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レトナ公園:プラハの風が運ぶ静けさ、メトロノームが見つめる街

プラハ観光の二日目、旧市街地やプラハ城を歩き尽くしたあと、坂を下る前に立ち寄ったのがレトナ公園でした。プラハ城の北側に広がるこの公園は、街を見渡す丘の上にあり、風が心地よく通り抜ける静かな場所でした。 公園に入る少し手前には「クラマーシュ邸」と呼ばれる立派な建物がありました。調べてみると、これはチェコの首相公邸とのことです。門の向こうに邸宅が見えるほどの距離で、思いのほか開けた場所にあり、治安や安全面が少し気になるほどでしたが、それだけ治安の良い国なのかもしれません。 公園に入ると、太い木の枝に縄で吊られたブランコがあり、まるで絵本の一場面のようでした。実際に乗れるのかは分かりませんでしたが、西洋の童話に出てくるような雰囲気が漂っていて、石造りの街並みとはまた違った優しい空気が流れていました。 さらに進むと、広場のような場所に巨大なメトロノームが立っていました。高さ20メートルを超えるこのメトロノームは、かつてここにあったスターリン像の跡地に建てられたものだそうです。音楽の都プラハにふさわしいモチーフでありながら、時の流れや歴史の変化を象徴しているようにも感じました。 眼下には、ヴルタヴァ川と赤い屋根が連なるプラハの街が一望でき、夕暮れが少しずつ街を金色に染めていく光景は忘れられません。観光地としての華やかさだけでなく、歴史と日常が静かに交わる場所として、レトナ公園は印象に残るひとときでした。 旅程 (略) ↓(徒歩) クラム・ガラス宮殿 ↓(徒歩) Old Town Bridge Tower ↓(徒歩) カレル橋 ↓(徒歩) 聖ミクラーシュ教会(マラー・ストラナ) ↓(徒歩) プラハ城 ↓(徒歩) 聖ヴィート大聖堂 ↓(徒歩) レトナ公園 ↓(徒歩) ホテル 周辺のスポット プラハ城 国立技術博物館 ルドルフィヌム 旧ユダヤ人墓地 Spanish Synagogue リンク Letná Park | Avantgarde Prague Letenské sady in Prague | VisitCzechia Kramář Villa | Prague City Tourism

聖ヴィート大聖堂:ゴシックの極致、プラハの空にそびえる祈りの塔

プラハ城の敷地内の聖ヴィート大聖堂(Katedrála svatého Víta)に向かいました。 聖ヴィート大聖堂は、ゴシック建築の傑作で、チェコ最大のカトリック大聖堂です。プラハ城の中に位置し、何世紀にもわたってチェコ王やボヘミア王国の重要な儀式、例えば戴冠式や王族の葬儀が行われてきました。 925年、聖ヴィート大聖堂が建設される以前、プラハ城内に、聖ヴァーツラフ(ボヘミア公のヴァーツラフ1世、チェコの守護聖人)の指示で小さなロマネスク様式の礼拝堂が建てられました。これが聖ヴィートに捧げられた建物の原点です。 929年、この礼拝堂は聖ヴィートに献納されました。当時、聖ヴィートは神聖ローマ帝国において重要な聖人であり、チェコの君主たちにとっても信仰の象徴でした。 1060年、スピチフニェフ2世がロマネスク様式の大聖堂を建設しました。この時期には既に、プラハ城がチェコの政治的中心地として重要な地位を占めていました。 1344年、プラハが司教区から大司教区に昇格したのを機に、神聖ローマ皇帝カール4世(当時ボヘミア王、カレル1世)は、より壮大な大聖堂の建設を決定します。これが現在のゴシック様式の聖ヴィート大聖堂の建設の始まりです。カール4世はプラハを神聖ローマ帝国の首都にするため、フランスやドイツのゴシック大聖堂に匹敵する壮大な教会を望みました。 1344年当初は、フランス人建築家マティアス・アラスが建設を監督し、最初の計画を立案しました。彼はフランスのゴシック様式に影響を受けた設計を行い、特に西側のファサードと高いアーチ天井の部分にそのスタイルが反映されています。 マティアス・アラスが1352年に亡くなると、ペトル・パルレーが建設を引き継ぎました。パルレーは大胆で独創的なデザインを導入し、大聖堂の建築スタイルにさらなる深みを与えました。彼は、特に装飾的な細部や彫刻において独自のスタイルを反映させ、また、天井や窓のデザインをより複雑で豪華なものにしました。彼の影響は聖ヴァーツラフ礼拝堂や中央塔などに見られます。 15世紀は、フス戦争(1419年–1434年)によって、チェコ国内が宗教的対立に揺れ、大聖堂の建設は一時中断しました。戦争により財政が悪化し、建設は事実上止まってしまいました。 16世紀~17世紀、ルネサンス様式やバロック様式が支配的になった時代に、大聖堂の修復...

