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開成館:主役はまさかの工事中、官舎から入植者住宅へ、建物のサイズで読む明治のくらし

郡山に来た目的は、郡山市歴史情報博物館の特別展と、もう一つは開成館でした。ところが朝いちばんで入った博物館が、特別展も常設展も思った以上に濃くて、気づけば予定を大幅にオーバーしていました。昼過ぎにようやく開成館へ向かった私は、少し急ぎ足のまま「今度は短時間でさらっと……」と自分に言い聞かせていたのですが、入口で最初に目に入ったのは、「開誠館は復旧工事中」という文字でした。 開成館本館は、福島県沖地震での被害と老朽化への対応として、耐震補強を含む改修が進められており、工事は2025年1月開始、2028年7月完了、展示リニューアル後に2028年中の再開館予定だそうです。とはいえ、敷地内の「旧立岩一郎邸」「旧坪内家」「旧小山家」は公開されていると知り、せっかく来たのだからと、今日は“本館の代わりに旧家を読む日”に切り替えることにしました。  最初に入ったのは旧立岩一郎邸です。「福島県開拓掛」の職員用官舎として、いわゆる「一番官舎」に当たる建物だと説明されていました。開拓に関わる“役所の家”という性格が最初からはっきりしていて、玄関をくぐった瞬間に、生活の場でありながら同時に仕事の延長線上でもあった空気が伝わってきます。展示は安積疏水関連が中心で、映像やパネルがこれでもかと並び、狭い空間が情報で満たされていました。急な階段を上がると、昔の家らしい角度と踏み幅で、足元に意識が持っていかれます。見学というより、当時の生活のテンポに身体のほうが合わせに行く感覚でした。ちなみにこの官舎には、安積疏水の着工式(1879年)に出席した伊藤博文や松方正義が宿泊したという話も伝わっているそうで、家のスケール感と「ここに要人が泊まった」という事実のギャップが、かえって明治の現場感を強くしました。 次に見たのが旧坪内家です。鳥取から入植した「鳥取開墾社」の副頭取、坪内元興の住宅で、入植者住宅としては最上級の“規格住宅(雛形)”をもとに建てられたと紹介されていました。旧立岩一郎邸が「行政の家」だとすれば、旧坪内家は「開墾を進める側の拠点の家」という印象です。糸車が置かれていたのが目に留まりました。副頭取という肩書きからすると、いかにも生活道具らしいものがあるのは少し意外で、もしかすると家の中の労働がとても身近だったのか、あるいは家族や手伝いの人を含めた暮らしの厚みがあったのか、と想像が膨...
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郡山市公会堂:ふと見上げた塔が、街の歴史につながっていた

郡山市歴史情報博物館の特別展と開成館を目的に郡山へ来た日、道中の麓山公園を歩いていると、ふと視界に入ってきたのが時計の付いた塔でした。木々の向こうにのぞく、少し古そうで、それでいて端正な洋館風の建物。公園の景色の中でその塔だけがすっと目立っていて、「あとで正体を確かめよう」と思いながら、いったん博物館へ向かいました。 用事を終えてから改めて近くまで寄ってみると、その建物は郡山市公会堂でした。公会堂という名前から、何か催しがあって人の出入りがあるのかなと想像していましたが、この日は驚くほど静かで、人通りもほとんどありません。だからこそ、建物の輪郭や塔屋の存在感がよく分かり、外から眺めているだけでも「郡山の時間の層」を感じられる場所でした。 現地の説明を読むと、郡山市公会堂は大正13年(1924年)の市制施行を記念して建てられた建物だと分かります。郡山が「市」として新しい一歩を踏み出した、その節目を形にした建築がいまも残っているわけです。さらに、設計には国会議事堂の設計にも関わった矢橋賢吉が監修したとされ、オランダ・ハーグの平和宮などを参考にしたとも伝わっています。ネオ・ルネサンス様式を基調にした外観で、当時の「進取」の気風を象徴する建物、という説明がしっくりきました。洋風なのにどこか懐かしさがあるのは、装飾やバランスの取り方に“大正のモダン”がにじむからかもしれません。 時計塔に目が行くのも当然で、この建物は躯体の隅に塔屋を立て、縦長のガラス面で垂直性を強調するデザインになっています。連続する半円アーチの柱廊や、窓まわりの丁寧な意匠なども含めて、ただの「古い建物」ではなく、様式建築としてきちんと作り込まれたことが伝わってきます。 説明板の横には「国登録有形文化財」であることを示す碑もあり、ここが単なる市民施設ではなく、郡山の都市史を語る文化財として位置づけられていることが分かります。実際、文化遺産データベースでも登録有形文化財(建造物)として整理され、登録年月日は2002年6月25日となっています。 旅程 東京 ↓(新幹線) 郡山駅 ↓(徒歩) 麓山公園/安積疏水麓山の飛瀑 ↓(徒歩) 郡山市歴史情報博物館: 「発掘された日本列島2025」展  /  常設展 ↓(徒歩) 郡山公会堂 ↓(徒歩) 開成館 ↓(徒歩) 安積疏水土地改良区技術部 ↓(徒歩)...

