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国立科学博物館:特別展「いきもの超ワールド展 国立科学博物館×ダーウィンが来た!」:食べる、動く、群れる、そして命をつなぐ

東京都台東区の国立科学博物館に行きました。 今回は、特別展「いきもの超ワールド展 国立科学博物館×ダーウィンが来た!」のチケットが手に入ったため、特別展を目的に訪れました。 会場に入ると、最初にいくつかの動物の剥製が並んでいます。この展覧会では、珍しい生き物を紹介するだけではなく、生き物が長い進化の歴史の中で、さまざまな環境にどのように適応してきたのかを、感覚、食事、体の大きさ、移動、集団、繁殖といった切り口から紹介していました。 Chapter 1は「五感」です。 人間には視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚がありますが、他の生き物も同じように世界を感じているわけではありません。 視覚の展示では、「鳥目」という言葉について紹介されていました。鳥は夜になると見えなくなるようなイメージがありますが、これはニワトリなどの性質から生まれたもので、もちろん夜間でも視覚を利用して活動する鳥類はいます。 さらに面白かったのが、人間には存在しない感覚です。ヘビの仲間には赤外線を感知する器官を持つものがいて、暗闇でも獲物の体温を手掛かりに位置を知ることができます。私たちは人間の五感を基準に世界を考えてしまいますが、生き物によっては、私たちには見えない世界を「感じて」生きています。 聴覚では、イルカなどが音を発し、その反響によって周囲の状況を把握するエコーロケーションが紹介されていました。象の大きな耳の剥製も展示されており、感覚器官が生き物によって大きく異なることを、実物を通して見ることができます。 嗅覚も多様です。甲殻類は触角、貝類は水管、昆虫は触角や感覚毛、魚類や哺乳類は鼻、爬虫類の一部は舌など、それぞれ異なる器官を利用して化学物質を感知しています。 フェロモンについての展示では、アリが行列をつくる仕組みも紹介されていました。私たちには何もない道に見えていても、アリにとっては仲間が残した情報が存在しているわけです。同じ場所にいても、生き物によって認識している世界そのものが違うのだと感じます。 味覚についても、人間の感覚を基準に考えることができません。人間にとって味覚は栄養を判断するだけではなく、「おいしい」と感じる楽しみにもつながっています。一方、生き物によって食物を選択する目的や味覚の能力は異なり、魚類や海生無脊椎動物の中には、人間とはかなり異なる形で化学物質を感知しているものもいるそ...

書道博物館:仏像の台座、瓦の文字――新しい見方を知る

東京都台東区の書道博物館に行きました。 この日は、東京藝術大学大学美術館で開催されている「藝大式 美術の“ミカタ”―この夏、藝大生になる―」を見るために台東区を訪れていました。しかし、台風の影響で雨が降っていたため、その後は屋内を中心に回ることにして、まず子規庵へ行き、さらにその隣にある書道博物館を訪れました。 書道の美術館というと、2年ほど前に成田山書道美術館を訪れたことがあります。そのときは成田山新勝寺へ行ったついでに見学したのですが、書についてほとんど知識がなかったため、正直なところ、展示されているものを十分に理解できませんでした。 現在も書そのものについての知識が特に増えたわけではありません。ただ、その後、日本史や考古学、日本美術などを少しずつ勉強しているので、以前とは何か違った見方ができるかもしれないと思いました。もちろん、子規庵のすぐ隣にあったというのも大きな理由です。 書道博物館は、洋画家・書家として活動した中村不折が、自ら集めた中国や日本の書道関係資料を公開するため、1936年に自宅敷地内に開館した博物館です。不折は40年以上にわたって甲骨、青銅器、瓦当、石碑、拓本、経巻などを収集しました。現在の書道博物館のコレクションの中心も、これら不折の収集品です。 中村不折と隣の子規庵には、実は深い関係があります。不折は正岡子規と親しく、1895年には子規とともに日清戦争の従軍記者として中国へ渡りました。その後、不折は中国や朝鮮各地の古い文物に触れ、それが書道研究へ傾倒していく大きな契機になったとされています。 子規庵と書道博物館が隣り合っているのも、単に偶然隣に二つの文化施設があるというだけではありません。子規庵を見た直後に書道博物館へ行ったことで、そのつながりを感じながら見学することができました。 この日は、中村不折記念館で開館90周年記念企画展「中村不折と書道博物館―不折のおたから大公開!―」が開催されていました。 まず印象に残ったのが、1階から2階にかけての吹き抜けに展示されていた巨大な広開土王碑の拓本です。 広開土王碑は、高句麗の第19代王である広開土王の功績を記した石碑で、414年に建立されました。高さ6メートルを超える巨大な碑であるため、その拓本も非常に大きなものになります。 大きな拓本を見て、以前、成田山書道美術館で見た「紀泰山銘」の原拓を思い...

