スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

豊臣石垣館:地上は徳川、地下は豊臣、二つの時代が重なる城

大阪府大阪市の豊臣石垣館に行きました。 この日は、中之島美術館で開催されていた『フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展』を見るため、朝から大阪市内を巡っていました。大阪市立科学館、国立国際美術館、中之島美術館、適塾、住吉大社と回り、最後に向かったのが大阪城の豊臣石垣館です。 大阪城には以前訪れたことがありますが、その後、豊臣秀吉が築いた大坂城の石垣を公開する施設が新しくできたというニュースを見て、いつか行ってみたいと思っていました。豊臣石垣館は2025年4月に開館した新しい施設で、1984年の発掘調査で発見された豊臣大坂城の「詰ノ丸」の石垣を、実際に地中へ下りて見学できます。 到着したのは閉館まで1時間もない時間でした。今回は大阪城天守閣そのものが目的ではなかったため、そのまま豊臣石垣館へ向かったのですが、入口で大阪城天守閣の入館券が必要だと教えられました。仕方なく少し戻ってチケット売り場へ向かいます。 大阪城も同じく18時まででしたが、閉館が近いにもかかわらず、チケット売り場には思った以上の長い列ができていました。大阪城の人気の高さを改めて実感します。ようやくチケットを購入し、急いで豊臣石垣館へ戻りました。 館内に入った時には、閉館まで30分ほどしかありませんでした。ただ、実際に見学してみると、それでも十分に見ることのできる規模でした。館内には大坂城の歴史や石垣を解説する映像があり、その中心となる展示が、地中から発掘された豊臣時代の石垣です。公式パンフレットによると、ここで公開されているのは、秀吉やおね、淀殿、秀頼らが暮らした本丸中心部の「詰ノ丸」を守っていた石垣です。 豊臣秀吉は1583年に大坂城の築城を始めました。しかし1615年の大坂夏の陣によって豊臣大坂城は落城します。その後、徳川幕府は1620年から大坂城の再築を開始しました。その際、豊臣時代の城を大量の盛り土によって地中へ埋め、その上に新しい城を築いています。そのため、現在地上で見ることのできる大阪城の堀や石垣は、基本的に徳川時代の再築によるものです。豊臣大坂城の遺構は、その地下に約400年間眠ることになりました。 地下に降りて実物の石垣を見ると、普段目にする大阪城の石垣とはかなり印象が違いました。石材は現在の石垣のようにきれいな四角形に加工されておらず、自然石の形をかなり残したまま積まれています。 一見...
最近の投稿

住吉大社:遣唐使の旅立ちを見守った海の神

大阪府大阪市の住吉大社に行きました。 この日は、中之島美術館で開催されている『フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展』を見るため、朝から大阪市に来ていました。大阪市立科学館、国立国際美術館、中之島美術館、適塾と巡ったあと、まだ時間に余裕があったため、少し足を延ばして住吉大社に向かいました。 住吉大社の近くは、百舌鳥古墳群や大阪府立弥生文化博物館などを訪れた際に何度か通っています。そのたびに一度行ってみたいと思っていたのですが、なかなか機会がありませんでした。今回ようやく初めての参拝となりました。 住吉大社は、全国にある住吉神社の総本社で、古くから海上交通や航海安全の神として信仰されてきた神社です。社伝では神功皇后によって現在の地に住吉大神が祀られたとされ、のちに神功皇后自身も第四本宮の祭神となりました。 鳥居の手前で、まず目に入ったのが「遣唐使進発の地」と刻まれた石碑でした。住吉大社が海上交通と関係の深い神社であることは事前に調べていましたが、遣唐使とのつながりまでは知りませんでした。奈良時代、唐へ向かう遣唐使も出航前に住吉大神へ航海の安全を祈ったとされています。当時の中国への航海は、現在とは比較にならないほど危険なものでした。ここで無事を願ってから海へ向かった人々がいたと考えると、「航海安全の神」という言葉が急に現実味を帯びてきます。 参道を進むと、住吉大社を代表する景観の一つである反橋、いわゆる太鼓橋がありました。遠くから見てもかなり急な弧を描いています。最大傾斜は約48度もあるそうで、実際、多くの参拝者が足元を確認しながら恐る恐る渡っていました。現在の石造りの橋脚は、慶長年間に淀殿が豊臣秀頼の成長を祈願して奉納したものと伝えられています。 橋を渡って四つの本宮へ向かいました。 屋根は一見すると茅葺のようにも見えましたが、実際にはヒノキの樹皮を重ねた檜皮葺です。現在の本殿は文化7年(1810)に造営されたもので、古い神社建築の形式を伝える「住吉造」として四棟すべてが国宝に指定されています。 特に面白かったのが、その配置です。第一本宮、第二本宮、第三本宮が一直線に並び、第四本宮だけが第三本宮の横に並んでいます。公式の解説では、この配置は大海原を進む船団にもたとえられています。また、四本宮はすべて西、つまり大阪湾の方向を向いています。実際に歩いていると単に少し変わった...

