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転害門 / 正倉院正倉:奈良時代の宝物庫を目指して、門前で知った平日限定

奈良県奈良市にある正倉院正倉を訪ねました。正確には、訪ねようとしました。 この日は奈良国立博物館の特別展「南都仏画―よみがえる奈良天平の美―」を見るために奈良を訪れていました。奈良国立博物館は遅い時間まで開館していたため、その前に周辺を巡ることにし、元興寺、春日大社、依水園・寧楽美術館、子規の庭と歩いてきました。子規の庭を見たあと、正倉院正倉へ向かいました。 地図を見ながら歩いていると、途中で東大寺の転害門が現れました。東大寺の門といえば巨大な金剛力士像が立つ南大門が有名ですが、転害門もかなり立派な門です。 転害門は奈良時代に造られた国宝で、三間一戸八脚門という形式を持っています。東大寺では二度の大きな兵火によって多くの建物が失われましたが、転害門は奈良時代の東大寺伽藍の姿を伝える貴重な建築として現在まで残っています。平城京の佐保路に面していたことから「佐保路門」とも呼ばれていたそうです。 南大門のような華やかさとは少し違いますが、奈良時代から残る門だと知ると見方も変わります。門の前には広い芝生があり、きれいに整備されていました。 門の裏側へ回ってみると、日陰に鹿が集まっていました。最近は比較的涼しい日が続いていましたが、この日は久しぶりに気温が30度を超えていました。人間でも暑く感じる一日だったので、鹿たちも日陰から動きたくなかったのかもしれません。 そこからさらに歩いて、今回の目的地である正倉院へ向かいました。 正倉院は教科書や本、テレビなどで何度も見てきた建物です。そのため、自分でも一度くらい実物を見たことがあるような気になっていました。しかしGoogle Mapを見ると、私が付けている印は「行った」ではなく「行きたい」のままでした。どうやら、まだ実際には見たことがなかったようです。 正倉院は、もともと東大寺の「正倉」、つまり重要な品々を保管する倉でした。天平勝宝8年(756年)に聖武天皇が亡くなると、光明皇后は天皇が愛用していた品々などを東大寺の盧舎那仏、いわゆる奈良の大仏に献納しました。これらを中心として、東大寺に関係する品々も加わり、現在まで伝えられてきたのが正倉院宝物です。 正倉そのものも奈良時代から残る貴重な建築です。檜造りの高床式で、間口は約33メートルあります。内部は北倉・中倉・南倉の三つに分かれ、北倉と南倉は三角形の木材を組み上げた有名な校倉造...

Bab El Khadra:旧市街の北で出会った異国のアーチ

チュニス観光の2日目に、旧市街(メディナ)の北側にある門「Bab El Khadra(バーブ・エル・カドラ)」を見に行きました。午前中はカルタゴを歩き回っていたので、午後はチュニス市街地に戻って「街そのものの表情」を確かめるように散策し、その流れでこの門に立ち寄りました。 Bab El Khadraは、メディナを取り囲む城壁の“出入口”として機能してきた門の一つで、もともとはハフス朝期の14世紀ごろ(約1320年)に、シンプルなアーチとして造られたとされています。その後、19世紀末のフランス保護領期にあたる1881年に、現在見られる形へと建て替えられました。  史料によっては、通商や交通の便を意識した再整備だったとも説明されています。 現地で目にした門は、印象に残るほど真っ白で、どこか端正でした。チュニスの旧市街には白い壁面の建物やモスクも多く、色のトーンとしては不思議と馴染んで見えます。一方で、現存するBab El Khadraは「ヨーロッパ的な城門」を思わせる意匠だとも言われており、イスラーム都市の門という先入観とは少し違う手触りもあります。  だからこそ、その場では「西洋人が作った日本庭園」のような感覚がふとよぎりました。遠目には“それっぽい”のに、細部の思想や作法は微妙に別物かもしれない、というあの感じです。ただ、違いがあること自体が悪いのではなく、むしろチュニスという街が重ねてきた時間を、ひと目で伝える記号になっているようにも思えました。メディナの歴史的な層の上に、植民地期の層が重なり、いまの交通や暮らしのリズムに接続されている。その継ぎ目の場所に、Bab El Khadraは静かに立っていました。 旅程 ホテル ↓(徒歩) Church of the Resurrection of Christ ↓(徒歩) Bab El Khadra ↓(徒歩) Saheb Ettabaâ Mosque ↓(徒歩) Sidi Mahrez Mosque ↓(徒歩) ホテル

勝利広場/フランス門:新旧がほどける交差点、境い目の広場で見上げた空

ホテルで少し休憩した後、旧市街(メディナ)の探索に出かけました。 ホテルの前が勝利広場(Place de la Victoire、ビクトワール広場)です。 勝利広場は、チュニジアの首都チュニスに位置する歴史的な広場です。この広場は、旧市街(メディナ)と新市街(ヴィル・ヌーヴ)を結ぶ重要な地点であり、交通の要所としても知られています。 メディナとは、アラブ世界の伝統的な都市の旧市街を指す言葉で、特に北アフリカや中東の歴史的な都市で見られます。アラビア語で「都市」や「町」を意味し、通常は都市の中心部に位置し、古くからの商業活動や社会生活の中心地でした。 メディナには、狭い路地や迷路のような通りが特徴で、建物が密集し、壁に囲まれていることが多いです。この構造は防御のために作られ、外敵の侵入を防ぎ、また都市内部の涼しさを保つ役割も果たしています。チュニスやフェズ、マラケシュなどの都市にあるメディナは、歴史的・文化的な価値が高く、ユネスコの世界遺産に登録されているものもあります。 チュニスの勝利広場は、特に有名なフランス門(Bab el Bhar、バブ・アル・バフル)という門によって象徴されています。この門は「海の門」とも呼ばれ、チュニスの旧市街(メディナ)への入り口にあたります。かつては、メディナと港を結ぶ重要な通路でしたが、現在では歴史的なシンボルとして残っています。 フランス門は、かつてチュニスを防御するために築かれた城壁の一部で、13世紀ごろに建設されました。「バブ・アル・バフル」というアラビア語名は「海の門」を意味し、チュニスが港町として重要な役割を果たしていた時代に由来しています。チュニスは当時、地中海と接していたため、海へのアクセスが非常に重要でした。しかし、後に海岸線が後退し、現在ではこの門が海とは直接接していません。 フランスが1881年から1956年までチュニジアを保護領として支配していた時期に、門の近くにフランス風の新市街(ヴィル・ヌーヴ)が建設されました。この影響で、地元の人々はこの門を「フランス門」と呼ぶようになりました。新市街の整備はチュニスの近代化の一環であり、ヨーロッパ風の広い大通りや建築様式が導入されました。 フランス門の外観は、イスラム建築とヨーロッパの影響が融合した特徴を持っています。門自体は比較的シンプルで、石造りのアーチを中心にした構...