子規庵:「ごてごて」と草花茂る小庭へ

東京都台東区の子規庵に行きました。 この日は、東京藝術大学大学美術館で開催されている「藝大式 美術の“ミカタ”―この夏、藝大生になる―」を見るために台東区に来ていました。しかし、台風の影響で雨が降っていたため、その前に屋内を中心に見学できそうな場所として子規庵に立ち寄ることにしました。 正直なところ、ここに正岡子規に関係する史跡があること自体、すっかり忘れていました。Google Mapを見ると「行きたい」マークがついていたため、以前どこかで調べたことがあったようです。 正岡子規といえば、やはり故郷の愛媛県松山市を思い浮かべます。私も松山では子規記念博物館や子規堂を訪れているため、その後に子規の史跡を追加で調べることはなかったように思います。 過去のChatGPTの履歴を調べてみると、どうやら永井荷風に関係する史跡を調べたときに子規庵が出てきたようです。さらに正直に言えば、今度は永井荷風についてなぜ調べたのかが思い出せません。 AIを使うようになってから、以前とは比べものにならないほど広い範囲のことを気軽に調べられるようになりました。当然、そのすべてを人間の頭で記憶しておくことはできません。しかし、忘れていた情報が数年後に思わぬところで再び現れ、それをきっかけに実際の場所を訪れるというのも面白いものです。 この日、雨が降っていても子規庵へ行こうと思ったのには、もう一つ理由がありました。訪問前に少し調べたところ、9月19日は正岡子規の命日だと分かったからです。 正岡子規は1867年に伊予国、現在の愛媛県松山市に生まれました。俳句や短歌の革新を進め、明治時代の日本文学に大きな足跡を残しましたが、若くして結核を患います。1894年から東京・根岸のこの場所で母の八重、妹の律とともに暮らし、病状が悪化してからも句や短歌、随筆を書き続け、1902年9月19日に34歳で亡くなりました。 運命のようなものを強く感じるタイプではありませんが、せっかく訪れるのであれば、こうした関連のある日に訪れた方が記憶にも残りそうです。そう考えて、雨の中を子規庵へ向かいました。 中に入って最初に感じたのは、家の小ささでした。 歴史上の人物の旧宅というと、大きな屋敷と庭を想像してしまいます。そのため、子規庵は余計に小さく感じます。子規が病室兼書斎として過ごした六畳の日本間も、展示資料が置かれていること...

