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知恩院:日本最大級の三門で締める、博物館三昧の旅

京都市東山の知恩院(ちおんいん)を、この日の京都観光の締めくくりとして訪れました。 朝から京都鉄道博物館と京都文化博物館をメインの目的に動き回り、その合間にもいくつか寺社をめぐっていたので、夕方に近づくころにはほどよい疲れと満足感がありました。八坂神社を参拝したあと、そのまま円山公園に入り、日本庭園の池や木々を眺めながら東山の斜面へと歩を進めると、街の喧騒から少しずつ切り離されていくような感覚になりました。 円山公園側から知恩院の境内に入ると、視界をいきなり大きな御影堂が占めました。思わず「大きい」と口にしてしまうほどの迫力で、平地に建つ本堂というより、小さな山の中腹に巨大な建物がどっしり腰を下ろしているように見えます。知恩院は、浄土宗の開祖・法然上人が「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで救いに至る道を説き、最後の時を過ごした地に建つ浄土宗総本山の寺院です。 そのため、正式名称も「華頂山知恩教院大谷寺」と、宗祖の遺跡にふさわしい格式ある名前が付けられています。現在の御影堂は、寛永16年(1639年)に三代将軍・徳川家光によって再建されたもので、間口約45メートル、奥行き約35メートルにもおよぶ巨大な堂です。内部には法然上人の御影が安置され、江戸時代からお念仏の根本道場として多くの人々を受け入れてきたことを思うと、その大きさも単なるスケール自慢ではなく、信仰の厚みそのものを表しているように感じました。 境内を進むと、大鐘楼が見えてきます。「大鐘楼」という名前の鐘楼は各地にありますが、知恩院のものは、その言葉どおり本当に「大鐘」と呼ぶにふさわしい規模でした。近づいて見上げると、写真に全体を収めるのが難しいほどで、構図に悩みながら何枚もシャッターを切ってしまいました。この大梵鐘は、寛永10年(1633年)に鋳造されたもので、重さはおよそ70トンといわれ、日本三大梵鐘のひとつに数えられています。大晦日の夜、NHKの「ゆく年くる年」で中継される除夜の鐘としても知られており、テレビで見ていた鐘の音が、この巨大な鐘から響いているのだと思うと、音の記憶と目の前の光景が頭の中でつながっていくようでした。 その後、少し高台に建つ納骨堂へ向かいました。建物そのものも印象的ですが、手前に広がる池との距離感が絶妙で、水面越しに堂を眺める構図がとても美しく、多くの人が写真を撮るために列を作って...

六波羅探題跡/六波羅蜜寺:権力の跡は静かに、信仰の場は今もにぎわう京都の一角

京都市の六波羅探題跡に行きました。 六波羅探題という言葉を初めて歴史の勉強で知ったとき、その響きのかっこよさにすっかり惹かれてしまいました。鎌倉幕府が承久の乱のあと、京都・西国支配と朝廷の監視のために六波羅に置いた出先機関で、北条泰時・時房らが初代を務めた重職だったといいます。幕府のなかでは執権・連署に次ぐポジションで、「小鎌倉幕府」とも呼ばれるほどの権限を持っていたそうです。 そんな六波羅探題の跡地が、京都市内の地図に小さく載っているのを見つけてから、「いつか近くまで行ったら寄ってみたい」と思っていました。今回、京都観光の予定に少し余裕があったので、ついにその「六波羅探題跡」を目指して歩くことにしました。頭の中では、復元された建物とまではいかなくても、少なくとも立派な石碑くらいはあるだろうと勝手にイメージしながら向かいました。 ところが、目的地に近づくにつれて目につくのは「六波羅蜜寺」という看板ばかりです。「六波羅探題はどこだろう?」と思いながら地図を頼りに歩いていくと、たどり着いた先には、堂々とした山門を構えた大きなお寺がありました。門にははっきりと「六波羅蜜寺」と書かれていて、説明板にも六波羅蜜寺の歴史のことしか書かれていません。六波羅探題跡を探しに来たはずが、目の前にあるのは立派なお寺。「あれ? 探題は?」と首をかしげつつも、せっかくなのでまずは参拝することにしました。 六波羅蜜寺は、天暦5年(951年)に空也上人が、当時京都で流行していた悪疫退散を願い、十一面観音像を本尊として創建したのが始まりとされます。現在は西国三十三所巡礼の第17番札所としても知られ、多くの信仰を集めてきた古刹です。 そうした背景を知っていると、境内に足を踏み入れたときの静かな空気にも、どこか「京の都を見守ってきた場所」という重みを感じます。 境内を歩いていると、「令和館」という新しい建物がありました。外観からして宝物館のようだったので、中に入ってみることにしました。中には平安〜鎌倉期の仏像を中心に、重要文化財に指定された像がずらりと並んでいます。静かな照明の中、一体一体と向き合っていくと、当初「六波羅探題跡を見に来た」という目的は半分どこかに飛んでいき、純粋に仏像鑑賞を楽しんでいる自分に気づきました。 そして二階へ上がると、そこにあったのが空也上人立像でした。鉦と鹿杖を手に、口元か...

