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雄翔館:白い零戦を追って出会った、もう一つの戦争の記憶

白い零戦を求めて鹿児島県の知覧まで足を運びましたが、残念ながら目的としていた機体は見つかりませんでした。その後、ChatGPTで調べてみると、茨城県阿見町の予科練平和記念館に白い零戦の実物大模型が展示されていることが分かりました。思っていたよりも近い場所にあることに驚き、さっそく予科練平和記念館を訪れました。 館内を見学したあと、隣接する雄翔館にも向かいました。雄翔館は陸上自衛隊土浦駐屯地の敷地内にありますが、予科練平和記念館側にも専用の入り口があり見学できるようになっています。すぐ近くに予科練を扱う博物館が二つ並んでいるため、最初はなぜ別々の施設になっているのか不思議に思いました。 予科練とは、「海軍飛行予科練習生」と、その教育制度を指す略称です。航空戦力の拡充を進めていた旧日本海軍が、若いうちから搭乗員を育成するため、1930年に横須賀で教育を開始しました。1939年には予科練教育が阿見町へ移され、翌年に発足した土浦海軍航空隊が、その中心的な役割を担うようになりました。全国から多くの少年が集まりましたが、戦地に赴いた卒業生の約8割にあたる約1万9千人が亡くなったとされています。 二つの施設が並んでいる理由は、それぞれが異なる時代に、異なる目的で建てられたことにあります。雄翔館は、全国の予科練出身者が寄付を出し合い、戦没者の遺品や資料を保存するため、1968年に開館しました。これに対して、阿見町が運営する予科練平和記念館は、予科練の歴史や阿見町の戦争体験を伝え、命の尊さや平和について考える施設として、2010年に開館しています。 実際に見学すると、二つの施設の違いは展示内容からも感じられました。予科練平和記念館は、少年たちが受けた厳しい訓練や戦争による犠牲を通して、戦争の悲惨さと平和の大切さを伝える構成になっています。一般的な平和祈念館や戦争記念館に近い印象を受けました。 一方の雄翔館では、予科練出身者一人ひとりの経歴や遺影、遺書、遺品などが数多く展示されていました。雄翔館は、予科練戦没者の慰霊と顕彰を目的として設けられた施設で、予科練生の生活や遺書、遺品など約千点を展示・保管しています。そのため、戦争全体を大きな視点から振り返るというよりも、そこで生き、戦い、亡くなった人たちの姿を個人の記録から伝えることに重点が置かれています。 撃墜した敵機や攻撃した艦船など、...
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予科練平和記念館:白い零戦を追う旅の終着点

先日、白い零戦を求めて鹿児島県の知覧を訪れました。しかし、知覧特攻平和会館に展示されていたのは海から引き揚げられた零戦で、探していた白い零戦とは異なるものでした。その後、ChatGPTで調べてみたところ、茨城県稲敷郡阿見町の予科練平和記念館に白い零戦の実物大模型があることが分かりました。 知覧まで行った後だったので、「案外近くにあったんだな」と驚きましたが、さっそく阿見町へ向かうことにしました。 予科練平和記念館の敷地に入ると、野外には人間魚雷「回天」の実物大模型が展示されていました。回天は、搭乗員が内部に乗り込んで敵艦に体当たりする特攻兵器です。その大きさを実物大の模型で見ると、兵器としての構造だけでなく、この狭い機体に人間が乗り込んだという事実を強く意識させられます。 回天の近くでは、インドネシアから来た若い人たちの集団に写真を撮ってほしいと頼まれました。写真を撮りながら、「この前、バリ島に行ったよ」などと少し話をしました。日本は戦時中にインドネシアを占領したため、日本人に対して複雑な感情を持っていても不思議ではありません。しかし、彼らは当時の日本の技術に興味があると話していました。 もちろん、短い会話だけで本心まで分かるわけではありません。それでも、戦争に関する施設で、かつて日本軍が進出した国から来た若者たちと、普通に写真を撮り合い、旅行の話ができたことには、不思議な感慨がありました。 阿見町は、かつて海軍航空と深い関係を持った町です。大正時代に霞ヶ浦海軍航空隊が置かれ、1939年には海軍飛行予科練習部が横須賀から移転しました。翌1940年には、予科練教育を専門に行う土浦海軍航空隊が設置され、阿見は予科練教育の中心地となりました。予科練は、若い段階から航空機搭乗員を育てるため、1930年に始まった制度です。全国から試験で選抜された少年たちは、厳しい教育と訓練を受け、やがて多くが戦地へ送られました。 館内の常設展示は、予科練習生の入隊から訓練、日常生活、戦局の悪化、特攻へと、時間の流れに沿って構成されていました。予科練の制服を象徴する「七つボタン」にちなみ、展示も七つのテーマに分けられています。 入隊試験の問題も展示されていました。幾何学や数学など、現在の学校の試験にもありそうな問題が並んでおり、予科練が単に体力のある少年を集めた場所ではなく、航空機を扱うために...

