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横浜美術館:コレクション展「海をこえてゆく彼女」:日本と西洋が交差する女性画家たちの航路

神奈川県横浜市の横浜美術館に行きました。 この日は「マリー・アントワネット・スタイル」展を見るために朝から横浜美術館を訪れました。企画展を見終えた後は、そのままコレクション展へ向かいました。 今回のコレクション展では、「海をこえてゆく彼女」というテーマで、国境を越えて活動した女性画家や美術家たちが紹介されていました。 最初の「家族とともに」では、明治時代から海外の文化と接した日本の女性画家たちが取り上げられていました。 渡辺幽香は、洋画家の五姓田芳柳を父に、五姓田義松を兄に持つ画家です。明治時代は西洋の技術や文化が急速に日本へ入ってきた時代で、美術の世界でも、それまでの日本画とは異なる西洋の写実表現が学ばれるようになりました。 展示されていた《白衣婦人像(仮題)》も、最初に見たときは普通の西洋画の人物像のように思えました。ドレスを着た女性が細かいところまで写実的に描かれています。 ところが、この作品は油絵ではなく、絹に描かれた作品でした。展示では額に入っていたので気付きませんでしたが、日本画の材料を使いながら西洋風の女性像を描いていることになります。西洋の技法を学び始めた明治時代らしい、日本と西洋の境界にあるような作品なのが面白いところでした。 岡村政子は石版画家として活動した女性で、石版印刷会社の信陽堂を開業しています。《おかる》など、和服姿の女性を描いた作品が展示されていました。 現在では画家が自分で作品を制作することは当たり前に思えますが、明治時代の女性が職業として美術に関わること自体、現在とはかなり状況が違っていたはずです。さらに印刷会社まで経営していたという経歴を見ると、単に「女性画家」というだけでは収まらない人物だったことが分かります。 吉田ふじをは海外にも渡り、《パリ シャンゼリゼ》などの作品を残しています。 現在なら海外旅行で観光地を訪れ、気に入った風景を描くことも珍しくありませんが、明治時代に日本からヨーロッパへ渡ることは、今とは比較にならないほど大きな出来事だったはずです。描かれているパリの風景そのものだけではなく、日本人女性が海を越えてその場所に立っていたということまで考えると、今回の「海をこえてゆく彼女」というテーマがよく分かりました。 続く「交差するまなざし」では、今度は反対に、海外から日本やアジアへやって来た女性画家たちが紹介されていまし...
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横浜美術館:「マリー・アントワネット・スタイル」展:革命に散った王妃と、永遠になったスタイル

 神奈川県横浜市の横浜美術館に行きました。今回の目的は、企画展「マリー・アントワネット・スタイル」です。 横浜美術館を訪れるのは今回が初めてでした。建物は戦後日本を代表する建築家・丹下健三の設計で、1989年に正式開館しています。正方形や菱形を思わせる幾何学的な装飾が並ぶ外観は、それ自体がひとつの現代美術作品のようにも見えました。淡い色調の外壁も、この日に開催されていた「マリー・アントワネット・スタイル」の華やかな雰囲気とよく合っているように感じます。 事前に調べたところ、この展覧会は午前中、特に開館直後が混雑するようでした。ただ、人気の展覧会なら時間をずらしてもそれほど変わらないだろうと思い、開館時間に合わせて向かうことにしました。 しかし、到着した時点ですでに約50分待ちの列ができていました。 さらに想定外だったのは、昼過ぎに見学を終えて外へ出ると、ほとんど列がなくなっていたことです。展示室の中も午前中はかなり混雑していたので、結果的には時間帯の選択を完全に間違えてしまいました。 ようやく展示室に入ると、作品の前にも長い列ができていました。すべてをじっくり見るのは難しそうだったため、気になった作品を中心に見て、細かな部分については購入した図録で確認することにしました。 最初のChapter 1は「マリー・アントワネット:スタイルの源泉」です。 マリー・アントワネットは1755年、オーストリアのハプスブルク家に生まれ、1770年にフランス王太子ルイと結婚しました。1774年に夫がルイ16世として即位すると、18歳でフランス王妃となります。政治史ではフランス革命によって処刑された王妃として知られていますが、同時代から現代に至るまで、服飾や室内装飾に大きな影響を与え続けた人物でもあります。 展示では、まず18世紀のさまざまなドレスが目に入りました。「グランダビ(ローブ・ド・クール)」「ローブ・ア・ラ・フランセーズ」「ローブ・ア・ラングレーズ」「ローブ・ア・ラ・ポロネーズ」という四つのスタイルについても解説されています。 説明を読んでから実物を見比べてみましたが、ファッションについてほとんど知識のない私には、どれも似たものに見えてしまいます。シルエットや背中の構造、スカートの持ち上げ方などに違いがあるのですが、解説なしで種類を当てるのは難しそうでした。 ドレスだ...