東本願寺:銀杏が黄金に染まる朝、親鸞の足跡をたどる

京都駅の近くにある東本願寺を、朝の静かな時間に訪れました。京都鉄道博物館と京都文化博物館の特別展示を見るために、朝から京都に来ていたのですが、開館まで少し時間があったので、まずは西本願寺を歩いて見学し、その足で東本願寺へ向かうことにしました。京都駅の北側を西から東へと横切るかたちになり、同じ浄土真宗本願寺系のお寺を続けて巡る、ちょっとした「はしご参拝」になりました。 西本願寺側から歩いていくと、東本願寺はぐるりと回り込むような形で東側に大きく構えています。徳川家康が1602年に本願寺を東西に分けたことから生まれたのが、この東本願寺で、現在は真宗大谷派の本山として知られています。目の前に現れた御影堂門(ごえいどうもん)は、その歴史にふさわしい迫力のある大きさで、門の下に立つと、自分がすっかり小さくなってしまったような感覚になります。西本願寺の門も壮麗でしたが、東本願寺の門もまた、別の重みと風格をたたえていました。 境内に入り、まずは参拝接待所のギャラリーを訪ねました。ここでは、親鸞の生涯がパネルでわかりやすく展示されていました。京都に生まれ、比叡山での修行を経て、35歳ごろに越後へ流され、40歳前後には関東へと拠点を移し、やがて60歳ごろに再び京都へ戻り、その後90歳まで過ごしたという人生の道のりが、年表と地図を交えながら説明されています。流罪や移動を重ねながらも教えを広め続けた姿を辿っていると、「一つの寺に落ち着く」イメージとは違う、動き続ける宗祖の生々しい人生が浮かび上がってきます。 同じギャラリーには、親鸞の主著である『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)と、『正信偈』(しょうしんげ)に関する展示もありました。浄土の教え(教)、念仏の実践(行)、阿弥陀仏の本願を信じる心(信)、そしてその結果としての証(証)を四つの柱としてまとめた『教行信証』について、パネルに簡単に説明が書かれていました。 ギャラリーを出て、いよいよ御影堂へと向かいました。東本願寺は度重なる火災で焼失し、現在の伽藍は明治期に再建されたものですが、その中でも御影堂は世界最大級の木造建築の一つともいわれる堂々たる建物です。中に入ると、西本願寺と同じく黄金の装飾が堂内を彩り、柱や欄間の彫刻も細やかで、視線をどこに向けても見どころがあります。親鸞聖人の御真影を安置する場にふさわしく、厳かな空気の中にも、...

