スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

国立国際美術館:口ひげのモナ・リザと、混雑する名画展

中之島美術館で開催されている『フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展』を見るため、朝から大阪市に来ました。フェルメール展の入場時間まで少し余裕があったため、その時間を利用して国立国際美術館へ行くことにしました。 国立国際美術館は1977年に大阪・万博記念公園の旧万国博美術館を利用して開館し、2004年に現在の中之島へ移転した美術館です。主に第二次世界大戦後の国内外の現代美術を収集してきましたが、それ以前の近代美術の作品も所蔵しています。2027年には開館50周年を迎えるため、今回はそのプレ企画として「コレクション1:私/行為」が開催されていました。 この日は時間が限られていたので、事前にAIを使い、西洋美術史を勉強し始めたばかりの自分に合いそうな作品を選んでもらっていました。AIが主に勧めてくれたのは「開館50周年記念プレ企画 コレクション1:私/行為」の作品でしたが、美術館内の順路では特別展「笹本晃 ラボラトリー」が先になっていたため、まずはこちらを見ることにしました。 特別展の入口には、バーのような空間を再現した作品がありました。最初に見たときにはさっぱり意味が分からず、「これは、ちょっと無理かもしれないな」と思いながら展示室へ入りました。 中には、普段あまり接することのない現代美術の作品が並んでいました。しかし、よく見ると数式やグラフを思わせるものがいくつかあります。 特に気になったのが《X×Y=1》でした。壁には「X×Y=1」と書かれ、その近くには「負X」「負Y」といった言葉もありました。 「負の感情が負の結果を呼び込むということだろうか」 「富める者がさらに富み、貧しい人がさらに貧しくなるような社会のことだろうか」 などと、自分なりに考えながら見ていました。 さらに壁の前にあるオブジェを見ると、長い線が交差しそうで交差せず、弧を描いて離れていきます。そこで「ああ、X×Y=1のグラフか」と気が付きました。 帰宅後に調べてみると、この作品ではX軸とY軸が人間関係の「距離」と「緊張」に見立てられ、両者が反比例するという考えが語られているそうです。鑑賞していたときの解釈そのものは違っていましたが、少なくとも数式やグラフを手掛かりに作品の意味を考えようとした方向は、完全に的外れでもなかったようです。 以前の自分なら、「意味が分からない」でそのまま通り過ぎていたと思いま...
最近の投稿

大阪市立科学館:昆虫がつくるプラスチックに驚いた科学散歩

中之島美術館で開催されている『フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展』を見るため、朝から大阪市に来ました。フェルメールの入場時間までは国立国際美術館を見る予定で、10時の開館に合わせて9時半ごろに中之島へ到着しました。 ところが、国立国際美術館の前にはまだ人が並んでいる様子もなく、開館時間になればすぐに入れそうでした。そこで、すぐ隣にある大阪市立科学館を先に見てみることにしました。 もともと国立国際美術館がフェルメールまでの時間つぶしだったので、その開館までの時間を大阪市立科学館でつぶすという、「時間つぶしのための、さらに時間つぶし」のような予定外の訪問です。 大阪市立科学館の歴史は意外に古く、その前身は1937年に四ツ橋で開館した大阪市立電気科学館です。大阪市電気局が電気供給事業10周年の記念事業として計画した施設で、日本初の科学館として知られ、プラネタリウムを備えた施設として長く大阪市民に親しまれました。現在の大阪市立科学館は、その役割を引き継ぐ形で1989年に中之島で開館しています。 今回は30分ほどしか時間がなかったため、プラネタリウムはあきらめ、展示場だけを急いで見て回ることにしました。 展示は4階から見ていきました。4階は「科学の探究」をテーマとしており、宇宙、大阪と科学、科学技術の歴史などが扱われています。その中でもかなりのスペースを占めていたのが計算機の歴史です。そろばんのような古い計算道具から電子計算機、1980年代を中心としたパーソナルコンピューターまでが並び、コンピューターがどのように発達してきたのかを実物を通して見ることができます。 ITエンジニアをしている自分にとっては、科学館に入っていきなり専門分野に近い展示が現れたようなもので、予定外の訪問ながらかなり楽しめました。 特に目を引いたのが、スーパーコンピュータ「京」の巨大なシステムラックです。「京」は理化学研究所で運用されていたスーパーコンピュータで、全部で864台ものシステムラックから構成されていました。大阪市立科学館には、そのうち実際に使用されていた一台が寄贈されています。普段はニュースなどで「スーパーコンピュータ」という言葉を聞いても巨大な計算機全体をぼんやり想像するだけですが、実物のラックを目の前にすると、それが多数の計算機を組み合わせて作られた巨大なシステムだったことが実感できます...