プラハ城:城の石畳に刻まれたボヘミアの記憶、プラハの丘から千年の記憶を見下ろす

午前中は旧市街を探索し、カレル橋を渡ってプラハ城に来ました。 プラハの丘の上に静かにたたずむプラハ城は、ただの城というにはあまりにも豊かで、あまりにも深い歴史の層を抱えています。ヴルタヴァ川の西岸から旧市街を見下ろすその姿は、まるでプラハという都市の記憶そのものを体現しているかのようです。 この城の起源は9世紀後半にさかのぼります。ボヘミア公ボジヴォイ1世が築いた小さな要塞が始まりでしたが、それはやがて中欧の歴史の大舞台へとつながる大城郭へと成長していきます。中世にはボヘミア王国の中枢として、さらには神聖ローマ帝国の皇帝たちの居城としても用いられました。14世紀にはカール4世がゴシック様式の拡張を命じ、文化と政治の一大拠点としてその姿を整えていきます。 なかでもひときわ目を引くのが、聖ヴィート大聖堂です。その尖塔は遠くからでもよく見え、ゴシック建築の粋を集めた荘厳な姿は訪れる者を圧倒します。チェコの守護聖人ヴァーツラフに捧げられたこの聖堂では、歴代の王たちが戴冠式を行い、そして眠りにつきました。ステンドグラスの光が差し込む礼拝堂では、まるで時が止まっているかのような静けさが広がります。 一方、旧王宮に足を踏み入れると、ルネサンス期のヴラジスラフ・ホールが迎えてくれます。その広大な空間は、かつて騎馬試合が催され、王の権威と栄光が讃えられた場所です。ここから続く聖イジー教会では、さらに時を遡ったロマネスク建築がひっそりとその存在を示しています。赤いファサードと丸いアーチが特徴的なこの教会は、現在では国立美術館の分館として静かな芸術の空間となっています。 そして訪れる人々が心惹かれるのが、黄金小路です。小さなカラフルな家々が並ぶこの通りは、まるでおとぎ話の世界に迷い込んだかのような不思議な空気に包まれています。かつて錬金術師や城の衛兵が住んでいたという伝説もあり、20世紀初頭には作家フランツ・カフカが一時この地に住んでいたことでも知られています。 旧市街地のカフカ像 黄金小路の拷問器具博物館では、華やかなプラハ城の別の側面も見ることができます。 今日のプラハ城は、単なる過去の記憶にとどまらず、チェコ共和国の現在とも結びついています。城内には大統領府があり、衛兵交代式が厳かに行われ、国の中枢としての役割を今なお担っています。また、城のテラスから見下ろすプラハの街並みは、赤い...

