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和歌山城:紀州徳川家の歴史を巡る旅

紀伊風土記の丘で天王塚古墳を見学した後、帰りの電車までに少し時間が余っていたので、市の中心に移動し、和歌山城と和歌山県立博物館に行くことにしました。 和歌山城 (わかやまじょう) は、和歌山県和歌山市にある歴史的な城で、紀州徳川家の居城として知られています。江戸時代には徳川御三家の一つである紀州藩の中心として栄え、多くの歴史的な出来事の舞台となりました。 この城の始まりは、戦国時代の1585年(天正13年)にさかのぼります。豊臣秀吉の命を受けた弟の羽柴秀長が、紀伊国を治めるために築城したのが和歌山城の始まりです。その後、関ヶ原の戦いを経て徳川家の支配下に入り、1619年には徳川家康の十男である徳川頼宣(とくがわ よりのぶ)が城主となりました。これにより、紀州徳川家が確立され、江戸幕府を支える御三家の一つとして重要な役割を果たすことになります。 和歌山城の魅力の一つは、その壮麗な天守閣です。戦災によって一度焼失しましたが、1958年(昭和33年)に再建され、現在は歴史資料を展示する博物館として公開されています。天守閣からは和歌山市内や和歌山湾を一望することができ、訪れる人々にとって見逃せないスポットとなっています。 また、城内には美しい日本庭園が広がっています。特に西之丸庭園(紅葉渓庭園)は、紅葉の名所として知られ、秋には鮮やかな色彩が訪れる人々を魅了します。春になると、和歌山城公園全体が桜に包まれ、約600本の桜が一斉に咲き誇る姿は圧巻です。桜の季節にはライトアップも行われ、夜の幻想的な雰囲気を楽しむことができます。 アクセスも便利で、JR和歌山駅や南海和歌山市駅からバスで約10分、和歌山市駅からは徒歩約20分で到着します。市街地に位置しているため、観光の合間に立ち寄ることもできるのが魅力です。 和歌山城は、歴史と自然が調和した魅力的なスポットです。訪れるたびに異なる表情を見せてくれるこの城は、歴史好きな方はもちろん、四季折々の景色を楽しみたい方にもおすすめです。 旅程 東京 ↓(東海道新幹線 / JR特急くろしお) 和歌山駅 ↓(タクシー) 紀伊風土記の丘 ↓(徒歩) 田井ノ瀬駅 ↓(JR和歌山線) 和歌山駅 ↓(タクシー) 和歌山城 ↓(徒歩) 和歌山県立博物館 ↓(徒歩) 和歌山駅 ↓(東海道新幹線 / JR特急くろしお) 東京 関連イベント 和歌山城公園 さ...

根城:復元された中世の暮らし、南部氏ゆかりの地を歩く

八戸市博物館からすぐ横の根城に向かいました。 根城(ねじょう)は、日本の青森県八戸市にあった中世の城で、南部氏によって築かれました。南北朝時代に、南朝側の武将である南部師行(なんぶ もろゆき)が築いたのが始まりとされています。この城は、八戸地方を支配する拠点となり、その周辺には町も形成されていました。 根城は典型的な中世の城で、自然の地形を活かして防御を固め、土塁や堀で囲まれていました。天守閣などの大規模な石造りの建築はなく、主に木造の建物や、土を使った構造が特徴的です。 根城は14世紀頃に築かれ、その後も何度か増改築が行われましたが、江戸時代になると廃城となりました。 現在、根城跡は「八戸根城跡」として国の史跡に指定されており、復元された主殿や庭園、当時の生活様式を再現した展示が行われています。 八戸市博物館も併設され、根城の歴史や文化を学ぶことができる観光スポットです。 旅程 東京 ↓(新幹線) 八戸駅 ↓(徒歩 約40分) 櫛引八幡宮 ↓(徒歩 約1時間20分) 是川縄文館 ↓(徒歩 約1時間20分) 八戸市博物館 ↓(徒歩) 根城 ↓(徒歩 約50分) 八戸駅 関連イベント 周辺のスポット 櫛引八幡宮 是川縄文館 八戸市博物館 みろく横丁 八戸ポータルミュージアム はっち 八戸市美術館 三八城公園 地域の名物 八戸せんべい汁 サバ料理 イカ料理 南部せんべい しゅうれん(酒粕甘酒) 八戸ラーメン ホヤ料理 八戸ワイン 関連スポット 南部お城めぐり 種里城 浪岡城 野辺地城 七戸城 聖寿寺館 三戸城 九戸城 姉帯城 久慈城 盛岡城 高水寺城 鍋倉城 土沢城 花巻城 金澤城 リンク 史跡根城の広場 | VISIT HACHINOHE | VISITはちのへ観光物産サイト 史跡 根城の広場 | 八戸市博物館・史跡 根城の広場 復原された中世の城 -根城-/八戸市

