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21_21 DESIGN SIGHT:企画展「方丈記に学ぶ –生きるを編み直す小さな建築–」:方丈からキャンプ、そして宇宙船へ――小さな住まいから広がる想像

東京都港区の21_21 DESIGN SIGHTに行きました。 この日は「ルーヴル美術館展 ルネサンス」を見るために国立新美術館を訪れ、その後、サントリー美術館、泉屋博古館東京と、美術館をはしごしました。まだ少し時間があったので、東京ミッドタウンに戻り、最後に立ち寄ったのが21_21 DESIGN SIGHTです。訪れたときには、企画展「方丈記に学ぶ –生きるを編み直す小さな建築–」が開催されていました。 聞いたことはあっても、知らなかった『方丈記』 『方丈記』という名前は、もちろん聞いたことがあります。ただ、誰が書いたのかと聞かれると、答えられません。作者が鴨長明だと知って「あぁ」と思い、さらに「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」という冒頭の一節を見て、また「あぁ」と思いました。 『方丈記』、鴨長明、そして「ゆく河の流れは」という文章。どれも耳にしたことはあるのに、自分の中では、ばらばらの知識になっていました。知っているつもりのものでも、少し確かめてみると、実は名前に覚えがあるだけだったりします。 『方丈記』は、鎌倉時代初期の1212年に書かれた随筆です。題名にある「方丈」は一丈四方のことで、およそ三メートル四方、約九平方メートルという小さな空間を指します。長明は京都の日野山に構えたその庵で暮らしながら、世の無常や、自分の住まいと生き方について書きました。 ただし、最初から静かな山暮らしに憧れて書かれた、気楽な隠居生活の記録というわけではありません。その背景には、度重なる災害や飢饉、遷都、そして人間関係の悩みがありました。変わらないと思っていた暮らしが、いつまでも続くとは限らない。その不確かさを前にして、何を頼りに生きればよいのかという問いがあったようです。そう考えると、八百年以上前の随筆も、ずいぶん現代に近づいてきます。 今回の展覧会は、その『方丈記』を古典文学として詳しく解説するというより、小さな庵を出発点に、現代の暮らしを考える企画です。建築家やデザイナー、美術家たちが、それぞれの「方丈の庵」を構想しています。僕の目には現代アートの展示として映りましたが、建築やデザインを通じて、生き方そのものを問い直そうとするものなのでしょう。 小さな住まいに、それぞれの人生 会場で興味を持ったのが、「方丈巡礼」として紹介されていた、小さな住まいに身を置い...
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泉屋博古館東京:特別展 没後100年記念 住友春翠―仕合せの住友近代美術コレクション:集める楽しみ、残す仕合せ

東京都港区の泉屋博古館東京に行きました。「ルーヴル美術館展 ルネサンス」を見るために国立新美術館を訪れ、その後、サントリー美術館を経て、こちらへ来ました。この日開催されていたのは、特別展「没後100年記念 住友春翠―仕合せの住友近代美術コレクション」です。 サントリー美術館では、阪急東宝グループの創業者で、「逸翁」と号した小林一三のコレクションを見てきました。続いて、こちらでは住友家の住友春翠です。同じ日に二人の実業家の美術品を見たことで、作品そのものだけでなく、それを集めた人が何を考え、美術とどのように関わっていたのかにも、自然と目が向きました。 個人の楽しみから、社会に残る財産へ 春翠は、住友家第15代当主の住友吉左衞門友純の号です。1864年に公家の徳大寺家に生まれ、西園寺公望を兄に持ち、住友家には婿養子として入りました。家業の近代化を進める一方で、美術品の収集や芸術文化の支援にも力を注いだ人物です。今回の展覧会は、1926年に亡くなった春翠の没後100年を記念したものでした。 第1章は「ノブレス・オブリージュの目覚め」です。春翠は1897年に約8か月にわたる欧米視察を行い、企業経営だけでなく、実業家による社会貢献のあり方にも触れました。美術を自分の邸宅で楽しむことと、それを社会に役立てることが、彼の中では次第につながっていったようです。 美術館や博物館を巡っていると、個人が建てた施設や、個人のコレクションを基礎にした展示によく出会います。普段は作品の名前や作者を中心に見ていますが、その作品が今ここにあるまでには、誰かが買い求め、大切に保管し、次の人へ引き継いだ時間があるのだと、改めて感じました。 そこで、仕事でも身近な現代のIT業界の富裕層のことを、少し考えました。少なくとも私が普段接する情報の中では、こうした美術館やコレクションの話は、それほど目に入りません。ただ、自分が知らないだけかもしれませんし、百年後に残ったものを見ている私たちが、現在とそのまま比較することもできません。 今は高級車や腕時計、宝石として個人に楽しまれている品々も、いつか、その時代の技術や美意識を伝える展示品になるのかもしれません。現在の私たちが「贅沢な趣味」と見るものと、未来の人が「貴重な文化資料」と見るものは、必ずしも別ではないのでしょう。大切なのは、何を所有したかだけでなく、それ...

