京都府舞鶴市の赤れんが博物館に行きました。 昨年から、戦後80年や昭和100年に関連する企画展や特別展を見る機会が多く、その中で舞鶴引揚記念館の資料を何度も目にしていました。そのため以前から一度舞鶴を訪ねたいと思っており、この日は舞鶴引揚記念館、海軍記念館を見学した後、赤れんが博物館へ向かいました。 舞鶴を歩いていると、赤れんが博物館に入る前から、この街と煉瓦との関係を感じます。赤れんが倉庫がまとまって残っているだけではなく、道路やその周辺にも煉瓦が使われています。旧海軍の軍港として発展した舞鶴では、明治以降、多くの煉瓦造建築が建設されました。現在の街並みにも、その歴史が残っています。 そのため、赤れんが博物館も舞鶴の近代史を中心にした施設だと思っていました。しかし、実際の展示はそれよりはるかに広く、古代文明から現代まで、世界各地の煉瓦を通して人類の歴史を見る内容になっていました。 最初の方で展示されていたのが、インダス文明の都市モヘンジョダロの煉瓦です。装飾された煉瓦だけではなく、動物の足跡が残ったものも展示されていました。 これまで中東や西アジアの古代遺跡の写真を見ると、壁を構成している四角い固形物を漠然と「石」だと思っていました。しかし、石材が豊富ではない地域では、身近にある土を成形して乾燥させた日干し煉瓦や、焼成した煉瓦が重要な建築材料となりました。 考えてみれば当然なのですが、煉瓦は近代に発明された材料ではありません。人間の生活圏に広く存在する土を使い、一定の形に整えることで建築材料にできるため、非常に古い時代から使われてきました。 イギリスのドーバーに関する展示では、「ローマンブリック」という言葉も出てきました。ローマ建築というと、私はこれまで「ローマン・コンクリート」の方を意識していました。 ただし、煉瓦とコンクリートは同じものではありません。煉瓦は基本的に粘土などを一定の形に成形し、乾燥させたり焼いたりして作る建築材料です。それに対してコンクリートは、砂や砂利などの骨材を石灰やセメントなどの結合材で固めたものです。 古代ローマでは両方が使われました。コンクリートで建物の主要部分をつくり、その表面を煉瓦で覆うといった工法も用いられています。そのため、「ローマ建築=コンクリート」と単純に考えるのではなく、煉瓦とコンクリートを組み合わせた建築技術として見る...
昨年から、戦後80年や昭和100年に関する企画展・特別展を見ていると、舞鶴引揚記念館の資料が何度も登場しました。そのため、一度は舞鶴を訪れてみたいと思っていました。 舞鶴引揚記念館を見学した後、次に向かったのが海軍記念館です。 海軍記念館は海上自衛隊舞鶴地方総監部の施設内にあります。展示は舞鶴だけに限らず、明治以降の日本海軍から戦後の海上自衛隊まで、海を守る組織の歴史を広くたどる内容になっていました。 建物そのものにも歴史があります。現在の海軍記念館は、旧海軍機関学校の大講堂として使われた建物の一部を利用しています。歴史を感じさせる煉瓦の建物の中に入ると、まず目に入ったのが東郷平八郎の胸像でした。 説明によると、この胸像は昭和38年に西舞鶴港の土の中から発見されたものだそうです。現在では記念館の入口に置かれていますが、一度地中に埋められたものが再び姿を現し、旧海軍の歴史を伝える場所に置かれているという経緯にも興味をひかれました。 展示は、近代日本に海軍がつくられていくところから始まります。 明治5年、1872年に海軍省と陸軍省が設置されました。翌1873年には勝海舟が海軍卿となります。幕末に咸臨丸で太平洋を渡り、幕府の海軍育成にも関わった勝海舟が、明治政府でも海軍行政を担ったことを考えると、幕末から明治への移行は単純な断絶ではなかったことも感じられます。 明治18年、1885年に内閣制度が始まると、海軍卿に代わって海軍大臣が置かれ、初代海軍大臣には西郷隆盛の弟である西郷従道が就任しました。西郷従道というと兄の西郷隆盛の存在があまりにも大きいですが、明治政府では軍事や行政の中枢を担った人物でした。 そして舞鶴が海軍の町となる転機が、明治22年、1889年に訪れます。 日本海側の海軍拠点として舞鶴に鎮守府を置くことが決定されました。舞鶴湾は湾口が狭い一方で内部は広く、水深もあり、防御しやすい天然の良港でした。ただし、この時点ですぐ鎮守府が開かれたわけではなく、その後に軍港としての整備が進められ、明治34年、1901年10月1日に舞鶴鎮守府が開庁しました。 その初代司令長官となったのが東郷平八郎です。後に日露戦争の日本海海戦で連合艦隊を率いる人物が、舞鶴鎮守府の最初の司令長官だったことになります。 舞鶴にはさらに、海軍機関学校も置かれました。もともとは横須賀にありましたが...