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池袋氷川神社/池袋東貝塚再発見の地:池袋の住宅地に眠る縄文の記憶をたどる

大学の考古学の授業のために、池袋周辺の遺跡を調べていたところ、氷川神社裏貝塚と池袋東貝塚という名前を知りました。池袋というと、現在では大きな駅や商業施設の印象が強い場所ですが、少し調べてみると、縄文時代の貝塚があった地域でもあることが分かります。 最初に向かったのは、東京大学総合研究博物館でした。博物館のデータベースによると、氷川神社裏貝塚の出土品を所蔵しているようでしたが、残念ながら展示はされていませんでした。実物を見ることはできませんでしたが、大学の博物館に出土品が収められているというだけでも、この地域の遺跡が研究対象として扱われてきたことを感じます。 その後、時間が余ったため、池袋氷川神社と池袋東貝塚再発見の地へ行くことにしました。どちらの周辺も、現在は密集した住宅地になっています。地図を見ながら歩いていると、ここに貝塚があったのだと想像するのが少し難しいほど、日常の町並みの中に溶け込んでいました。 池袋東貝塚再発見の地の石碑は、碧山巖寺東京別院の入口にありました。碧山巖寺東京別院はとてもモダンな建物で、貝塚の石碑とは少し不思議な組み合わせに見えました。後で調べてみると、台湾に関係する寺院のようで、池袋の町の中に、縄文時代の痕跡と台湾とのつながりを感じさせる場所が並んでいることも印象的でした。 石碑によると、池袋東貝塚は蒔田鎗次郎(まいたそうじろう)によって1896年、明治29年に発見された縄文時代の貝塚です。氷川神社裏貝塚、別名池袋西貝塚とともに知られていましたが、周辺の開発が進む中で、正確な位置が分からなくなっていったそうです。その後、2017年、平成29年に行われた発掘調査で貝塚が確認されたことから、「再発見の地」とされているようです。 次に池袋氷川神社へ向かいました。境内はとても整っていて、掃除も行き届いていました。街中の小さな神社というと、場所によってはひっそりとした印象を受けることもありますが、池袋氷川神社は地域の中で大切にされてきた神社であることが伝わってきました。境内には神輿などを収める蔵も複数あり、地域の祭礼との結びつきも感じられます。 境内の石碑によると、天保元年、1830年の記録にはこの村の氷川社が記されており、少なくともその頃にはすでに神社が存在していたようです。また、境内からは縄文時代後期の土器片が発掘されていること、さらに明治時代に...

橿原神宮:古代の壁画を見たあとに訪れた、もう一つのはじまりの場所

キトラ古墳の壁画を見るために朝から明日香村を訪れ、キトラ古墳や高松塚古墳をめぐったあと、橿原市へ移動しました。目的は橿原神宮(かしはらじんぐう)を参拝することでしたが、その前に近くの奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に立ち寄ったところ、想像していた以上に見応えがあり、気づけばかなり時間が過ぎていました。そのため、橿原神宮に向かう頃には、すでに夕方の空気になっていました。 橿原神宮は、初代天皇とされる神武天皇と、皇后である媛蹈鞴五十鈴媛皇后を祀る神社です。日本書紀などに伝わる神武天皇の即位の地、橿原宮の跡とされる場所に、明治時代に創建されました。古代そのものの遺構というより、近代国家の中で「日本のはじまり」を象徴する場所として整えられた神社でもあります。朝から飛鳥の古墳を見てきた後だったこともあり、古代の記憶と近代の国家観が重なる場所に来たような感覚がありました。 今回は北の入口から境内に入りました。まず印象に残ったのは、大きな木製の鳥居です。朱色に塗られた鳥居ではなく、木の色がそのまま生かされており、巨大でありながらも落ち着いた雰囲気がありました。そこから続く北参道はかなり長く、歩き始めてすぐに、境内の広さを実感しました。 参道には砂利がきれいに敷き詰められていました。見た目にはとても美しいのですが、距離が長いこともあり、歩いてみると意外と足を取られます。明日香村で古墳や史跡を歩いた後だったため、なおさら長く感じました。ただ、その歩きにくさも含めて、神域へ少しずつ近づいていく感覚がありました。舗装された道を効率よく進むのではなく、あえて時間をかけて歩くことで、日常の感覚から少し離れていくようでした。 拝殿のある区域に近づくと、北神門が見えてきました。これもまた大きく立派な門で、参道の長さに続いて、建物の規模にも圧倒されました。門をくぐると、広々とした空間の奥に拝殿が見えます。建物と建物の距離が非常に大きく、奥行きのある構成になっているため、視線が自然と遠くへ導かれていきます。 参拝したときには、正面に見える大きな建物を拝殿、そのさらに奥に見える建物を本殿のように感じていました。しかし後で調べてみると、私が拝殿だと思っていた建物は外拝殿で、本殿だと思っていた建物は内拝殿でした。本殿はさらに奥にあり、内拝殿での参拝も通常は事前の申し込みが必要なようです。実際に現地で見た...

