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指宿市考古博物館 時遊館COCCOはしむれ:開聞岳の麓に重なるいくつもの時代

鹿児島県指宿市にある指宿市考古博物館「時遊館COCCOはしむれ」に行きました。 今回の鹿児島旅行では、「白いゼロ戦」を見ることを主な目的として知覧特攻平和会館を訪れました。しかし、残念ながら探していた白いゼロ戦は展示されていませんでした。 もっとも、旅行を計画した段階から、知覧特攻平和会館だけでなく、知覧や指宿周辺の観光地も巡るつもりでした。公共交通機関だけでは移動しにくい場所が多いため、観光タクシーを貸し切り、知覧の戦争遺跡や武家屋敷通り、釜蓋神社、池田湖、西大山駅、区営鰻温泉などを案内していただきました。 区営鰻温泉を出たあと、この日の指宿観光の最後に訪れたのが、時遊館COCCOはしむれでした。 館内で特に印象に残ったのは、開聞岳の噴火と指宿の歴史との関係です。開聞岳は今から約3700年前の縄文時代に誕生し、その後も複数回の噴火を繰り返して形成された火山です。館内には、開聞岳周辺で採取された地層の剝ぎ取り資料がいくつも展示され、火山灰や火山弾なども見ることができました。 噴火は、その時代を生きていた人々にとって、生活の場を奪う深刻な災害だったはずです。しかし、降り積もった火山灰が住居や道具、生活の痕跡を覆ったことで、それらが後世まで残されることにもなりました。人間にとっての災害が、考古学にとっては過去を読み解くための重要な手掛かりになるという、少し複雑な関係を感じました。 この博物館の名前にも使われている橋牟礼川遺跡(はしむれがわいせき)では、開聞岳の火山灰を挟んで、上の地層から弥生土器、下の地層から縄文土器が発見されました。これによって、縄文土器が弥生土器よりも古いことが、日本で初めて地層によって確かめられたそうです。また、平安時代の貞観16年、874年の噴火で埋まった集落跡も発見されており、建物や畑、道などが火山灰の下に残されていました。 知覧や池田湖、西大山駅などから眺めてきた開聞岳は、雲に頂上を隠しながらも、整った形をした美しい山に見えました。しかし、博物館の展示を見ると、その美しい山が、長い歴史の中で周辺の人々の暮らしを何度も変えてきた火山であることが分かります。同じ開聞岳でも、外から眺めるのと、地層や遺跡を通して見るのとでは、かなり印象が異なりました。 動物に関する展示では、旧石器時代の九州にツキノワグマが生息していたことも紹介されていました。現在の...
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区営鰻温泉:台風が連れてきた思いがけない湯めぐり

鹿児島県指宿市山川の区営鰻温泉に行きました。 今回の鹿児島旅行では、「白いゼロ戦」を求めて知覧特攻平和会館を訪れました。残念ながら目的の機体は展示されていませんでしたが、旅行計画を立てたときから、知覧や指宿周辺の観光地も巡るつもりで観光タクシーを貸し切っていました。 知覧の戦争遺跡や武家屋敷通り、釜蓋神社、池田湖、西大山駅などを巡ったあと、指宿名物の砂蒸し温泉を体験するため、砂むし会館「砂楽」へ向かいました。 この日は晴れていたものの、開聞岳の頂上付近には厚い雲がかかっていました。釜蓋神社では海の波も強く、大陸方面に来ていた台風の影響が、少しずつ鹿児島にも届いているようでした。 運転手さんによると、砂楽はうちうみ(内海?)にあり比較的波の影響を受けにくい場所にあるため、おそらく営業しているだろうとのことでした。しかし、到着してみると、残念ながら台風の影響で休業していました。 楽しみにしていた砂蒸し温泉に入れなかったのは残念でしたが、自然を相手にする施設では、無理に営業するよりも安全を優先することが大切です。今回は縁がなかったと考え、また指宿を訪れる機会があれば体験したいと思います。 もともと今回の旅行では知覧特攻平和会館が主な目的で、温泉はおまけ程度に考えていました。そのため、「これもおもしろい話のネタになりました」と、運転手さんと笑いながら話していました。 すると運転手さんが、砂蒸し温泉でなくてもよければ、別の温泉を案内できると言ってくれました。そうして予定にはなかった区営鰻温泉を訪れることになりました。 鰻温泉は、鰻池の湖畔にある江戸時代から続く湯治場です。西郷隆盛が好んだ温泉としても知られており、明治7年(1874年)には犬を13匹連れ、約1か月滞在したと伝えられています。昼間は開聞岳周辺へ猟に出かけ、夜になると温泉に入っていたそうです。当時は明治六年政変によって政府を離れ、鹿児島へ戻った直後の時期でした。 温泉には西郷隆盛の肖像画が飾られていました。また、温泉へ続く道のところどころには犬の石像が置かれています。西郷が連れてきた愛犬たちを表したもので、温泉地を案内するように並んでいました。西郷隆盛というと政治家や軍人としての姿が思い浮かびますが、犬を連れて猟をし、温泉で長い時間を過ごしたという話を知ると、歴史上の人物の日常が少し身近に感じられます。 有名な観光...