「弥生式土器ゆかりの地」碑:日本史の時代名、そのルーツを訪ねて

東京都文京区の「弥生式土器ゆかりの地」碑に行きました。 この日は東京都美術館で特別展を見た後、上野東照宮を参拝しました。まだ少し時間が余っていたため、以前から気になっていた「弥生式土器ゆかりの地」碑まで足を延ばすことにしました。 以前、弥生時代の遺跡について調べていたとき、東京に弥生時代の名前の由来となった場所があることを知りました。 縄文時代という名前であれば、特徴的な縄目の文様を持つ縄文土器から付けられたことは比較的想像しやすいと思います。しかし、「弥生時代」の「弥生」がどこから来たのかは、名前だけではなかなか想像できません。 明治17年(1884年)、現在の東京大学弥生キャンパス周辺にあった向ヶ岡弥生町の貝塚で、坪井正五郎、白井光太郎、有坂鉊蔵の3人によって、それまで知られていた縄文土器とは異なる土器が発見されました。後に発見地の町名から「弥生式土器」と呼ばれるようになり、さらに縄文時代と古墳時代の間に位置する時代そのものが「弥生時代」と呼ばれるようになりました。 つまり、日本史の教科書で何度も目にする「弥生」という言葉は、この東京の小さな地域の地名から全国へ広がったことになります。「弥生」という古くからある日本語らしい響きを持つ町名だったことも、時代の名称としてよく似合っているように感じました。 さらに面白いのは、その「弥生町」という地名にも由来があることです。 この一帯には江戸時代、水戸藩の屋敷がありました。文政11年(1828年)、後に第9代水戸藩主となる徳川斉昭が「向岡記」と呼ばれる碑文を残しました。その文章には「やよい」と「向ふが岡」という言葉があり、明治5年(1872年)に旧水戸藩邸跡へ町名を付ける際、「向ヶ岡弥生町」と名付けられたとされています。 江戸時代に斉昭が記した「やよい」という言葉が明治時代の町名となり、その町で発見された土器が「弥生式土器」と呼ばれ、やがて日本史の一時代を表す「弥生時代」という名称になったわけです。 「弥生時代」という非常に古い時代を示す言葉の由来をたどっていくと、意外にも江戸時代から明治時代にかけての歴史へとつながっていくところが面白いです。 ただし、最初の弥生式土器が出土した正確な場所は現在も特定されていません。そのため、ここにある碑も「発見地」ではなく、「ゆかりの地」とされています。昭和49年(1974年)には東京...

上野東照宮:上野に残る黄金の社殿と江戸の記憶

東京都台東区の上野東照宮に行きました。 この日は東京都美術館で特別展を見たあと、まだ少し時間に余裕がありました。上野恩賜公園の中には何度も来ていますが、上野東照宮には行ったことがなかったような気がしたため、立ち寄ってみることにしました。 ところが参道を歩いていくと、神楽殿や五重塔の景色に見覚えがあります。どうやら以前にも何度か訪れていたようで、実際に歩いてみてようやく思い出しました。何度も歩いている上野公園ですが、美術館や博物館を目的に訪れることが多いため、周囲の史跡については意外と記憶が曖昧になっているようです。 訪れたとき、五重塔は工事中でした。工事用の塀に囲まれていましたが、一部分だけ透明になっており、そこから塔を見ることができるようになっていました。この五重塔はもともと上野東照宮の塔として、寛永8年(1631年)に土井利勝によって建立されました。一度火災で焼失したものの寛永16年(1639年)に再建され、明治時代の神仏分離の際には寛永寺の所属とすることで取り壊しを免れました。その後、1958年に東京都へ寄贈され、現在は上野動物園の敷地内に残されています。 そのまま参道を進んでいくと、奥に金色に輝く唐門が見えてきました。上野東照宮は寛永4年(1627年)、徳川家康を祀る「東照社」として創建され、正保3年(1646年)に東照宮の宮号を授けられました。現在残っている社殿や唐門、透塀は、慶安4年(1651年)に三代将軍徳川家光によって造営されたものです。江戸の人々が遠く日光まで行かなくても家康を参拝できるよう、日光東照宮にならった豪華な社殿が造られたといいます。 まずは唐門の前で参拝しました。金色を基調とした門は非常に華やかで、上野公園の緑に囲まれた場所に突然、江戸時代の豪華な建築が現れたようにも感じられます。周辺には多くの灯籠が並んでいました。現在の社殿が造営された際には全国の大名から約250基もの灯籠が奉納されたそうで、現在も銅灯籠48基をはじめ、多くの灯籠が残されています。 周囲の銅灯籠などを撮影していると、唐門の右手に有料拝観の案内があることに気がつきました。せっかくなので拝観料を払い、中に入ってみることにしました。 中へ入ると、社殿を囲む透塀を間近で見ることができます。朱色を基調としながら、緑色の格子や金色の装飾が組み合わされ、さらにさまざまな動植物の彫刻...

