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京都文化博物館:企画展「アイヌの美―彩りと輝き―」:うずまきと対称の文様に惹かれて

京都文化博物館を訪れた日は、もともと開館に合わせて向かうつもりでしたが、京都御苑や新島旧邸で思いのほか足を止めてしまい、博物館に着いたころにはすでに昼を回っていました。けれども、そうして少し寄り道を重ねたあとにたどり着いたからこそ、京都という町の厚みを感じたまま展示に入ることができたようにも思います。 京都文化博物館は、京都の歴史と文化を紹介する博物館で、別館には明治39年(1906)竣工の旧日本銀行京都支店の建物も残っています。古都の文化を見せる場所として、建物自体にも時代の層が感じられるのが印象的です。 今回の目的は、企画展「アイヌの美―彩りと輝き―」でした。この展覧会は、服飾や木工芸に見られるアイヌの豊かな色彩感覚と美意識に注目し、衣服、ござ、首飾り、煙草入れ、マキリ、儀礼具、漆器などを通して、その美の世界を紹介する内容でした。また、チカップ美恵子さんの刺繍作品に加え、貝澤徹さん、下倉洋之さん、藤戸康平さんといった現代作家の作品も並び、過去の工芸と現代の表現が連続していることを感じさせる構成になっていました。 私は以前から、日本の歴史や文化を学ぶのであれば、本州中心の歴史だけではなく、アイヌや琉球についてもあわせて知りたいと考えていました。アイヌ民族は、20世紀半ばまで北海道、樺太、千島列島を主な生活圏とし、木や樹皮、骨、角、毛皮、魚皮、貝など身近な自然素材を用いて生活用具や儀礼具を作る一方、周辺の民族や和人との交流を通じて、布や糸、金属、ガラス玉なども取り入れ、独自の文化を発展させてきました。アイヌ文化は孤立したものではなく、北東アジアの諸民族や和人との長い接触の中で受け継がれてきた文化でもあります。 展示の冒頭では、チカップ美恵子さんの作品が並んでいました。私はそれまで、アイヌ文様とはどういうものかをはっきり理解していなかったので、作品を前にしても、これは作家自身の個性なのか、それともアイヌ文化に共通する造形なのかが分かりませんでした。ただ、見ているうちに、幾何学的で、うずまくようで、しかも左右の均衡を意識したような文様が繰り返し現れることに気づき、強い印象を受けました。先に進んで、国立民族学博物館所蔵の樹皮繊維の衣服や、煙草入れ袋、針入れ袋、ござなどを見たとき、そこに通じる造形がはっきり感じられ、ようやく「ああ、これがアイヌらしい意匠なのか」と腑に落ちま...
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新島旧邸:京都の町なかで思いがけず出会った特別公開

京都文化博物館に行くために京都市に来たこの日、私は開館までの時間を使って京都御苑を歩いていました。ところが、京都御苑は思っていた以上に見どころが多く、閑院宮邸跡や京都御所、桂宮邸跡などを見て回っているうちに、気づけばかなりの時間が過ぎていました。少し急ぎ足で京都文化博物館へ向かっていた途中、ふと目に入ったのが「新島旧邸 特別公開中」という文字でした。その瞬間、「あの新島だろうか」と思って案内を見ると、やはり同志社の創立者として知られる新島襄の旧邸でした。まったく予定していなかった立ち寄りでしたが、こうした思いがけない出会いも旅の大きな魅力です。入り口のスタッフの方に尋ねると、毎週土曜日は特別公開の日で、建物の内部も見学できるとのことでした。ここまで予定以上に時間を使ってしまっていましたが、せっかくの機会なので見学することにしました。 新島襄は、明治時代の日本において近代的な教育の実現を目指した人物として知られています。海外で学び、キリスト教や欧米の教育思想に触れた新島襄は、帰国後に京都で同志社英学校を創立し、日本の新しい教育のあり方を切り開こうとしました。その新島襄が暮らした旧邸が、京都の町なかに今も残されていること自体、とても貴重なことだと思います。しかも、この建物は単なる住まいではなく、新しい時代の思想や暮らし方を映し出す場でもあったのでしょう。明治という、和と洋、伝統と近代が激しく交差した時代の空気を、建物そのものから感じ取ることができるように思えました。 最初に見た日本風の附属屋は、落ち着いた雰囲気の建物でした。展示品もありましたが、同志社社史資料センター所蔵資料のレプリカが中心だったようで、いつか訪れてみたいと思っていた資料センターの予習のような時間にもなりました。この附属屋は新島襄の両親のために建てられたものだそうで、そのことを知ると建物の見え方も変わってきます。新しい時代の教育を志し、西洋の知識を積極的に取り入れた新島襄ですが、その一方で家族を大切にし、日本的な暮らしの空間もきちんと用意していたことが伝わってきます。近代化というと、何かを一方的に捨てて新しいものに入れ替えるような印象を持ちがちですが、実際にはこうして古いものと新しいものを併せ持ちながら進んでいったのだろうと感じました。 続いて見学した母屋は洋風の造りで、附属屋とはまた違った魅力がありま...