檜隈寺跡/於美阿志神社:神と仏と古代の宮が重なる場所

キトラ古墳の壁画を見学するために、奈良県高市郡明日香村へ行きました。壁画見学には応募時間が決まっていたため、早めに到着したので、待ち時間を利用して近くにある檜隈寺(ひのくまでら)跡へ向かうことにしました。 キトラ古墳の周辺は、古墳だけがぽつんとある場所というより、明日香村らしい歴史散策の道が整えられている地域でした。道にはウォーキングコースかジョギングコースのような矢印があり、「檜隈寺跡前休憩案内所」と書かれていました。その案内に従って進むと、やがて檜隈寺跡前休憩案内所に着きました。 地図で見ると、檜隈寺跡は休憩案内所から少し森の中へ入ったところにあるようでした。最近は東京でも熊の出没がニュースになっていたため、正直なところ、あまり森に近づきたくないなと思いました。それでも、せっかく明日香村まで来て、しかもキトラ古墳のすぐ近くにある史跡です。少し慎重な気持ちになりながらも、森の中へ入っていきました。 しばらく進むと、木々の間に鳥居が見えてきました。檜隈寺跡という名前から、当然お寺の跡を想像していたので、最初は「寺跡なのに鳥居があるのだろうか」と不思議に思いました。鳥居の前まで行くと、そこには「於美阿志神社(檜隈寺跡)」と書かれた案内板がありました。つまり、現在は神社の境内でありながら、その場所が古代寺院の跡でもあるということです。この時点で、神社なのか寺跡なのか、少し頭が混乱しましたが、同時に明日香らしい歴史の重なりを感じました。 於美阿志神社(おみあしじんじゃ)は、渡来系氏族である東漢氏、または倭漢氏と関わりの深い神社とされています。祭神とされる阿知使主は、東漢氏の祖と伝えられる人物です。そして檜隈寺は、その東漢氏に関係する氏寺であったと考えられています。古代の明日香は、天皇の宮や古墳だけでなく、大陸や朝鮮半島から渡ってきた人々の技術や文化が根づいた場所でもありました。檜隈寺跡に立つと、飛鳥時代の歴史が、日本国内だけで完結していたものではなく、東アジアの広い交流の中にあったことが感じられます。 鳥居をくぐり、まずは拝殿で参拝しました。境内は深い森に包まれていて、観光地として整いすぎた雰囲気ではなく、地域に静かに守られてきた場所という印象がありました。境内を歩いていると、「宣化天皇檜隈廬入野宮跡」と刻まれた石碑もありました。檜隈寺跡だけでなく、このあたりには宣化天皇...

豊国神社:鳥居の先の天下人の影

名古屋を訪れた日の午後、少し時間が空いたため、中村公園へ足を延ばしました。もともとの目的は豊臣ミュージアムでしたが、その見学を終えたあと、そのまま園内にある豊国神社へ向かいました。豊臣秀吉を祀る神社として知られる場所だけに、境内には思っていた以上に人が集まっており、参拝の列ができていました。秀吉という人物が、今もなお多くの人の関心を集め続けていることを、こうした光景からも実感しました。 豊臣秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけて天下統一を成し遂げた人物として広く知られています。織田信長に仕え、そこから頭角を現し、最終的には全国規模の権力を握るまでに至ったその生涯は、日本史の中でもとりわけ劇的です。しかも秀吉は、もともと高い家柄の出身ではなく、庶民的な出自から出世した人物として語られることが多く、そのためか、戦国武将の中でもどこか親しみをもって受け止められているように思います。中村の地は、そうした秀吉の出生地と伝えられており、この地域が特別な意味をもつのもよく分かります。 豊国神社は、まさにその秀吉を顕彰するための場であり、歴史上の英雄を身近に感じさせる空間でした。華やかな桃山文化の印象や、天下人としての壮大な足跡を思い浮かべると、神社の境内に流れる空気も、どこか特別なものに感じられます。もちろん実際の境内は静かな信仰の場ですが、参拝に訪れる人々の多さを見ていると、単に神社としてだけでなく、歴史をたどる場所、あるいは秀吉という人物を記憶する場所としても、多くの人に開かれているのだと思いました。 参拝を終えたあと、参道を外へ向かって歩いていくと、公園の入口に大きな鳥居が立っていました。ほかではあまり見かけない茶色の鳥居で、鮮やかな朱色の鳥居とはまた違った趣がありました。強く華やかに主張するというより、落ち着いた色合いの中に風格があり、公園の景色にも自然になじんでいました。秀吉といえば、豪華絢爛な城や桃山文化のきらびやかな印象を思い浮かべがちですが、この鳥居にはむしろ土地に根ざした静かな重みが感じられ、その対比も印象に残りました。 中村公園一帯は、単に神社があるだけでなく、秀吉や加藤清正といったこの地にゆかりのある人物の記憶が重なり合う場所でもあります。戦国時代は遠い過去のようでいて、こうした場所を歩くと、その時代が地域の中に今も息づいていることを感じます。教科書の中で...