東京都美術館:特別展『東京都美術館開館100周年記念 大英博物館日本美術コレクション 百花繚乱~海を越えた江戸絵画』

東京都台東区の東京都美術館に行きました。今回は、東京都美術館開館100周年記念として開催されている「大英博物館日本美術コレクション 百花繚乱~海を越えた江戸絵画」を見ることが目的です。 大英博物館というと、エジプトやギリシア、メソポタミアなど世界各地の文化財を所蔵している博物館という印象が強いですが、日本美術についても約4万点に及ぶ大規模なコレクションを所蔵しています。今回の展覧会では、そのなかから江戸時代の絵画や浮世絵を中心に紹介されていました。 展覧会のプロローグは「大英博物館と『日本』をつないだ貢献者たち」です。オーガスタス・ウォラストン・フランクス、ウィリアム・アンダーソン、ウィリアム・ガウランド、アーサー・モリソン、ローレンス・ビニョンという、日本美術コレクションの形成に大きな役割を果たした5人が紹介されていました。 興味深かったのは、全員が最初から日本美術を専門にしていたわけではないことです。アンダーソンは外科医としてお雇い外国人となり、日本滞在中に絵画を収集しました。ガウランドも造幣局で働くために来日した技術者でしたが、日本の古墳を研究し、現在では「日本考古学の父」とも呼ばれています。一方、フランクスやビニョンは大英博物館の学芸員として、こうした収集家のコレクションを博物館へ受け入れることに重要な役割を果たしました。 明治時代は、日本美術にとって大きな転換期でもありました。明治政府による神仏分離と、それに伴って広がった廃仏毀釈のなかでは、多くの仏教関係の文化財が失われたり、寺院から離れて各地へ散逸したりしました。一方で、開国後の欧米では日本美術への関心が高まり、多くの作品が海外へ渡っていきました。 文化財が国外へ流出したことを単純に良いこととは言えませんが、その結果として海外の博物館や収集家のもとで保存され、現在まで残った作品もあります。日本で価値を失いかけていたものを外国人が熱心に集めていた時代があったことを考えると、大英博物館の日本美術コレクションそのものが、近代日本の歴史を物語る存在のようにも感じました。 第1章は「花開く江戸絵画」で、「江戸時代以前」「江戸時代前期」「江戸時代中期から後期、そして明治へ」という流れで、日本絵画の変化をたどっていきます。 「江戸時代以前」で特に印象に残ったのが、桜井香雲による《法隆寺金堂壁画 九号壁 模本》です。法...

江戸東京博物館:常設展:江戸から東京へ、巨大都市の変化をたどる

東京都墨田区の江戸東京博物館に行きました。 この日は、まず江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」を見学し、その後、常設展へ向かいました。以前、別の特別展を見に来たときにも常設展へ行こうとしたのですが、エレベーターの前に多くの人が並んでいたため、そのときは諦めています。今回はようやく常設展を見ることができました。 エレベーターで6階まで上がり、常設展示室へ入ると、まず驚いたのがその巨大な空間です。その中央には、実物大で再現された日本橋が架かっていました。 江戸時代の日本橋は、慶長8年(1603年)に架けられたとされます。江戸幕府が全国の道路網を整備すると、日本橋は東海道をはじめとする五街道の起点となりました。現在でも道路の距離を測る基準となる「日本国道路元標」が日本橋に置かれており、江戸時代から続く東京の交通の中心地です。 再現された橋を渡りながら巨大な展示空間を見渡すと、左側には芝居小屋があり、右側には服部時計店が見えました。一つの博物館の中に、江戸の町と近代東京の風景が同居しているようで、これから江戸から東京へと時代を歩いていくことが視覚的にも分かります。 6階と5階の半分ほどが江戸に関する展示となっていました。6階には「東海道五十三次図屏風」や徳川家康の座像、江戸城の鯱などが展示されていました。 徳川家康が江戸に幕府を開いたのは慶長8年(1603年)です。それ以前の江戸は現在の東京ほど巨大な都市ではありませんでしたが、幕府の成立後、江戸城を中心として大規模な都市整備が進められました。武家地、寺社地、町人地が形成され、水路や道路が張り巡らされていきます。18世紀には世界でも有数の人口を抱える大都市へと成長しました。 5階へ下りると、火消しや時刻制度、書籍など、より江戸の人々の生活に近い展示が増えてきました。 特に面白いのは、江戸時代というものが、単に将軍や武士の時代としてではなく、巨大都市で暮らした普通の人々の歴史として紹介されていることです。木造住宅が密集していた江戸では火災が頻発したため、町火消などの消防組織が発達しました。また、出版文化も盛んになり、浮世絵や草双紙などが大量に流通しました。武士だけではなく、商人や職人、庶民の生活によって巨大都市江戸が成り立っていたことが分かります。 刀などの展示もありましたが、一般的に海外で想像される「...