サントリー美術館:逸翁美術館コレクション 蕪村・呉春と茶の湯の名品:名品をたどって出会った、実業家の遊び心

東京都港区のサントリー美術館に行きました。国立新美術館で「ルーヴル美術館展 ルネサンス」を見た後、東京ミッドタウンへ移動してきました。以前、ミッドタウンで仕事をしていたので、美術館の存在は知っていましたが、実際に入るのは、おそらく初めてです。 このとき開催されていたのは、「逸翁美術館コレクション 蕪村・呉春と茶の湯の名品」でした。最初は「逸翁」が何を意味するのか分かりませんでしたが、入口の説明を読んで、阪急東宝グループの創業者、小林一三の雅号だと知りました。逸翁美術館は、そのコレクションをもとに昭和32年(1957)に大阪府池田市に設立された美術館です。小林一三の名前も今回初めて知りましたが、明治時代の起業家に興味がある自分にとって、美術品とともに一人の実業家の生涯に出会う機会になりました。 第1章の「古筆と経巻」では、まず古筆切が紹介されていました。古い巻物や冊子から、優れた筆跡の一部分を切り取ったもので、掛軸に仕立てたり、手鑑と呼ばれる帖に貼ったりして鑑賞してきたそうです。少し前に東京国立博物館の本館でも、似たようなものを見た気がしました。帰宅後に調べてみると、そちらは絵巻の一部分である「断簡」でした。古筆切も断簡の一種なので、もとの書物の一部を独立した作品として楽しむという点で、つながっていたことになります。 小野道風の筆と伝わる、平安時代の《継色紙「あまつかぜ」》では、紙のつなぎ目も含めて一つの掛軸になっていることが気になりました。もとは冊子の見開き二枚に、一首の和歌を散らして書いたものだそうです。継ぎ目で分けるのではなく、左右の紙と余白を合わせた姿に意味があったのだと分かりました。書の鑑賞には、文字の形だけでなく、紙面のどこに書き、どこを空けるかという楽しみもあるようです。 伝藤原公任筆の《石山切 伊勢集「ぬきためて」》は、一見すると、何か汁物でもこぼしたように見えました。ところが、これは紙を破って継ぎ合わせる「破り継ぎ」という技法によるものでした。不規則な境目も、料紙の装飾の一部なのです。何も知らずに見たときの印象が、説明を一つ知るだけで変わっていきます。平安時代の書を読むのはまだ難しいですが、紙そのものにも鑑賞の入口があることを教えてもらいました。 鎌倉時代の《伊勢物語下絵梵字経断簡》も、最初は文字の間に墨が飛び散っているように見えました。よく見ると、...