聖ミクラーシュ教会(マラー・ストラナ)/ 聖三位一体の柱:カレル橋からの寄り道、丸屋根の下で見上げた天井画

プラハ観光2日目の午後、カレル橋からプラハ城へ向かう坂道を上る途中で、マラー・ストラナ地区の聖ミクラーシュ教会(St. Nicholas Church)に立ち寄りました。 旧市街の喧騒から少し離れるだけで空気が変わり、石畳の広場に面して現れる大きなファサードと丸いドーム、そして時を刻む鐘楼のシルエットがまず目を奪います。正面に配された聖人像も堂々としており、外観だけでもバロックの迫力を十分に感じました。 中へ入ると、外観以上の華やかさが広がっていました。黄金色に輝く祭壇装飾や彫像、柱頭の緻密な細工が連なり、見上げればドーム全体を満たす天井画が空へ抜けるように描かれています。ドームの主天井画はフランティシェク・ザヴェル・パルコによるもので、内部の彫刻にはフランティシェク・イグナーツ・プラツェル作品が並びます。さらにパイプオルガンは約4,000本のパイプを備え、1787年にはモーツァルトもここで演奏したと伝わります。音の残響が豊かな空間で、当時の音色を想像するだけで胸が高鳴りました。 この教会は、13世紀のゴシック教会跡に1704年から1755年にかけて建てられたプラハ・バロックの代表作です。設計・施工には、父クリストフと子キリアン・イグナーツのディーンツェンホーファー親子が深く関わり、のちにアンセルモ・ルラーゴが塔をロココ様式の趣で完成させました。曲線を多用した平面計画と巨大なドーム、光の取り込み方が相まって、空間全体がうねるように感じられるのが特徴です。 外へ出ると、広場の一角に立つ「Column of the Holy Trinity(聖三位一体の柱)」が、教会と向かい合うようにそびえています。1713~14年のペスト終息への感謝として1715年に建てられた記念柱で、設計はジョヴァンニ・バッティスタ・アリプランディと伝えられます。基壇部をめぐる小さな泉と、チェコゆかりの聖人像が取り囲む構成はとても象徴的で、近寄って見ると金色の装飾が夕光にきらりと反射していました。広場を行き交う人々の足元で、水音だけが静かに響くのも印象的でした。 カレル橋から城へ続く王道の途中にありながら、教会の内部では時間が緩やかに流れます。外の塔時計が現実に引き戻してくれるまで、天井画と彫像の世界にしばし浸りました。プラハの壮麗なバロックは、遠目の景観だけでなく、細部の仕事にこそ惚れ込むべきだ...

カレル橋:中世から続くヴルタヴァ川に響く音楽と旅人が集う橋

プラハ観光の二日目、朝から旧市街地を歩きながら、チェコ随一の名所であるカレル橋へと向かいました。空は雲ひとつない快晴で、ヨーロッパの夏の陽射しがまぶしく感じられました。 カレル橋は、14世紀の神聖ローマ皇帝カレル4世によって建設が始められた歴史ある橋です。ヴルタヴァ川に架かるこの石橋は、長い間プラハの交通の要としてだけでなく、市民や旅人の憩いの場として愛されてきました。橋の両側には30体もの聖人像が並んでおり、ひとつひとつ異なる表情や仕草が、何世紀にもわたるチェコの歴史や信仰を物語っているようでした。 朝早くから多くの観光客や地元の人々でにぎわい、橋の上ではストリートミュージシャンの音楽や、時折現れる大道芸人のパフォーマンスが彩りを添えていました。音楽が流れる中、橋の上をゆっくり歩きながら、時折立ち止まって像を眺めたり、ヴルタヴァ川のきらめきを見下ろしたりと、特別な時間を過ごしました。 カレル橋はただの古い橋ではなく、プラハの歴史そのものが息づく場所だと実感しました。旧市街からマラーストラナ地区へと続くこの橋を渡ることで、時代を超えて人々が行き交い、思い思いの物語を紡いできたことが感じられます。青空の下、にぎわう橋の上で、私もその歴史の一部になったような気持ちになりました。 旅程 (略) ↓(徒歩) クラム・ガラス宮殿 ↓(徒歩) Old Town Bridge Tower ↓(徒歩) カレル橋 ↓(徒歩) 聖ミクラーシュ教会(マラー・ストラナ) ↓(徒歩) プラハ城 ↓(徒歩) 聖ヴィート大聖堂 ↓(徒歩) レトナ公園 ↓(徒歩) ホテル 周辺のスポット Old Town Bridge Tower マラー ・ストラナ橋塔 リンク カレル橋 - 観光名所

