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稲佐の浜:強い潮風の向こうに広がる、神話の海辺

島根県出雲市の稲佐の浜を訪れました。今回は出雲大社への参拝を目的に出雲を訪れ、古代出雲歴史博物館、出雲大社を見学したあと、海岸へ向かう途中で出雲阿国塔にも立ち寄りました。そこから、引き続き徒歩で稲佐の浜へ向かいました。 この日は風が強く、帽子が飛ばされてしまいそうなほどでした。砂浜の手前には壁があり、その間に設けられた入口を通り抜けると、海を背景に大きな岩が姿を現しました。岩の上の方には鳥居と小さな祠があり、広い砂浜の中でもひときわ目を引きます。 砂浜に立つ大きな岩は、かつての「島」 目の前の大きな岩は、「弁天島」と呼ばれています。砂浜の上にある姿を見ると、島というよりも独立した大岩のように感じますが、かつては海に囲まれ、「沖ノ御前」や「沖ノ島」とも呼ばれていたそうです。昭和60年頃までは島のすぐ前まで波が打ち寄せていたものの、その後、砂浜が広がり、現在のように島の裏側まで歩いて回れる姿になりました。「島」という名前には、以前の海岸の様子が残っているのです。 岩の上に鎮座するのは、沖御前神社です。神仏習合の時代には弁財天が祀られ、明治以降は豊玉姫命が祀られています。弁天島という呼び名からも、この場所に重なってきた信仰の歴史をうかがうことができます。 自然の岩の上に鳥居と祠があるだけで、その岩が単なる風景の一部ではなく、大切に祀られてきた場所なのだと伝わってきます。浜辺に立つ姿の印象深さに加え、海岸の変化や信仰の移り変わりを知ると、小さな島にも長い時間が積み重なっているように感じられます。 博物館で知った国引き神話が、目の前の風景につながる 海岸を眺めながら思い出したのは、先ほど古代出雲歴史博物館で見た国引きの話でした。「ここがその海岸か」と思うと、展示の中で知った物語が、急に身近なものになります。 『出雲国風土記』に記される国引き神話では、八束水臣津野命という神が、出雲の国をもっと広くしようと、海の向こうの土地を綱で引き寄せます。こうして土地をつなぎ合わせてできたのが、島根半島だとされます。土地そのものを引っ張ってくるという、実に大きなスケールの物語です。 稲佐の浜から南へ続く長い砂浜は、神話に登場する「薗の長浜」と結びつけられています。国を引くために使われた綱がこの砂浜となり、綱を結びつけた杭が三瓶山になったと伝えられています。なお、『出雲国風土記』には「稲佐の浜...
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出雲阿国塔/安養寺/出雲阿国墓所/阿国寺:海へ向かう寄り道で、歌舞伎の祖に出会う

島根県出雲市で、出雲阿国(おくに)ゆかりの場所を訪ねました。この日の目的は出雲大社や日御碕で、阿国の史跡を巡る予定はありませんでした。きっかけは、稲佐の浜へ向かって歩いている途中に見つけた、一つの案内でした。 古代出雲歴史博物館を見学し、出雲大社に参拝した後、海を目指して歩いていると、「出雲阿国塔」の案内が目に入りました。「阿国という名前は、どこかで聞いたことがあるな」と思い、少し寄り道をしてみることにしました。 石に刻まれた名前から思い出した、歌舞伎の始まり 塔は少し小高い場所にあるようで、ふもとには「出雲阿国 終焉地之碑」という石碑が立っていました。 そこから階段を上っていくと、石造りの塔が見えてきます。周囲の石の囲いには、「坂東」や「中村」といった名前が並んでいました。 その名前を見て、ようやく思い出しました。阿国は、歌舞伎の祖として知られる、あの出雲阿国です。名前だけでは曖昧だった記憶が、歌舞伎の世界でよく耳にする名前と結びついて、急にはっきりしました。 塔には「於国塔」と刻まれ、踊る人物の姿を表した銅製の大きな浮彫がはめ込まれていました。文字だけの記念碑とは違い、体を動かして人々を楽しませた人物だったことが、姿そのものから伝わってくるようです。 この塔は、昭和11年(1936)に、歌舞伎俳優をはじめとする当時の名優たちの寄付によって建てられました。現地の解説によると、戦時中には阿国の姿を表す銅板と、塔の上部にあった九輪が金属供出の対象になったそうです。現在の塔は昭和43年(1968)に再建されたもので、阿国をたたえる記念碑にも、戦争を挟んだ歴史が刻まれていました。 周囲に並ぶ名前を改めて見ると、この塔は阿国一人を記念するだけでなく、その後の芸能に携わった人たちが、自分たちの始まりを振り返る場所でもあるのだと感じます。名前を見て歌舞伎を思い出した私も、そのつながりを、ほんの少しだけたどったことになるのかもしれません。 階段を下りると、行きには気づかなかった「歌舞伎の始祖 出雲於國の塔」と書かれた石碑もありました。最初からこちらを見ていればすぐに分かったはずですが、石に刻まれた名前を手掛かりに思い出したというのも、寄り道らしい経験でした。 この後はいったん稲佐の浜へ向かいました。浜でのことは、別の記事に書きたいと思います。 安養寺から、丘の上の墓所へ 稲佐の浜...