京都御苑:桂宮邸跡:静かな邸宅跡に残る宮家の記憶

京都文化博物館に向かう前の時間を使って、京都御苑を歩きました。最初は開館までの時間つぶしのつもりでしたが、実際に歩いてみると見どころが多く、思いがけず長い時間を過ごすことになりました。閑院宮邸跡や京都御所を見たあと、さらに北へ進んで訪れたのが桂宮邸跡です。京都御苑の中でも少し奥まった場所にあり、整備された大きな道からやや離れているため、ガイドマップがなければ通り過ぎてしまいそうな、ひっそりとした場所でした。 桂宮家は、江戸時代に続いた宮家の一つで、もとは八条宮家として始まり、のちに桂宮家と呼ばれるようになりました。桂離宮とのつながりでも知られる家ですが、京都御苑に残るこの邸跡は、華やかな宮廷文化の一端を今に伝える場所でもあります。現在の京都御苑は、かつて公家町として多くの宮家や公家の屋敷が並んでいた空間であり、明治維新によって都が東京へ移ったあと、その広大な土地が整理され、今のような開かれた苑地になりました。御苑の中を歩いていると静かな公園のようにも感じますが、その一角一角には、かつての京都の政治と文化を支えた人々の暮らしが重なっています。 実際に桂宮邸跡に入ってみると、人の姿はほとんどなく、見かけたのは清掃の方くらいでした。観光客でにぎわう京都御所周辺とは少し空気が異なり、ここだけ時間の流れがゆるやかになっているように感じました。復元された建物はありませんが、地面には木材で建物の間取りが示されており、かつてそこに屋敷が存在していたことを静かに伝えています。建物そのものがなくても、空間の輪郭が示されるだけで、そこにどのような部屋があり、どのように人が行き来していたのかを想像できるのが興味深いところです。何もないようでいて、むしろ想像の余地が大きく開かれている場所でした。 また、庭園の名残と思われる場所もありましたが、水が流れるはずのところには何も流れていませんでした。連日の水不足の影響で止められていただけなのかもしれませんが、かつて宮家の邸宅として整えられていたであろう空間に、今は水音もなく、池も乾いたように見える風景には、どこかさみしさがありました。豪華な建物や華やかな庭が復元されていれば、きっと分かりやすく見栄えもしたのでしょう。しかし、間取りだけが残され、水のない庭が広がる今の姿だからこそ、失われた時間そのものに向き合う感覚がありました。栄華をそのまま再現する...