東京藝術大学大学美術館:「藝大式 美術の“ミカタ”―この夏、藝大生になる―」

東京都台東区の東京藝術大学大学美術館に行きました。 今回の目的は、展覧会「藝大式 美術の“ミカタ”―この夏、藝大生になる―」です。東京藝術大学の講義を体験するような構成になっており、1限目から12限目まで、それぞれ異なるテーマで美術を学んでいきます。2026年から2028年まで毎夏開催されるシリーズの第1回で、東京藝大の教員による講義を、美術館の展示として体験するという面白い試みです。 1限目は「まねぶ美術館」でした。「学ぶ」の語源の一つとして「真似ぶ」が挙げられるように、ここでは模写を通して美術を学ぶことがテーマになっていました。 黒田清輝が模写したレンブラントの《トゥルプ博士の解剖講義》などが展示されていましたが、特に印象に残ったのは、実際に学生たちが会場で模写をしていたことです。「現在8日目」「現在11日目」といった表示があり、一つの作品を模写するために想像以上の時間をかけていることに驚きました。 美術というと、才能のある人が感覚的に描くものという印象を持ちがちですが、模写は作品の構図、色彩、筆遣いなどを一つずつ分析し、自分の手で再現していく学習方法でもあります。作品を見るだけでは気づかないことを、作る側に回ることで理解していくのでしょう。 2限目は「西洋美術に出会った日本」です。 幕末から明治にかけて、日本では西洋画の技法が本格的に学ばれるようになります。展示には、幕末に来日したイギリス人画家チャールズ・ワーグマンや、日本の初期洋画家たちに関する作品が並んでいました。 ここで五姓田という名前を見て、少し前に横浜美術館で作品を見た渡辺幽香を思い出しました。渡辺幽香は初代五姓田芳柳の娘で、五姓田義松の妹です。義松はワーグマンから西洋画を学んだ人物でもあり、五姓田家は日本の洋画黎明期に重要な役割を果たしました。 横浜美術館では女性画家の活躍という観点から渡辺幽香を見ましたが、今回は、その父や兄を含めた日本の洋画受容の歴史の中で五姓田家を見ることになりました。同じ人物や時代を別の博物館、美術館で違う角度から見ることで、少しずつ知識がつながっていきます。まだ美術を学び始めたばかりですが、このような瞬間はなかなか楽しいものです。 3限目は「東京藝大で教わる西洋美術の見かた」で、ラグーザ玉が取り上げられていました。 「ラグーザ」と聞いたとき、最初にシチリア島の都市ラグーザ...

上野東照宮:上野に残る黄金の社殿と江戸の記憶

東京都台東区の上野東照宮に行きました。 この日は東京都美術館で特別展を見たあと、まだ少し時間に余裕がありました。上野恩賜公園の中には何度も来ていますが、上野東照宮には行ったことがなかったような気がしたため、立ち寄ってみることにしました。 ところが参道を歩いていくと、神楽殿や五重塔の景色に見覚えがあります。どうやら以前にも何度か訪れていたようで、実際に歩いてみてようやく思い出しました。何度も歩いている上野公園ですが、美術館や博物館を目的に訪れることが多いため、周囲の史跡については意外と記憶が曖昧になっているようです。 訪れたとき、五重塔は工事中でした。工事用の塀に囲まれていましたが、一部分だけ透明になっており、そこから塔を見ることができるようになっていました。この五重塔はもともと上野東照宮の塔として、寛永8年(1631年)に土井利勝によって建立されました。一度火災で焼失したものの寛永16年(1639年)に再建され、明治時代の神仏分離の際には寛永寺の所属とすることで取り壊しを免れました。その後、1958年に東京都へ寄贈され、現在は上野動物園の敷地内に残されています。 そのまま参道を進んでいくと、奥に金色に輝く唐門が見えてきました。上野東照宮は寛永4年(1627年)、徳川家康を祀る「東照社」として創建され、正保3年(1646年)に東照宮の宮号を授けられました。現在残っている社殿や唐門、透塀は、慶安4年(1651年)に三代将軍徳川家光によって造営されたものです。江戸の人々が遠く日光まで行かなくても家康を参拝できるよう、日光東照宮にならった豪華な社殿が造られたといいます。 まずは唐門の前で参拝しました。金色を基調とした門は非常に華やかで、上野公園の緑に囲まれた場所に突然、江戸時代の豪華な建築が現れたようにも感じられます。周辺には多くの灯籠が並んでいました。現在の社殿が造営された際には全国の大名から約250基もの灯籠が奉納されたそうで、現在も銅灯籠48基をはじめ、多くの灯籠が残されています。 周囲の銅灯籠などを撮影していると、唐門の右手に有料拝観の案内があることに気がつきました。せっかくなので拝観料を払い、中に入ってみることにしました。 中へ入ると、社殿を囲む透塀を間近で見ることができます。朱色を基調としながら、緑色の格子や金色の装飾が組み合わされ、さらにさまざまな動植物の彫刻...