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中野氷川神社:コロナ禍の冬、ひっそりと手を合わせる日

年末の本日、いつもは年末は海外に出かけますが、代わりに都内を歩いて、中野区の中野氷川神社をお参りしました。 境内にはお祭りの提灯がいくつも下がり、コロナ禍で多くの行事が中止されていた時期にも、初詣の準備が少しずつ戻りつつある気配を感じました。この日は人影もまばらで、本殿に一礼してから、静かな社域をゆっくり一周して帰りました。年末の冷たい空気と紙垂のかすかな揺れが、妙にすっきりした気持ちにさせてくれました。 中野氷川神社は、旧・中野村の総鎮守として知られ、社伝では長元3年(1030)に武蔵国一宮・大宮氷川神社を勧請して創建されたと伝わります。御祭神は、荒ぶる力と禊の清めを象徴する須佐之男命、物語でその妃となる稲田姫命、そして国づくりの神として知られる大己貴命の三柱です。いずれも関東各地の氷川系の社に共通する顔ぶれで、武蔵野の開拓や村落の守護と結びついて語られてきました。 この社は中野の歴史とも縁が深く、江戸・近世の頃には地域行事の中心でもありました。例祭は現在、毎年9月中旬に行われ、各町会の神輿が練り歩く中野区でも最大級の祭礼として知られています。静かな年末の境内からは想像しづらいにぎわいですが、季節が巡れば大通りを封鎖しての連合神輿や太鼓の披露もあり、地域の力を感じさせる華やぎに包まれます。 年末のひっそりした空気の中で、一礼して振り返ると、提灯の列の向こうに小さな社殿が凛として立っていました。海外に行けない不自由さはありましたが、足元の暮らしのそばにある古社に向き合うことで、むしろ「いつもの東京」に守られている実感がありました。千年の時を超えて続く鎮守の神さまに、静かに一年の感謝を伝えられた一日でした。 旅程 都内 ↓(スクーター) 中野氷川神社 ↓(スクーター) 都内 リンク 氷川神社【おひかわさま】 - 東京都神社庁

龍寶山 萬昌院功運寺:吉良上野介と文化人が眠る町角

中野駅にスクーターを置いて周辺を歩いているうちに、静かな門前へ吸い寄せられるように萬昌院功運寺(ばんしょういんこううんじ)にたどり着きました。 山門をくぐると、境内には夏の光が落ち着いて差し込み、コロナ下で遠出ができなかった落ち着かない気分が、すっと静まっていくのを感じました。ここは曹洞宗の寺院で、もともと江戸市中にあった久宝山萬昌院と竜谷山功運寺が大正期に現在地へ移り、戦後の昭和23年に合併して今の寺号になったと伝わります。歴史を調べると、萬昌院は天正2年、今川義元の子・氏真の四男にあたる長得が開基、功運寺は慶長3年に永井信濃守尚政が父祖の菩提のために創建したという由緒で、江戸の記憶を今日へとつなぐ場所なのだと実感します。 この寺を広く知らしめているのが、赤穂事件で名の残る吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしひさ)の墓所です。墓域には吉良家14代から17代の供養塔が並び、討ち入りの夜に斃れた上野介の名も刻まれています。門前には中野区の文化財として吉良家墓所を示す案内板が立ち、歴史の現場が今も地域の手で静かに守られていることが伝わってきました。年末にたびたび上演される『忠臣蔵』のイメージでは悪役として描かれがちな上野介ですが、茶の湯や礼法に通じた教養人としての側面も指摘されており、墓前に立つと、その人物像の複雑さに思いを巡らせずにはいられません。物語がつくった陰影と史実のずれを意識できるのも、史跡を直接訪ねる醍醐味だと感じました。 境内の墓地には、ほかにも文化史を語る名が並びます。江戸後期の浮世絵師・歌川豊国(うたがわ とよくに)の墓は、役者絵や美人画で人気を博した一門の祖にふさわしく、静かな佇まいの中に華やかな江戸の舞台を想像させました。昭和の作家・林芙美子の墓もあり、『放浪記』の一節が胸によみがえるような、飾らない石碑が印象的でした。日々の暮らしの歓びと翳りを掬い上げた作家が、いまは都会の住宅地に包まれて眠っていると思うと、不思議と身近な存在に感じられます。 本堂の前で手を合わせると、境内のすみに幼稚園の建物が見え、ここが地域の日常と地続きであることを思い出しました。江戸から昭和、そして令和へと受け継がれてきた祈りの場は、歴史の重みを湛えながらも、子どもたちの声が似合う柔らかな空気をまとっています。12月には命日にちなむ吉良祭も営まれるそうで、季節の法要や...