適塾:江戸の私塾から現代へ、受け継がれる学びの系譜

大阪府大阪市の適塾に行きました。 この日は、中之島美術館で開催されている『フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展』を見るため、朝から大阪市を訪れていました。大阪市立科学館、国立国際美術館、中之島美術館と巡ったあと、適塾に向かいました。 適塾については、以前、全国に残る古い学校を調べていたときに知っていました。ただ、訪れるまでは「江戸時代にあった私塾の一つ」という程度の認識でした。 適塾は、蘭方医・蘭学者の緒方洪庵が1838年に開いた蘭学塾です。当初は瓦町にありましたが、1845年に現在の場所へ移りました。全国から蘭学を志す若者が集まり、福沢諭吉、大村益次郎、長与専斎、大鳥圭介など、幕末から明治にかけて活躍する多くの人物を輩出しました。現在残る建物は、蘭学塾の遺構として非常に貴重なもので、国の史跡・重要文化財になっています。 入場料を払って中に入ると、大阪大学の学生さんがボランティアの説明員をしていました。せっかくなので解説をお願いすることにしましたが、これが今回の訪問を非常に充実したものにしてくれました。 まず緒方洪庵の肖像画の前で、その医学者としての業績について説明してくれました。 洪庵が大きな仕事として取り組んだものの一つが、ドイツ人医師フーフェラントの医学書をオランダ語訳から日本語へ翻訳した『扶氏経験遺訓』です。全30巻にもなる大著で、日本に西洋の内科学を紹介するうえで重要な役割を果たしました。 もう一つ印象に残ったのが牛痘による種痘の話です。天然痘が大きな脅威だった時代、洪庵は1849年に大坂に種痘所を設け、牛痘種痘法の普及に力を尽くしました。しかし当時は、「種痘を受けると牛になる」といった風評まであり、新しい医療を人々に受け入れてもらうこと自体が大変だったそうです。 学生さんの説明では、子どもにお金を払って種痘を受けてもらい、そこから痘苗をつないでいったという話も聞きました。現代ではワクチンは医学として当たり前の存在ですが、医学的に正しい知識があるだけでは社会には広まりません。人々の不安や迷信と向き合いながら普及させなければならなかったところに、洪庵の医師としての仕事の大きさを感じました。 『扶氏医戒之略』についても説明してくれました。これはフーフェラントが記した医師の心得を洪庵が十二カ条にまとめたもので、「人の為に生活して己のために生活せざるを医業の本体と...

大阪中之島美術館:フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展 17世紀オランダ絵画の名品、奇跡の再来日