龍門滝:見つからなかった白い零戦と見つけた鹿児島の魅力

鹿児島県姶良市にある龍門滝を訪れました。 今回の鹿児島旅行の一番の目的は、「白い零戦」を見ることでした。事前に調べた情報を頼りに知覧特攻平和会館へ向かいましたが、残念ながら目的としていた白い零戦は展示されていませんでした。 しかし、旅行計画を立てた段階から、知覧特攻平和会館だけでなく、知覧や指宿周辺の名所も巡るつもりでした。公共交通機関だけでは移動が難しい場所が多いため、今回は観光タクシーを貸し切りました。 知覧では特攻隊に関係する戦争遺跡を訪ね、知覧武家屋敷通りでは薩摩の武士たちが暮らした町並みに触れました。その後は釜蓋神社、池田湖、西大山駅、区営鰻温泉、指宿市考古博物館「時遊館COCCO」、幼少の篤姫・於一像と、南薩摩を中心にさまざまな場所を巡りました。 於一像を見たあとは、東京へ戻るため鹿児島空港へ向かいました。高速道路を利用して空港へ向かう途中、最後に立ち寄ったのが龍門滝です。 駐車場に到着した時点では、周囲の山や木々に隠れて滝の姿は見えませんでした。案内に従って少し歩いていくと、山の間から白い水の流れが少しずつ現れました。最初から全景が見えるのではなく、歩みを進めるにつれて滝が姿を現すため、自然の奥に隠された場所へ近づいていくような感覚がありました。 龍門滝は、高さ46メートル、幅43メートルに達する大きな滝です。数字だけを見たときには、縦と横の長さが近いため、正方形に近い形を想像していました。しかし、実際には両側を木々の茂った山に囲まれており、中央を水が勢いよく落ちているため、幅の広さよりも高さが強調され、縦長の滝らしい姿に見えました。 黒っぽい岩肌を何本もの白い水流が滑り落ち、その周囲を濃い緑が囲んでいます。滝を形成している岩盤は、地層に入り込んだマグマが冷えて固まった安山岩で、柱状節理も見られるそうです。現在の美しい景観は、鹿児島の火山活動と長い年月をかけた水の流れによって生み出されたものでもあります。 龍門滝は古くから薩摩の名所として知られ、現在は「日本の滝百選」にも選ばれています。その名前は、かつてこの滝を見た唐人が「漢土の龍門瀑を見るが如し」と称賛したことに由来すると伝えられています。遠い中国の名瀑にたとえられるほど、昔の人々にとっても印象的な景観だったのでしょう。 今回の旅では、当初の目的だった白い零戦を見ることはできませんでした。しかし、そ...