国立新美術館:ルーヴル美術館展 ルネサンス:人だかりの向こうで、少しずつつながるルネサンス

東京都港区の国立新美術館で、「ルーヴル美術館展 ルネサンス」を見てきました。 今回は日時指定のチケットではなかったため、そこまで混雑しないだろうと、少し甘く考えていました。しかし、10時の開館ごろに到着すると、すでに長い列ができていました。入館してからも、作品の前には分厚い人だかりがあり、近くでじっくり見られるものはほとんどありませんでした。 レオナルド・ダ・ヴィンチの《美しきフェロニエール》以外は自由に鑑賞できるとはいえ、自由に動けることと、作品がよく見えることは別です。楽しみにしていた展覧会だっただけに、鑑賞環境には残念さが残りました。そのため、ここから書く感想の多くは、会場で十分に見られなかった作品を、後から図録で見直して気づいたことです。 「旅」が運んだ、見知らぬ世界と絵画の技法 第1章のテーマは「旅」でした。1500年ごろのヨーロッパについて説明されており、最初に大きな《ヴェネツィア共和国の使節団を迎えるダマスクス総督》が展示されていました。その後には、旧約聖書の「ヨブの物語」と「ロトの物語」を装飾に取り入れた天文機器などが続きます。 ここでいう旅は、名所を訪ねることだけではありません。15世紀から16世紀には、交易や外交、学問、芸術家の修業などを通じて、人や物が行き来していました。その移動に伴って知識や技法も伝わり、ルネサンスの美術が育まれていったのです。巨匠がそれぞれの場所で作品を生み出した、というだけでは見えてこない時代の姿です。 アルブレヒト・デューラーの《サイ》は、会場では「サイの絵か」ぐらいにしか思いませんでした。しかし、図録を読んでみると、この作品の背景には、当時のヨーロッパの人々にとって大きな出来事がありました。1515年、インドから運ばれたサイがリスボンに到着したのです。ヨーロッパでは長い間、生きたサイを見る機会がなく、その姿を伝える報告が各地に広まりました。デューラー自身は実物を見ておらず、伝えられた記述や、素描も手がかりにしたと考えられています。 図録ではヴァレンティン・フェルナンデスの記述が紹介されていました。見たことのない動物を、これだけサイらしく描けるデューラーにも驚きますが、その姿を言葉で伝えた人の観察力や記述力にも感心します。写真を送ることのできない時代には、何をどう説明すれば相手に伝わるのか、今以上に工夫する必要があったの...

綏靖天皇 桃花鳥田丘上陵:初代のすぐそばに、知られざる二代目

 奈良県橿原市の綏靖天皇 桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)に行きました。 「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修のクラウドファンディングで、支援者限定の収蔵庫公開に参加するため、奈良県を訪れました。法隆寺、斑鳩文化財センター、藤ノ木古墳を見学した後、タクシーで橿原考古学研究所附属博物館に移動しました。その後、神武天皇陵を参拝し、続いて綏靖天皇陵に向かいました。 綏靖天皇(すいぜいてんのう)という名前は、正直なところ、聞いたことがありませんでした。帰りの電車で調べてみると、第2代天皇ということでした。初代の神武天皇と第2代の綏靖天皇の陵が、隣り合うように存在していることになります。 綏靖天皇は、『古事記』や『日本書紀』によると、神武天皇の子で、父の死後、異母兄との皇位継承争いを経て即位したとされています。その後、葛城高岡宮(現在の奈良県御所市付近)で政治を行ったと伝えられています。 ただし、綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇は、歴史上の事績に関する記録が極めて少ないことから、「欠史八代」と呼ばれています。これらの天皇については、実在したのかどうかも含めて、歴史学上の議論があります。 また、現在の綏靖天皇陵がこの場所に定められたのは、明治11年(1878年)のことです。それ以前には別の古墳が陵と考えられていた時期もあり、古代から現在まで、同じ場所が綏靖天皇陵として認識され続けていたわけではありません。 つまり、初代と第2代の天皇陵が隣接していることは興味深いものの、それが実際の親子の墓の位置関係を示しているとまでは言えないようです。 綏靖天皇陵も、他の多くの天皇陵と同じように、外から見ると森のような姿をしていました。ただし、神武天皇陵と比較すると、敷地はかなり小さめでした。宮内庁による陵形は円丘とされていますが、木々が茂っているため、参拝する側からは古墳の形を確かめることは難しい場所です。 神武天皇陵の壮大な敷地を見た後だったので、規模の違いが特に印象に残りました。天皇陵といっても、時代や場所によって大きさや形はさまざまです。もっとも、綏靖天皇陵の場合、現在の陵が実際にいつ築かれ、誰が埋葬されたものなのかという点にも、まだ分からないことがあります。 拝所で参拝を済ませ、駅に向かいました。 この日は、法隆寺の金堂壁画に始まり、藤ノ木古墳に関す...