京都御苑:京都御所:公家文化の余韻をたどる京都御苑散策

京都文化博物館の開館まで少し時間があったため、朝の京都市で京都御苑を歩くことにしました。先に閑院宮邸跡で、公家の暮らしや京都御苑の成り立ちについて展示を見たあと、その流れのまま京都御所へ向かいました。京都御所は京都御苑の中央にあり、広い苑内の中でも特に重みのある空間です。周囲を塀に囲まれた姿は、いかにも特別な場所という雰囲気があり、西側の清所門から中に入ると、ようやくかつての皇居の内部に足を踏み入れるのだという気持ちになりました。 京都御所は、長いあいだ天皇の住まいとして使われてきた場所です。平安京への遷都以後、天皇の居所は必ずしも一か所に固定されていたわけではありませんが、近世になるとこの地の京都御所が皇居としての役割を担うようになりました。幕末の安政年間に焼失した後、現在の御所は1855年に再建されたもので、明治維新によって東京に皇居が移った後も、京都における皇室ゆかりの重要な建築として保存されてきました。実際に歩いてみると、単なる古建築の集まりではなく、日本の政治と儀礼の中心が長く置かれていた場所であることが、建物の配置や規模から自然と伝わってきます。 入って少し歩くと、まず諸大夫の間がありました。手前から「桜の間」「鶴の間」「虎の間」と並び、奥にいくほど格式が高くなる構成になっています。見学していると、建物そのものの美しさだけでなく、空間によって身分や役割が細かく分けられていた宮廷社会の秩序が感じられました。こうした部屋の並びを見ていると、京都御所は天皇の住まいであると同時に、儀礼と政治の舞台でもあったのだと分かります。来客を迎える場であり、身分差を視覚的にも明確に示す場だったのでしょう。 続いて目に入るのが新御車寄です。すでに諸大夫の間の近くにも御車寄がありますが、こちらは大正天皇の即位礼が紫宸殿で行われる際に新設されたものだそうです。古くからの建築群の中に、近代になって加えられた施設が自然に溶け込んでいるところに、京都御所が単に昔の姿を残すだけの場所ではなく、時代の変化に応じて使われ続けてきた場所であることを感じました。その右手に見える朱色の柱が鮮やかな回廊も印象的で、内部にある紫宸殿への期待を高めてくれます。 道なりに南へ進み、承明門から紫宸殿を眺めると、京都御所の中心に来たという実感がありました。紫宸殿は、即位礼などの最も重要な儀式が行われた正殿であ...

京都御苑:閑院宮邸跡収納展示館:公家の世界を予習してから歩く京都御苑散策

京都文化博物館に行く予定で京都市に来たものの、開館まで少し時間がありました。せっかくなら京都らしい場所で朝の空気を吸いたいと思い、京都駅から京都御苑へ向かいます。南西側から入るとすぐ、落ち着いた佇まいの建物が目に入りました。そこが「閑院宮邸跡収納展示館」です。京都御苑全体の案内所になっていると知り、ガイドマップでももらってから園内を歩こう、と軽い気持ちで立ち寄りました。 ところが中に入った瞬間、「これは案内所というより、小さな博物館だな」と印象が変わりました。展示の射程が、京都御苑の地図や見どころ紹介だけに留まらないのです。公家とは何か、公家町はどのように成り立ち、どんな屋敷が並んでいたのか、宮廷の年中行事や文化、楽器、庭園の見方まで、基礎から丁寧に立ち上げてくれます。日本人の自分でさえ「なんとなく知っているつもり」で曖昧だった輪郭が、資料と解説によって少しずつはっきりしていく感覚がありました。京都を“古都”として眺めるだけでなく、その古都を日々の生活として支えた人々の制度や文化が、現代の目線で噛み砕かれているのがありがたかったです。 「閑院宮邸跡」と名が付いている通り、この場所はもともと閑院宮家ゆかりの地です。ただ、いま目の前にある建物は、記録上は明治期に宮内省の京都支庁として建てられたものとされ、過去の火災で失われた旧邸の“そのままの姿”が残っているわけではないようです。それでも、部材の一部に旧邸由来と推定されるものがある、という説明を読むと、時間の層が一気に厚くなります。江戸時代の四親王家の一つとしての閑院宮家の歴史や、建物が改修されながら今日まで使われてきた経緯を知ると、展示館そのものが「史料」になっているように感じられました。 さらに面白かったのは、歴史展示と自然展示が同じ建物の中で違和感なく共存しているところです。京都御苑は、かつて御所を中心に公家屋敷が立ち並ぶ「公家町」でしたが、明治維新と東京遷都の後に急速に荒廃し、そこから保存と整備の事業を経て、現在のような緑の公園としての姿が形づくられてきました。つまり御苑の自然は「昔からそこにあった森」でもありつつ、「歴史の転換点で整え直された都市の緑」でもあります。展示館の中で、樹木や生き物、管理の考え方にまで踏み込んだ解説を見ていると、御苑がただの散歩コースではなく、長い時間をかけて維持されている“文化的な自...

