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カシマサッカーミュージアム:地方都市・鹿嶋で味わう、スポーツと歴史の散歩道

城県鹿嶋市にあるカシマサッカーミュージアムを訪れました。目的は鹿島神宮への参拝でしたが、その帰り道、せっかく鹿嶋市まで来たのだからと足を伸ばしてみることにしたのです。 カシマサッカーミュージアムは、鹿島アントラーズのホームであるカシマサッカースタジアムの中に位置しています。鹿島神宮から歩いて向かう道すがら、遠くに見えてくるスタジアムの大きな姿が印象的でした。普段、サッカーの試合が開催される日は、きっと多くのサポーターでにぎわうのでしょうが、この日は特にイベントもなく、スタジアム周辺も人影はまばら。地方都市らしい静けさが漂い、どこか非日常の雰囲気を味わえました。 ミュージアムの中も来館者は少なく、ゆったりと展示を見て回ることができました。入り口では、Jリーグ黎明期を象徴するジーコの大きな写真が来場者を迎えてくれます。1990年代、Jリーグが誕生した頃、よくテレビでサッカー中継を観ていた私には懐かしい光景です。 館内には歴代のボールやユニフォーム、シューズなどが展示され、サッカーファンでなくとも日本サッカーの歩みを感じることができます。最近はあまりサッカーの試合を観ていませんでしたが、展示の中には見覚えのある選手の名前や顔も多く、思わず足を止めて見入ってしまいました。 ミュージアムを見学した後は、スタジアムの観客席にも立ち寄ることができました。誰もいない広々としたスタジアムを静かに眺めていると、ここで繰り広げられる数々のドラマや歓声が、少しだけ感じられるような気がします。日常の喧騒から離れた静かな時間の中で、スポーツの持つ熱気や歴史の重みが静かに心に残りました。 なお、サッカーの試合がない日は、スタジアム周辺の交通機関も運行していないことが多いようです。そのため、帰りは鹿島神宮まで少し遠い道のりを、のどかな地方の風景を楽しみながら歩いて戻りました。人の少ない静かな鹿嶋の町を歩くことで、都会とは違う空気や時間の流れを味わうことができた一日でした。 カシマサッカーミュージアムは、サッカーに詳しくなくても、地域の歴史や文化、そしてスポーツが持つ力を感じられる場所です。鹿島神宮とあわせて訪れることで、より深く鹿嶋の魅力を知ることができるのではないでしょうか。 旅程 (略) ↓(徒歩) 水郷潮来あやめ園 ↓(徒歩) 潮来駅 ↓(JR鹿島線) 鹿島神宮駅 ↓(徒歩) 塚原ト伝生誕の...

