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世良田東照宮:徳川のルーツにふれる夕暮れの参拝旅

世良田東照宮を訪れたのは、初夏の夕方のことでした。朝に埼玉県の深谷駅を出発し、渋沢栄一ゆかりの地や、世界遺産に登録された田島弥平旧宅を巡りながら北上しました。途中で「徳川町」と名付けられた一帯を通り、徳川氏ゆかりの地としての空気を少しずつ感じつつ、旅の締めくくりのように世良田東照宮へと向かいました。 世良田は、かつて新田氏の荘園・新田荘の一角であり、徳川家康の先祖とされる新田義季がこの地の「得川(徳川)郷」を領したことから、のちに徳川氏発祥の地とされてきた土地です。義季は利根川沿いの押切の地名を「徳川」と改め、自身も徳川義季と名乗ったと伝えられています。その子孫が三河に移り松平氏を称し、そこからさらに世代を重ねて家康が生まれました。家康はやがて三河を統一し、先祖・義季にあやかって姓を松平から徳川に改めたといわれています。徳川という名は、まさにこの世良田の地と結びついた名前なのだと思うと、まだ境内に入る前から歴史の層の厚さを意識させられます。 そんなことを頭の片隅に置きながら歩いていくと、まず目に入ったのは黒く落ち着いた佇まいの門でした。朱色の華やかな東照宮を想像していたので、最初は少し意外にも感じましたが、よく見ると、色味を抑えた分だけ木の質感や年月の積み重ねがよく伝わってきます。磨かれ過ぎていない落ち着いた門が、むしろ「徳川発祥の地」を守ってきた長い歳月を物静かに語っているようでした。 ところが境内に入ると、拝殿はちょうど改装工事の最中で、建物全体が工事用の幕にすっぽりと覆われていました。せっかく来たのに拝殿が見られないのか、と一瞬残念な気持ちになりましたが、仮の拝殿が設けられており、まずはそちらで参拝しました。簡素ではありますが、臨時とはいえきちんと「東照宮」としての空気が漂っていて、旅の無事を感謝しつつ手を合わせました。 そのあと、本殿に向かうための仮設の通路が拝殿の裏手に伸びていました。工事中ならではのルートで、足元に気をつけながら進んでいくと、ふだんは拝殿に隠れてなかなか近づけない本殿のあたりまで行くことができました。世良田東照宮の社殿は、三代将軍・徳川家光が日光東照宮の造替を行った際、日光の奥社の社殿をこの地に移して創建したものと伝えられています。今考えてみると、改装工事中だったおかげで、本殿により近づいて参拝できたのは、むしろ貴重な体験だったのかもしれ...

新田義重夫妻の墓(徳川館跡の宝塔) / 徳川東照宮(太田市)

群馬県太田市の「新田義重夫妻の墓」を訪ねました。 朝は埼玉県の深谷駅から、世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産である「田島弥平旧宅」へ。田島弥平旧宅のあと、案内所に立ち寄って展示と解説を拝見し、歩いて世良田駅方面へ向かう予定を伝えたところ、学芸員の方から「この近くに“徳川氏発祥の地”があるんですよ」と教えていただき、この辺りも散策することにしました。蚕種家の近代化に触れた朝から、徳川のルーツへ――一本の道筋の上に、日本の歴史の異なる層が重なっていることに胸が躍りました。 町に入ると、道路沿いの案内や説明板に「徳川氏発祥の地」の文字が現れます。ここ太田市の旧・徳川郷(得川郷)は、源氏の嫡流・新田氏の地にあたります。平安末から鎌倉初頭にかけてこの地域を開いた新田義重の四男・義季(よしすえ)が徳川郷に住み、「徳川(得川)」を称したのが徳川氏の始まりと伝えられています。のちに義季の後裔が三河へ移り松平を名乗り、さらに家康の代で再び「徳川」を称したという系譜は、現地資料や市の解説でも繰り返し語られてきた物語です。土地の名がそのまま氏の名となり、やがて天下の姓となっていくダイナミズムを、地名「徳川町」にいまも感じます。 江戸時代に入ると、この一帯は幕府から特別な庇護を受けて栄えました。現在、夏には弘前市と結ぶ「尾島ねぷた祭り」が開かれるなど、歴史の縁が現在進行形で受け継がれています。 まず手を合わせたのが「新田義重夫妻の墓」です。住宅地の一角にひっそりと立つ宝塔は、天神山凝灰岩で造られたと伝わり、静かな空気の中で時の重みを感じさせます。史料的には「伝・新田義重墓」とされる点に学びの余地を残しつつも、ここで一礼する行為そのものが、土地に積もった記憶へ敬意を払うことだと改めて思いました。夫妻の墓の近くには徳川東照宮もあり、こちらも参拝しました。 深谷から始めた日帰りの小さな寄り道は、思いがけず日本史の大河へ合流する散歩になりました。絹産業が近代国家を形づくった足跡をたどった朝から、徳川の名の起点に触れた午後へ。史跡の数は多くても、町は静かで、参拝の時間もゆったり流れます。帰り道、「地名は歴史の器だ」とつぶやきながら、案内板の「徳川氏発祥の地」の文字をもう一度振り返りました。過去から現在へ、そして私たちの暮らしへ――名前に込められた物語は、今日も確かに生き続けていると感じま...

