奈良県橿原市の綏靖天皇 桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)に行きました。 「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修のクラウドファンディングで、支援者限定の収蔵庫公開に参加するため、奈良県を訪れました。法隆寺、斑鳩文化財センター、藤ノ木古墳を見学した後、タクシーで橿原考古学研究所附属博物館に移動しました。その後、神武天皇陵を参拝し、続いて綏靖天皇陵に向かいました。 綏靖天皇(すいぜいてんのう)という名前は、正直なところ、聞いたことがありませんでした。帰りの電車で調べてみると、第2代天皇ということでした。初代の神武天皇と第2代の綏靖天皇の陵が、隣り合うように存在していることになります。 綏靖天皇は、『古事記』や『日本書紀』によると、神武天皇の子で、父の死後、異母兄との皇位継承争いを経て即位したとされています。その後、葛城高岡宮(現在の奈良県御所市付近)で政治を行ったと伝えられています。 ただし、綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇は、歴史上の事績に関する記録が極めて少ないことから、「欠史八代」と呼ばれています。これらの天皇については、実在したのかどうかも含めて、歴史学上の議論があります。 また、現在の綏靖天皇陵がこの場所に定められたのは、明治11年(1878年)のことです。それ以前には別の古墳が陵と考えられていた時期もあり、古代から現在まで、同じ場所が綏靖天皇陵として認識され続けていたわけではありません。 つまり、初代と第2代の天皇陵が隣接していることは興味深いものの、それが実際の親子の墓の位置関係を示しているとまでは言えないようです。 綏靖天皇陵も、他の多くの天皇陵と同じように、外から見ると森のような姿をしていました。ただし、神武天皇陵と比較すると、敷地はかなり小さめでした。宮内庁による陵形は円丘とされていますが、木々が茂っているため、参拝する側からは古墳の形を確かめることは難しい場所です。 神武天皇陵の壮大な敷地を見た後だったので、規模の違いが特に印象に残りました。天皇陵といっても、時代や場所によって大きさや形はさまざまです。もっとも、綏靖天皇陵の場合、現在の陵が実際にいつ築かれ、誰が埋葬されたものなのかという点にも、まだ分からないことがあります。 拝所で参拝を済ませ、駅に向かいました。 この日は、法隆寺の金堂壁画に始まり、藤ノ木古墳に関す...
奈良県橿原市の、神武天皇 畝傍山東北陵に行きました。陵名は「うねびやまのうしとらのすみのみささぎ」と読み、宮内庁が初代の神武天皇の陵として管理している場所です。 今回奈良を訪れたのは、「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修を支援するクラウドファンディングに参加し、支援者限定の収蔵庫公開を見学するためです。法隆寺、斑鳩文化財センター、藤ノ木古墳を巡ったあと、タクシーで橿原考古学研究所附属博物館へ移動しました。神武天皇陵には、その博物館を見終えてから立ち寄りました。 前回この博物館を訪れたときにも、近くに神武天皇陵があることには気づいていました。ただ、そのときは展示の内容が難しく、見終わったころには頭がいっぱいになってしまい、さらに歩く気力が残っていませんでした。今回はそこまでの疲労感はなかったので、前回見送った場所まで足を延ばすことにしました。 天皇陵といえば、僕がこれまで訪れたところは、外から見るとたいてい森のような姿でした。名前のよく知られた天皇の陵でも、目の前の木々を眺めているだけでは、その違いを実感するのはなかなか難しいものです。神武天皇陵も、やはり森でした。 ただ、正面に二つの鳥居が見え、その姿が、これまで見たほかの陵よりも少し豪華に感じられました。もっとも、「初代天皇の陵」ということで、僕の方が勝手に特別なものとして受け止めていたのかもしれません。同じように森を眺めていても、誰の陵とされているかによって、印象は変わるものです。 神武天皇は、『古事記』や『日本書紀』で初代天皇とされる人物です。日向から東へ向かい、大和に入って橿原で即位したという物語が伝えられています。『日本書紀』の紀年に従えば、その即位は紀元前660年になります。ただし、こうした年代や事績には神話・伝承の要素が強く、神武天皇の実在が歴史学的に確認されているわけではありません。 陵墓そのものの歴史を調べてみると、現在の場所が神武天皇陵と定められたのは、江戸時代末の文久3年(1863年)でした。陵墓の場所を定めることを「治定」といいますが、このときの治定に伴って整備が行われ、明治以降も手が加えられてきました。初代天皇の陵と聞くと、ひたすら遠い昔を想像しますが、現在の景観には、もっと新しい時代の歴史も重なっています。 また、「四条ミサンザイ古墳」という呼び名もありますが、奈良県の案内では、古墳で...