西大山駅:線路の向こうにそびえる美しい円錐峰

鹿児島県指宿市にある西大山駅に行きました。 今回の鹿児島旅行では、「白いゼロ戦」を求めて知覧特攻平和会館を訪れました。しかし、残念ながら目的としていた白い機体は見つかりませんでした。せっかく知覧まで来たので、知覧や指宿周辺も観光しようと観光タクシーを貸し切っていたので、戦争遺跡や知覧武家屋敷通り、釜蓋神社、池田湖などを巡りました。その後、運転手さんに案内されて西大山駅へ向かいました。 西大山駅は、JR指宿枕崎線にある小さな無人駅です。駅舎はなく、線路の脇に一本のホームが延びているだけの簡素な造りでした。しかし、私たちが到着したときには、いくつかのグループが駅を訪れており、記念写真を撮っていました。 ホームには「JR日本最南端の駅」と記された碑が立っています。西大山駅は1960年、当時の国鉄指宿線が山川駅から西頴娃駅まで延伸された際に開業しました。2003年に沖縄都市モノレールが開業してからは鉄道全体での最南端ではなくなりましたが、現在もJRの駅としては日本最南端に位置しています 運転手さんがここを案内してくれた理由は、最南端の駅だからというだけではありませんでした。もう一つの目的は、これまでとは違う方向から開聞岳を見せることだったそうです。 この日、私は知覧や池田湖など、主に開聞岳の北側から山を眺めてきました。池田湖では山頂付近が雲に隠れていましたが、それでも独立峰らしい堂々とした姿が印象に残っていました。 西大山駅は開聞岳の東側に位置しています。ホーム付近から眺めると、山の裾野が左右に滑らかに広がり、開聞岳が美しい円錐形をしていることがよく分かりました。周囲に同じような高さの山がないため、その姿はいっそう際立っています。西大山駅が、最南端の駅という鉄道上の記録だけでなく、開聞岳を望む場所としても多くの観光客を集めている理由が分かりました。 開聞岳は標高924メートルの火山で、整った円錐形の山容から「薩摩富士」と呼ばれています。この呼び名は知っていましたが、実際にさまざまな方向から山を眺めてみると、富士山になぞらえられたことにも納得できます。見る場所によって多少印象は変わりますが、どこから見ても形の美しい独立峰でした。 簡素な無人駅、最南端を示す碑、一本の線路、そしてその向こうにそびえる開聞岳という風景は、西大山駅ならではのものでした。列車に乗るためではなく、駅と山...

