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高松塚古墳 / 高松塚壁画館:極彩色の壁画が語る、古代明日香の記憶

奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳(たかまつづかこふん)に行きました。 この日は、朝から明日香村を訪れ、キトラ古墳の壁画を見学していました。キトラ古墳で古代の星や四神の世界に触れたあと、同じく極彩色の壁画で知られる高松塚古墳へ向かいました。明日香村は古墳や宮跡、寺院跡が点在しており、歩いているだけでも、古代の都の中を少しずつたどっているような気分になります。 高松塚古墳は、飛鳥歴史公園の中にあり、少し小高い場所に築かれていました。周辺はきれいに整備されていて、古墳そのものも静かな緑の中に落ち着いて見えました。大きくそびえる古墳というよりも、風景の中に自然に溶け込んでいるような印象です。古墳の周囲を歩くと、ここで大きな発見があったことが少し不思議に感じられるほど、現在の姿は穏やかでした。 高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初めごろに築かれたと考えられている終末期古墳です。1972年に石室内から極彩色の壁画が発見され、日本中に大きな衝撃を与えました。壁画には、人物群像や四神、日月、天井の星宿図などが描かれており、特に西壁女子群像は、高松塚古墳を象徴する存在としてよく知られています。古代の衣装をまとった女性たちの姿は、教科書や資料集などでも見た記憶があり、実際にその古墳の場所に立っていると思うと、歴史上の知識が現実の風景とつながっていくように感じました。 古墳を見た後、同じ公園内にある高松塚壁画館へ向かいました。壁画館は非常に小さな博物館でしたが、展示内容は高松塚古墳を理解するには十分に濃いものでした。館内には、壁画と同じ材質で作られた原寸大の模写が展示されており、実際の石室の中にどのように絵が描かれていたのかを想像しやすくなっていました。 有名な西壁女子群像だけを取り上げた展示もありましたが、特に印象に残ったのは、天井を含めて四面を再現した大きな模写です。石室という限られた空間の中に、人物、方角を守る神々、天の星々が描かれていたことが分かり、単なる装飾ではなく、死後の世界や宇宙観を表す空間だったのだろうと感じました。同じ形式の大きな模写が複数展示されていたことで、壁画をさまざまな角度から確認できるのも面白いところでした。 展示では、飛鳥時代の衣装や、副葬品である銅鏡、金具などのレプリカも見ることができました。高松塚古墳の被葬者ははっきりとは分かっていませんが、壁画や副葬品か...
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文武天皇陵(栗原塚穴古墳/檜隈安古岡上陵):開けた畑の先に広がる飛鳥の余韻

奈良県高市郡明日香村の文武天皇陵に行きました。古墳としては栗原塚穴古墳や檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)とも呼ばれている場所です。この日は、キトラ古墳の壁画を見るために朝から明日香村を訪れており、壁画を見学した後、高松塚古墳へ向かう途中で立ち寄りました。 キトラ古墳の周辺から文武天皇陵の方へ歩いていくと、畑が広がる先に鳥居と古墳の姿が見えてきました。明日香村らしい、空の広さと田園風景の中に古墳がある眺めです。天皇陵とされる古墳の中には、現在では周囲が住宅地や道路に囲まれ、全体の姿を見渡しにくい場所も少なくありません。その点、ここでは畑の向こうに陵墓全体が静かに見え、晴天だったこともあって、とても美しい景色に感じられました。 文武天皇は第42代天皇で、飛鳥時代から奈良時代へ移っていく直前の重要な時期に在位した天皇です。藤原京を都とした時代の天皇であり、大宝律令の制定など、古代日本が律令国家として形を整えていく時代と深く関わっています。華やかな壁画で知られるキトラ古墳や高松塚古墳と同じ明日香の地に、その時代の終わりと新しい国家の始まりを感じさせる陵墓があることに、飛鳥という土地の歴史の厚みを改めて感じました。 鳥居の前まで行くと、陵墓の中へ入ることはできませんが、拝所から参拝することができます。大きな観光施設のような派手さはありませんが、かえってその静けさが印象に残りました。古墳を遠くから眺め、鳥居の前で手を合わせるだけの短い滞在でしたが、明日香の風景の中では、その短さも自然な時間の流れに思えました。 一方で、後から調べてみると、現在宮内庁が文武天皇陵として治定しているのはこの栗原塚穴古墳ですが、学術的には少し北にある中尾山古墳こそが本来の文武天皇陵である可能性が高いと考えられているようです。中尾山古墳は八角形の墳丘を持つ終末期古墳で、火葬骨を納めるための施設があったと考えられています。文武天皇が火葬されたと伝えられることとも合い、こちらを真陵とみる説が有力になっているようです。 そう考えると、文武天皇陵への訪問は、ただ一つの「正解」として古墳を見るというよりも、伝承、宮内庁の治定、考古学の成果が重なり合う場所を歩く体験だったように思います。古代の陵墓は、現在の地図に名前が書かれているからといって、すべてが単純に確定しているわけではありません。むしろ...

