鹿児島県姶良市にある龍門滝を訪れました。 今回の鹿児島旅行の一番の目的は、「白い零戦」を見ることでした。事前に調べた情報を頼りに知覧特攻平和会館へ向かいましたが、残念ながら目的としていた白い零戦は展示されていませんでした。 しかし、旅行計画を立てた段階から、知覧特攻平和会館だけでなく、知覧や指宿周辺の名所も巡るつもりでした。公共交通機関だけでは移動が難しい場所が多いため、今回は観光タクシーを貸し切りました。 知覧では特攻隊に関係する戦争遺跡を訪ね、知覧武家屋敷通りでは薩摩の武士たちが暮らした町並みに触れました。その後は釜蓋神社、池田湖、西大山駅、区営鰻温泉、指宿市考古博物館「時遊館COCCO」、幼少の篤姫・於一像と、南薩摩を中心にさまざまな場所を巡りました。 於一像を見たあとは、東京へ戻るため鹿児島空港へ向かいました。高速道路を利用して空港へ向かう途中、最後に立ち寄ったのが龍門滝です。 駐車場に到着した時点では、周囲の山や木々に隠れて滝の姿は見えませんでした。案内に従って少し歩いていくと、山の間から白い水の流れが少しずつ現れました。最初から全景が見えるのではなく、歩みを進めるにつれて滝が姿を現すため、自然の奥に隠された場所へ近づいていくような感覚がありました。 龍門滝は、高さ46メートル、幅43メートルに達する大きな滝です。数字だけを見たときには、縦と横の長さが近いため、正方形に近い形を想像していました。しかし、実際には両側を木々の茂った山に囲まれており、中央を水が勢いよく落ちているため、幅の広さよりも高さが強調され、縦長の滝らしい姿に見えました。 黒っぽい岩肌を何本もの白い水流が滑り落ち、その周囲を濃い緑が囲んでいます。滝を形成している岩盤は、地層に入り込んだマグマが冷えて固まった安山岩で、柱状節理も見られるそうです。現在の美しい景観は、鹿児島の火山活動と長い年月をかけた水の流れによって生み出されたものでもあります。 龍門滝は古くから薩摩の名所として知られ、現在は「日本の滝百選」にも選ばれています。その名前は、かつてこの滝を見た唐人が「漢土の龍門瀑を見るが如し」と称賛したことに由来すると伝えられています。遠い中国の名瀑にたとえられるほど、昔の人々にとっても印象的な景観だったのでしょう。 今回の旅では、当初の目的だった白い零戦を見ることはできませんでした。しかし、そ...
鹿児島県指宿市にある「幼少の篤姫・於一像」を訪れました。 今回の旅では、「白いゼロ戦」を求めて知覧特攻平和会館に向かいました。しかし、残念ながら目的としていた白い零戦は展示されていませんでした。もともと知覧特攻平和会館だけでなく、知覧や指宿周辺も観光するつもりで観光タクシーを貸し切っていたため、その後は知覧の戦争遺跡や武家屋敷通り、釜蓋神社、池田湖、西大山駅、区営鰻温泉、指宿市考古博物館などを巡りました。 指宿市考古博物館を見学した後は、東京へ戻るため鹿児島空港へ向かいました。すでにこの日の観光は終わったような気分でしたが、高速道路に入るまで少し時間があったため、運転手さんが篤姫ゆかりの場所へ案内してくれました。 この場所には、江戸時代に今和泉島津家の別邸がありました。今和泉島津家は、薩摩藩主の島津家に連なる一門家の一つです。別邸は初代の島津忠郷によって宝暦4年(1754年)に建てられ、現在の今和泉小学校の敷地に当たります。建物は残っていませんが、周辺には当時の石垣や松林があり、校庭には井戸や手水鉢なども残されています。 ただし、現在は小学校の敷地です。学校の安全を考えれば当然のことですが、観光地の史跡のように自由に中へ入り、井戸などを見学することはできませんでした。外から眺めるだけでも、歴史上の人物が過ごした場所が、現在も地域の子どもたちが学ぶ場所として使われていることに不思議なつながりを感じます。 篤姫は天保6年(1835年)、今和泉島津家の島津忠剛の娘として生まれました。後に薩摩藩主の島津斉彬の養女となって篤姫と名乗り、さらに近衛家の養女を経て、安政3年(1856年)に第13代将軍徳川家定の正室となりました。家定の死後は天璋院と称し、幕末から明治へと社会が大きく変化するなかで、徳川家の人々を支えました。 鹿児島湾のほとりには、海を望む場所に幼少期の篤姫を表した於一像が立っていました。この像は平成24年(2012年)に建立されたもので、後に江戸城大奥へ入り、日本史に名を残すことになる篤姫の、少女時代の姿を表しています。 立派な衣装に身を包んだ大奥の女性としてではなく、故郷の海を眺める少女として表現されているため、歴史上の人物というよりも、この土地で育った一人の少女として篤姫を身近に感じられました。於一が実際にどのような思いでこの海を眺めていたのかは分かりませんが...