鹿児島県南九州市の知覧にある、ホタル館 富屋食堂を訪れました。 この日は「白いゼロ戦」を目的に知覧特攻平和会館まで来ましたが、残念ながら探していた機体は展示されていませんでした。ただ、知覧や指宿周辺を巡るために観光タクシーを貸し切っていたので、知覧特攻平和会館を見学した後も、飛行場の正門跡や弾薬庫跡など、周辺に残る戦争遺跡を案内してもらいました。 その流れで訪れたのが、ホタル館 富屋食堂です。 富屋食堂は、鳥濱トメさんが知覧で営んでいた食堂です。昭和初期に開業し、太平洋戦争中には陸軍の指定食堂となりました。戦争末期、知覧飛行場が特攻隊の出撃基地になると、多くの若い隊員たちがこの食堂を訪れるようになりました。トメさんは隊員たちに食事を出すだけでなく、話を聞き、家族のように接したことから、後に「特攻の母」と呼ばれるようになりました。現在のホタル館は、富屋食堂の姿を復元し、トメさんの生涯や隊員たちの遺品を伝える資料館となっています。 鳥濱トメさんについては、知覧特攻平和会館の近くに並ぶ灯籠を見た際、観光タクシーの運転手さんから説明を受けていました。そのため、ここは平和会館で知った人物について、さらに詳しく知ることのできる場所でもありました。 もともとは食堂だった建物を利用した小さな資料館という印象があり、訪れる前は、それほど大規模な展示は想像していませんでした。しかし館内に入ってみると、特攻隊員の写真や手紙、軍服をはじめとする戦争中の遺品など、予想していた以上に多くの資料が展示されていました。公式の案内によれば、軍の検閲を通していない資料も含まれており、知覧特攻平和会館とは異なる角度から、隊員たちの言葉やトメさんとの交流を知ることができます。 特に印象に残ったのは、トメさんが隊員に代わって家族へ手紙を送ることもあったという話です。館内の紹介によると、ある手紙が45年ぶりに見つかり、それをきっかけとして、遺族が家族の一人が知覧から出撃していたことを知った例もあったそうです。 戦時中の手紙は、単に当時の出来事を記録したものではありません。本人が帰らなかったために伝えられなかった事実や、長い間、家族にも知られなかった人生の一部を、何十年も後になって明らかにすることがあります。トメさんが預かり、あるいは代わりに送った一通の手紙が、隊員と遺族との間を長い年月を越えて結び直したのだと...
「白いゼロ戦」を求めて鹿児島県南九州市の知覧を訪れました。知覧特攻平和会館に展示されているという情報を頼りに来たのですが、残念ながら目的としていた白い機体は見つかりませんでした。 しかし、今回は知覧だけでなく指宿周辺も観光するため、観光タクシーを貸し切っていました。せっかくなので、知覧特攻平和会館の見学に続いて、周辺に残る旧陸軍知覧飛行場の戦争遺跡を巡ることにしました。 知覧飛行場は、1941年12月に大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所として開設されました。当初は飛行兵を養成する訓練施設であり、1944年まで多くの飛行兵が操縦訓練を受けていました。戦況が悪化した1945年3月になると特攻隊が進出し、本土最南端の特攻基地として使用されるようになりました。現在の知覧には、訓練飛行場だった時代と特攻基地となった時代の両方を伝える遺構が残されています。 最初は知覧特攻平和会館から歩き、周辺の遺跡を巡りました。まず見たのは油脂庫です。ここには練習機に使う潤滑油やグリースなどが保管されていました。コンクリートの壁には円錐状のくぼみがいくつも残っており、1945年3月以降に受けた米軍の空襲の痕跡だとされています。 近くには弾薬庫も残っています。知覧飛行場では、場周飛行や編隊飛行だけでなく射撃訓練も行われており、ここには訓練で使用する機銃弾が保管されていました。特攻基地としての知覧が強く記憶されていますが、それ以前には飛行兵を育てるための学校であり、実弾を用いた本格的な訓練が行われていたことが分かります。 知覧飛行場の正門跡にも立ち寄りました。現在は何の変哲もない道路になっており、ここに軍の飛行場の入口があったとは、説明がなければ気づきそうにありません。 当時の門柱には「大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊」と書かれた看板が掲げられていました。門柱そのものは、現在では知覧特攻平和会館に近い参道脇へ移設されています。 さらに進むと、飛行場へ水を供給していた給水塔があります。飛行場は台地上にあったため水の確保が難しく、麓を流れる思川から水をくみ上げ、高架式のタンクに貯水していました。高さ約13メートル、直径約6メートルの大きな施設で、地盤の影響により現在は少し傾いています。 給水塔の近くには、半地下式のお椀のような形をした防火水槽もあります。公式の案内によると、もともとは三基ありましたが、私有地に残...