松阪神社:松坂城のふもとで感じる町の歴史

斎宮で博物館や復元史跡を見て回ったこの日、まだ少し時間が残っていたため、近くの松阪市まで足を延ばすことにしました。地図を見ると松坂城が駅からそれほど遠くなく、城下町らしい風景も楽しめそうだったので、松阪駅から松坂城跡の方面へ向かって歩きました。途中では御城番屋敷に立ち寄り、さらに本居宣長ノ宮にも参拝しましたが、そのすぐ隣に並ぶように松阪神社があったため、こちらにも自然と足が向きました。 松阪神社は、ただ城跡の近くにある神社というだけではなく、松阪の町の成り立ちそのものと深く結びついた神社です。古くは「意悲神社(おいじんじゃ)」と称し、その起こりは平安時代以前にさかのぼるとも伝えられています。さらに、天正16年(1588年)に蒲生氏郷が四五百森に松坂城を築いた際、この地の小社を城の鎮守と定め、新たに社殿を整えたとされます。つまり松阪神社は、松坂城と城下町の発展を見守ってきた存在でもあり、現在の静かな境内にも、城下町の記憶が折り重なっているように感じられました。 実際に歩いてみると、本居宣長ノ宮と並んで建つこの配置も印象的でした。本居宣長ゆかりの地として知られる松坂城周辺ですが、その一角に地域の鎮守としての松阪神社があることで、学問や文化の記憶と、町を守る信仰の場とが自然につながっているように思えます。松阪神社の境内には樹齢900年ともいわれる長寿樟があります。神社と宣長、城跡と城下町という、この土地らしい要素がごく近い範囲に重なっていることに、松阪という町の厚みを感じました。 私が訪れたとき、境内には拝殿だけでなく神楽殿や御神木もあり、思った以上に地域に根ざした神社という印象を受けました。神楽殿を前にすると、例祭や地域のお祭りのときには、ここがにぎやかな場になるのだろうかと想像が広がります。観光で訪れると、つい建物や史跡そのものに目が向きがちですが、こうした神社は、過去の歴史だけでなく、今もなお地域の暮らしとつながっている場所なのだと感じます。城や旧宅のような「保存される歴史」とは少し違い、祈りや祭りを通じて生き続ける歴史があるのだと思いました。 また、松阪神社の歴史をたどると、蒲生氏郷の後に松坂城主となった古田重勝が、自ら信仰する宇迦之御魂神を相殿に祀ったこと、さらに江戸時代にこの地が紀州藩領となってからは、歴代藩主の崇敬を受けたことも伝えられています。そして明治4...

