郡山市に来た目的は、郡山市歴史情報博物館の特別展と開成館でした。朝から動ける日だったので、博物館の開館時間に合わせて9時30分ごろに向かい、地図を眺めながら歩いていると、手前に麓山公園があるのに気づきました。「近道にもなるし、少しだけ公園を抜けて行こう」くらいの軽い気持ちで、麓山公園へ入ってみることにしました。 公園の入り口には、日本遺産としての麓山公園の案内があり、その中に「安積疏水(あさかそすい) 麓山の飛瀑」があることが紹介されていました。この時には、まだ安積疏水の名前は聞いたこともありませんでしたが、案内板の時点で少し心を掴まれました。予定の前に寄り道をする罪悪感よりも、「これは見ておいた方が良さそうだ」という気持ちが勝ち、飛瀑へ向かって歩いていきました。 道中には有形文化財の碑も立っていて、ただの公園の景観ではなく、きちんと“遺産”として位置づけられていることが伝わってきます。期待を膨らませながらたどり着いた飛瀑は、ところがその時点では水が流れていませんでした。すぐ横には「メンテナンスのため水を止めていることがあります」という説明があり、なるほど、そういうこともあるのかと納得しつつも、やはり少し残念でした。滝というより、水路の形そのものが見える状態で、乾いた姿を写真に撮りながら、案内板の説明をじっくり読みました。 説明によると、この飛瀑は安積疏水の完成を祝って明治15年に作られたものだそうです。その後いったん埋められたものの、安積疏水の偉業を伝えるために平成3年に復元されたと書かれていました。水が流れていないからこそ、かえって「これは単なる装飾ではなく、記憶を残すための場所なのだ」と意識が向きます。安積疏水が郡山の発展と深く結びついていることは知っていましたが、こうして公園の中に“祝うための滝”という形で残っているのが面白く、歴史の語り方にもいろいろあるのだなと思いました。 さらに、あとで分かったことですが、この飛瀑はこれから向かう予定の開成館とも関係があり、郡山市歴史情報博物館の常設展にも登場していました。つまり私は、目的地に行く前に、偶然その核心に触れていたことになります。旅先でこういう偶然が起きると、それだけで一日の印象が少し良くなります。 麓山公園は飛瀑だけで終わらず、慰霊碑や神社もあり、歩いていると静かな散策の場としての表情も見せてくれました。あ...
東京都品川区の寺田倉庫G1ビルで開催された「NAKED meets ガウディ展」に行きました。2月11日の午後に一度訪れたときは、想像以上の人気で入場が3時間待ちになってしまい、その日は予定を変更して引き返しました。せっかくなので仕切り直し、別の日の朝10時少し前に再訪すると、この時間でもすでに人が多く、入口を抜けた先のエレベーター前でしばらく待つことになりました。展覧会が始まる前から熱量が伝わってきて、「ガウディは“作品”というより“体験”として見られているのかもしれない」と思いながら列に並びました。 会場に入ると、まずガウディの生涯が簡潔に紹介されます。19世紀後半から20世紀初頭のバルセロナは、産業の発展とともに都市が急速に膨張し、同時にカタルーニャ独自の文化が芸術へと結晶していった時代でした。いわゆるモデルニスモ(カタルーニャ・モダニズム)の潮流の中で、ガウディは歴史主義や装飾の流行に回収されない、自然の秩序そのものを建築へ翻訳するような道を選びます。その入口として、この展覧会は「自然から得た造形美」を前面に出していました。 印象的だったのは、自然物と建築部位を並べて見せる導入です。「小麦」とサグラダ・ファミリア上部の塔、「にんにく」とカサ・バトリョの換気塔、「糸杉の円錐」とベリュスグアルドの塔、「キノコ」とグエル公園の煙突、「樹の柱」とサグラダ・ファミリア内部の柱、「ハチの巣」とカサ・カルベットの覗き穴といった対応関係が、説明とレプリカ展示で示されていました。ここで面白いのは、自然を“模倣”するというより、自然の形が生まれる理屈や強度のあり方を“借りている”ように感じられる点です。曲線は気まぐれな装飾ではなく、重さを受け流し、光を導き、空間を育てるための構造そのものなのだと、最初のコーナーだけでも伝わってきました。 次のコーナーでは、バルセロナ来訪後のガウディの作品が、少し変わった見せ方で並びます。壁面にエル・カプリチョ、カサ・ビセンス、グエル邸、アストルガ司教館、カサ・ボティネスなどのファサードが立体的に配置され、そこにプロジェクションマッピングのような映像が流れていました。建物を単体で鑑賞するというより、街の中で呼吸し、時間とともに表情を変える“都市の一部”として体感させる構成で、バルセロナの通りを歩きながら次々に建築に出会う感覚がうまく再現されている...