中之島美術館で開催されている『フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展』を見るため、朝から大阪市に来ました。フェルメールの入場時間までは国立国際美術館を見る予定で、10時の開館に合わせて9時半ごろに中之島へ到着しました。 ところが、国立国際美術館の前にはまだ人が並んでいる様子もなく、開館時間になればすぐに入れそうでした。そこで、すぐ隣にある大阪市立科学館を先に見てみることにしました。 もともと国立国際美術館がフェルメールまでの時間つぶしだったので、その開館までの時間を大阪市立科学館でつぶすという、「時間つぶしのための、さらに時間つぶし」のような予定外の訪問です。 大阪市立科学館の歴史は意外に古く、その前身は1937年に四ツ橋で開館した大阪市立電気科学館です。大阪市電気局が電気供給事業10周年の記念事業として計画した施設で、日本初の科学館として知られ、プラネタリウムを備えた施設として長く大阪市民に親しまれました。現在の大阪市立科学館は、その役割を引き継ぐ形で1989年に中之島で開館しています。 今回は30分ほどしか時間がなかったため、プラネタリウムはあきらめ、展示場だけを急いで見て回ることにしました。 展示は4階から見ていきました。4階は「科学の探究」をテーマとしており、宇宙、大阪と科学、科学技術の歴史などが扱われています。その中でもかなりのスペースを占めていたのが計算機の歴史です。そろばんのような古い計算道具から電子計算機、1980年代を中心としたパーソナルコンピューターまでが並び、コンピューターがどのように発達してきたのかを実物を通して見ることができます。 ITエンジニアをしている自分にとっては、科学館に入っていきなり専門分野に近い展示が現れたようなもので、予定外の訪問ながらかなり楽しめました。 特に目を引いたのが、スーパーコンピュータ「京」の巨大なシステムラックです。「京」は理化学研究所で運用されていたスーパーコンピュータで、全部で864台ものシステムラックから構成されていました。大阪市立科学館には、そのうち実際に使用されていた一台が寄贈されています。普段はニュースなどで「スーパーコンピュータ」という言葉を聞いても巨大な計算機全体をぼんやり想像するだけですが、実物のラックを目の前にすると、それが多数の計算機を組み合わせて作られた巨大なシステムだったことが実感できます...
東京都文京区の「弥生式土器ゆかりの地」碑に行きました。 この日は東京都美術館で特別展を見た後、上野東照宮を参拝しました。まだ少し時間が余っていたため、以前から気になっていた「弥生式土器ゆかりの地」碑まで足を延ばすことにしました。 以前、弥生時代の遺跡について調べていたとき、東京に弥生時代の名前の由来となった場所があることを知りました。 縄文時代という名前であれば、特徴的な縄目の文様を持つ縄文土器から付けられたことは比較的想像しやすいと思います。しかし、「弥生時代」の「弥生」がどこから来たのかは、名前だけではなかなか想像できません。 明治17年(1884年)、現在の東京大学弥生キャンパス周辺にあった向ヶ岡弥生町の貝塚で、坪井正五郎、白井光太郎、有坂鉊蔵の3人によって、それまで知られていた縄文土器とは異なる土器が発見されました。後に発見地の町名から「弥生式土器」と呼ばれるようになり、さらに縄文時代と古墳時代の間に位置する時代そのものが「弥生時代」と呼ばれるようになりました。 つまり、日本史の教科書で何度も目にする「弥生」という言葉は、この東京の小さな地域の地名から全国へ広がったことになります。「弥生」という古くからある日本語らしい響きを持つ町名だったことも、時代の名称としてよく似合っているように感じました。 さらに面白いのは、その「弥生町」という地名にも由来があることです。 この一帯には江戸時代、水戸藩の屋敷がありました。文政11年(1828年)、後に第9代水戸藩主となる徳川斉昭が「向岡記」と呼ばれる碑文を残しました。その文章には「やよい」と「向ふが岡」という言葉があり、明治5年(1872年)に旧水戸藩邸跡へ町名を付ける際、「向ヶ岡弥生町」と名付けられたとされています。 江戸時代に斉昭が記した「やよい」という言葉が明治時代の町名となり、その町で発見された土器が「弥生式土器」と呼ばれ、やがて日本史の一時代を表す「弥生時代」という名称になったわけです。 「弥生時代」という非常に古い時代を示す言葉の由来をたどっていくと、意外にも江戸時代から明治時代にかけての歴史へとつながっていくところが面白いです。 ただし、最初の弥生式土器が出土した正確な場所は現在も特定されていません。そのため、ここにある碑も「発見地」ではなく、「ゆかりの地」とされています。昭和49年(1974年)には東京...