東京都台東区の書道博物館に行きました。 この日は、東京藝術大学大学美術館で開催されている「藝大式 美術の“ミカタ”―この夏、藝大生になる―」を見るために台東区を訪れていました。しかし、台風の影響で雨が降っていたため、その後は屋内を中心に回ることにして、まず子規庵へ行き、さらにその隣にある書道博物館を訪れました。 書道の美術館というと、2年ほど前に成田山書道美術館を訪れたことがあります。そのときは成田山新勝寺へ行ったついでに見学したのですが、書についてほとんど知識がなかったため、正直なところ、展示されているものを十分に理解できませんでした。 現在も書そのものについての知識が特に増えたわけではありません。ただ、その後、日本史や考古学、日本美術などを少しずつ勉強しているので、以前とは何か違った見方ができるかもしれないと思いました。もちろん、子規庵のすぐ隣にあったというのも大きな理由です。 書道博物館は、洋画家・書家として活動した中村不折が、自ら集めた中国や日本の書道関係資料を公開するため、1936年に自宅敷地内に開館した博物館です。不折は40年以上にわたって甲骨、青銅器、瓦当、石碑、拓本、経巻などを収集しました。現在の書道博物館のコレクションの中心も、これら不折の収集品です。 中村不折と隣の子規庵には、実は深い関係があります。不折は正岡子規と親しく、1895年には子規とともに日清戦争の従軍記者として中国へ渡りました。その後、不折は中国や朝鮮各地の古い文物に触れ、それが書道研究へ傾倒していく大きな契機になったとされています。 子規庵と書道博物館が隣り合っているのも、単に偶然隣に二つの文化施設があるというだけではありません。子規庵を見た直後に書道博物館へ行ったことで、そのつながりを感じながら見学することができました。 この日は、中村不折記念館で開館90周年記念企画展「中村不折と書道博物館―不折のおたから大公開!―」が開催されていました。 まず印象に残ったのが、1階から2階にかけての吹き抜けに展示されていた巨大な広開土王碑の拓本です。 広開土王碑は、高句麗の第19代王である広開土王の功績を記した石碑で、414年に建立されました。高さ6メートルを超える巨大な碑であるため、その拓本も非常に大きなものになります。 大きな拓本を見て、以前、成田山書道美術館で見た「紀泰山銘」の原拓を思い...
東京都台東区の子規庵に行きました。 この日は、東京藝術大学大学美術館で開催されている「藝大式 美術の“ミカタ”―この夏、藝大生になる―」を見るために台東区に来ていました。しかし、台風の影響で雨が降っていたため、その前に屋内を中心に見学できそうな場所として子規庵に立ち寄ることにしました。 正直なところ、ここに正岡子規に関係する史跡があること自体、すっかり忘れていました。Google Mapを見ると「行きたい」マークがついていたため、以前どこかで調べたことがあったようです。 正岡子規といえば、やはり故郷の愛媛県松山市を思い浮かべます。私も松山では子規記念博物館や子規堂を訪れているため、その後に子規の史跡を追加で調べることはなかったように思います。 過去のChatGPTの履歴を調べてみると、どうやら永井荷風に関係する史跡を調べたときに子規庵が出てきたようです。さらに正直に言えば、今度は永井荷風についてなぜ調べたのかが思い出せません。 AIを使うようになってから、以前とは比べものにならないほど広い範囲のことを気軽に調べられるようになりました。当然、そのすべてを人間の頭で記憶しておくことはできません。しかし、忘れていた情報が数年後に思わぬところで再び現れ、それをきっかけに実際の場所を訪れるというのも面白いものです。 この日、雨が降っていても子規庵へ行こうと思ったのには、もう一つ理由がありました。訪問前に少し調べたところ、9月19日は正岡子規の命日だと分かったからです。 正岡子規は1867年に伊予国、現在の愛媛県松山市に生まれました。俳句や短歌の革新を進め、明治時代の日本文学に大きな足跡を残しましたが、若くして結核を患います。1894年から東京・根岸のこの場所で母の八重、妹の律とともに暮らし、病状が悪化してからも句や短歌、随筆を書き続け、1902年9月19日に34歳で亡くなりました。 運命のようなものを強く感じるタイプではありませんが、せっかく訪れるのであれば、こうした関連のある日に訪れた方が記憶にも残りそうです。そう考えて、雨の中を子規庵へ向かいました。 中に入って最初に感じたのは、家の小ささでした。 歴史上の人物の旧宅というと、大きな屋敷と庭を想像してしまいます。そのため、子規庵は余計に小さく感じます。子規が病室兼書斎として過ごした六畳の日本間も、展示資料が置かれていること...