神武天皇 畝傍山東北陵(四条ミサンザイ古墳):鳥居の向こうに、日本の始まりを思う

奈良県橿原市の、神武天皇 畝傍山東北陵に行きました。陵名は「うねびやまのうしとらのすみのみささぎ」と読み、宮内庁が初代の神武天皇の陵として管理している場所です。 今回奈良を訪れたのは、「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修を支援するクラウドファンディングに参加し、支援者限定の収蔵庫公開を見学するためです。法隆寺、斑鳩文化財センター、藤ノ木古墳を巡ったあと、タクシーで橿原考古学研究所附属博物館へ移動しました。神武天皇陵には、その博物館を見終えてから立ち寄りました。 前回この博物館を訪れたときにも、近くに神武天皇陵があることには気づいていました。ただ、そのときは展示の内容が難しく、見終わったころには頭がいっぱいになってしまい、さらに歩く気力が残っていませんでした。今回はそこまでの疲労感はなかったので、前回見送った場所まで足を延ばすことにしました。 天皇陵といえば、僕がこれまで訪れたところは、外から見るとたいてい森のような姿でした。名前のよく知られた天皇の陵でも、目の前の木々を眺めているだけでは、その違いを実感するのはなかなか難しいものです。神武天皇陵も、やはり森でした。 ただ、正面に二つの鳥居が見え、その姿が、これまで見たほかの陵よりも少し豪華に感じられました。もっとも、「初代天皇の陵」ということで、僕の方が勝手に特別なものとして受け止めていたのかもしれません。同じように森を眺めていても、誰の陵とされているかによって、印象は変わるものです。 神武天皇は、『古事記』や『日本書紀』で初代天皇とされる人物です。日向から東へ向かい、大和に入って橿原で即位したという物語が伝えられています。『日本書紀』の紀年に従えば、その即位は紀元前660年になります。ただし、こうした年代や事績には神話・伝承の要素が強く、神武天皇の実在が歴史学的に確認されているわけではありません。 陵墓そのものの歴史を調べてみると、現在の場所が神武天皇陵と定められたのは、江戸時代末の文久3年(1863年)でした。陵墓の場所を定めることを「治定」といいますが、このときの治定に伴って整備が行われ、明治以降も手が加えられてきました。初代天皇の陵と聞くと、ひたすら遠い昔を想像しますが、現在の景観には、もっと新しい時代の歴史も重なっています。 また、「四条ミサンザイ古墳」という呼び名もありますが、奈良県の案内では、古墳で...

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館:分からなさも楽しい、古代の馬具と研究者の熱量

奈良県橿原市の奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に行きました。 今回の奈良行きのきっかけは、「法隆寺みらいプロジェクト」の収蔵庫改修を支援するクラウドファンディングでした。その支援者限定の収蔵庫公開に参加し、法隆寺、斑鳩文化財センター、藤ノ木古墳を見学した後、タクシーで橿原へ移動しました。 この博物館を訪れるのは、今回で二度目です。前回は5月、キトラ古墳を見学した後に立ち寄りました。そのときに見た特別展「葬る―弥生人は墓に何を託したか?」は、説明パネルの文字が多く、強く印象に残っています。最近訪れる博物館では、短く分かりやすい説明を目にすることが多いのですが、ここでは「まだまだ伝えたいことがあります」とでも言うような、少し違う熱量を感じました。 今回の目的は、特別展「ウマと馬具―国宝・藤ノ木古墳出土品修理事業成果展2―」です。修理を終えた藤ノ木古墳出土の馬具のうち、普段は見る機会の少ないB・Cセットを中心に、馬そのものや馬具、保存科学の仕事を紹介する展覧会です。直前まで藤ノ木古墳の現地を歩いていたこともあり、そこで見た古墳と、そこから見つかった品々を結びつけるつもりで訪れました。 馬がいなかった時代から、馬の埴輪へ 展示は、馬に関する基本的な話から始まります。 3世紀の倭の様子を伝える『魏志倭人伝』には、牛や馬がいないという記述があります。これだけで当時の日本列島全体の状況を断定することはできませんが、少なくとも、後世のように馬が人々の暮らしに定着した社会としては描かれていません。 朝鮮半島から伝わった馬の飼育が、日本列島で本格的に広がるのは、古墳時代中期にあたる5世紀ごろです。各地の遺跡から見つかる馬の骨や歯、馬具、馬形埴輪などが、その広がりを知る手がかりになります。「古墳時代には馬がいた」と一括りにするのではなく、長い古墳時代の途中で、馬を飼い、扱う文化が広がっていったと考える必要があるようです。 会場には、大阪府の蔀屋北遺跡から出土した5世紀の馬の歯や、長野県の新井原・高岡古墳群から出土した馬の頭骨が展示されていました。馬具や埴輪だけでなく、実際に生きていた馬の一部を見ると、古代の馬が少し具体的な存在になります。また、馬の絵が線刻された円筒埴輪もあり、立体の埴輪とは違った形でも、馬の姿が残されていました。 馬形埴輪は、これまでも各地の博物館で何度も見ています。...