扱管理者の試験の勉強で習った横浜の三渓園。 大名屋敷を元にした日本庭園かと思っていましたが、原三溪さんという明治から昭和にかけて活躍された実業家が造られた日本庭園。 原三溪さんは生糸業も行っており富岡製糸場を所有していたこともありました。 旅程 根岸駅 ↓(バス) 三渓園 ↓(徒歩) 横浜市八聖殿郷土資料館 ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) 山下公園 ↓(徒歩) 日本郵船氷川丸 ↓(徒歩) 日本大通り駅 周辺のスポット 横浜市八聖殿郷土資料館 本牧臨海公園 本牧神社 関連スポット 富岡製糸場 リンク 横浜 三溪園 - Yokohama Sankeien Garden -

横浜ランドマークタワー:煉瓦色と海風が交わる場所で、街の時間を味わう

海外からの友人を案内して横浜を巡り、仕上げにランドマークタワーの展望台へ上りました。少し曇っていましたが、港も街もくっきりと見渡せ、これまで歩いた道のりを空からたどり直すような時間になりました。ガラスの向こうに広がる横浜港の水面には、水上バスの白い航跡が細い線を引き、私たちがさっきまで乗っていた揺れの穏やかな時間を思い出させてくれます。 視線を左に送ると、赤レンガ倉庫の一帯が落ち着いた煉瓦色でまとまっていました。友人は、先ほど、自動車のイベントを楽しんだ赤レンガ倉庫が、明治末から大正期にかけて築かれたことに感心していました。港の向こうに広がる埠頭や倉庫群、そこを行き交う船の動きも、展望台から眺めると街の呼吸のように見えてきます。 山下公園方向に目をやれば、中華街の屋根が密集するエリアが霞むように見えました。通りを歩いていたときは、湯気と香辛料の香りがまっすぐ鼻に届きましたが、上から見ると、碁盤の目のような街路の中に人の流れがゆっくりと生まれては消えていく様子がわかります。「下では香り、上ではかたち」と言うと、友人は笑いながら頷き、街は五感で覚えるものだと話が弾みました。 ここ、ランドマークタワーは1993年に開業し、みなとみらい21の象徴として横浜のスカイラインに立ち続けています。かつて造船や鉄道の施設が集まっていたこの一帯は、港町の産業の歴史を土台にしながら、オフィスや商業施設、文化施設が並ぶ新しい都心へと姿を変えました。展望台から足元を見下ろすと、ドックヤードの石造構造が庭として残され、過去と現在が自然につながっているのがよくわかります。 港の青、煉瓦の赤、街路の白い線、そして遠くの海へ伸びる水平線。見下ろす景色のそれぞれに、この日たどった記憶が重なっていきました。観光名所を順番に消化するのではなく、下から歩き、上から俯瞰して、同じ街を二度味わう。友人に横浜を紹介するつもりが、気づけば自分自身があらためてこの街の成り立ちを学び直していました。夕暮れの色が少しずつ港に降りてくるのを眺めながら、横浜の「今」を支えている長い時間の積み重ねを感じ、また別の季節にも同じ場所から見てみたいと思いました。 旅程 東京 ↓(JR) 横浜駅 ↓(シーバス) 山下公園のりば ↓(徒歩) 中華街 ↓(徒歩) 横浜赤レンガ倉庫 ↓(徒歩) 横浜ランドマークタワー ↓(徒歩) 横浜駅 周...

横浜中華街:青い門から赤い廟へ、友人とめぐる異国情緒

現在、横浜に住んでおり、フランスから友人が遊びに来てくれました。東京観光だけではもったいないと感じて、港町らしい風景を楽しんでもらおうと横浜を案内し、その流れで中華街へ足を伸ばしました。 横浜駅からシーバスで山下公園へ移動しました。海を振り返りながら歩き、道路の向こうに青い門が見えてくると、そこが中華街の北側の入口、朝陽門でした。東西南北に色の異なる門が立つ中華街で、青い柱と屋根を持つこの門は、朝日と繁栄を象徴する「東の門」とされています。異国から来た友人にとっても、日本の港町の中に突然現れる中国の街並みは不思議な光景に映ったようで、門の下でしばらく写真を撮りながら、そのきらびやかな装飾を見上げていました。 門をくぐると、ふわっと湯気と香辛料の匂いが混じった空気に包まれます。大通り沿いには、肉まんやゴマ団子、小籠包などを売る店がずらりと並び、店先からはせいろが積み重なった蒸し器が顔をのぞかせていました。せっかくだからと、僕たちも肉まんを買い、熱々を頬張りながら散策を続けました。中華街が形成されたのは、幕末に横浜港が開港し、外国人居留地としてこの周辺に多くの外国人や華僑が住むようになったことが始まりと言われています。明治以降の発展と、関東大震災や戦災からの復興を経て、現在では日本最大の中華街として、年間数多くの観光客を迎える一大観光地になりました。 歩くにつれて、街の中心部にある横浜関帝廟の屋根が見えてきます。ここは『三国志』でおなじみの関羽を祀る廟で、商売繁盛や勝負事の神様として多くの人々の信仰を集めています。きらびやかな赤い柱と金色の装飾、龍が絡み合うように彫られた柱は、まさに「東アジアの神殿」といった趣で、友人もカメラのシャッターを何度も切っていました。関帝廟は、明治初期に小さな祠から始まり、火災や空襲で何度も焼失しながらも、そのたびに地元の華僑たちの力で再建されてきた歴史を持っています。中華街の成り立ちと同じく、この廟にも移民たちの信仰とコミュニティの歴史が刻まれているのだと感じました。 さらに少し歩くと、比較的新しい横濱媽祖廟にも立ち寄りました。ここには、航海や旅の守り神として知られる媽祖が祀られています。媽祖信仰は、かつて航海技術が未発達だった時代、危険な海を渡る人々にとって大きな心の支えだったと伝えられています。横浜港のすぐそばにこの廟が建てられたのも、...