松阪神社:松坂城のふもとで感じる町の歴史

斎宮で博物館や復元史跡を見て回ったこの日、まだ少し時間が残っていたため、近くの松阪市まで足を延ばすことにしました。地図を見ると松坂城が駅からそれほど遠くなく、城下町らしい風景も楽しめそうだったので、松阪駅から松坂城跡の方面へ向かって歩きました。途中では御城番屋敷に立ち寄り、さらに本居宣長ノ宮にも参拝しましたが、そのすぐ隣に並ぶように松阪神社があったため、こちらにも自然と足が向きました。 松阪神社は、ただ城跡の近くにある神社というだけではなく、松阪の町の成り立ちそのものと深く結びついた神社です。古くは「意悲神社(おいじんじゃ)」と称し、その起こりは平安時代以前にさかのぼるとも伝えられています。さらに、天正16年(1588年)に蒲生氏郷が四五百森に松坂城を築いた際、この地の小社を城の鎮守と定め、新たに社殿を整えたとされます。つまり松阪神社は、松坂城と城下町の発展を見守ってきた存在でもあり、現在の静かな境内にも、城下町の記憶が折り重なっているように感じられました。 実際に歩いてみると、本居宣長ノ宮と並んで建つこの配置も印象的でした。本居宣長ゆかりの地として知られる松坂城周辺ですが、その一角に地域の鎮守としての松阪神社があることで、学問や文化の記憶と、町を守る信仰の場とが自然につながっているように思えます。松阪神社の境内には樹齢900年ともいわれる長寿樟があります。神社と宣長、城跡と城下町という、この土地らしい要素がごく近い範囲に重なっていることに、松阪という町の厚みを感じました。 私が訪れたとき、境内には拝殿だけでなく神楽殿や御神木もあり、思った以上に地域に根ざした神社という印象を受けました。神楽殿を前にすると、例祭や地域のお祭りのときには、ここがにぎやかな場になるのだろうかと想像が広がります。観光で訪れると、つい建物や史跡そのものに目が向きがちですが、こうした神社は、過去の歴史だけでなく、今もなお地域の暮らしとつながっている場所なのだと感じます。城や旧宅のような「保存される歴史」とは少し違い、祈りや祭りを通じて生き続ける歴史があるのだと思いました。 また、松阪神社の歴史をたどると、蒲生氏郷の後に松坂城主となった古田重勝が、自ら信仰する宇迦之御魂神を相殿に祀ったこと、さらに江戸時代にこの地が紀州藩領となってからは、歴代藩主の崇敬を受けたことも伝えられています。そして明治4...

本居宣長ノ宮:城跡へ向かう道で出会った学問の気配

三重県松阪市の本居宣長ノ宮に行きました。 この日は朝から斎宮で、博物館や復元された史跡などを見てまわっていました。斎宮は古代の空気を感じられる場所が多く、想像していた以上に見どころがあり、かなり充実した時間を過ごせました。それでも少し時間が余ったため、近くの松阪市にも足を延ばしてみることにしました。地図を見ると松坂城が駅からそれほど遠くない場所にあったので、せっかくなら城下も歩いてみようと思い、松阪へ向かいました。 松坂城へ向かう途中では、御城番屋敷にも立ち寄りました。武家屋敷らしい整った町並みを見ながら歩いていくと、その先に本居宣長ノ宮が見えてきました。本居宣長といえば、松阪を代表する人物の一人ですし、記念館の存在は知っていましたが、「本居宣長ノ宮」という名前はどこか独特で、最初はどういう場所なのか少し不思議に感じました。鳥居が見えたので神社なのだろうと思いましたが、一般的な「○○神社」という名前ではないため、古墳や顕彰施設のように、別の意味で鳥居が置かれているのかもしれないとも思いながら、石段の方へ向かいました。 階段には「合格祈願」や「学問の神様」と書かれた板が置かれていて、そこでようやく、本居宣長その人を祀る場所なのだろうということがはっきりしてきました。石段を上るという行為そのものにも、少しずつ気持ちを整えていくようなところがありますが、学問や祈願に関する言葉を見ながら上っていくと、ここが単なる観光地ではなく、今も信仰の場として生きていることが伝わってきます。城跡へ向かう途中でふと見つけた場所でしたが、思いがけず、松阪の文化や精神の一端に触れられる場所に出会えた気がしました。 階段を上りきった先には本殿があり、やはり神社でした。静かな境内は落ち着いた空気に包まれており、受験の季節がちょうど終わったころだったからか、ほかに参拝者の姿はありませんでした。本居宣長ノ宮は、江戸時代の国学者である本居宣長を主祭神として祀るお宮で、現在では学問の神様として広く知られています。本居宣長は『古事記伝』で知られる松阪ゆかりの国学者で、日本の古典や言葉を深く読み解いた人物です。こうした人物が神として祀られ、今も合格祈願や学業成就の場として親しまれていることを思うと、学問が単なる知識の集積ではなく、人生を支える大きな営みとして大切にされてきたことが感じられます。 本居宣長ノ宮に...