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江戸東京博物館:常設展:江戸から東京へ、巨大都市の変化をたどる

東京都墨田区の江戸東京博物館に行きました。 この日は、まず江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」を見学し、その後、常設展へ向かいました。以前、別の特別展を見に来たときにも常設展へ行こうとしたのですが、エレベーターの前に多くの人が並んでいたため、そのときは諦めています。今回はようやく常設展を見ることができました。 エレベーターで6階まで上がり、常設展示室へ入ると、まず驚いたのがその巨大な空間です。その中央には、実物大で再現された日本橋が架かっていました。 江戸時代の日本橋は、慶長8年(1603年)に架けられたとされます。江戸幕府が全国の道路網を整備すると、日本橋は東海道をはじめとする五街道の起点となりました。現在でも道路の距離を測る基準となる「日本国道路元標」が日本橋に置かれており、江戸時代から続く東京の交通の中心地です。 再現された橋を渡りながら巨大な展示空間を見渡すと、左側には芝居小屋があり、右側には服部時計店が見えました。一つの博物館の中に、江戸の町と近代東京の風景が同居しているようで、これから江戸から東京へと時代を歩いていくことが視覚的にも分かります。 6階と5階の半分ほどが江戸に関する展示となっていました。6階には「東海道五十三次図屏風」や徳川家康の座像、江戸城の鯱などが展示されていました。 徳川家康が江戸に幕府を開いたのは慶長8年(1603年)です。それ以前の江戸は現在の東京ほど巨大な都市ではありませんでしたが、幕府の成立後、江戸城を中心として大規模な都市整備が進められました。武家地、寺社地、町人地が形成され、水路や道路が張り巡らされていきます。18世紀には世界でも有数の人口を抱える大都市へと成長しました。 5階へ下りると、火消しや時刻制度、書籍など、より江戸の人々の生活に近い展示が増えてきました。 特に面白いのは、江戸時代というものが、単に将軍や武士の時代としてではなく、巨大都市で暮らした普通の人々の歴史として紹介されていることです。木造住宅が密集していた江戸では火災が頻発したため、町火消などの消防組織が発達しました。また、出版文化も盛んになり、浮世絵や草双紙などが大量に流通しました。武士だけではなく、商人や職人、庶民の生活によって巨大都市江戸が成り立っていたことが分かります。 刀などの展示もありましたが、一般的に海外で想像される「...
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江戸東京博物館:特別展「洋館 明治の夢と挑戦」:明治の街を彩った洋館と近代建築の歩み

大学の授業で「明治時代が好き」という話をしたところ、江戸東京博物館で近代に関する企画展をやっていたような気がする、という話が出ました。調べてみると、ちょうど江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」が開催されていたため、見に行くことにしました。 明治時代というと、私の場合は鉄道や工場、通信などの産業や技術の発展に目が向きがちです。今回の特別展は建築が中心だったため、普段の興味とは少し違う分野でした。しかし展示を見ていくと、これまで旅行や史跡巡りで訪れた建物も数多く登場し、想像以上に楽しむことができました。 第一章は「ナマコ壁と擬洋風建築」です。明治維新によって西洋の文化や技術が急速に流入しましたが、最初から日本に本格的な西洋建築を設計できる建築家がいたわけではありません。そこで日本の大工たちは、伝統的な技術を使いながら、西洋建築らしい外観を持つ建物を造りました。こうした建築は「擬洋風建築」と呼ばれています。 展示されていた「東都築地ホテル館」や「駿河町雪」などの絵画を見ると、当時の人々にとって洋館がいかに新鮮な存在だったのかが伝わってきます。瓦屋根やナマコ壁といった日本的な要素と、西洋風の窓や柱などが組み合わされている建物もあり、現在から見ると少し不思議な姿です。しかし、それは単なる模倣というより、日本の職人たちが限られた情報をもとに新しい建築を理解しようとした過程でもあったのでしょう。 第二章は「建築家がやってきた―外国人建築家と『都市風景』」です。ここではウォートルスやエンデ&ベックマンなど、日本の近代建築に関わった外国人建築家が紹介されていました。 明治初期の東京では、1872年の銀座大火をきっかけに、火災に強い都市を目指して銀座煉瓦街が建設されました。その計画に関わったのが、イギリス人のトーマス・ウォートルスです。展示には銀座煉瓦街を描いた絵画や実際の煉瓦があり、東京の街並みそのものを西洋化しようとしていた時代の雰囲気を感じることができました。 さらに明治政府は、霞が関周辺に西洋式の官庁街を造ろうとし、ドイツの建築家エンデとベックマンらを招きました。計画のすべてが実現したわけではありませんが、この流れの中から裁判所など本格的な西洋建築が造られていきます。東京裁判所の外観透視図などを見ていると、建物一棟を西洋風にするだけではなく、首都東京その...