西本願寺:細部に光る遊び心、埋木と天の邪鬼を探して

京都駅の近くにありながら、いつでも行けると思って後回しにしていた西本願寺を、ようやく訪れることができました。この日は京都鉄道博物館と京都文化博物館の特別展示を見るために朝から京都に来ていたのですが、開館まで少し時間があったので、朝早くから拝観できる西本願寺に立ち寄ることにしました。 駅から歩いて向かったため、まず西側の南寄りにある御影堂門から境内に入りました。 朝の8時半ごろでしたが、銀杏の木はすでに鮮やかな黄金色に色づき、その下には多くの外国人観光客や日本人の参拝者が集まっていました。西本願寺の大イチョウは樹齢数百年ともいわれる古木で、秋には境内を黄金色に染め上げることで知られていますが、まさにその評判どおりの姿で迎えてくれました。 まずは御影堂と阿弥陀堂を、外観と内部の両方からじっくりと見学しました。御影堂(ごえいどう)は浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の御影を安置する建物で、阿弥陀堂(あみだどう)は阿弥陀如来を本尊とする礼拝の中心となる堂です。現在の西本願寺は、戦国時代に織田信長と対立した本願寺顕如が、豊臣秀吉からこの地を与えられて再興したのが始まりとされ、1591年に現在地に移ってからは本願寺派(浄土真宗本願寺派)の本山として栄えてきました。 内部に入ると、特に正面の内陣が印象的でした。柱や欄間、須弥壇の周りには金箔がふんだんに使われ、細かな彫刻と装飾が隙間なく施されています。金色というと、どうしても世俗的な「欲」や富の象徴を連想しがちですが、宗教空間で見る金色は不思議とそれとは逆の、清らかさや尊さの方を強く感じさせます。阿弥陀堂には阿弥陀如来像とともに、インド、中国、日本の高僧たちの影像が並び、御影堂には親鸞聖人の御影が安置されていますが、いずれも金色の輝きの中に静かにおさまっていて、視線を向けると自然と背筋が伸びるような気がしました。 堂内の静けさを味わったあと、境内を歩きながら経蔵や唐門へ向かいました。 経蔵(きょうぞう)はその名のとおり経典を収める建物で、唐門(からもん)は桃山時代らしい華やかな彫刻で知られる門です。西本願寺は、その建築群の多くが安土桃山時代から江戸初期の姿をとどめており、御影堂や阿弥陀堂、唐門などが国宝に指定されています。また、こうした建物群が評価され、1994年には「古都京都の文化財」の一つとしてユネスコ世界遺産にも登録されています。駅か...

東大寺ミュージアム:正倉院裂と仏教美術でたどる奈良の深層

奈良の東大寺ミュージアムを初めて訪れました。今回は奈良国立博物館で正倉院展を見た後、同じ「天平の息づかい」を別の角度から感じてみたくて足を延ばしました。東大寺そのものは前回の奈良訪問で拝観していましたが、伽藍に寄り添うように設けられたこのミュージアムは、寺の歴史と信仰を落ち着いた空気の中で確かめられる場所でした。 導入の紹介ビデオでは、聖武天皇が大仏造立の詔を発し、国家の安寧と人々の幸せを祈って東大寺の建立が進められたことが語られていました。当時の日本の人口の半分ほどが何らかの形で関わったという説明は、規模の大きさだけでなく、信仰が社会の広い層に浸透していたことを実感させます。単なる史実紹介にとどまらず、祈りの言葉が静かに染み込むような映像で、ここが観光施設ではなく「寺の展示室」であることに気づかされました。 展示室では、寺内に伝わる仏像や工芸が、修理の痕跡や制作技法の解説とともに並び、東大寺の長い時間が立体的に見えてきます。南都焼討や度重なる災禍を経ながらも、法灯が途切れず受け継がれてきたことを、木肌の色や金銀の擦れに感じ取りました。堂内で仰ぎ見た仏像とは別の距離感で向き合えるのが、ミュージアムの面白さだと思います。 ちょうど特別展示として「正倉院裂」が出ており、黄緑地霰花文錦幡頭などの裂(きれ)の華やかな文様が間近で見られました。正倉院の宝物は国立博物館で拝むものだとつい思い込みがちですが、その由来をたどれば東大寺の祈りの場と不可分であり、一部は寺にも伝来・保存されていることをあらためて知りました。織りの細やかさや色彩の残り方は、千年以上の時を経てもなお、儀礼の場の光と音を思い起こさせます。 正倉院展の余韻を抱えたまま東大寺ミュージアムに入ると、国家的な文化財としての天平と、寺の日常に息づく天平が、二枚重ねの透明なフィルムのように重なって見えてきます。歴史を学ぶことと信仰に触れること、その二つのレンズを切り替えながら歩く時間は、奈良らしい静けさの中で心が整う体験でした。次は伽藍を回る前にもう一度ミュージアムから始め、展示で得た目と心で堂塔の姿を見直してみたいと思います。 旅程 東京 ↓(新幹線/近鉄) 近鉄奈良駅 ↓(徒歩) 開化天皇陵(念仏寺山古墳) ↓(徒歩) 興福寺 ↓(徒歩) 奈良国立博物館 ↓(徒歩) 東大寺ミュージアム ↓(徒歩) 平城宮跡歴史公園 ...