幼少の篤姫・於一像:今和泉に残る篤姫の幼き日の記憶

鹿児島県指宿市にある「幼少の篤姫・於一像」を訪れました。 今回の旅では、「白いゼロ戦」を求めて知覧特攻平和会館に向かいました。しかし、残念ながら目的としていた白い零戦は展示されていませんでした。もともと知覧特攻平和会館だけでなく、知覧や指宿周辺も観光するつもりで観光タクシーを貸し切っていたため、その後は知覧の戦争遺跡や武家屋敷通り、釜蓋神社、池田湖、西大山駅、区営鰻温泉、指宿市考古博物館などを巡りました。 指宿市考古博物館を見学した後は、東京へ戻るため鹿児島空港へ向かいました。すでにこの日の観光は終わったような気分でしたが、高速道路に入るまで少し時間があったため、運転手さんが篤姫ゆかりの場所へ案内してくれました。 この場所には、江戸時代に今和泉島津家の別邸がありました。今和泉島津家は、薩摩藩主の島津家に連なる一門家の一つです。別邸は初代の島津忠郷によって宝暦4年(1754年)に建てられ、現在の今和泉小学校の敷地に当たります。建物は残っていませんが、周辺には当時の石垣や松林があり、校庭には井戸や手水鉢なども残されています。 ただし、現在は小学校の敷地です。学校の安全を考えれば当然のことですが、観光地の史跡のように自由に中へ入り、井戸などを見学することはできませんでした。外から眺めるだけでも、歴史上の人物が過ごした場所が、現在も地域の子どもたちが学ぶ場所として使われていることに不思議なつながりを感じます。 篤姫は天保6年(1835年)、今和泉島津家の島津忠剛の娘として生まれました。後に薩摩藩主の島津斉彬の養女となって篤姫と名乗り、さらに近衛家の養女を経て、安政3年(1856年)に第13代将軍徳川家定の正室となりました。家定の死後は天璋院と称し、幕末から明治へと社会が大きく変化するなかで、徳川家の人々を支えました。 鹿児島湾のほとりには、海を望む場所に幼少期の篤姫を表した於一像が立っていました。この像は平成24年(2012年)に建立されたもので、後に江戸城大奥へ入り、日本史に名を残すことになる篤姫の、少女時代の姿を表しています。 立派な衣装に身を包んだ大奥の女性としてではなく、故郷の海を眺める少女として表現されているため、歴史上の人物というよりも、この土地で育った一人の少女として篤姫を身近に感じられました。於一が実際にどのような思いでこの海を眺めていたのかは分かりませんが...

指宿市考古博物館 時遊館COCCOはしむれ:開聞岳の麓に重なるいくつもの時代

鹿児島県指宿市にある指宿市考古博物館「時遊館COCCOはしむれ」に行きました。 今回の鹿児島旅行では、「白いゼロ戦」を見ることを主な目的として知覧特攻平和会館を訪れました。しかし、残念ながら探していた白いゼロ戦は展示されていませんでした。 もっとも、旅行を計画した段階から、知覧特攻平和会館だけでなく、知覧や指宿周辺の観光地も巡るつもりでした。公共交通機関だけでは移動しにくい場所が多いため、観光タクシーを貸し切り、知覧の戦争遺跡や武家屋敷通り、釜蓋神社、池田湖、西大山駅、区営鰻温泉などを案内していただきました。 区営鰻温泉を出たあと、この日の指宿観光の最後に訪れたのが、時遊館COCCOはしむれでした。 館内で特に印象に残ったのは、開聞岳の噴火と指宿の歴史との関係です。開聞岳は今から約3700年前の縄文時代に誕生し、その後も複数回の噴火を繰り返して形成された火山です。館内には、開聞岳周辺で採取された地層の剝ぎ取り資料がいくつも展示され、火山灰や火山弾なども見ることができました。 噴火は、その時代を生きていた人々にとって、生活の場を奪う深刻な災害だったはずです。しかし、降り積もった火山灰が住居や道具、生活の痕跡を覆ったことで、それらが後世まで残されることにもなりました。人間にとっての災害が、考古学にとっては過去を読み解くための重要な手掛かりになるという、少し複雑な関係を感じました。 この博物館の名前にも使われている橋牟礼川遺跡(はしむれがわいせき)では、開聞岳の火山灰を挟んで、上の地層から弥生土器、下の地層から縄文土器が発見されました。これによって、縄文土器が弥生土器よりも古いことが、日本で初めて地層によって確かめられたそうです。また、平安時代の貞観16年、874年の噴火で埋まった集落跡も発見されており、建物や畑、道などが火山灰の下に残されていました。 知覧や池田湖、西大山駅などから眺めてきた開聞岳は、雲に頂上を隠しながらも、整った形をした美しい山に見えました。しかし、博物館の展示を見ると、その美しい山が、長い歴史の中で周辺の人々の暮らしを何度も変えてきた火山であることが分かります。同じ開聞岳でも、外から眺めるのと、地層や遺跡を通して見るのとでは、かなり印象が異なりました。 動物に関する展示では、旧石器時代の九州にツキノワグマが生息していたことも紹介されていました。現在の...