松山城:空へ続くリフトと石垣の記憶、小春日和に歩く城下の道

湯神社を参拝した後、松山城に向かいました。冬とは思えぬ穏やかな陽気で、遠く石鎚山系までくっきりと見えるほどの好天に恵まれました。 松山城へはロープウェイとリフトのいずれかで向かうことができますが、この日は空と景色をより身近に感じられるリフトを選びました。椅子に揺られながら上がっていく途中、町の屋根が徐々に遠ざかり、松山の街並みが眼下に広がっていく感覚は、日常を離れて旅の時間に入り込むような心地よさがありました。 山上に到着すると、まず小腹を満たすべく立ち寄ったのが、名物の坊ちゃん団子。三色団子の素朴な甘さと熱いお茶が、ひとときの休息をもたらしてくれました。小説『坊っちゃん』でも知られるこの街の味を、ここで味わえたことが何よりうれしく感じられました。 その後、石垣を見上げながら歩を進め、堂々たる門をくぐって本丸広場へ。松山城は1602年に加藤嘉明によって築かれた名城で、江戸時代の面影を色濃く残しています。幾重にも積み上げられた高石垣や、敵の侵入を巧みに防ぐために設計された門や通路は、戦国から江戸へと移り変わる時代の知恵と緊張感を今に伝えてくれます。 本丸に入ると、鎧や刀剣、古文書などが展示されており、城主たちの暮らしぶりや戦の備えがうかがえました。 展示を一通り見たあとは、天守の最上階へ。そこからは松山城山公園や市街地、そして遠く瀬戸内海まで一望することができ、築城者がこの地に城を構えた理由を体感する瞬間でもありました。 再び広場に戻ったあと、次に味わったのはじゃこ天。魚の旨みがぎゅっと詰まった揚げたての一品で、寒さに少し冷えた体に染み渡る美味しさでした。松山城の凛とした空気の中でいただく地元グルメは、旅の記憶に深く刻まれます。 名残惜しさを感じながら、再びリフトで麓へと戻り、松山城見学を終えました。歴史と風景、そして食を楽しむにはぴったりのコースで、訪れる人すべてに満足をもたらす名城だと実感しました。 旅程 ホテル ↓(徒歩) 松山市立子規記念博物館 ↓(徒歩) 道後温泉 ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) 宝厳寺 ↓(徒歩) 伊佐爾波神社 ↓(徒歩) 湯神社 ↓(徒歩) 松山城 ↓(タクシー) 松山市考古館 ↓(タクシー) 子規堂 ↓(タクシー) 松山空港 周辺のスポット 萬翠荘 坂の上の雲ミュージアム 愛媛県美術館 秋山兄弟生誕地 地域の名物 伊予かすり リンク 四...

鑁阿寺:足利の秋、武家の記憶が残る寺院

秋の気配が深まりはじめた本日、足利学校へ向かう途中、私はふと思い立って鑁阿寺(ばんなじ)に立ち寄りました。少し肌寒さを感じる季節ではありましたが、空気は澄んでいて、散策にはとても心地よい日和でした。 鑁阿寺は、鎌倉時代に足利義兼(よしかね)によって創建された、真言宗大日派の本山です。もともとは足利氏の邸宅跡に建てられた寺院で、寺というよりは「武家屋敷と城郭の面影を色濃く残す寺院」とも言われています。 現在も境内には堀や土塁が巡らされており、いわゆる寺院建築とは一線を画す、武士の拠点としての面影を残しています。この独特の歴史的背景から、鑁阿寺は「日本100名城」にも選定されているのです。 境内では、まず本堂で静かに手を合わせました。国宝に指定されているこの本堂は、鎌倉時代の建築様式を伝える貴重な建物で、威厳がありながらも、どこか温かみを感じさせる佇まいです。 その後、多宝塔へ足を運びました。朱塗りの塔は木々の緑や秋の陽射しとよく調和しており、まるで絵画のような景色が広がっていました。 鐘楼の素朴な木造の構造や、経蔵に息づく書物への敬意もまた、鑁阿寺がいかに信仰と学問の場であったかを静かに語りかけてくるようでした。 鑁阿寺は単なる観光名所ではなく、足利氏の興亡を今に伝える歴史の舞台でもあります。そして、足利学校という日本最古の学び舎へ向かう前に、こうしてその祖となった武家の足跡を辿ることができたのは、私にとってとても意味深い体験となりました。今度は春や初夏、あるいは紅葉の盛りにも再訪し、また違った顔の鑁阿寺に出会ってみたいと思っています。 旅程 東京 ↓(電車) 足利市駅 ↓(徒歩) 鑁阿寺 ↓(徒歩) 足利学校 ↓(徒歩) 明石弁天厳島神社(美人弁天) ↓(徒歩) 足利織姫神社 ↓(徒歩) 足利市駅 ↓(東武線) 茂林寺前駅 ↓(徒歩) 茂林寺 ↓(徒歩) 茂林寺前駅 ↓(東武伊勢崎線) 東京 周辺のスポット 足利学校 足利織姫神社 足利市立美術館 明石弁天厳島神社(美人弁天) リンク 国宝 鑁阿寺 鑁阿寺(ばんなじ) | 足利市 公式ホームページ