上野の森美術館:大ゴッホ展 夜のカフェテラス:限られた時間の美術鑑賞の難しさ

東京都台東区の上野の森美術館で開催されている「大ゴッホ展 夜のカフェテラス」に行きました。 この展覧会を知り、1か月半ほど前にチケットを購入しようとしたところ、空いていたのは7月29日だけでした。日時指定制の展覧会だったため、入場者数はある程度抑えられていると思っていましたが、会場に少し早く着くと、すでに多くの人が並んでいました。展示室の中もかなり混雑しているだろうと予想しながら入館しました。 会場となった上野の森美術館は、日本美術協会の美術展示館を改修し、1972年に開館した美術館です。常設展示を持たず、国内外の美術を紹介する企画展や公募展などを開催してきました。今回の展覧会では、オランダのクレラー=ミュラー美術館が所蔵する作品を中心に、ゴッホのオランダ時代からパリ時代を経て、南フランスのアルルへ向かうまでの画業が紹介されていました。 私は最近、大学の授業に備えて西洋美術の見方を少しずつ学んでいます。そのため、以前であれば「有名なゴッホの絵を見る」というだけだった展覧会を、今回は「少しは構図や光の使い方を理解できるだろうか」と考えながら見始めました。 特に印象に残ったのは、「第2章 オランダ時代」に展示されていた織工を描いた作品です。 ゴッホは1883年末から1885年にかけて、オランダ南部のニューネンで暮らしました。この時期には、農民や織工など、土地に根差して働く人々を数多く描いています。織工は自宅に置かれた大きな織機を使い、厳しい生活の中で長時間働いていました。ゴッホは、そうした労働者の生活を重要な題材として捉えていたようです。 会場には、織工を横から描いた作品や、斜め前から捉えた作品など、さまざまな構図のデッサンや油彩画が並んでいました。最初に横から見た構図が続いたときには、西洋美術史の勉強で比較したカスターニョとレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を思い出しました。同じ題材であっても、画家は人物や空間をどの方向から見せるかを考え、何度も試行錯誤するのだと感じました。 その後、織工を斜め方向から見た作品が現れると、今度はティントレットの「最後の晩餐」が思い浮かびました。もちろん、描かれている題材も時代もまったく違います。しかし、正面や真横からではなく、斜め方向から空間を捉えることで奥行きや動きが生まれるという点で、授業で学んだ作品と目の前の作品が結びつき...

日本科学未来館:特別展「大南極展」:猛暑の東京で触れた南極の氷

東京都江東区青海にある日本科学未来館に行きました。 厳しい猛暑が続いていたため、都内で手軽に行ける屋内施設を探していたところ、日本科学未来館で特別展「大南極展」が開催されていることを知りました。南極という言葉だけでも少し涼しい気分になれそうだったので、久しぶりに日本科学未来館を訪れることにしました。 「大南極展」は、日本の南極観測70周年を記念して開催された特別展です。日本の南極観測は、1956年11月8日に第1次南極地域観測隊を乗せた観測船「宗谷」が東京港を出発したことから始まりました。翌1957年1月29日には隊員17人が東南極のオングル島に上陸し、そこを日本の観測拠点として「昭和基地」と名づけました。それ以来、南極では気象、地質、生物、海洋、宇宙など、さまざまな分野の観測が続けられています。 特別展の入口近くでは、実物の南極の氷が展示されていました。ケース越しに見るだけではなく、実際に手で触れられる展示だったため、多くの人が列を作っていました。日本科学未来館は常設展にも体験型の展示が多く、見るだけではなく、触ったり動かしたりしながら科学を学べるところが、いかにも科学館らしく感じられます。 南極の氷に触れるという体験は、単に冷たさを感じるだけではありません。はるか遠くにある南極大陸が、一時的に東京まで運ばれてきたようでもありました。猛暑の東京で南極の氷に手を触れるという状況も、少し不思議なものでした。 その先には、歴代の南極観測船などの模型が並んでいました。船体には「PL107」「5001」「5002」「5003」といった番号が記されていました。これは、初代観測船の「宗谷」、その後を継いだ「ふじ」、初代の「しらせ」、現在の「しらせ」へと続く日本の南極観測船の歴史を示しています。宗谷は第1次から第6次、ふじは第7次から第24次、初代しらせは第25次から第49次の観測を支えました。現在の「しらせ」は艦番号AGB-5003の砕氷艦で、厚さ約1.5メートルの氷を連続して砕きながら進む能力を備えています。 模型の近くには、南極地域観測隊が使用する防寒服も展示されていました。南極というと、氷と雪に覆われた静かな世界を想像しますが、実際には強風によるブリザードが発生し、短時間で視界が悪化することもあります。昭和基地周辺でも最大瞬間風速が毎秒50メートル前後に達することがあり、...