郡山市歴史情報博物館:常設展:ひと回りで1万年、郡山の歴史が詰まった展示空間

別記事でまとめた「発掘された日本列島2025」展のため、郡山市歴史情報博物館を訪れました。「発掘された日本列島2025」展の後、常設展をじっくり味わいました。 正直に言うと、地方都市の市立博物館なので「落ち着いた良い展示があれば十分」くらいの気持ちで入館しました。ところが、最初の市の紹介映像を見終えた直後、青い光に包まれた通路へと導かれ、いきなり現代的で“魅せる”演出に出会って驚きました。調べてみると、この博物館は2025年3月15日に開館したばかりで、しかも博物館機能に公文書館機能を併せ持つ拠点施設として整備されたとのことです。新しさの理由が、体感としてすぐ腑に落ちました。 常設展のメイン空間は、中央にテーマ展示が据えられ、その周囲を「原始・古代・中世・近世・近現代」と年代ごとの小部屋が取り囲む構成でした。郡山が「交流の歴史」「多様性」「境界性」を軸に地域史像を発信する、という施設趣旨を思い出すと、この“中心に核があり、周囲へ時代が広がっていく”つくり自体が、土地の性格を語っているようにも見えてきます。さらに常設展示は「ものと文化」「みちとまち」といった視点でも読み解けるようで、通史を眺めるだけでは終わらない仕掛けがありました。 中央のテーマ展示には、網目のない縄文土器、二彩浄瓶、安積疏水工事に使われた測量機器のレベルとトランシット、高倉人形、蒔絵神馬図額、小型把手付壺など、郡山と結びついた“顔”のような資料が並んでいました。年代がバラバラなのに散漫にならず、「この土地は、何を受け取り、何を積み上げてきたのか」を一気に見せてくれるのが良かったです。まずここで目が覚めて、自然と周囲の年代展示へ足が向きました。 原始のコーナーは、いきなり情報量が多く、良い意味でこちらの体力を試してきます。縄文土器が早期から晩期まで並び、同じ“土器”でも形や文様が少しずつ変わっていくのを追いかけているだけで時間が溶けました。さらに、熱海町で見つかったナウマンゾウの歯のレプリカが置かれていて、「この地の時間のスケールは、まず人間以前から始まるのか」と感覚を切り替えさせられます。旧石器から弥生へ、石器、土器、編み物、土偶、装飾品と続く流れは、暮らしの細部が積み上がって“社会”になっていく過程そのものでした。そして妙音寺遺跡の土坑断面剥ぎ取り資料が壁一面に広がっているのを見た瞬間、発掘が「物...