大阪府大阪市の大阪中之島美術館で開催されている「フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展 17世紀オランダ絵画の名品、奇跡の再来日」に行きました。 この日は《真珠の耳飾りの少女》を見るために朝から大阪へ来ていました。指定された入場時間まで余裕があったため、まず大阪市立科学館、続いて国立国際美術館を見学し、予定より30分ほど早く大阪中之島美術館へ移動しました。 美術館に着くと、すでにいくつもの列ができていました。最初は次の時間帯の人たちも別の列を作っているのかと思いましたが、よく見るとすべて一本につながっており、同じ時間帯に入場する人たちの列でした。かなりの混雑を覚悟しましたが、午前中だったためか、30分ほどで入口までたどり着くことができました。 今回の展覧会は、オランダ・ハーグのマウリッツハイス美術館が所蔵する17世紀オランダ絵画を紹介するもので、フェルメールの作品は《ディアナとニンフたち》と《真珠の耳飾りの少女》の2点が出品されています。《真珠の耳飾りの少女》の日本での公開は14年ぶりで、普段はほとんど貸し出されない作品ですが、2026年にマウリッツハイス美術館が改修のため一時休館する機会を利用して大阪への貸し出しが実現しました。 フェルメールは1632年にデルフトで生まれ、1675年に亡くなった17世紀オランダを代表する画家です。現在知られている作品は30数点しかなく、初期には宗教や神話を題材とした歴史画を描き、その後、静かな室内での日常生活を描いた作品へと移っていきました。今回展示されていた《ディアナとニンフたち》は1653~1654年頃の初期作品、《真珠の耳飾りの少女》は1665年頃の作品なので、一度の展覧会でフェルメールの画風の変化を見ることができる構成でもあります。 ただし、実際に会場へ入ってみると、そのような作品同士の違いをじっくり比較できる状況ではありませんでした。 これまでにも有名画家の特別展を何度か経験していたため、《真珠の耳飾りの少女》についてはまともに見ることができないだろうと予想していました。そのため、事前にAIに質問して、《真珠の耳飾りの少女》以外の作品の見どころも調べていました。 ところが、会場ではほぼすべての作品の前に大きな人だかりができていました。 意外だったのは、最も有名な《ディアナとニンフたち》と《真珠の耳飾りの少女》の2作品のほう...

国立国際美術館:口ひげのモナ・リザと、混雑する名画展

中之島美術館で開催されている『フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展』を見るため、朝から大阪市に来ました。フェルメール展の入場時間まで少し余裕があったため、その時間を利用して国立国際美術館へ行くことにしました。 国立国際美術館は1977年に大阪・万博記念公園の旧万国博美術館を利用して開館し、2004年に現在の中之島へ移転した美術館です。主に第二次世界大戦後の国内外の現代美術を収集してきましたが、それ以前の近代美術の作品も所蔵しています。2027年には開館50周年を迎えるため、今回はそのプレ企画として「コレクション1:私/行為」が開催されていました。 この日は時間が限られていたので、事前にAIを使い、西洋美術史を勉強し始めたばかりの自分に合いそうな作品を選んでもらっていました。AIが主に勧めてくれたのは「開館50周年記念プレ企画 コレクション1:私/行為」の作品でしたが、美術館内の順路では特別展「笹本晃 ラボラトリー」が先になっていたため、まずはこちらを見ることにしました。 特別展の入口には、バーのような空間を再現した作品がありました。最初に見たときにはさっぱり意味が分からず、「これは、ちょっと無理かもしれないな」と思いながら展示室へ入りました。 中には、普段あまり接することのない現代美術の作品が並んでいました。しかし、よく見ると数式やグラフを思わせるものがいくつかあります。 特に気になったのが《X×Y=1》でした。壁には「X×Y=1」と書かれ、その近くには「負X」「負Y」といった言葉もありました。 「負の感情が負の結果を呼び込むということだろうか」 「富める者がさらに富み、貧しい人がさらに貧しくなるような社会のことだろうか」 などと、自分なりに考えながら見ていました。 さらに壁の前にあるオブジェを見ると、長い線が交差しそうで交差せず、弧を描いて離れていきます。そこで「ああ、X×Y=1のグラフか」と気が付きました。 帰宅後に調べてみると、この作品ではX軸とY軸が人間関係の「距離」と「緊張」に見立てられ、両者が反比例するという考えが語られているそうです。鑑賞していたときの解釈そのものは違っていましたが、少なくとも数式やグラフを手掛かりに作品の意味を考えようとした方向は、完全に的外れでもなかったようです。 以前の自分なら、「意味が分からない」でそのまま通り過ぎていたと思いま...