広島城:平和の街、夏空の下で歴史を感じる一日

真夏の猛暑の中、平和記念公園で静かな時間を過ごした後、広島城(ひろしまじょう)へと足を延ばしました。 平和公園を離れて少し歩くと、徐々にその姿が見えてきます。広島城は別名「鯉城(りじょう)」とも呼ばれ、かつて毛利輝元が1589年(天正17年)に築城を開始し、中国地方の政治の中心地として栄えました。江戸時代は、浅野氏一族の居城となり、約5倍の大きさに拡充されました。広島城は、明治以降も陸軍施設として利用されるなど、歴史の波を経てきましたが、1945年(昭和20年)の原爆によって完全に破壊され、現在の天守閣は1958年(昭和33年)に復元されたものです。 城の中に入ると、常設展が広がっていました。ここでは広島城の歴史だけでなく、戦国時代から江戸時代にかけての武具や文書、そして広島の街の移り変わりをわかりやすく展示していました。展示物をゆっくりと鑑賞していると、外の暑さを忘れてしまうほどでした。 常設展をひと通り見終え、階段を上がって最上階の展望室に向かいました。展望室からの眺めは素晴らしく、眼下には広島市の街並みが一望できます。暑さを伴った空気がかすかに揺れる中、目を凝らすと遠くには瀬戸内海も見え、その景色の美しさにしばらく見入ってしまいました。 展望室から見る広島の街は、かつての悲劇を乗り越えて再建され、活気に満ちています。その風景は、広島が持つ過去と現在、そして未来への希望を感じさせるものでした。 暑さが少し落ち着くまで展望室で過ごした後、再び城を後にしました。猛暑の日に訪れた広島城は、その歴史の深さと街の復興の力強さを感じさせてくれた、印象深い場所でした。 五奉行 豊臣秀吉が政権の頂点にあった時代、その行政機構の中枢を担ったのが「五奉行」と呼ばれる五人の官僚たちです。石田三成、増田長盛、長束正家、浅野長政、前田玄以。この五人は、豊臣政権において政策の実務を司る重要な役割を果たし、それぞれが個性豊かで、後の歴史に大きな影響を与えました。 石田三成は、近江国出身で、幼少期に観音寺で学んだとされます。秀吉に仕えるようになると、その卓越した事務能力と理知的な性格から、五奉行の筆頭として政務の中心を担いました。彼が居城とした佐和山城は、現在の滋賀県彦根市にその遺構を残しており、訪れると当時の緊迫した政治状況を肌で感じることができます。また、彼の出生地に近い長浜市石田町には石...