ティーンの前の聖母教会:旧市街広場の向こうにそびえる黒い双塔

本日、プラハ観光の1日目に旧市街地を歩いていて、ふと視線の先にまるで物語の世界から飛び出してきたような教会が現れました。目印にしていたのは、旧市庁舎の天文時計がある旧市街広場です。観光客でにぎわう広場の向こう側に、黒い尖塔を二つ並べた巨大な建物がそびえ立っていました。それが「ティーンの前の聖母教会」でした。 広場から見る教会は、赤やパステルカラーのかわいらしい建物に囲まれているにもかかわらず、そこだけ空気の色が違うように感じました。二本の塔の先は鋭く尖り、その根元からさらに細長い小さな尖塔がいくつも突き出しています。すべてが黒っぽい色で統一されているので、私には「教会」というより、ファンタジー映画に出てくる悪役の城のようにも見えました。実際、この教会の塔は高さ約80メートルあり、旧市街のシンボルとして遠くからでもよく目立つ存在なのだそうです。 広場から近づいていくと、建物の表情は少しずつ変わっていきます。正面は他の家々に隠れるように建っていて、細い通路を抜けると、ようやく教会の壁が目の前に現れました。壁の煉瓦や石の積み方がはっきりと見え、長い年月を耐えてきた重みを感じます。と同時に、どこかおどろおどろしさもあり、明るい旧市街広場とのコントラストが印象的でした。あとで知りましたが、「ティーンの前」という名前は、もともとこの近くに外国商人のための交易施設「ティーンの中庭」があり、その前に建てられた教会だったことに由来するそうです。 この場所の歴史をさかのぼると、11世紀にはすでにロマネスク様式の教会が建っていて、13世紀半ばには初期ゴシックの教会に建て替えられていました。現在見られる大きなゴシック教会の建設が本格的に始まったのは14世紀で、カール4世の時代のプラハを飾る建築プロジェクトの一つでした。その後、約200年もの時間をかけて工事が進められ、15世紀にはほぼ現在の姿に近い形になり、旧市街の人びとのメインの教会として機能するようになっていきます。 しかし、この教会の歴史は、ただ荘厳なゴシック建築というだけでは語れません。15世紀には、宗教改革者ヤン・フスの流れをくむフス派(フス教徒)の拠点となり、フス派の指導者ヤン・ロキツァナがここの司祭を務めていました。 当時、教会の中央破風にはフス派の象徴である巨大な金の聖杯が掲げられていたといいます。しかしやがて勢力を取り戻し...

旧市庁舎(プラハ):窓から始まった戦争、ゴシックの影と晴れ渡る空のコントラスト

2泊4日のチェコの首都プラハの観光に来ました。天気と気温だけでなんとなく選んだ都市でしたが、中世ヨーロッパの街並みが残る雰囲気と、おいしい食事、親切な人々と、本当に良い旅でした。 たまたま見つけたApple Musiumを見学した後、旧市庁舎を見に行きました。天気は快晴で、街の石畳や建物の陰影がくっきりと浮かび上がり、中世の趣をいっそう引き立てていました。 旧市庁舎は14世紀に建てられた建造物で、プラハの政治や歴史の中核を担ってきました。その中でも特に有名なのが、15世紀に取り付けられた天文時計です。通常であれば、毎正時になると十二使徒が動く仕掛けが見られるのですが、私が訪れた時はちょうど改修工事中で、残念ながらその姿を見ることはできませんでした。それでも、建物の外観からは中世ヨーロッパの精緻な技術と美意識が今もなお息づいているのを感じました。 広場には観光客があふれ、活気に満ちていました。人々の言葉がさまざまな国の言語で飛び交い、ここが世界的に愛される都市であることを実感します。そして、旧市庁舎前の広場からふと遠くを見上げると、尖塔が空に向かって鋭く伸びるティーン教会がそびえており、その姿にはただただ圧倒されました。ゴシック建築の荘厳さと、時の流れを超えてきた威厳が感じられる景色でした。 この旧市庁舎の近くでは、歴史的に有名な「プラハ窓外放出事件」が起こりました。1618年、宗教対立が深刻化する中で、プロテスタントの貴族たちが不満を抱き、カトリック側の役人を窓から放り出したという事件です。この出来事は「三十年戦争」の引き金の一つとなり、ヨーロッパ全体を巻き込む大戦争へとつながっていきました。街を歩いていると、こうした歴史が今も建物の石や通りの名前の中に息づいているように感じます。 天文時計は見られなかったものの、それ以上にプラハという都市の奥深さと歴史の厚みに触れることができた一日でした。またいつか、今度は天文時計が時を刻む姿を見に、改めてこの地を訪れたいと思います。 プラハ窓外放出事件 プラハ窓外放出事件(Defenestrations of Prague)は、ボヘミア(現在のチェコ)で発生した3つの歴史的事件を指し、いずれも政治的・宗教的対立が背景にあります。特に1419年と1618年の事件は、それぞれフス戦争と三十年戦争の引き金となりました。 1419年:第...