郡山市歴史情報博物館:「発掘された日本列島2025」展:発掘成果でたどる日本列島の時間旅行

郡山市歴史情報博物館で開催されていた「発掘された日本列島2025」展を見に行きました。館内の展示室はいくつかに分かれていて、最初の展示室がこの特別展になっています。各地の発掘成果が“年代順に”並び、日本列島の時間の厚みをそのまま歩ける構成になっているのが伝わってきました。 最初は縄文時代です。神奈川県伊勢原市の上粕屋・秋山遺跡の成果が紹介されていて、出土品の説明を読みながら、縄文の暮らしが「身近な道具」から立ち上がってくる感覚がありました。中でも印象に残ったのは、東北地方の石材で作られたという萪内型石刀が出土したという点です。縄文というと地域ごとの特色を想像しがちですが、素材が“動く”ことで、人の移動や交流の気配が一気に現実味を帯びます。地図の上の線が、遺物として目の前に現れる感じがしました。 同じく縄文時代では、鹿児島県姶良市の前田遺跡の展示も強く記憶に残りました。網籠の展示があり、出土したものや復元品を見ていると、「ここまで残るのか」と素直に驚きます。以前、是川縄文館で網籠の特別展を見たときも、植物質のものが発掘されること自体が衝撃でしたが、今回も同じ種類の驚きがありました。土器や石器のような“硬いもの”だけではなく、編まれた痕跡が残ることで、縄文の手仕事が急に近い距離に来ます。 弥生時代に入ると空気が変わります。福岡市の高畑遺跡では、水田や青銅器工房などが見つかっているという説明があり、稲作社会の広がりと技術の集積が、遺跡として具体化していました。さらに、後漢書に記された「奴国」を構成するものと同じ、という言及があり、文献に現れる“国”の輪郭が、発掘で補強されていく面白さがあります。歴史は文章だけでできているのではなく、地面の下からも書き足されるのだと感じます。 同じ福岡市の顕孝寺遺跡では、甕棺や一緒に埋められた青銅武器が展示されていました。甕棺という形式そのものが、死者をどう扱い、共同体の中でどう位置づけたかを語りますし、武器が伴うことで当時の緊張感も透けて見えます。弥生の社会が、ただの農耕の始まりではなく、階層や争い、祭祀など複数の要素を抱えて立ち上がっていく段階だったことが、展示のまとまりから伝わってきました。 鹿児島県さつま市の高橋貝塚の紹介も興味深かったです。資料を再整理・再評価した結果、有明海の交易ルートが開かれた後に衰退したと思われていたものが、...

麓山公園/安積疏水麓山の飛瀑:郡山の“水の歴史”への入口となった朝いちの寄り道

郡山市に来た目的は、郡山市歴史情報博物館の特別展と開成館でした。朝から動ける日だったので、博物館の開館時間に合わせて9時30分ごろに向かい、地図を眺めながら歩いていると、手前に麓山公園があるのに気づきました。「近道にもなるし、少しだけ公園を抜けて行こう」くらいの軽い気持ちで、麓山公園へ入ってみることにしました。 公園の入り口には、日本遺産としての麓山公園の案内があり、その中に「安積疏水(あさかそすい) 麓山の飛瀑」があることが紹介されていました。この時には、まだ安積疏水の名前は聞いたこともありませんでしたが、案内板の時点で少し心を掴まれました。予定の前に寄り道をする罪悪感よりも、「これは見ておいた方が良さそうだ」という気持ちが勝ち、飛瀑へ向かって歩いていきました。 道中には有形文化財の碑も立っていて、ただの公園の景観ではなく、きちんと“遺産”として位置づけられていることが伝わってきます。期待を膨らませながらたどり着いた飛瀑は、ところがその時点では水が流れていませんでした。すぐ横には「メンテナンスのため水を止めていることがあります」という説明があり、なるほど、そういうこともあるのかと納得しつつも、やはり少し残念でした。滝というより、水路の形そのものが見える状態で、乾いた姿を写真に撮りながら、案内板の説明をじっくり読みました。 説明によると、この飛瀑は安積疏水の完成を祝って明治15年に作られたものだそうです。その後いったん埋められたものの、安積疏水の偉業を伝えるために平成3年に復元されたと書かれていました。水が流れていないからこそ、かえって「これは単なる装飾ではなく、記憶を残すための場所なのだ」と意識が向きます。安積疏水が郡山の発展と深く結びついていることは知っていましたが、こうして公園の中に“祝うための滝”という形で残っているのが面白く、歴史の語り方にもいろいろあるのだなと思いました。 さらに、あとで分かったことですが、この飛瀑はこれから向かう予定の開成館とも関係があり、郡山市歴史情報博物館の常設展にも登場していました。つまり私は、目的地に行く前に、偶然その核心に触れていたことになります。旅先でこういう偶然が起きると、それだけで一日の印象が少し良くなります。 麓山公園は飛瀑だけで終わらず、慰霊碑や神社もあり、歩いていると静かな散策の場としての表情も見せてくれました。あ...