雄翔館:白い零戦を追って出会った、もう一つの戦争の記憶

白い零戦を求めて鹿児島県の知覧まで足を運びましたが、残念ながら目的としていた機体は見つかりませんでした。その後、ChatGPTで調べてみると、茨城県阿見町の予科練平和記念館に白い零戦の実物大模型が展示されていることが分かりました。思っていたよりも近い場所にあることに驚き、さっそく予科練平和記念館を訪れました。 館内を見学したあと、隣接する雄翔館にも向かいました。雄翔館は陸上自衛隊土浦駐屯地の敷地内にありますが、予科練平和記念館側にも専用の入り口があり見学できるようになっています。すぐ近くに予科練を扱う博物館が二つ並んでいるため、最初はなぜ別々の施設になっているのか不思議に思いました。 予科練とは、「海軍飛行予科練習生」と、その教育制度を指す略称です。航空戦力の拡充を進めていた旧日本海軍が、若いうちから搭乗員を育成するため、1930年に横須賀で教育を開始しました。1939年には予科練教育が阿見町へ移され、翌年に発足した土浦海軍航空隊が、その中心的な役割を担うようになりました。全国から多くの少年が集まりましたが、戦地に赴いた卒業生の約8割にあたる約1万9千人が亡くなったとされています。 二つの施設が並んでいる理由は、それぞれが異なる時代に、異なる目的で建てられたことにあります。雄翔館は、全国の予科練出身者が寄付を出し合い、戦没者の遺品や資料を保存するため、1968年に開館しました。これに対して、阿見町が運営する予科練平和記念館は、予科練の歴史や阿見町の戦争体験を伝え、命の尊さや平和について考える施設として、2010年に開館しています。 実際に見学すると、二つの施設の違いは展示内容からも感じられました。予科練平和記念館は、少年たちが受けた厳しい訓練や戦争による犠牲を通して、戦争の悲惨さと平和の大切さを伝える構成になっています。一般的な平和祈念館や戦争記念館に近い印象を受けました。 一方の雄翔館では、予科練出身者一人ひとりの経歴や遺影、遺書、遺品などが数多く展示されていました。雄翔館は、予科練戦没者の慰霊と顕彰を目的として設けられた施設で、予科練生の生活や遺書、遺品など約千点を展示・保管しています。そのため、戦争全体を大きな視点から振り返るというよりも、そこで生き、戦い、亡くなった人たちの姿を個人の記録から伝えることに重点が置かれています。 撃墜した敵機や攻撃した艦船など、...