本居宣長ノ宮:城跡へ向かう道で出会った学問の気配

三重県松阪市の本居宣長ノ宮に行きました。 この日は朝から斎宮で、博物館や復元された史跡などを見てまわっていました。斎宮は古代の空気を感じられる場所が多く、想像していた以上に見どころがあり、かなり充実した時間を過ごせました。それでも少し時間が余ったため、近くの松阪市にも足を延ばしてみることにしました。地図を見ると松坂城が駅からそれほど遠くない場所にあったので、せっかくなら城下も歩いてみようと思い、松阪へ向かいました。 松坂城へ向かう途中では、御城番屋敷にも立ち寄りました。武家屋敷らしい整った町並みを見ながら歩いていくと、その先に本居宣長ノ宮が見えてきました。本居宣長といえば、松阪を代表する人物の一人ですし、記念館の存在は知っていましたが、「本居宣長ノ宮」という名前はどこか独特で、最初はどういう場所なのか少し不思議に感じました。鳥居が見えたので神社なのだろうと思いましたが、一般的な「○○神社」という名前ではないため、古墳や顕彰施設のように、別の意味で鳥居が置かれているのかもしれないとも思いながら、石段の方へ向かいました。 階段には「合格祈願」や「学問の神様」と書かれた板が置かれていて、そこでようやく、本居宣長その人を祀る場所なのだろうということがはっきりしてきました。石段を上るという行為そのものにも、少しずつ気持ちを整えていくようなところがありますが、学問や祈願に関する言葉を見ながら上っていくと、ここが単なる観光地ではなく、今も信仰の場として生きていることが伝わってきます。城跡へ向かう途中でふと見つけた場所でしたが、思いがけず、松阪の文化や精神の一端に触れられる場所に出会えた気がしました。 階段を上りきった先には本殿があり、やはり神社でした。静かな境内は落ち着いた空気に包まれており、受験の季節がちょうど終わったころだったからか、ほかに参拝者の姿はありませんでした。本居宣長ノ宮は、江戸時代の国学者である本居宣長を主祭神として祀るお宮で、現在では学問の神様として広く知られています。本居宣長は『古事記伝』で知られる松阪ゆかりの国学者で、日本の古典や言葉を深く読み解いた人物です。こうした人物が神として祀られ、今も合格祈願や学業成就の場として親しまれていることを思うと、学問が単なる知識の集積ではなく、人生を支える大きな営みとして大切にされてきたことが感じられます。 本居宣長ノ宮に...

竹神社:斎宮の歴史をたどる旅、最後に出会った静かな社

三重県多気郡明和町にある竹神社(たけじんじゃ)を訪れました。この日は、古代の斎王が暮らした都・斎宮に関係する史跡や博物館を巡ることを目的にこの地域を訪れており、斎宮跡、斎宮歴史博物館、斎王の森、そしてさいくう平安の杜を見学したあと、最後に竹神社へ向かいました。斎宮の歴史をたどって歩いてきた流れの中で、この土地の信仰を伝える神社も見ておきたいと思ったからです。 竹神社は、この地域にあった二十五社の神々を合祀して成立した神社といわれています。古くからこのあたりには多くの小さな社が点在しており、地域の人々の信仰の中心となっていましたが、近代以降の神社整理などの流れの中でそれらが一つにまとめられ、現在の竹神社となりました。祭神には天照大神をはじめ、応神天皇や長白羽神など多くの神々が祀られており、地域の歴史の積み重なりを感じさせます。斎宮の近くという場所柄、伊勢神宮とのつながりも深く、この地域が古代から伊勢神宮の祭祀と密接な関係にあったことを思い起こさせます。 さいくう平安の杜から向かったため、神社には北側の裏手から入る形になりました。少し進むと伊勢神宮の遥拝所があり、ここから遠く離れた伊勢神宮を拝むことができます。斎宮はもともと伊勢神宮に仕える斎王の居所でしたから、このような遥拝の場所があるのも自然に感じられます。 その反対側には拝殿があり、さらに奥には本殿が建っていました。このあたりは伊勢神宮の影響が強い土地なので、本殿が神宮の方向を向いているのかと思いましたが、実際には反対の向きになっているように見え、少し不思議に感じました。神社の向きには地形や古い社殿の配置などさまざまな理由があることが多いので、きっとこの場所にも何か由来があるのだろうと思います。 本殿の屋根は茅葺のようにも見えましたが、よく見ると檜皮葺で、先ほど見てきたさいくう平安の杜の正殿とどこか似た雰囲気を感じました。斎宮の歴史を再現した建物を見たあとだったこともあり、古代の宮殿や神社建築の面影を重ねながら参拝しました。境内は静かで落ち着いた空気が流れており、斎宮跡の広い遺跡とはまた違った、地域に根ざした神社らしい雰囲気がありました。 参拝を終えて入口のほうへ戻ると、御祭神の一覧が掲げられていました。二十五社を合祀しているだけあって神々の名前がずらりと並び、地域の信仰の歴史が一つの神社に集められていることがよく...