豊臣石垣館:地上は徳川、地下は豊臣、二つの時代が重なる城

大阪府大阪市の豊臣石垣館に行きました。 この日は、中之島美術館で開催されていた『フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展』を見るため、朝から大阪市内を巡っていました。大阪市立科学館、国立国際美術館、中之島美術館、適塾、住吉大社と回り、最後に向かったのが大阪城の豊臣石垣館です。 大阪城には以前訪れたことがありますが、その後、豊臣秀吉が築いた大坂城の石垣を公開する施設が新しくできたというニュースを見て、いつか行ってみたいと思っていました。豊臣石垣館は2025年4月に開館した新しい施設で、1984年の発掘調査で発見された豊臣大坂城の「詰ノ丸」の石垣を、実際に地中へ下りて見学できます。 到着したのは閉館まで1時間もない時間でした。今回は大阪城天守閣そのものが目的ではなかったため、そのまま豊臣石垣館へ向かったのですが、入口で大阪城天守閣の入館券が必要だと教えられました。仕方なく少し戻ってチケット売り場へ向かいます。 大阪城も同じく18時まででしたが、閉館が近いにもかかわらず、チケット売り場には思った以上の長い列ができていました。大阪城の人気の高さを改めて実感します。ようやくチケットを購入し、急いで豊臣石垣館へ戻りました。 館内に入った時には、閉館まで30分ほどしかありませんでした。ただ、実際に見学してみると、それでも十分に見ることのできる規模でした。館内には大坂城の歴史や石垣を解説する映像があり、その中心となる展示が、地中から発掘された豊臣時代の石垣です。公式パンフレットによると、ここで公開されているのは、秀吉やおね、淀殿、秀頼らが暮らした本丸中心部の「詰ノ丸」を守っていた石垣です。 豊臣秀吉は1583年に大坂城の築城を始めました。しかし1615年の大坂夏の陣によって豊臣大坂城は落城します。その後、徳川幕府は1620年から大坂城の再築を開始しました。その際、豊臣時代の城を大量の盛り土によって地中へ埋め、その上に新しい城を築いています。そのため、現在地上で見ることのできる大阪城の堀や石垣は、基本的に徳川時代の再築によるものです。豊臣大坂城の遺構は、その地下に約400年間眠ることになりました。 地下に降りて実物の石垣を見ると、普段目にする大阪城の石垣とはかなり印象が違いました。石材は現在の石垣のようにきれいな四角形に加工されておらず、自然石の形をかなり残したまま積まれています。 一見...

住吉大社:遣唐使の旅立ちを見守った海の神

大阪府大阪市の住吉大社に行きました。 この日は、中之島美術館で開催されている『フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展』を見るため、朝から大阪市に来ていました。大阪市立科学館、国立国際美術館、中之島美術館、適塾と巡ったあと、まだ時間に余裕があったため、少し足を延ばして住吉大社に向かいました。 住吉大社の近くは、百舌鳥古墳群や大阪府立弥生文化博物館などを訪れた際に何度か通っています。そのたびに一度行ってみたいと思っていたのですが、なかなか機会がありませんでした。今回ようやく初めての参拝となりました。 住吉大社は、全国にある住吉神社の総本社で、古くから海上交通や航海安全の神として信仰されてきた神社です。社伝では神功皇后によって現在の地に住吉大神が祀られたとされ、のちに神功皇后自身も第四本宮の祭神となりました。 鳥居の手前で、まず目に入ったのが「遣唐使進発の地」と刻まれた石碑でした。住吉大社が海上交通と関係の深い神社であることは事前に調べていましたが、遣唐使とのつながりまでは知りませんでした。奈良時代、唐へ向かう遣唐使も出航前に住吉大神へ航海の安全を祈ったとされています。当時の中国への航海は、現在とは比較にならないほど危険なものでした。ここで無事を願ってから海へ向かった人々がいたと考えると、「航海安全の神」という言葉が急に現実味を帯びてきます。 参道を進むと、住吉大社を代表する景観の一つである反橋、いわゆる太鼓橋がありました。遠くから見てもかなり急な弧を描いています。最大傾斜は約48度もあるそうで、実際、多くの参拝者が足元を確認しながら恐る恐る渡っていました。現在の石造りの橋脚は、慶長年間に淀殿が豊臣秀頼の成長を祈願して奉納したものと伝えられています。 橋を渡って四つの本宮へ向かいました。 屋根は一見すると茅葺のようにも見えましたが、実際にはヒノキの樹皮を重ねた檜皮葺です。現在の本殿は文化7年(1810)に造営されたもので、古い神社建築の形式を伝える「住吉造」として四棟すべてが国宝に指定されています。 特に面白かったのが、その配置です。第一本宮、第二本宮、第三本宮が一直線に並び、第四本宮だけが第三本宮の横に並んでいます。公式の解説では、この配置は大海原を進む船団にもたとえられています。また、四本宮はすべて西、つまり大阪湾の方向を向いています。実際に歩いていると単に少し変わった...