山中城跡:失われた天守、畝と格子が描く、防御の美学

静岡県の三島スカイウォーク~箱根関所~小田原城を観光してきました。 三島スカイウォーク~箱根関所の途中に山中城跡というのがあったので、バスから降りてみました。 山中城は、北条氏康によって築城され、豊臣氏の小田原征伐における防衛地点の一つでした。北条氏(後北条氏)の滅亡後、山中城も廃城となりました。 他の大名に使用されたり改築することなく廃城となったため、北条氏の特徴が強く残っています。 1930年(昭和9年)に国指定史跡となり、2006年(平成18年)には日本100名城にも選ばれました。 場所は東海道の箱根関所と三島宿の中間ぐらいになります。 山中城跡には、天守閣は復元されていませんが、特徴的な堀が再現されています。上からみると障子のようになっており、障子堀といいます。 城跡のさまざまな場所から富士山を見ることができます。 山中城の堀は石垣を用いずに土のみで造られ、水のない空堀でした。当時から同じような光景を見ていたと思います。 曲輪(くるわ)は土塁、石垣、堀などで城内を分割した区画で、日本では本丸(ほんまる)、二の丸(にのまる)、三の丸(さんのまる)などと名付けられています。山中城にも本丸などの曲輪がいくつかあります。 一番先端にあるすりばち曲輪は、すり鉢状になっており、防衛の拠点でした。 山中城跡のすぐ横には宗閑寺があり、北条軍、豊臣軍の武将たちのお墓があります。敵味方が同じお寺に、しかも陥落した城のすぐ横のお寺にお墓があるというのは、日本的な感じがします。 宗閑寺は副将の間宮康俊 (まみややすとし)の娘の於久の方(おひさのかた)が亡き父を弔うために創建しました。於久の方は後に徳川家康の側室となります。 山中城主の松田直長(まつだなおなが)のお墓には、クルス紋があり、キリシタンであった可能性があります。 他に、間宮康俊の兄弟や一族、多米長定、豊臣軍の一柳直末(ひとつやなぎ なおすえ)などのお墓があります。 旅程 東京 ↓(新幹線) 三島駅 ↓(バス) 三島スカイウォーク ↓(バス) 山中城跡 ↓(バス) 箱根峠 ↓(徒歩) 箱根関所 ↓(バス) 小田原城 ↓(徒歩) 小田原市郷土文化館 ↓(徒歩) 小田原駅 ↓(新幹線) 東京 周辺のスポット 三島スカイウォーク 箱根峠 関連スポット 箱根関所 三島宿 リンク 山中城跡公園 | 三島市観光Web 山中城跡(国指定...

鹿児島城跡/鹿児島県歴史·美術センター 黎明館

連休を利用して鹿児島と宮城の観光に来ています。桜島や高千穂などに行く予定です。鹿児島市のいくつかのスポットを廻ったあと、鹿児島城跡に来ました。 鹿児島城(かごしまじょう)は、江戸時代に薩摩藩の藩主である島津氏によって築かれた城で、鹿児島県鹿児島市にあります。別名「鶴丸城(つるまるじょう)」とも呼ばれていますが、その由来は、城の形状が鶴が羽を広げた姿に似ていることからと言われています。 もともと、鹿児島城跡の西の城山(しろやま)に上山氏の居城の上乃山城(上山城)がありました。後に島津家に明け渡されました。 1601年(慶長6年)、島津義弘(しまづ よしひろ)の三男の島津忠恒(しまづ ただつね、家久(いえひさ))によって、城山の東麓に屋形を築いて居城としました。 島津氏は戦国時代に九州を統一するほどの勢力を誇っており、その後江戸時代には薩摩藩の中心として機能しました。島津氏の居城であったことから、薩摩藩の政治・経済・文化の中心として重要な役割を果たしていました。 鹿児島城は他の日本の城と比較して「天守閣」がないことが特徴です。これは、外敵からの攻撃を避けるというよりも、薩摩藩主が江戸幕府に対して対抗心を抱かず、平和的な姿勢を示すための設計だとも言われています。城の周囲には広い堀があり、城内には重厚な石垣が残っています。 現在、鹿児島城の主要な建物は失われていますが、石垣や堀は今も残っており、その一部は観光名所となっています。城跡は「鹿児島城跡」として国の史跡に指定されており、敷地内には「鹿児島県立博物館」や「鹿児島県歴史資料センター黎明館」などがあり、薩摩藩の歴史や文化を学ぶことができます。 1873年(明治6年)に焼失した御楼門(ごろうもん)の復元工事が行われており、2020年(令和2年)4月に一般公開されます。 黎明館(れいめいかん)は、鹿児島城跡に設立された歴史博物館です。薩摩藩や鹿児島県の歴史・文化に関する資料を展示しており、特に幕末や明治維新に関連する展示が充実しているのが特徴です。黎明館は、1983年に鹿児島城跡地に開館し、鹿児島の歴史を学ぶための中心的な施設となっています。 黎明館は、鹿児島県や薩摩藩の歴史を網羅的に紹介しており、各時代の資料や展示物が豊富に揃っています。特に、以下のようなテーマが扱われています。 黎明館では、薩摩藩を統治した島津氏の歴史に...