寺田倉庫G1ビル:NAKED meets ガウディ展:“作品鑑賞”ではなく“思考体験”としてのガウディ

東京都品川区の寺田倉庫G1ビルで開催された「NAKED meets ガウディ展」に行きました。2月11日の午後に一度訪れたときは、想像以上の人気で入場が3時間待ちになってしまい、その日は予定を変更して引き返しました。せっかくなので仕切り直し、別の日の朝10時少し前に再訪すると、この時間でもすでに人が多く、入口を抜けた先のエレベーター前でしばらく待つことになりました。展覧会が始まる前から熱量が伝わってきて、「ガウディは“作品”というより“体験”として見られているのかもしれない」と思いながら列に並びました。 会場に入ると、まずガウディの生涯が簡潔に紹介されます。19世紀後半から20世紀初頭のバルセロナは、産業の発展とともに都市が急速に膨張し、同時にカタルーニャ独自の文化が芸術へと結晶していった時代でした。いわゆるモデルニスモ(カタルーニャ・モダニズム)の潮流の中で、ガウディは歴史主義や装飾の流行に回収されない、自然の秩序そのものを建築へ翻訳するような道を選びます。その入口として、この展覧会は「自然から得た造形美」を前面に出していました。 印象的だったのは、自然物と建築部位を並べて見せる導入です。「小麦」とサグラダ・ファミリア上部の塔、「にんにく」とカサ・バトリョの換気塔、「糸杉の円錐」とベリュスグアルドの塔、「キノコ」とグエル公園の煙突、「樹の柱」とサグラダ・ファミリア内部の柱、「ハチの巣」とカサ・カルベットの覗き穴といった対応関係が、説明とレプリカ展示で示されていました。ここで面白いのは、自然を“模倣”するというより、自然の形が生まれる理屈や強度のあり方を“借りている”ように感じられる点です。曲線は気まぐれな装飾ではなく、重さを受け流し、光を導き、空間を育てるための構造そのものなのだと、最初のコーナーだけでも伝わってきました。 次のコーナーでは、バルセロナ来訪後のガウディの作品が、少し変わった見せ方で並びます。壁面にエル・カプリチョ、カサ・ビセンス、グエル邸、アストルガ司教館、カサ・ボティネスなどのファサードが立体的に配置され、そこにプロジェクションマッピングのような映像が流れていました。建物を単体で鑑賞するというより、街の中で呼吸し、時間とともに表情を変える“都市の一部”として体感させる構成で、バルセロナの通りを歩きながら次々に建築に出会う感覚がうまく再現されている...

品川神社:自由の碑へ続く雨上がりの寄り道

朝から雨が続いた日でした。午後になってようやく小降りになり、止みそうな気配も出てきたので、寺田倉庫G1ビルのガウディ展に向かいました。ところが想像以上の混雑で、入口では整理券が配られていて、入場できるのは3時間後と言われてしまいました。雨上がりの時間を無駄にしたくなくて、近場で行けそうな場所を探しているうちに「板垣退助の墓」という案内を見つけ、予定を切り替えて歩き出しました。 目的地に着いてみると、そこには品川神社がありました。旧東海道の北品川宿の鎮守として知られる神社で、宿場町のにぎわいとともに時代を重ねてきた場所だと思うと、急に足取りがゆっくりになります。  入口の石造鳥居は、柱に龍が巻き付くような彫刻が施されていて、雨で濡れた石肌の陰影がいっそう細部を際立たせていました。昇り龍と降り龍の意匠があるため「双龍鳥居」と呼ばれるそうで、最初から強い印象を残す門構えです。 鳥居の脇には大黒天の石像もあり、ここが東海七福神めぐりの札所になっていることを思い出しました。 境内へは、少し長めの石段を上ります。雨で滑りやすくなっていて、足元に神経を集中させる時間が、かえって気持ちを整える“間”になりました。上り切ると、正面に朱色が目を引く社殿が現れ、右手には神楽殿も見えます。宿場町の鎮守らしく、人の往来を見守ってきたであろう落ち着きと、朱の色の強さが同居しているのが印象的でした。 品川神社は、文治3年(1187年)に源頼朝が海上交通安全と祈願成就を願い、安房国の洲崎明神(洲崎神社)から天比理乃咩命を勧請したのが創始とされます。のちに宇賀之売命や素盞嗚尊も祀られ、江戸時代には徳川家の庇護も受けたという由緒を知ると、旅と交通の結節点であった品川という土地の歴史が、そのまま神社の性格に刻まれているように感じます。  参拝を済ませたあと、いよいよ裏手へ回って板垣退助の墓所に向かいました。案内板の周辺には「板垣」と刻まれた墓石がいくつも並び、最初はどれが本人のものか少し迷います。奥へ進むと、あの有名な「板垣死すとも自由は死せず」の碑が目に入り、ここが確かに“板垣退助の場所”なのだと腑に落ちました。 ただ、墓石の正面に「退助」と大きく刻まれているわけではありません。私も念のため墓石を一通り写真に収め、後で調べて、法名の「邦光院殿賢徳道円大居士」が刻まれた墓石が本人の墓で...