興福寺:千手観音に見守られて、見上げる令和の大修理

奈良公園の木々が色づきはじめた朝、正倉院展の開場時刻までのひとときに、久しぶりの興福寺を歩きました。コロナ初期に訪れたときは静けさが印象的でしたが、今回は外国語も交じる賑わいが戻り、かつての門前の活気がよみがえったようでした。 まず足を向けたのは興福寺国宝館です。中央に凛と立つ千手観音菩薩立像に迎えられ、堂内から移された仏像や仏具とじっくり向き合います。阿形・吽形の金剛力士像は、吽形の口元に吸い込まれるような静けさ、阿形の踏み込みに生まれる躍動が対をなし、木から命が立ち上がる瞬間を見せてくれるようでした。展示室の空気はしっとりとしていて、時代を重ねた木肌の色艶が、ただ“古い”のではなく“生きてきた”ことを語りかけます。 境内に出ると、まず東金堂へ参拝しました。薬師系の尊像を安置してきた歴史を思い、病や祈りの記憶がこの堂に幾度となく積み重なってきたことに思いを馳せます。 続いて中金堂へ。再建なってからの大屋根と鮮やかな朱が、奈良の空にくっきりと輪郭を描いていました。幾度もの兵火と震災で焼失・再建を繰り返してきた興福寺にあって、中心伽藍の復原は、単なる復古ではなく「都の記憶」を現在に結び直す仕事なのだと感じます。 南円堂へ向かう途中、視界を大きく遮る白い仮囲いに出会いました。五重塔の令和大修理が進行中との掲示。2034年までの長丁場と知り、荘厳な姿をしばらく拝めない寂しさと、千年単位で塔を未来へ手渡す“時間の工事”に立ち会っている喜びが交じります。奈良時代に始まり、藤原氏の氏寺として栄え、幾度も失っては立ち上がってきた寺の歴史の只中に、自分も一瞬だけ紛れ込んだような感覚でした。 次に八角円堂の南円堂を参拝しました。 さらに三重塔へ。 北円堂は静謐そのもので、堂宇を包む空気の密度がわずかに濃くなるように感じます。立ち並ぶ塔や堂は、それぞれが時代の層を抱えながら、全体としてはひとつの“都市の記憶装置”になっている——興福寺を歩くといつもそんな気分になります。 今回の奈良は、正倉院展という宮廷文化の粋をのぞく旅の合間に、興福寺の伽藍を順にたどる時間が加わった形になりました。観光客の笑い声、修学旅行生のざわめき、そして工事現場のかすかな機械音。どれもが寺の長い時間に刻まれる“今日”の音です。かつて藤原氏の氏寺として政治と文化の中心にあり、南都の学問や美術を育んだこの寺は、今も変...