池田湖:湖と山に感じた遠方の台風

鹿児島県指宿市の池田湖に行きました。 今回の知覧・指宿周辺の旅は、「白いゼロ戦」を探して知覧特攻平和会館を訪れたことから始まりました。残念ながら目的の機体には出会えませんでしたが、交通の便があまり良くない地域で、観光タクシーを貸し切っていたので周辺を巡ることにしました。 知覧の戦争遺跡や武家屋敷通りを歩き、海辺の釜蓋神社を参拝したあと、車は指宿方面へ向かいました。そうして案内されたのが、開聞岳を望む景勝地として知られる池田湖です。 池田湖は、およそ5700年前の大規模な火山活動によって地面が陥没して生まれたカルデラ湖です。周囲は約15キロメートル、最も深いところは233メートルあり、九州最大のカルデラ湖とされています。湖底には火山地形も残っており、一見すると静かな湖ですが、その成り立ちは薩摩半島が火山活動によって形づくられてきた歴史を物語っています。 江戸時代の古い記録には池田湖に住む龍神の伝説が残され、現代には謎の巨大生物「イッシー」の目撃談も生まれました。また、湖には大ウナギが生息することでも知られています。深く大きな湖を前にした人々が、昔から水面の下に何か神秘的なものを感じてきたことがうかがえます。 この日の鹿児島は、十分に晴れていて、外を歩くと暑さを感じるほどでした。しかし、大陸の方に台風が来ていたためか、あるいは直前まで雨が降っていたためか、湖の水は少し濁っていました。湖面も穏やかに静まり返っているわけではなく、小さな波が絶えず広がっていました。 ただし、岸に立っていても、身体で感じるほど強い風が吹いているわけではありません。雨が降りそうな空でもなく、頭上には青空が広がっています。それでも、山の周辺には厚い雲が集まり、池田湖の向こうにそびえる開聞岳の上部は雲の中に隠れていました。 晴れているのに山頂が見えず、風をほとんど感じないのに湖面は波立っています。目の前の天候だけを見れば穏やかな夏の日ですが、湖と山の様子には、どこか遠方の台風の影響が現れているようでした。 台風というと、激しい雨や強風を思い浮かべます。しかし、中心から離れた場所でも空気や雲、水面の状態を変え、広い範囲に影響を及ぼします。直接その力を感じることはなくても、普段とは少し違う風景を通して、巨大な気象現象が遠くまでつながっていることを実感しました。 開聞岳の美しい山頂をすべて見ることができな...

釜蓋神社(射楯兵主神社):荒れた海と深紅の社殿

鹿児島県南九州市頴娃町にある釜蓋神社を参拝しました。 今回の鹿児島旅行では、「白いゼロ戦」を求めて知覧特攻平和会館を訪れました。しかし、残念ながら目的としていた白いゼロ戦は展示されていませんでした。 知覧や指宿周辺には公共交通機関だけでは訪れにくい場所も多いため、この日は観光タクシーを貸し切っていました。知覧特攻平和会館や周辺の戦争遺跡、知覧武家屋敷通りなどを巡ったあと、運転手さんの案内で釜蓋神社に向かいました。 釜蓋神社の正式名称は、射楯兵主神社といいます。「いたてつわものぬしじんじゃ」と読む難しい名前で、素盞鳴命などを祭神とする神社です。創建された年代は明らかではありませんが、江戸時代にはすでにこの地で信仰されていました。享保元年に火災で焼失し、その翌年に再建されたことや、天保14年に薩摩藩主の島津斉興が国家鎤護と武運長久を祈願したことも伝えられています。 「釜蓋神社」という通称には、この地方に残る不思議な伝説が関係しています。天智天皇と妃の大宮姫を迎えるため、大量の米を炊いていたところ、強い風によって釜の蓋が吹き飛ばされ、大川の浦に落ちたといいます。土地の人々はその釜蓋を拾い上げ、神としてまつったことから、釜蓋神社と呼ばれるようになったそうです。 運転手さんによると、なでしこジャパンの選手たちが近くで合宿した際に参拝し、その後の活躍によって、勝負運にご利益のある神社として広く知られるようになったそうです。現在では、サッカーに限らず多くのスポーツ選手が訪れる神社になっています。 この日の鹿児島は、ところどころに厚い雲が浮かんでいたものの、暑さを感じるほどよく晴れていました。一方で、大陸方面には台風が来ていたため、釜蓋神社を取り囲む海は激しく荒れていました。 神社は入り江の岩礁に突き出すような場所に鎮座しています。普段はもっと穏やかな海だそうですが、この日は大きな波が次々と押し寄せ、岩にぶつかって白いしぶきを上げていました。海辺の神社らしい美しさよりも、自然の力強さや怖さの方が強く感じられる光景でした。 境内に入ると、濃い赤色の鳥居が目に入りました。一般的な神社で見かける明るい朱色よりも深い色に見え、本殿も白と濃い赤を組み合わせた、よく目立つ色合いでした。 なでしこジャパンの話を聞いた直後だったこともあり、その色使いから、最初はどことなく女性的な印象を受けました。...

