「白いゼロ戦」を求めて鹿児島県南九州市の知覧を訪れました。知覧特攻平和会館に展示されているという情報を頼りに来たのですが、残念ながら目的としていた白い機体は見つかりませんでした。 しかし、今回は知覧だけでなく指宿周辺も観光するため、観光タクシーを貸し切っていました。せっかくなので、知覧特攻平和会館の見学に続いて、周辺に残る旧陸軍知覧飛行場の戦争遺跡を巡ることにしました。 知覧飛行場は、1941年12月に大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所として開設されました。当初は飛行兵を養成する訓練施設であり、1944年まで多くの飛行兵が操縦訓練を受けていました。戦況が悪化した1945年3月になると特攻隊が進出し、本土最南端の特攻基地として使用されるようになりました。現在の知覧には、訓練飛行場だった時代と特攻基地となった時代の両方を伝える遺構が残されています。 最初は知覧特攻平和会館から歩き、周辺の遺跡を巡りました。まず見たのは油脂庫です。ここには練習機に使う潤滑油やグリースなどが保管されていました。コンクリートの壁には円錐状のくぼみがいくつも残っており、1945年3月以降に受けた米軍の空襲の痕跡だとされています。 近くには弾薬庫も残っています。知覧飛行場では、場周飛行や編隊飛行だけでなく射撃訓練も行われており、ここには訓練で使用する機銃弾が保管されていました。特攻基地としての知覧が強く記憶されていますが、それ以前には飛行兵を育てるための学校であり、実弾を用いた本格的な訓練が行われていたことが分かります。 知覧飛行場の正門跡にも立ち寄りました。現在は何の変哲もない道路になっており、ここに軍の飛行場の入口があったとは、説明がなければ気づきそうにありません。 当時の門柱には「大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊」と書かれた看板が掲げられていました。門柱そのものは、現在では知覧特攻平和会館に近い参道脇へ移設されています。 さらに進むと、飛行場へ水を供給していた給水塔があります。飛行場は台地上にあったため水の確保が難しく、麓を流れる思川から水をくみ上げ、高架式のタンクに貯水していました。高さ約13メートル、直径約6メートルの大きな施設で、地盤の影響により現在は少し傾いています。 給水塔の近くには、半地下式のお椀のような形をした防火水槽もあります。公式の案内によると、もともとは三基ありましたが、私有地に残...
鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館を訪れました。 今回、知覧まで足を運んだきっかけは、「白いゼロ戦」について調べていたとき、Google検索のAIが知覧特攻平和会館に展示されていると案内していたことでした。知覧周辺は公共交通機関だけで回るのが難しそうだったため、観光タクシーを貸し切ることにしました。 ところが、運転手さんに白いゼロ戦について尋ねても、そのような機体は聞いたことがないという返事でした。現地に到着する前から、検索結果の情報が正しいのか少し不安になりました。 知覧特攻平和会館の周辺に着くと、まず屋外に一式戦闘機「隼」のレプリカが展示されていました。 その近くには白く塗装されたT-3初等練習機も置かれています。T-3は戦時中の機体ではなく、戦後に航空自衛隊で使用された練習機です。もしかすると、検索AIがこの白い機体と零戦の情報を混同した可能性もあるのかもしれません。 その先には、数多くの石灯籠が並んでいました。参道の手前にある灯籠は、知覧で富屋食堂を営んでいた鳥濱トメさんが昭和31年に献灯したものだそうです。運転手さんによると、灯籠はこの場所だけでなく周辺の道路にも並び、全部で千二百基を超えるということでした。 このときは、鳥濱トメさんがどのような人物なのか、まだ詳しく知りませんでした。後に運転手さんが富屋食堂へ案内してくださり、出撃を前にした特攻隊員たちを支えたトメさんと、若者たちとの交流について知ることになります。知覧の戦争の記憶は、平和会館の中だけで完結するものではなく、町の各所に残されているのだと感じました。 灯籠が並ぶ参道を進み、特攻平和観音堂へ向かいました。案内してくださった運転手さんによれば、特定の宗教や宗派にかかわらず、誰もが戦没者のために祈れるよう、宗教色をできるだけ抑えた造りになっているそうです。現在の観音堂は、かつて知覧飛行場があった場所に建てられています。 知覧飛行場は、昭和16年に大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所として開設されました。当初は航空兵を育成する教育施設で、約三年間におよそ六百人の操縦者が養成されたとされています。しかし、戦争末期の昭和20年には沖縄戦に向かう陸軍特別攻撃隊の出撃基地となり、四百人を超える隊員が知覧から出撃しました。現在の静かな公園からは想像しにくいものの、ここは多くの若者が最後の時間を過ごした場所でした。...