縁切寺満徳寺資料館:徳川ゆかりの地の時代を超える「決断」の場所

縁切寺として知られる満徳寺を訪れました。朝は深谷市で渋沢栄一にゆかりのある史跡や、世界遺産にも登録されている田島弥平旧宅を巡り、そこから歩いて満徳寺へと向かいました。このあたり一帯は徳川氏発祥の地でもあり、田島弥平旧宅案内所の学芸員の方にそのことを教えていただいて、地域の歴史にも興味を持ちながら散策していた中で、偶然満徳寺に出会いました。 満徳寺は、江戸時代に縁切寺として多くの女性たちを受け入れてきた寺院です。当時の日本社会では、女性が自分の意思で離縁を求めることは非常に難しく、法律や慣習により多くの制約がありました。満徳寺はそんな女性たちの「最後の駆け込み寺」として、夫との離縁を願う妻たちを受け入れ、一定期間の庇護のもとで離縁成立の手続きをサポートしていました。 資料館では、離縁の手続きや当時の社会背景についての解説映像や、貴重な史料の展示を見ることができます。実際に駆け込んだ女性たちがどのような思いで寺を訪れたのか、また縁切寺がどれほど社会的に重要な役割を果たしていたのかが丁寧に紹介されていました。現代の目で見ると「縁切り」と聞くとマイナスイメージもありますが、女性の人権が認められていなかった時代にとっては、満徳寺の存在は一筋の光だったのだと感じます。 現在の満徳寺の敷地には、当時の姿を伝える本堂などの建物が復元されており、発掘調査によって明らかになった跡地や史料も整備されています。歴史を感じながら、静かな境内を歩くと、ここがかつて多くの女性たちの人生の分岐点であったことを思わずにはいられませんでした。 旅の途中でふと立ち寄った満徳寺でしたが、時代を超えて受け継がれてきた女性たちの切実な思いと、社会の変化を肌で感じる貴重な時間となりました。 旅程 (略) ↓(徒歩) 日本基督教団島村教会 ↓(徒歩) 田島弥平旧宅 ↓(徒歩)  縁切寺満徳寺資料館 ↓(徒歩) 新田義重夫妻の墓(徳川館跡の宝塔)  ↓(徒歩) 徳川東照宮(太田市) ↓(徒歩) 世良田東照宮 ↓(徒歩) 新田荘歴史資料館 ↓(徒歩) (略) 周辺のスポット 新田義重夫妻の墓(徳川館跡の宝塔)  関連スポット 東慶寺(鎌倉):縁切寺の一つ リンク 縁切寺満徳寺遺跡 - 太田市ホームページ(文化財課) 縁切寺満徳寺資料館 | 太田市観光物産協会 縁切寺満徳寺資料館 | スポッ...