武蔵国分寺跡 / 武蔵国分寺跡資料館:史跡と湧水の街・国分寺で感じる古代の息吹

国分寺市文化財資料展示室を見学した後、武蔵国分寺跡(むさしこくぶんじあと)に向かいました。Google Mapで検索した時には、武蔵国分寺跡資料館に気がつかなかったのですが、国分寺市文化財資料展示室で展示物やビデオをじっくり見ていたから、展示室の方が話しかけていただき、その中で武蔵国分寺跡資料館のことを教えていただきました。武蔵国分寺跡から少し離れているので、教えていただかなければ気が付かなかったと思います。 東京都国分寺市には、奈良時代に建立された武蔵国分寺の遺構が今も残っています。武蔵国分寺跡は、聖武天皇が全国に建立を命じた国分寺の一つで、当時の仏教による国家安定政策の一環として造られました。 武蔵国分寺は、七重塔や金堂、講堂などを備えた大規模な寺院でした。発掘調査によって礎石や基壇が発見され、かつての伽藍配置が明らかになっています。特に七重塔の跡地には塔心礎と呼ばれる巨大な礎石が残っており、ここにかつての壮大な塔がそびえていたことを感じさせます。 この寺院は、平安時代までは重要な宗教施設として存続していましたが、鎌倉時代には戦乱の影響を受け、徐々に衰退していきました。その後、江戸時代になると新たに武蔵国分寺が再建され、現在も地域の信仰を集めています。再建された武蔵国分寺の薬師堂には、国分寺の本尊だった薬師如来像が安置されており、往時の面影を今に伝えています。 現在、武蔵国分寺跡は史跡公園として整備され、自由に見学することができます。広々とした敷地内には、金堂や講堂の跡が点在し、奈良時代の面影を感じながら散策を楽しめます。また、近くには「お鷹の道・真姿の池湧水群」といった自然豊かなスポットもあり、歴史と自然の両方を満喫できる場所になっています。 武蔵国分寺跡を訪れる際には、「武蔵国分寺跡資料館」にも足を運んでみると、さらに理解が深まります。 この資料館では、発掘調査で見つかった出土品や遺跡の構造を紹介しており、当時の寺院の規模や役割を知ることができます。 館内には、国分寺の瓦や仏像の破片、奈良時代の人々が使用していた日用品などが展示されており、歴史的な背景をより身近に感じられる工夫がされています。特に、七重塔の復元模型や伽藍配置の解説はわかりやすく、遺跡を巡る前に見ておくと現地の見どころをより楽しめるでしょう。 アクセスも便利で、JR中央線の西国分寺駅や国分寺駅...

武蔵国分尼寺跡/国分寺市文化財資料展示室:奈良時代の女性僧侶たちの足跡を辿る

武蔵国府跡を見たあと、本日の予定の一つであった武蔵台遺跡に向かい、さらに北に進みました。Google Map で検索した「武蔵台遺跡」は、なぜか病院の設備内にあり、特にモニュメント的なものも含めて何もありませんでした。ただ、その途中で通った公園が武蔵国分尼寺跡(むさしこくぶんにじあと)で、国分寺で検索したところ史跡や資料館が見つかったため、急遽、国分寺関連を見てまわることにしました。なお、すぐ近くに「武蔵台遺跡公園」があり、そちらであれば武蔵台遺跡らしいものも見られるようなので、また近くに行ったときに寄ろうと思います。 奈良時代、聖武天皇の詔により全国に国分寺と国分尼寺が建立されました。武蔵国にもその一つがあり、それが現在の東京都国分寺市にある武蔵国分尼寺跡です。国分寺が男性僧侶の修行や国家鎮護のための場であったのに対し、国分尼寺は女性の僧侶、すなわち尼僧が修行を行う場所として設けられました。 武蔵国分尼寺の正確な場所については長らく不明でしたが、発掘調査により、その遺構が明らかになりました。現在では史跡として保存されており、過去の面影を垣間見ることができます。建物の礎石や瓦、土器などが出土し、当時の伽藍配置が推定されています。 国分尼寺は、詳細な記録が少ないため、その実態が明確でない部分も多くあります。しかし、女性僧侶が修行し、仏教を通じて社会に貢献していたことは間違いありません。奈良時代の仏教政策の一環として重要な役割を果たし、当時の社会における宗教と女性の関わりを知る貴重な遺跡といえます。 金堂跡では、基壇(きだん)の断面が展示されており、土台がどのように造られたのかを見ることができます。 現在、武蔵国分尼寺跡は静かに時を刻んでいます。復元された建物こそありませんが、発掘された遺構を通じて、奈良時代の人々が築いた文化の足跡を感じることができます。遺跡巡りが好きな方や、歴史に興味がある方はぜひ訪れてみてください。 国分寺市文化財資料展示室 東京都国分寺市には、地域の歴史や文化財を紹介する国分寺市文化財資料展示室があります。市内の貴重な歴史資料や発掘調査の成果が紹介されており、特に武蔵国分寺跡に関する展示が充実しています。ビデオでは、特に武蔵国分尼寺について視聴することができます。 国分寺市文化財資料展示室は、武蔵国分尼寺跡から東に進み、武蔵野線の線路の下を通って...