日本民藝館:特別展「創設90年記念 琉球王国の染織 尚家関連品と護得久家伝来品」:花鳥の紅型、ドット絵の絣

東京都目黒区の日本民藝館に行きました。 この日は、日本近代文学館の宇野千代展を目当てに駒場公園へ来ていました。先に旧前田家本邸を見学し、日本近代文学館で宇野千代の生涯や作品に触れた後、最後に立ち寄ったのが日本民藝館です。 訪れたときには、特別展「創設90年記念 琉球王国の染織―尚家関連品と護得久家伝来品」が開催されていました。琉球の染織品を、その美しさだけでなく、誰が所持し、どのように伝わってきたのかという来歴からも見直す展覧会です。 説明を読む前に、ものを見る 館内には、焼き物や染織、食器、アクセサリーなど、さまざまなものが壁や展示棚に並んでいました。そのなかで、展示品そのものとは別に印象に残ったのが、作品名などを記した小さなプレートです。筆で手書きしたような文字で、名前などが簡潔に書かれていました。 博物館では、展示品の隣にある解説を読んで、その歴史や意味を理解することがよくあります。しかし、ここでは詳しい説明を読むというより、まず目の前にあるものを見ることを促されているように感じました。展示品を眺めながら、「純粋にもの自体を見ることを大切にしているのかもしれない」と思いました。 日本民藝館は、思想家の柳宗悦を中心として、1936年に開設されました。「民藝」は「民衆的工藝」を意味し、柳や陶芸家の濱田庄司、河井寬次郎らが生み出した言葉です。名の知られた作家による特別な作品だけでなく、無名の職人が作り、人々の暮らしのなかで使われてきたものにも美しさがあるという考えが、その活動の根底にありました。 実際、日本民藝館では、先入観を持たずにものを見てもらうため、展示品の説明を必要最小限にとどめているそうです。これは、知識だけに頼らず、自分の目で美しさを捉える「直観」を重視した柳の考えにつながっています。 そう聞くと、あの簡潔なプレートも、単に説明を省略したものではないことが分かります。何が描かれているのか、どんな色や形をしているのか。まず自分で気になったところを見る、という鑑賞の仕方なのかもしれません。 同級生との縁から始まった、沖縄への関心 図録を読むと、柳宗悦と沖縄とのつながりには、学生時代の縁があったことが紹介されていました。柳は学習院中等科で、琉球王家・尚家の尚昌と同級だったそうです。 柳自身も「沖縄の思い出」という文章に、尚昌に沖縄の工芸を研究したいと相談し、協...

日本近代文学館:宇野千代展―100年の旅人:波乱万丈、それでも人生は面白い

東京都目黒区の日本近代文学館に行きました。目的は「宇野千代展―100年の旅人―」です。駒場公園の周辺を調べていたところ、旧前田家本邸で特別ガイドが行われていることを知り、先にそちらを見学してから、日本近代文学館に向かいました。 宇野千代については、朝ドラの題材になったことをきっかけに知ったばかりでした。調べてみると、いくつかの文学館で展覧会が開かれており、今回もその一つです。ドラマを通して興味を持った人物の、実際の人生や仕事を知りたいと思って訪れました。 宇野千代は1897(明治30)年に現在の山口県岩国市に生まれ、1996(平成8)年に98歳で亡くなりました。明治、大正、昭和、平成という四つの時代を生きた人です。展示を見ていくと、その長い人生の中に、小説を書くことだけでなく、雑誌をつくること、装うこと、人との出会いを楽しむことが、ぎっしりと詰まっていました。 プロローグで紹介されていたのは、自伝的な著作の決定版ともいえる『生きて行く私』でした。1983年に刊行され、多くの読者に親しまれた本です。宇野千代には自分の人生を振り返った著作がいくつもあるそうですが、今回はこの本を入口に、若い頃の作品やさまざまな人との関係をたどっていく構成になっていました。 第一部は「初期作品の世界―『中央公論』掲載作品から」です。宇野千代がレストランでウェイトレスとして働いていたとき、常連客として『中央公論』の編集者が訪れていたという話が紹介されていました。その人物が、編集長の滝田樗陰です。本郷のレストランで働く中で、文学に関わる人たちとの接点が生まれていたのでした。 ちょうど今、朝ドラで見ている場面が思い浮かびました。ドラマの中で見ていた出来事に、実際の人の名前や資料が重なると、それまで少し遠かった文学の世界が身近に感じられます。宇野千代をよく知らないまま来た私にも、展示に入っていくための手がかりになりました。 初期の作品で意外だったのは、怒りの強さです。展示の説明によると、父親の暴力や、母の異なるきょうだいとの関係、教員やウェイトレスとして働いた頃の事情など、自分を取り巻く環境への怒りや告発が作品に込められていたそうです。後年の写真や紹介から抱いていた、明るく前向きな人という印象とは、かなり違っていました。 作家としての出発を示す作品として、『脂粉の顔』も紹介されていました。1921...