知覧武家屋敷通り:小さな庭に広がる薩摩の風景

鹿児島県南九州市にある知覧武家屋敷通りを訪れました。 今回、知覧を訪れた一番の目的は、「白いゼロ戦」を探すことでした。知覧特攻平和会館に展示されているという情報を見て訪れたのですが、残念ながら目的の機体は見つかりませんでした。しかし、知覧や指宿周辺を広く観光するために観光タクシーを貸し切っていたので、平和会館だけでなく、飛行場跡に残る戦争遺跡なども巡りました。その後、戦争の記憶が残る場所から少し時代をさかのぼり、江戸時代の面影を残す知覧武家屋敷通りへ向かいました。 江戸時代の薩摩藩では、武士を鹿児島城下だけに集めず、領内各地に「外城」と呼ばれる行政・軍事拠点を置きました。その中心には「麓」と呼ばれる武家集落が形成され、知覧もその一つとして発展しました。現在の武家屋敷群は江戸時代中期に形づくられたとされ、石垣や生垣、武家門が続く町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。また、地区内の七つの庭園は国の名勝に指定されています。 通りに入って最初に印象に残ったのは、各屋敷の前に続く石垣と生垣でした。石を積み上げた塀の上に木々が隙間なく植えられ、その緑が通りの両側に連なっています。その姿は、どことなく沖縄で見た石垣や屋敷囲いにも似ているように感じました。後で調べると、知覧の庭園や町並みには琉球の庭園と共通する手法が見られ、石垣と大きく刈り込まれた植え込みには琉球や中国の影響があるともいわれています。沖縄に似ていると感じたのも、まったく的外れではなかったようです。 観光タクシーの運転手さんによると、生垣は単なる装飾ではなく、防御の役割も持っていたそうです。硬い石塀だけであれば足場にして乗り越えられる可能性がありますが、枝葉が重なった生垣では、人が乗ると沈み込んだり崩れたりします。また、屋敷側からは枝の隙間を利用して外の様子をうかがい、必要なら攻撃することもできたと説明してもらいました。 屋敷ごとに門の形も異なっていました。屋根が一段だけの門と、下にも小さな屋根を備えた二段構えのような門があり、運転手さんによれば、立派な構えの門を持つ家ほど格式が高かったそうです。見た目の美しさだけでなく、門の造りからも家の立場や家格が表されていたのでしょう。 門をくぐった正面には、石で造られた目隠しが設けられている屋敷もありました。これは「屏風岩」などと呼ばれ、通りから屋敷の内...

ホタル館 富屋食堂:食堂に残された若者たちの言葉

鹿児島県南九州市の知覧にある、ホタル館 富屋食堂を訪れました。 この日は「白いゼロ戦」を目的に知覧特攻平和会館まで来ましたが、残念ながら探していた機体は展示されていませんでした。ただ、知覧や指宿周辺を巡るために観光タクシーを貸し切っていたので、知覧特攻平和会館を見学した後も、飛行場の正門跡や弾薬庫跡など、周辺に残る戦争遺跡を案内してもらいました。 その流れで訪れたのが、ホタル館 富屋食堂です。 富屋食堂は、鳥濱トメさんが知覧で営んでいた食堂です。昭和初期に開業し、太平洋戦争中には陸軍の指定食堂となりました。戦争末期、知覧飛行場が特攻隊の出撃基地になると、多くの若い隊員たちがこの食堂を訪れるようになりました。トメさんは隊員たちに食事を出すだけでなく、話を聞き、家族のように接したことから、後に「特攻の母」と呼ばれるようになりました。現在のホタル館は、富屋食堂の姿を復元し、トメさんの生涯や隊員たちの遺品を伝える資料館となっています。 鳥濱トメさんについては、知覧特攻平和会館の近くに並ぶ灯籠を見た際、観光タクシーの運転手さんから説明を受けていました。そのため、ここは平和会館で知った人物について、さらに詳しく知ることのできる場所でもありました。 もともとは食堂だった建物を利用した小さな資料館という印象があり、訪れる前は、それほど大規模な展示は想像していませんでした。しかし館内に入ってみると、特攻隊員の写真や手紙、軍服をはじめとする戦争中の遺品など、予想していた以上に多くの資料が展示されていました。公式の案内によれば、軍の検閲を通していない資料も含まれており、知覧特攻平和会館とは異なる角度から、隊員たちの言葉やトメさんとの交流を知ることができます。 特に印象に残ったのは、トメさんが隊員に代わって家族へ手紙を送ることもあったという話です。館内の紹介によると、ある手紙が45年ぶりに見つかり、それをきっかけとして、遺族が家族の一人が知覧から出撃していたことを知った例もあったそうです。 戦時中の手紙は、単に当時の出来事を記録したものではありません。本人が帰らなかったために伝えられなかった事実や、長い間、家族にも知られなかった人生の一部を、何十年も後になって明らかにすることがあります。トメさんが預かり、あるいは代わりに送った一通の手紙が、隊員と遺族との間を長い年月を越えて結び直したのだと...