大阪市立科学館:昆虫がつくるプラスチックに驚いた科学散歩

中之島美術館で開催されている『フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展』を見るため、朝から大阪市に来ました。フェルメールの入場時間までは国立国際美術館を見る予定で、10時の開館に合わせて9時半ごろに中之島へ到着しました。 ところが、国立国際美術館の前にはまだ人が並んでいる様子もなく、開館時間になればすぐに入れそうでした。そこで、すぐ隣にある大阪市立科学館を先に見てみることにしました。 もともと国立国際美術館がフェルメールまでの時間つぶしだったので、その開館までの時間を大阪市立科学館でつぶすという、「時間つぶしのための、さらに時間つぶし」のような予定外の訪問です。 大阪市立科学館の歴史は意外に古く、その前身は1937年に四ツ橋で開館した大阪市立電気科学館です。大阪市電気局が電気供給事業10周年の記念事業として計画した施設で、日本初の科学館として知られ、プラネタリウムを備えた施設として長く大阪市民に親しまれました。現在の大阪市立科学館は、その役割を引き継ぐ形で1989年に中之島で開館しています。 今回は30分ほどしか時間がなかったため、プラネタリウムはあきらめ、展示場だけを急いで見て回ることにしました。 展示は4階から見ていきました。4階は「科学の探究」をテーマとしており、宇宙、大阪と科学、科学技術の歴史などが扱われています。その中でもかなりのスペースを占めていたのが計算機の歴史です。そろばんのような古い計算道具から電子計算機、1980年代を中心としたパーソナルコンピューターまでが並び、コンピューターがどのように発達してきたのかを実物を通して見ることができます。 ITエンジニアをしている自分にとっては、科学館に入っていきなり専門分野に近い展示が現れたようなもので、予定外の訪問ながらかなり楽しめました。 特に目を引いたのが、スーパーコンピュータ「京」の巨大なシステムラックです。「京」は理化学研究所で運用されていたスーパーコンピュータで、全部で864台ものシステムラックから構成されていました。大阪市立科学館には、そのうち実際に使用されていた一台が寄贈されています。普段はニュースなどで「スーパーコンピュータ」という言葉を聞いても巨大な計算機全体をぼんやり想像するだけですが、実物のラックを目の前にすると、それが多数の計算機を組み合わせて作られた巨大なシステムだったことが実感できます...

「弥生式土器ゆかりの地」碑:日本史の時代名、そのルーツを訪ねて

東京都文京区の「弥生式土器ゆかりの地」碑に行きました。 この日は東京都美術館で特別展を見た後、上野東照宮を参拝しました。まだ少し時間が余っていたため、以前から気になっていた「弥生式土器ゆかりの地」碑まで足を延ばすことにしました。 以前、弥生時代の遺跡について調べていたとき、東京に弥生時代の名前の由来となった場所があることを知りました。 縄文時代という名前であれば、特徴的な縄目の文様を持つ縄文土器から付けられたことは比較的想像しやすいと思います。しかし、「弥生時代」の「弥生」がどこから来たのかは、名前だけではなかなか想像できません。 明治17年(1884年)、現在の東京大学弥生キャンパス周辺にあった向ヶ岡弥生町の貝塚で、坪井正五郎、白井光太郎、有坂鉊蔵の3人によって、それまで知られていた縄文土器とは異なる土器が発見されました。後に発見地の町名から「弥生式土器」と呼ばれるようになり、さらに縄文時代と古墳時代の間に位置する時代そのものが「弥生時代」と呼ばれるようになりました。 つまり、日本史の教科書で何度も目にする「弥生」という言葉は、この東京の小さな地域の地名から全国へ広がったことになります。「弥生」という古くからある日本語らしい響きを持つ町名だったことも、時代の名称としてよく似合っているように感じました。 さらに面白いのは、その「弥生町」という地名にも由来があることです。 この一帯には江戸時代、水戸藩の屋敷がありました。文政11年(1828年)、後に第9代水戸藩主となる徳川斉昭が「向岡記」と呼ばれる碑文を残しました。その文章には「やよい」と「向ふが岡」という言葉があり、明治5年(1872年)に旧水戸藩邸跡へ町名を付ける際、「向ヶ岡弥生町」と名付けられたとされています。 江戸時代に斉昭が記した「やよい」という言葉が明治時代の町名となり、その町で発見された土器が「弥生式土器」と呼ばれ、やがて日本史の一時代を表す「弥生時代」という名称になったわけです。 「弥生時代」という非常に古い時代を示す言葉の由来をたどっていくと、意外にも江戸時代から明治時代にかけての歴史へとつながっていくところが面白いです。 ただし、最初の弥生式土器が出土した正確な場所は現在も特定されていません。そのため、ここにある碑も「発見地」ではなく、「ゆかりの地」とされています。昭和49年(1974年)には東京...