鹿島神宮:鹿が導く参道、ボールが躍る街、凶を結んで道ひらく

午前中に水郷潮来あやめ園の静かな水辺を歩き、午後は鹿嶋市へ移動して鹿島神宮に向かいました。 鹿島神宮駅から参道へ向かう途中、「塚原卜伝生誕の地」の案内と、凛々しい卜伝の銅像に出会います。戦国期の剣豪がこの地に生まれ、のちに“鹿島の武神”と結びついた剣術を大成したと思うと、参拝前から背筋が伸びました。 駅周辺にはアントラーズを思わせるサッカーボールの石像や鹿のモチーフも見かけ、街全体が神社とサッカーの気風でつながっていると感じます。 朱色の楼門をくぐると、空気が一段ひんやりと変わりました。鹿島神宮は東国随一の古社で、御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。古くから武の守護神として崇敬されてきました。 現在の社殿群は江戸初期の造営が核になっており、家康が関ヶ原戦勝の奉謝として1605年に造営(のち奥宮本殿へ)。続いて二代・秀忠が1619年に現在の本殿を再建、さらに水戸藩祖・徳川頼房が1634年に楼門を寄進しています。楼門は高さ約13メートル、日本三大楼門の一つで重要文化財です。 参道の砂が柔らかく、両脇の杉が高くそびえ、境内全体が森のように広がっていました。公式案内によれば、境内地は東京ドーム15個分に及び、御手洗池や鹿園など見どころが点在します。時間の流れがゆるむようで、都会の喧騒をすっかり忘れます。 まずは大きな鳥居をくぐっておみくじを。結果は人生初の「凶」。仕事も健康も順調な今こそ気を引き締めよう、と軽く笑いながら結び所に結びました。 拝殿で手を合わせ、さらに奥へ。静けさの中に人の往来が絶えず、古社ならではの息づかいを感じます。 奥宮のあたりは、江戸の将軍家の庇護を物語る建築が続き、歴史と信仰が重なり合う濃密な一角でした。 そこから林間の小道をたどって「要石(かなめいし)」へ。地中深くまで伸びるとされる霊石で、武甕槌が地震を起こす大鯰(なまず)を鎮めるという伝承で知られます。鹿島の要石は“凹”、対をなす香取神宮は“凸”という言い伝えもあり、東国の大地を押さえる要(かなめ)の物語に思いを馳せました。 境内では松尾芭蕉の句碑にも足を止めました。芭蕉は1687年に鹿島詣でを記し、『鹿島紀行』として残しています。森の匂いに混じって、旅の余韻のような静けさが漂っていました。 そして鹿園へ。奈良と縁の深い“神鹿”が今も大切に守られ、参道の喧騒から一歩離れた小さな聖域のよ...

塚原ト伝生誕の地:鹿島神宮への道すがら出会った剣聖のまなざし

鹿島神宮を目指して鹿島神宮駅を出て歩き始めると、思いがけない出会いがありました。駅から神社へ向かう道の途中、「剣聖 塚原卜伝生誕之地」と書かれた大きな看板と、公園の一角に立つ堂々とした卜伝の像が目に入ったのです。目的地はあくまで鹿島神宮でしたが、戦国時代の剣豪として名前だけは知っていた人物ゆかりの場所に偶然行き当たったことがうれしく、足を止めて眺めていきました。 石像の卜伝は、両手で刀の柄に手を添え、静かにこちらを見つめていました。実際の顔立ちは分からないものの、「生涯無敗」とも伝わる剣士にふさわしい、隙のない立ち姿です。周囲には生誕地を示す石碑もあり、駅前の住宅や車の往来を背景にしながらも、この一角だけ時間が少しだけ戦国時代にさかのぼったような、不思議な空気をまとっていました。 案内板などによると、塚原卜伝は延徳元年(1489年)、常陸国一之宮である鹿島神宮の神職・卜部家の次男として生まれ、のちに沼尾の塚原城主・塚原安幹の養子となったとされています。幼いころから実父からは「鹿島の太刀」、養父の系統からは天真正伝香取神道流を学び、その二つの流れを統合して「鹿島新當流(鹿島新当流)」を開いた人物です。十代で廻国修行に出て各地の武士と立ち会い、のちに三度の修行でおよそ生涯の半分近くを旅と鍛錬に費やしたともいわれています。 修行を終えて鹿島に戻った卜伝は、鹿島神宮に千日籠もって精神修養に励み、その中で自らの剣の到達点ともいえる「一之太刀」を会得したと伝えられます。この太刀は「国に平和をもたらす剣」とされ、卜伝は「剣は人を殺める道具ではなく、人を活かす道である」という考えのもと、将軍足利義輝や多くの大名たちにも剣を教えました。戦乱の世にあっても平和を志向したその姿勢が、彼を「剣聖」と呼ばせた所以なのだろうと想像します。 ネットで調べてみると、鹿嶋市内には卜伝の墓が梅香寺にあり、そちらも「パワースポット」として知られているようです。ただ、今回はあくまで鹿島神宮への参拝が主目的で、墓所は市内の別の方向にあるため、時間的に足を伸ばすのは断念しました。それでも、生誕の地に立つ銅像だけでも、鹿島の地と卜伝のつながりを実感するには十分でした。 こうして「塚原卜伝生誕の地」は、鹿島神宮への道すがらふと立ち寄った小さな寄り道となりました。しかし、その寄り道のおかげで、鹿島という土地が単に古...