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櫛引八幡宮:南部の地に息づく八幡信仰の記憶

青森県以北が久々に最高気温30度以下になったので、都内から離れて青森県の八戸市に来ました。 メインの目的は、世界遺産の是川遺跡の博物館である是川縄文館(これかわじょうもんかん)ですが、少し寄り道して櫛引八幡宮(くしびきはちまんぐう)に向かいました。 櫛引八幡宮は、青森県八戸市に位置する歴史ある神社です。本殿など5棟の社殿が重要文化財に指定され、国宝や重要文化財の甲冑なども境内国宝館に展示されています。 櫛引八幡宮は、1191年(建久2年)に南部家初代の南部光行(なんぶみつゆき)によって創建されました。櫛引八幡宮は、八幡神(誉田別命:ほんだわけのみこと、応神天皇)を主祭神として祀っており、武運や勝利の神として多くの武士に崇拝されてきました。 本殿は、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、細部に施された彫刻や極彩色の文様等の華やかな意匠に桃山時代の遺風が認められます。重要文化財です。1648年(慶安元年)に建立されました。 本殿の前の現在の拝殿は、1984年(昭和59年)に作られたものです。 拝殿を右(東)に行くと、天照大神(あまてらすおおかみ)を祀る神明宮があります。こちらも重要文化財です。1739年(元文4年)に創建されました。基礎部分は自然石の磁石の上に乗っています。屋根は流れるような美しい曲線になっています。 拝殿から左(西)に進むと、春日社があります。重要文化財です。神明宮と同じ1739年(元文4年)に創建されました。小規模ですが奈良の春日大社と同じ様式です。 春日社の南には、旧拝殿(長所、ながどころ)があります。重要文化財です。本殿と同じ1648年(慶安元年)の建立です。上部の白い板にはは、昔は緑色の一面の草花が描かれていました。 拝殿の南にある正門(南門)も重要文化財です。 正門のさらに南には、国宝館があります。旧国宝(現在の重要文化財)の鎧の赤糸威鎧(あかいとおどしよろい)、白糸威褄取鎧(しらいとおどしつまとり)や兜の展示、櫛引八幡宮や南部氏に関する資料が展示されています。 白糸威褄取鎧は、南北朝時代(1336年~1392年)に作られたもので、南朝の天皇で97代天皇の後村上天皇から根城7代目当主の南部信光(なんぶ のぶみつ)が拝領したものです。卯の花威鎧とも呼ばれています。1411年に秋田での戦の必勝祈願を櫛引八幡宮で行い、凱旋の際に奉納されました。...

上田端八幡神社

子規の墓所がある大龍寺に行ったところ、道中にお祭りののぼりがあったので、上田端八幡神社(かみたばたはちまんじんじゃ)に寄ってみました。 現在の北区の田端は、江戸時代に田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端に分かれていました。各地域に八幡神社が祀られていて、上田端の八幡神社が上田端八幡神社です。下田端の方は田端八幡神社です。 八幡神社(はちまんじんじゃ、八幡宮)は、八幡神(やはたのかみ)を祀る神社です。八幡神は誉田別命(ほんだわけのみこと、品陀和気命)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされています。 上田端八幡神社は、1189年(文治五年)に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定(奥州征伐)し、その帰路に駐留した証として、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し、郷土の鎮守として創建されました。この由緒は、田端八幡神社と同じで、もともとは一つの神社であったとも言われています。 上田端八幡神社の近くには、「争いの杉」という杉がありました。これにはいくつかの逸話があり、奥州へ源義経を討伐に向かう途中の畠山重忠が杉か松かで家来と言い争ったという話、太田道灌が杉か松かで家来と言い争ったという話、二本杉で争うように立っていたからという話があります。この杉は鉄道の敷設の際に道灌山に移植されました。 具体的な日にちは分かりませんが、近いうちに祭があるようで、神輿の準備がされていました。 旅程 駒込駅 ↓(徒歩) 大龍寺 ↓(徒歩) 上田端八幡神社 ↓(徒歩) 田端駅 周辺のスポット 大龍寺 田端八幡神社 旧古河庭園 六義園 東洋文庫ミュージアム 地域の名物 関連スポット 田端八幡神社 リンク