檜隈寺跡/於美阿志神社:神と仏と古代の宮が重なる場所

キトラ古墳の壁画を見学するために、奈良県高市郡明日香村へ行きました。壁画見学には応募時間が決まっていたため、早めに到着したので、待ち時間を利用して近くにある檜隈寺(ひのくまでら)跡へ向かうことにしました。 キトラ古墳の周辺は、古墳だけがぽつんとある場所というより、明日香村らしい歴史散策の道が整えられている地域でした。道にはウォーキングコースかジョギングコースのような矢印があり、「檜隈寺跡前休憩案内所」と書かれていました。その案内に従って進むと、やがて檜隈寺跡前休憩案内所に着きました。 地図で見ると、檜隈寺跡は休憩案内所から少し森の中へ入ったところにあるようでした。最近は東京でも熊の出没がニュースになっていたため、正直なところ、あまり森に近づきたくないなと思いました。それでも、せっかく明日香村まで来て、しかもキトラ古墳のすぐ近くにある史跡です。少し慎重な気持ちになりながらも、森の中へ入っていきました。 しばらく進むと、木々の間に鳥居が見えてきました。檜隈寺跡という名前から、当然お寺の跡を想像していたので、最初は「寺跡なのに鳥居があるのだろうか」と不思議に思いました。鳥居の前まで行くと、そこには「於美阿志神社(檜隈寺跡)」と書かれた案内板がありました。つまり、現在は神社の境内でありながら、その場所が古代寺院の跡でもあるということです。この時点で、神社なのか寺跡なのか、少し頭が混乱しましたが、同時に明日香らしい歴史の重なりを感じました。 於美阿志神社(おみあしじんじゃ)は、渡来系氏族である東漢氏、または倭漢氏と関わりの深い神社とされています。祭神とされる阿知使主は、東漢氏の祖と伝えられる人物です。そして檜隈寺は、その東漢氏に関係する氏寺であったと考えられています。古代の明日香は、天皇の宮や古墳だけでなく、大陸や朝鮮半島から渡ってきた人々の技術や文化が根づいた場所でもありました。檜隈寺跡に立つと、飛鳥時代の歴史が、日本国内だけで完結していたものではなく、東アジアの広い交流の中にあったことが感じられます。 鳥居をくぐり、まずは拝殿で参拝しました。境内は深い森に包まれていて、観光地として整いすぎた雰囲気ではなく、地域に静かに守られてきた場所という印象がありました。境内を歩いていると、「宣化天皇檜隈廬入野宮跡」と刻まれた石碑もありました。檜隈寺跡だけでなく、このあたりには宣化天皇...

キトラ古墳:小さな古墳に閉じ込められた、飛鳥時代の宇宙

東京の博物館で、キトラ古墳の壁画公開のちらしを見つけました。奈良県明日香村にある有名な古墳であることは知っていましたが、実際に壁画を見られる機会は限られているようでした。せっかくなら見てみたいと思い、応募して、キトラ古墳を訪れることにしました。 キトラ古墳は、飛鳥時代の終わりごろ、7世紀末から8世紀初頭ごろに造られたと考えられている小さな円墳です。高松塚古墳に続いて発見された壁画古墳として知られ、石室の中には四神、獣頭人身の十二支像、そして天井の天文図などが描かれていました。現在は古墳そのものに入るのではなく、取り外され、保存・修復された壁画を、保存管理施設で期間を限って見学する形になっています。 当日は、応募した見学時間よりかなり早めに到着しました。まず向かったのは、キトラ古墳壁画体験館「四神の館」です。ここでは、キトラ古墳の石室の構造や、壁画に描かれた内容について、模型やパネルを通して学ぶことができました。 特に印象に残ったのは、石室の壁面と天井が、古代の宇宙観をそのまま閉じ込めたような構成になっていることです。東西南北の壁には、玄武、青龍、朱雀、白虎の四神が描かれ、その下には方位に対応する十二支像が配置されていました。さらに天井には、星々を描いた天文図があります。古墳というと、被葬者を葬るための場所という印象が強いですが、キトラ古墳の場合は、死後の世界や方位、天と地の秩序まで含めた、非常に大きな世界観が石室の中に表現されているように感じました。 今回公開されていたのは、天井に描かれた「天文図」でした。展示パネルを見ると、四神や十二支像など、他にも貴重な壁画が残っていることが分かります。最初は、なぜ今回は天文図だけなのだろうと思いました。しかし、この疑問は後で実物を見たときに自然と理解できました。 次に、発掘や調査、保存の歴史についての展示を見ました。1972年に高松塚古墳の壁画が発見された後、地元の人たちから似たような古墳があるという情報が寄せられ、それがキトラ古墳の調査につながったそうです。その後、石室の中に外気を入れないようにしながら、ファイバースコープなどを使った慎重な調査が行われました。 この調査の展示は、エンジニアとしても興味深いものでした。初期の調査では、映像の解像度も現在の感覚からするとかなり粗いものでしたが、調査のたびに機材が進歩し、より鮮明に...