宝泉寺:家から歩く旅、中野でつながる郷里の名跡

遠出を控えている時期なので、家から歩いて中井駅まで向かい、その先に連なる寺町を気の向くままに辿りました。塀越しに見える古い瓦、風に鳴る木陰、読経の微かな響き。そうして出会ったお寺のひとつが、中野区上高田にある曹洞宗の宝泉寺(ほうせんじ)でした。境内は隣接する寺院の墓地と連なって広がり、いかにもこの一帯が寺町として育ってきたことを物語っていました。江戸の市中からこの地へ寺々が移ってきた歴史があり、宝泉寺も創建後に江戸城外から牛込横寺町へ、さらに明治に現在地へと移ってきました。都市の膨張とともに寺社が少しずつ居場所を移し、やがて上高田の静けさの中に落ち着いていった過程を想像すると、寺町の景観そのものが近代東京の記憶の層でできているのだと感じました。 境内を巡るうち、目を引く案内板に出会いました。そこには「板倉内膳正重昌(いたくら ないぜんのかみ しげまさ)墓所」とあり、はじめは名前に覚えがありません。後で調べると、板倉重昌は徳川家康の近習を務め、三河国の深溝(ふこうず)に一万余石を領して深溝藩を立てた大名で、寛永15年(1638)に島原の乱の鎮圧にあたり、原城攻めで戦死した人物でした。三河出身の自分としては、同郷の名をここ東京で見いだしたことに、少し遅れて密かな縁を感じます。江戸の政治や軍事の中枢に関わった家柄の菩提寺が、時を経て中野の寺町に根付いている——そんな歴史の連続性と偶然性を、静かな墓所の前で思いました。 宝泉寺は奥州中村の相馬家や備中庭瀬の板倉家の菩提寺でもあり、境内にはそれぞれの石碑が丁寧に守られています。明治期に現在地へ移ったのちも、地域の年中行事や坐禅会が続けられていることを知ると、寺が単なる史跡ではなく、まちの日常に息づく場であることを実感します。寺町を歩く楽しさは、この生活と歴史が自然に重なって見える瞬間にあるのだと思います。 あの日は、知らない名前に足を止め、帰宅後に少し本や資料を開いただけの小さな寄り道でした。それでも、深溝藩のこと、島原の乱のこと、そして江戸から中野へと移ってきた寺々のこと——いくつもの扉が次々に開いていきました。遠くへ行けない時間だからこそ、歩幅ひとつぶんの範囲に眠る歴史の厚みを確かめられた気がします。寺町の路地を抜けて振り返ると、夏の陽に石塔の影が長く伸び、見慣れたはずの中野の風景が、少しだけ重層的に見えました。 旅程 (...

哲学堂公園:門をくぐれば、思索の旅が始まる、宇宙と真理の建築群

本日、東京都中野区にある哲学堂公園を訪れました。この日はよく晴れていて、冬の空気が澄んでおり、公園全体に静謐な雰囲気が漂っていました。 哲学堂公園は、明治時代の哲学者・井上円了(いのうえ えんりょう)によって「哲学を身近に感じてもらいたい」という願いのもとに作られた公園です。園内にはユニークな名前の建造物が点在しており、一つひとつに哲学的な意味や物語が込められています。私はまず、入口近くにそびえる「哲理門」をくぐりました。門をくぐると、日常の世界から一歩踏み出し、思索の空間に足を踏み入れたような気持ちになります。 園内を進むと、まるでお城のような外観の「絶対城」が現れます。この建物は、その名の通り「絶対」や「無限」といった大きな哲学的概念を象徴しているのでしょうか。建物の前に立つと、物事の根源や真理について考えるきっかけを与えてくれる気がしました。 さらに歩みを進めると、「四聖堂」が見えてきました。ここは、ソクラテス、カント、孔子、釈迦という東西の四大哲人を祀った場所です。和洋折衷の独特な建物を眺めていると、時代も場所も超えて人間が探求してきた「知」や「真理」のつながりを感じます。 池のほとりには「概念橋」が架かっていました。この橋を渡ると、考えや発想の世界がさらに広がるような気がします。公園の名前通り、歩くたびに「これはどういう意味なのだろう」「この建物の意図は?」と自然に自問自答が始まります。 また、「演繹観」や「宇宙館」といった建物も独特で、哲学堂ならではの非日常的な空気感を醸し出しています。それぞれの建物が、「演繹」や「宇宙」といった大きなテーマについて考えさせてくれる存在であり、散策しながら自分なりの思索を深めることができました。 哲学堂公園は、単なる公園ではなく、日常の喧騒を離れて思索にふけることのできる特別な場所です。冬の晴れた日に訪れることで、凛とした空気の中でゆっくりと自分の思考と向き合う時間を持つことができました。哲学に詳しくなくても、建物の名前や形、配置に触れるだけで自然と「考える」気持ちが芽生える場所です。都心の一角にある、静かな思索の庭をぜひまた訪れたいと思います。 現象と実在 私たちはふだん、「見えているものが、そのまま本当の姿だ」と思いがちです。しかし、ストローが水の中で折れているように見えたり、夕日が赤く見えたりするのは、実際の物体の...