三重県多気郡の「さいくう平安の杜」を訪れました。この日は斎宮に関連する史跡や博物館を目的にしていて、斎宮跡、斎宮歴史博物館、斎王の森を巡った流れのまま、最後に平安の杜へ向かいました。斎宮という場所は、古代において伊勢神宮に仕える斎王が暮らし、祭祀を担った“もう一つの宮”とも言える存在ですが、時代が下るにつれてその役割を終え、やがて現地には田畑が広がるようになったといいます。だからこそ、いま目の前に立ち上がっている「復元された景色」を見ることには、単なる観光以上の意味があるように感じられました。 平安の杜へ向かう途中の道で、「御館の碑」を見かけました。明治時代に斎宮の復興を志した運動に関わる碑で、全部で10か所あるそうです。古代の制度としての斎宮が途絶えてから、ただ遺跡として静かに眠っていた期間はとても長かったはずなのに、それでも「斎宮をもう一度、世に示したい」という願いが近代になって言葉や形になり、しかも点ではなく複数の碑として残っているところに、土地の記憶の強さを感じました。史跡は、発掘や調査の成果だけで成立するものではなく、忘れまいとする人の意志によっても支えられているのだと、碑の前で立ち止まった瞬間に腑に落ちた気がします。 さいくう平安の杜に入ると、まず目に入るのが、正殿・西脇殿・東脇殿の三つの復元建物でした。斎宮跡を歩いたときは、区画整理された広い範囲と、地面に示された建物跡が中心で、「かつての巨大さ」を想像で補う時間が多かったのですが、ここでは建物が実際の高さと輪郭を持って立っているため、空間のスケール感が一気に現実のものになります。「人が暮らすための場所」「儀式の前に身を整える場所」といった生活の温度が、復元建物を介して戻ってくるようでした。 西脇殿は展示室のようになっていて、復元に関する紹介ビデオや展示が用意されていました。復元建物は、ただ“それっぽく建てる”ものではなく、史料の読み取りや発掘成果の解釈、構造への仮説など、さまざまな根拠の上に成り立っています。映像や展示を見ていると、建物そのものが結論というより、現時点での学術的な到達点であり、同時に「この土地の歴史を伝えるための装置」でもあることがよく分かります。史跡は静的な遺物ではなく、研究と社会の関心に応じて、見え方が更新されていく存在なのだと思いました。 また、西脇殿には古代衣装の体験コーナーが...
斎宮跡と斎宮歴史博物館を巡った後、私は「斎王の森」へ向かいました。展示を見終えた直後だったからか、森へ歩みを進めるだけで、斎宮という場所がたどってきた時間の長さが、足元からじわりと立ち上ってくるように感じます。斎宮歴史博物館では、鎌倉時代に斎王が派遣されなくなったことで、祭祀の拠点としての斎宮が役割を終え、やがて農村へと姿を変えていった流れを学びました。かつて「宮」として存在した斎宮は、人々の生活の場へと戻りながら、それでも地名として「斎宮」の名は残り続け、宮そのものは「幻の宮」という伝承の中で語られるようになったという話が印象的でした。歴史が途切れたのではなく、形を変えて生き延びてきたのだと思うと、遺跡を歩く目線が自然と変わっていきます。 斎王の森は、そうした「語り継がれた斎宮」を実感できる場所でした。江戸時代の旅行ガイドブックとして知られる『伊勢参宮名所図会』にも紹介されていたということから、斎宮が祭祀の場としての役割を終えた後も、人々がこの土地に特別な意味を見いだし、存在を伝え続けてきたことが分かります。伊勢参りが一大ブームとなった時代、参詣者たちは伊勢神宮だけでなく、その周辺の名所旧跡にも目を向けました。その視線の中に斎王の森があったという事実だけで、この場所が長いあいだ「忘れ去られそうで忘れられない場所」であり続けたことが伝わってきます。旅の途中に立ち寄る名所として紹介されることで、斎宮は完全に過去へ沈むのではなく、記憶の水面近くに留まり続けたのでしょう。 さらに時代が下り、昭和4年(1929年)に三重県によって「史跡 斎王宮阯」の碑が設置されたという経緯を知ると、近代以降の文化財保護の動きとも重なって見えてきます。伝承や地名として残っていたものが、「史跡」として公的に位置づけられ、石碑という形で目に見える記号として刻まれる。ここには、過去を単なる懐古ではなく、地域の歴史として確かめ、守ろうとする意志が表れています。しかも斎宮の場合、それで終わりではありませんでした。その後の発掘調査によって柱の跡や出土品が見つかり、伝承の世界に半ば置かれていた「幻の宮」が、土の中の痕跡として次々と現実へ引き戻されていきます。現在も発掘調査が続いているということは、斎宮が「すべて分かった遺跡」ではなく、今もなお発見され続ける場所だということです。過去が閉じた本ではなく、ペー...