区営鰻温泉:台風が連れてきた思いがけない湯めぐり

鹿児島県指宿市山川の区営鰻温泉に行きました。 今回の鹿児島旅行では、「白いゼロ戦」を求めて知覧特攻平和会館を訪れました。残念ながら目的の機体は展示されていませんでしたが、旅行計画を立てたときから、知覧や指宿周辺の観光地も巡るつもりで観光タクシーを貸し切っていました。 知覧の戦争遺跡や武家屋敷通り、釜蓋神社、池田湖、西大山駅などを巡ったあと、指宿名物の砂蒸し温泉を体験するため、砂むし会館「砂楽」へ向かいました。 この日は晴れていたものの、開聞岳の頂上付近には厚い雲がかかっていました。釜蓋神社では海の波も強く、大陸方面に来ていた台風の影響が、少しずつ鹿児島にも届いているようでした。 運転手さんによると、砂楽はうちうみ(内海?)にあり比較的波の影響を受けにくい場所にあるため、おそらく営業しているだろうとのことでした。しかし、到着してみると、残念ながら台風の影響で休業していました。 楽しみにしていた砂蒸し温泉に入れなかったのは残念でしたが、自然を相手にする施設では、無理に営業するよりも安全を優先することが大切です。今回は縁がなかったと考え、また指宿を訪れる機会があれば体験したいと思います。 もともと今回の旅行では知覧特攻平和会館が主な目的で、温泉はおまけ程度に考えていました。そのため、「これもおもしろい話のネタになりました」と、運転手さんと笑いながら話していました。 すると運転手さんが、砂蒸し温泉でなくてもよければ、別の温泉を案内できると言ってくれました。そうして予定にはなかった区営鰻温泉を訪れることになりました。 鰻温泉は、鰻池の湖畔にある江戸時代から続く湯治場です。西郷隆盛が好んだ温泉としても知られており、明治7年(1874年)には犬を13匹連れ、約1か月滞在したと伝えられています。昼間は開聞岳周辺へ猟に出かけ、夜になると温泉に入っていたそうです。当時は明治六年政変によって政府を離れ、鹿児島へ戻った直後の時期でした。 温泉には西郷隆盛の肖像画が飾られていました。また、温泉へ続く道のところどころには犬の石像が置かれています。西郷が連れてきた愛犬たちを表したもので、温泉地を案内するように並んでいました。西郷隆盛というと政治家や軍人としての姿が思い浮かびますが、犬を連れて猟をし、温泉で長い時間を過ごしたという話を知ると、歴史上の人物の日常が少し身近に感じられます。 有名な観光...

西大山駅:線路の向こうにそびえる美しい円錐峰

鹿児島県指宿市にある西大山駅に行きました。 今回の鹿児島旅行では、「白いゼロ戦」を求めて知覧特攻平和会館を訪れました。しかし、残念ながら目的としていた白い機体は見つかりませんでした。せっかく知覧まで来たので、知覧や指宿周辺も観光しようと観光タクシーを貸し切っていたので、戦争遺跡や知覧武家屋敷通り、釜蓋神社、池田湖などを巡りました。その後、運転手さんに案内されて西大山駅へ向かいました。 西大山駅は、JR指宿枕崎線にある小さな無人駅です。駅舎はなく、線路の脇に一本のホームが延びているだけの簡素な造りでした。しかし、私たちが到着したときには、いくつかのグループが駅を訪れており、記念写真を撮っていました。 ホームには「JR日本最南端の駅」と記された碑が立っています。西大山駅は1960年、当時の国鉄指宿線が山川駅から西頴娃駅まで延伸された際に開業しました。2003年に沖縄都市モノレールが開業してからは鉄道全体での最南端ではなくなりましたが、現在もJRの駅としては日本最南端に位置しています 運転手さんがここを案内してくれた理由は、最南端の駅だからというだけではありませんでした。もう一つの目的は、これまでとは違う方向から開聞岳を見せることだったそうです。 この日、私は知覧や池田湖など、主に開聞岳の北側から山を眺めてきました。池田湖では山頂付近が雲に隠れていましたが、それでも独立峰らしい堂々とした姿が印象に残っていました。 西大山駅は開聞岳の東側に位置しています。ホーム付近から眺めると、山の裾野が左右に滑らかに広がり、開聞岳が美しい円錐形をしていることがよく分かりました。周囲に同じような高さの山がないため、その姿はいっそう際立っています。西大山駅が、最南端の駅という鉄道上の記録だけでなく、開聞岳を望む場所としても多くの観光客を集めている理由が分かりました。 開聞岳は標高924メートルの火山で、整った円錐形の山容から「薩摩富士」と呼ばれています。この呼び名は知っていましたが、実際にさまざまな方向から山を眺めてみると、富士山になぞらえられたことにも納得できます。見る場所によって多少印象は変わりますが、どこから見ても形の美しい独立峰でした。 簡素な無人駅、最南端を示す碑、一本の線路、そしてその向こうにそびえる開聞岳という風景は、西大山駅ならではのものでした。列車に乗るためではなく、駅と山...