江戸東京博物館:特別展「大江戸礼賛」:リニューアル後の博物館でたどる、花のお江戸の記憶

東京都墨田区の江戸東京博物館に行きました。リニューアルオープンしたばかりということで、訪れるのを楽しみにしていました。 両国駅周辺ではちょうど大相撲が行われており、国技館のまわりには出待ちの人も含めて多くの人が集まっていました。そのため、最初は博物館へ向かう人はそれほど多くないようにも見えましたが、新しく作られた赤いアーチを進んでいくと、チケット売り場には長い行列ができていました。 今回は事前に特別展「大江戸礼賛」のチケットを購入していたため、長い列に並ばず、そのまま展示室へ向かうことができました。展示室内には行列こそありませんでしたが、企画展としては最終日であり、リニューアル後の注目も重なっていたため、会場内はかなり多くの人でにぎわっていました。ゆっくり一つひとつを見ていくには少し難しいほどでしたが、それだけ江戸という都市への関心の高さも感じられました。 展示の序章では、入口付近に「武蔵野図屏風」が展示されていました。現在の東京や埼玉の一帯は、かつて広く武蔵野と呼ばれていました。今では都市のイメージが強い東京も、江戸以前には野や林が広がる土地であり、その風景から展示が始まることで、江戸という都市がどのように形づくられていったのかを考える導入になっていました。 第1章の「将軍のお膝元」では、徳川家康が慶長8年、1603年に江戸幕府を開いたころから、明暦の大火までの江戸が紹介されていました。江戸はもともと日本の中心だったわけではなく、徳川政権の成立とともに、武士の都として急速に整えられていきました。江戸城を中心に大名屋敷や町が広がり、政治都市としての性格を強めていきます。明暦の大火以前の江戸城を描いた資料からは、後に大きく姿を変える前の江戸の様子を想像することができました。 この章では、紺糸素懸威五枚胴具足などの甲冑、鞍、刀、香箱、打掛なども展示されていました。絵画や書物が中心となる後半の展示に比べると、武家文化を象徴する実物資料が多く、海外から訪れた人にとっても、いかにも江戸時代らしい印象を受けやすい展示だったように思います。武士の都として始まった江戸の姿が、視覚的にもわかりやすく伝わってきました。 第2章の「江戸繁華」では、町人文化の開花がテーマになっていました。江戸は政治都市であると同時に、やがて巨大な消費都市、娯楽都市としても発展していきます。「江戸名所図会」...

国立映画アーカイブ:写し絵からゴジラまで、日本映画の長い道のり

東京都中央区の国立映画アーカイブを訪れました。東京の中心部にありながら、館内に入ると、そこには映画という娯楽がどのように日本へ入り、どのように社会や文化と結びつきながら発展してきたのかをたどる、濃密な時間が広がっていました。国立映画アーカイブは、国立の美術館の一つでもあり、日本映画に関する資料を保存し、公開し、研究する施設です。映画というと、どうしても作品そのものや俳優、監督に目が向きがちですが、展示を見ていると、映画は単なる娯楽ではなく、技術、産業、スター、観客、そして時代の空気が複雑に重なり合って生まれてきた文化なのだと感じました。 展示の始まりは「日本映画のはじまり」でした。映画が日本に渡来する以前から、江戸時代には幻燈、いわゆるマジック・ランタンがオランダから伝わり、「写し絵」や「錦影絵」として広まっていました。暗い空間に映し出される絵と、それに添えられる語りは、現代の映画とは仕組みこそ違いますが、人々が映像と物語を楽しむ文化の原型のように見えます。ここでの語り物の伝統が、後の「活動弁士」につながっていくという流れは、とても興味深いものでした。映画は突然外国から入ってきた新技術であると同時に、日本にすでにあった語りや見世物の文化とも結びついて受け入れられていったのだと思います。 日本に映画が渡来したのは1896年ごろとされ、その後、日本でも映画作品が作られるようになりました。吉沢商店、横田商会、Mパテー商会、福宝堂といった初期の映画会社が登場し、それらが統合されて日活が誕生していく流れを見ると、映画が一つの産業として急速に形を整えていったことが分かります。まだ映画というもの自体が新しかった時代に、撮影し、上映し、観客を集める仕組みが作られていく様子には、明治から大正にかけての近代化の勢いも感じられました。日本最初の映画スターとされる尾上松之助が人気を集めたことも、映画が単なる珍しい見世物から、人々が俳優に熱狂する大衆文化へと変わっていったことを示しているようでした。 続く「サイレント映画の黄金時代」では、1920年代の日本映画が紹介されていました。この時代を特徴づける存在として、やはり活動弁士があります。サイレント映画は音声のない映画ですが、日本では上映の場で活動弁士が登場人物の台詞や情景を語り、物語に命を吹き込んでいました。徳川夢声のように、俳優をしのぐほ...