旧前田家本邸:洋館で暮らし、和館でもてなす

東京都目黒区の旧前田家本邸に行きました。 この日は、日本近代文学館で開催されている宇野千代展が目的で、駒場公園に来ました。周辺の見所を調べたところ、旧前田家本邸で特別ガイドが行われていることを知り、先に見学することにしました。 旧前田家本邸は、加賀百万石で知られる前田家の第16代当主、前田利為(としなり)侯爵が建てた邸宅です。もともと前田家の本邸は東京の本郷にありましたが、東京帝国大学との土地交換によって駒場に移転しました。1929年に洋館、翌1930年に和館が完成しています。 明治維新によって大名制度が廃止された後も、前田家は華族制度のもとで侯爵の地位を与えられました。江戸時代の大名家が、近代日本の華族としてどのような生活を送っていたのかを知ることができる建物でもあります。 特別ガイドが始まるまで少し時間があったため、まずは自分で和館と洋館を見学しました。 最初に向かったのは和館です。 前田家のような名家の邸宅というと、広い座敷がいくつも並ぶ豪邸を想像していましたが、和館は思っていたよりも小ぶりでした。2階が公開されていないこともありますが、1階も部屋数はそれほど多くなく、大勢の人を集めて宴会を開くような広さでもありませんでした。 展示されていた説明によると、和館は迎賓や四季折々の行事に使われていたそうです。 実際、和館は前田家の日常生活のためではなく、外国からの賓客に日本文化を紹介するための迎賓施設として建設されたものでした。つまり、邸宅というよりも、接客のための特別な空間だったわけです。 前田利為は、イギリスへの留学や駐在武官としての勤務など、ヨーロッパで長く生活した経験がありました。外国の文化に親しんでいた人物が、外国人を迎えるために日本建築を用意したというのも興味深いところです。 次に洋館へ向かいました。 こちらは和館とは対照的に、入口からして大きく、赤い煉瓦の外壁が印象的な、いかにも華族の豪邸という建物でした。 洋館は鉄筋コンクリート造で、イギリス風の重厚な建築様式が採用されています。 1階には応接室、サロン、小客室、大客室などがあり、どの部屋も暖炉や照明、天井の装飾まで豪華に造られていました。和館を見た直後だったこともあり、その規模と華やかさには驚かされました。 洋館の1階は、外交官や皇族などを招いた晩餐会や社交の場として使われていたそうです。当時の上...

国立西洋美術館:テート美術館 ターナー展―崇高の絵画、現代美術との対話:霧の向こうに、赤いブイ

東京都台東区の国立西洋美術館に行きました。上野の森美術館の「シンシナティ美術館展」を目的に上野公園へ来ていましたが、せっかくなので「テート美術館 ターナー展――崇高の絵画、現代美術との対話」にも足を運ぶことにしました。 2か月ほど前、大阪中之島美術館でフェルメールの《真珠の耳飾りの少女》を見た頃は、ターナーという画家にはまだなじみがありませんでした。それが今回は、事前に作品を調べ、映画まで観てから訪れています。短い間でも、少しずつ興味の向く先が増えているようです。 予習をしていて気になったのは、独特な土色の霧がかかったような絵でした。どこかで見たことがあると思って調べると、美術史のテキストにも登場していました。たくさんの画家が出てくるので名前を覚えるのは難しいですが、あの特徴的な画面は、名前よりも先に記憶に残っていたようです。 暗い部屋で出会ったターナー ターナーは1775年に生まれ、1851年に亡くなった、イギリスのロマン主義を代表する画家です。若くしてロイヤル・アカデミーの正会員となり、風景の中の光や大気を追い続けました。「光の画家」と呼ばれる人の絵を、私はまず「土色の霧」として覚えていたわけです。今回の鑑賞では、その印象がどう変わるのかも楽しみでした。 展覧会の始まりには、暗い部屋が用意されていました。ターナーは自身の画廊に来た客を、作品を見る前に暗い部屋でしばらく待たせたといいます。今回の導入も、その逸話を踏まえたものです。絵を描くだけでなく、見る側の目の状態まで意識していたと思うと、作品の見せ方にも強い関心があったことが伝わってきます。 そこに展示されていたのが、ウィリアム・ホールが版刻した《ターナーの肖像》でした。予習で観た映画『ターナー、光に愛を求めて』では、ターナーは随分と癖の強いおじさんでしたが、こちらは整った顔立ちです。「このイケメンと、映画のあの強烈なおじさんと、どちらが本当なのだろう」と、最初から絵画とは少し違うところが気になってしまいました。 ただ、この版画は若い頃の肖像をもとにしており、映画が描くのは晩年に至る約25年間です。1859〜61年という版画の制作年も、描かれた本人の年齢を示すものではありません。そもそも比べている時期が違っていました。 石の輪とアルプスに感じる自然の力 第1章「はじまりの歩み、英国の風景から」では、中央に置かれ...