奈良県奈良市の奈良国立博物館に行きました。 この日は奈良国立博物館で開催されている特別展「南都仏画―よみがえる奈良天平の美―」を見るために奈良を訪れていました。奈良国立博物館は遅い時間まで開館していたため、先に元興寺、春日大社、依水園・寧楽美術館、子規の庭、正倉院正倉と巡り、最後に奈良国立博物館へ向かいました。 奈良国立博物館の歴史は古く、明治28年(1895)に「帝国奈良博物館」として開館しました。奈良では明治初期から東大寺大仏殿などを会場に奈良博覧会が開かれ、正倉院宝物をはじめとする文化財が公開されていました。神仏分離などによって寺社の文化財が散逸する危機にあった時代でもあり、こうした文化財を保存し、その価値を広く伝えようとする流れの中で博物館が誕生しました。現在でも奈良国立博物館は、仏教美術を中心とする博物館として重要な役割を担っています。 今回の特別展「南都仏画」は、奈良国立博物館とボストン美術館が約20年にわたって構想してきた共同企画で、ボストン美術館に所蔵されている奈良ゆかりの仏画が里帰りし、国内の作品とともに南都仏画の歴史をたどる展覧会です。 最初に目に入ったのが、法隆寺金堂壁画第6号壁の模写でした。 法隆寺金堂には全部で12面の壁画があり、そのうち第6号壁には阿弥陀如来を中心とする阿弥陀浄土図が描かれています。金堂壁画は7世紀末から8世紀初めごろの制作と考えられ、日本の古代仏教絵画を代表する作品ですが、昭和24年(1949)の火災によって大きく損傷しました。そのため、火災以前に制作された模写や撮影された写真は、失われた部分を知るための非常に重要な記録となっています。 法隆寺金堂壁画の模写は最近どこかで見たような気がして、自分のブログを確認してみると、東京都美術館の特別展「百花繚乱」でも第9号壁の模写を見ていました。当時は漠然と「法隆寺金堂壁画の模写」という一つの作品のように考えていましたが、実際には12面の壁画があり、さらに同じ壁画についても異なる時代に複数の模写が制作されています。 図録を見ると、第6号壁だけでも東京国立博物館所蔵の桜井香雲による模写と、法隆寺所蔵の入江波光らによる模写が掲載されていました。桜井香雲による模写は明治17年(1884)ごろに始められたもので、全12面を原寸大で写した現存最古の本格的な現状模写とされています。一方、入江波...
奈良県奈良市にある正倉院正倉を訪ねました。正確には、訪ねようとしました。 この日は奈良国立博物館の特別展「南都仏画―よみがえる奈良天平の美―」を見るために奈良を訪れていました。奈良国立博物館は遅い時間まで開館していたため、その前に周辺を巡ることにし、元興寺、春日大社、依水園・寧楽美術館、子規の庭と歩いてきました。子規の庭を見たあと、正倉院正倉へ向かいました。 地図を見ながら歩いていると、途中で東大寺の転害門が現れました。東大寺の門といえば巨大な金剛力士像が立つ南大門が有名ですが、転害門もかなり立派な門です。 転害門は奈良時代に造られた国宝で、三間一戸八脚門という形式を持っています。東大寺では二度の大きな兵火によって多くの建物が失われましたが、転害門は奈良時代の東大寺伽藍の姿を伝える貴重な建築として現在まで残っています。平城京の佐保路に面していたことから「佐保路門」とも呼ばれていたそうです。 南大門のような華やかさとは少し違いますが、奈良時代から残る門だと知ると見方も変わります。門の前には広い芝生があり、きれいに整備されていました。 門の裏側へ回ってみると、日陰に鹿が集まっていました。最近は比較的涼しい日が続いていましたが、この日は久しぶりに気温が30度を超えていました。人間でも暑く感じる一日だったので、鹿たちも日陰から動きたくなかったのかもしれません。 そこからさらに歩いて、今回の目的地である正倉院へ向かいました。 正倉院は教科書や本、テレビなどで何度も見てきた建物です。そのため、自分でも一度くらい実物を見たことがあるような気になっていました。しかしGoogle Mapを見ると、私が付けている印は「行った」ではなく「行きたい」のままでした。どうやら、まだ実際には見たことがなかったようです。 正倉院は、もともと東大寺の「正倉」、つまり重要な品々を保管する倉でした。天平勝宝8年(756年)に聖武天皇が亡くなると、光明皇后は天皇が愛用していた品々などを東大寺の盧舎那仏、いわゆる奈良の大仏に献納しました。これらを中心として、東大寺に関係する品々も加わり、現在まで伝えられてきたのが正倉院宝物です。 正倉そのものも奈良時代から残る貴重な建築です。檜造りの高床式で、間口は約33メートルあります。内部は北倉・中倉・南倉の三つに分かれ、北倉と南倉は三角形の木材を組み上げた有名な校倉造...