予科練平和記念館:白い零戦を追う旅の終着点

先日、白い零戦を求めて鹿児島県の知覧を訪れました。しかし、知覧特攻平和会館に展示されていたのは海から引き揚げられた零戦で、探していた白い零戦とは異なるものでした。その後、ChatGPTで調べてみたところ、茨城県稲敷郡阿見町の予科練平和記念館に白い零戦の実物大模型があることが分かりました。 知覧まで行った後だったので、「案外近くにあったんだな」と驚きましたが、さっそく阿見町へ向かうことにしました。 予科練平和記念館の敷地に入ると、野外には人間魚雷「回天」の実物大模型が展示されていました。回天は、搭乗員が内部に乗り込んで敵艦に体当たりする特攻兵器です。その大きさを実物大の模型で見ると、兵器としての構造だけでなく、この狭い機体に人間が乗り込んだという事実を強く意識させられます。 回天の近くでは、インドネシアから来た若い人たちの集団に写真を撮ってほしいと頼まれました。写真を撮りながら、「この前、バリ島に行ったよ」などと少し話をしました。日本は戦時中にインドネシアを占領したため、日本人に対して複雑な感情を持っていても不思議ではありません。しかし、彼らは当時の日本の技術に興味があると話していました。 もちろん、短い会話だけで本心まで分かるわけではありません。それでも、戦争に関する施設で、かつて日本軍が進出した国から来た若者たちと、普通に写真を撮り合い、旅行の話ができたことには、不思議な感慨がありました。 阿見町は、かつて海軍航空と深い関係を持った町です。大正時代に霞ヶ浦海軍航空隊が置かれ、1939年には海軍飛行予科練習部が横須賀から移転しました。翌1940年には、予科練教育を専門に行う土浦海軍航空隊が設置され、阿見は予科練教育の中心地となりました。予科練は、若い段階から航空機搭乗員を育てるため、1930年に始まった制度です。全国から試験で選抜された少年たちは、厳しい教育と訓練を受け、やがて多くが戦地へ送られました。 館内の常設展示は、予科練習生の入隊から訓練、日常生活、戦局の悪化、特攻へと、時間の流れに沿って構成されていました。予科練の制服を象徴する「七つボタン」にちなみ、展示も七つのテーマに分けられています。 入隊試験の問題も展示されていました。幾何学や数学など、現在の学校の試験にもありそうな問題が並んでおり、予科練が単に体力のある少年を集めた場所ではなく、航空機を扱うために...

龍門滝:見つからなかった白い零戦と見つけた鹿児島の魅力

鹿児島県姶良市にある龍門滝を訪れました。 今回の鹿児島旅行の一番の目的は、「白い零戦」を見ることでした。事前に調べた情報を頼りに知覧特攻平和会館へ向かいましたが、残念ながら目的としていた白い零戦は展示されていませんでした。 しかし、旅行計画を立てた段階から、知覧特攻平和会館だけでなく、知覧や指宿周辺の名所も巡るつもりでした。公共交通機関だけでは移動が難しい場所が多いため、今回は観光タクシーを貸し切りました。 知覧では特攻隊に関係する戦争遺跡を訪ね、知覧武家屋敷通りでは薩摩の武士たちが暮らした町並みに触れました。その後は釜蓋神社、池田湖、西大山駅、区営鰻温泉、指宿市考古博物館「時遊館COCCO」、幼少の篤姫・於一像と、南薩摩を中心にさまざまな場所を巡りました。 於一像を見たあとは、東京へ戻るため鹿児島空港へ向かいました。高速道路を利用して空港へ向かう途中、最後に立ち寄ったのが龍門滝です。 駐車場に到着した時点では、周囲の山や木々に隠れて滝の姿は見えませんでした。案内に従って少し歩いていくと、山の間から白い水の流れが少しずつ現れました。最初から全景が見えるのではなく、歩みを進めるにつれて滝が姿を現すため、自然の奥に隠された場所へ近づいていくような感覚がありました。 龍門滝は、高さ46メートル、幅43メートルに達する大きな滝です。数字だけを見たときには、縦と横の長さが近いため、正方形に近い形を想像していました。しかし、実際には両側を木々の茂った山に囲まれており、中央を水が勢いよく落ちているため、幅の広さよりも高さが強調され、縦長の滝らしい姿に見えました。 黒っぽい岩肌を何本もの白い水流が滑り落ち、その周囲を濃い緑が囲んでいます。滝を形成している岩盤は、地層に入り込んだマグマが冷えて固まった安山岩で、柱状節理も見られるそうです。現在の美しい景観は、鹿児島の火山活動と長い年月をかけた水の流れによって生み出されたものでもあります。 龍門滝は古くから薩摩の名所として知られ、現在は「日本の滝百選」にも選ばれています。その名前は、かつてこの滝を見た唐人が「漢土の龍門瀑を見るが如し」と称賛したことに由来すると伝えられています。遠い中国の名瀑にたとえられるほど、昔の人々にとっても印象的な景観だったのでしょう。 今回の旅では、当初の目的だった白い零戦を見ることはできませんでした。しかし、そ...