奈良県高市郡明日香村の文武天皇陵に行きました。古墳としては栗原塚穴古墳や檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)とも呼ばれている場所です。この日は、キトラ古墳の壁画を見るために朝から明日香村を訪れており、壁画を見学した後、高松塚古墳へ向かう途中で立ち寄りました。 キトラ古墳の周辺から文武天皇陵の方へ歩いていくと、畑が広がる先に鳥居と古墳の姿が見えてきました。明日香村らしい、空の広さと田園風景の中に古墳がある眺めです。天皇陵とされる古墳の中には、現在では周囲が住宅地や道路に囲まれ、全体の姿を見渡しにくい場所も少なくありません。その点、ここでは畑の向こうに陵墓全体が静かに見え、晴天だったこともあって、とても美しい景色に感じられました。 文武天皇は第42代天皇で、飛鳥時代から奈良時代へ移っていく直前の重要な時期に在位した天皇です。藤原京を都とした時代の天皇であり、大宝律令の制定など、古代日本が律令国家として形を整えていく時代と深く関わっています。華やかな壁画で知られるキトラ古墳や高松塚古墳と同じ明日香の地に、その時代の終わりと新しい国家の始まりを感じさせる陵墓があることに、飛鳥という土地の歴史の厚みを改めて感じました。 鳥居の前まで行くと、陵墓の中へ入ることはできませんが、拝所から参拝することができます。大きな観光施設のような派手さはありませんが、かえってその静けさが印象に残りました。古墳を遠くから眺め、鳥居の前で手を合わせるだけの短い滞在でしたが、明日香の風景の中では、その短さも自然な時間の流れに思えました。 一方で、後から調べてみると、現在宮内庁が文武天皇陵として治定しているのはこの栗原塚穴古墳ですが、学術的には少し北にある中尾山古墳こそが本来の文武天皇陵である可能性が高いと考えられているようです。中尾山古墳は八角形の墳丘を持つ終末期古墳で、火葬骨を納めるための施設があったと考えられています。文武天皇が火葬されたと伝えられることとも合い、こちらを真陵とみる説が有力になっているようです。 そう考えると、文武天皇陵への訪問は、ただ一つの「正解」として古墳を見るというよりも、伝承、宮内庁の治定、考古学の成果が重なり合う場所を歩く体験だったように思います。古代の陵墓は、現在の地図に名前が書かれているからといって、すべてが単純に確定しているわけではありません。むしろ...
キトラ古墳の壁画を見学するために、奈良県高市郡明日香村へ行きました。壁画見学には応募時間が決まっていたため、早めに到着したので、待ち時間を利用して近くにある檜隈寺(ひのくまでら)跡へ向かうことにしました。 キトラ古墳の周辺は、古墳だけがぽつんとある場所というより、明日香村らしい歴史散策の道が整えられている地域でした。道にはウォーキングコースかジョギングコースのような矢印があり、「檜隈寺跡前休憩案内所」と書かれていました。その案内に従って進むと、やがて檜隈寺跡前休憩案内所に着きました。 地図で見ると、檜隈寺跡は休憩案内所から少し森の中へ入ったところにあるようでした。最近は東京でも熊の出没がニュースになっていたため、正直なところ、あまり森に近づきたくないなと思いました。それでも、せっかく明日香村まで来て、しかもキトラ古墳のすぐ近くにある史跡です。少し慎重な気持ちになりながらも、森の中へ入っていきました。 しばらく進むと、木々の間に鳥居が見えてきました。檜隈寺跡という名前から、当然お寺の跡を想像していたので、最初は「寺跡なのに鳥居があるのだろうか」と不思議に思いました。鳥居の前まで行くと、そこには「於美阿志神社(檜隈寺跡)」と書かれた案内板がありました。つまり、現在は神社の境内でありながら、その場所が古代寺院の跡でもあるということです。この時点で、神社なのか寺跡なのか、少し頭が混乱しましたが、同時に明日香らしい歴史の重なりを感じました。 於美阿志神社(おみあしじんじゃ)は、渡来系氏族である東漢氏、または倭漢氏と関わりの深い神社とされています。祭神とされる阿知使主は、東漢氏の祖と伝えられる人物です。そして檜隈寺は、その東漢氏に関係する氏寺であったと考えられています。古代の明日香は、天皇の宮や古墳だけでなく、大陸や朝鮮半島から渡ってきた人々の技術や文化が根づいた場所でもありました。檜隈寺跡に立つと、飛鳥時代の歴史が、日本国内だけで完結していたものではなく、東アジアの広い交流の中にあったことが感じられます。 鳥居をくぐり、まずは拝殿で参拝しました。境内は深い森に包まれていて、観光地として整いすぎた雰囲気ではなく、地域に静かに守られてきた場所という印象がありました。境内を歩いていると、「宣化天皇檜隈廬入野宮跡」と刻まれた石碑もありました。檜隈寺跡だけでなく、このあたりには宣化天皇...