品川神社:自由の碑へ続く雨上がりの寄り道

朝から雨が続いた日でした。午後になってようやく小降りになり、止みそうな気配も出てきたので、寺田倉庫G1ビルのガウディ展に向かいました。ところが想像以上の混雑で、入口では整理券が配られていて、入場できるのは3時間後と言われてしまいました。雨上がりの時間を無駄にしたくなくて、近場で行けそうな場所を探しているうちに「板垣退助の墓」という案内を見つけ、予定を切り替えて歩き出しました。 目的地に着いてみると、そこには品川神社がありました。旧東海道の北品川宿の鎮守として知られる神社で、宿場町のにぎわいとともに時代を重ねてきた場所だと思うと、急に足取りがゆっくりになります。  入口の石造鳥居は、柱に龍が巻き付くような彫刻が施されていて、雨で濡れた石肌の陰影がいっそう細部を際立たせていました。昇り龍と降り龍の意匠があるため「双龍鳥居」と呼ばれるそうで、最初から強い印象を残す門構えです。 鳥居の脇には大黒天の石像もあり、ここが東海七福神めぐりの札所になっていることを思い出しました。 境内へは、少し長めの石段を上ります。雨で滑りやすくなっていて、足元に神経を集中させる時間が、かえって気持ちを整える“間”になりました。上り切ると、正面に朱色が目を引く社殿が現れ、右手には神楽殿も見えます。宿場町の鎮守らしく、人の往来を見守ってきたであろう落ち着きと、朱の色の強さが同居しているのが印象的でした。 品川神社は、文治3年(1187年)に源頼朝が海上交通安全と祈願成就を願い、安房国の洲崎明神(洲崎神社)から天比理乃咩命を勧請したのが創始とされます。のちに宇賀之売命や素盞嗚尊も祀られ、江戸時代には徳川家の庇護も受けたという由緒を知ると、旅と交通の結節点であった品川という土地の歴史が、そのまま神社の性格に刻まれているように感じます。  参拝を済ませたあと、いよいよ裏手へ回って板垣退助の墓所に向かいました。案内板の周辺には「板垣」と刻まれた墓石がいくつも並び、最初はどれが本人のものか少し迷います。奥へ進むと、あの有名な「板垣死すとも自由は死せず」の碑が目に入り、ここが確かに“板垣退助の場所”なのだと腑に落ちました。 ただ、墓石の正面に「退助」と大きく刻まれているわけではありません。私も念のため墓石を一通り写真に収め、後で調べて、法名の「邦光院殿賢徳道円大居士」が刻まれた墓石が本人の墓で...

八坂神社:祇園さんの楼門と朱塗りの社殿

京都市の八坂神社に行きました。朝から京都観光をしており、六波羅探題跡からぶらぶらと歩いて向かうと、午後3時ごろ朱色の南楼門が見えてきました。車通りの多い四条通の突き当たりに、鮮やかな門がどんと構えている様子は、何度写真で見ていても実物を前にするとやはり迫力があります。 南楼門をくぐると、まず目に入ってくるのが大きな舞殿です。屋根の下には提灯がずらりと並び、普段の日でもお祭りの気配を感じさせます。ここは、7月の祇園祭のときには神輿や行列が発着する、八坂神社の「舞台」のような場所です。祇園祭の起源は平安時代の869年までさかのぼり、都に疫病が流行した際に、当時「祇園社」と呼ばれていたこの神社で、疫病退散を祈る御霊会が行われたことが始まりとされています。 舞殿の先には、本殿が堂々とした姿で建っています。本殿は拝殿と一体となった独特の「祇園造(ぎおんづくり)」の社殿で、現在の建物は江戸時代に再建されたものです。八坂神社はもともと「祇園社」「祇園感神院」と呼ばれ、牛頭天王や素戔嗚尊(スサノオノミコト)など、疫病から人々を守る神として信仰されてきました。現在も主祭神はスサノオノミコト、その妃神のクシナダヒメノミコトと八柱の御子神が祀られ、厄除けや病気平癒、商売繁盛などのご利益で知られています。 境内を一回りしたあと、西楼門の方へ向かいました。こちらも南楼門と同じく朱色が鮮やかで、四条通に面しているため、人や車の流れとともに京都の街の日常と信仰が交差する場所になっています。途中の参道には屋台がいくつか並んでいて、たい焼きの甘い香りに誘われてひとつ買いました。焼き立てをほおばりながら歩いていると、観光で訪れているというより、昔からの門前町をそぞろ歩きしているような不思議な感覚になります。 再び境内に戻り、今度は北門の方へ抜けました。こちら側は南楼門に比べると人通りも落ち着いていて、社殿越しに木々の緑がよく見えます。八坂神社は創建が7世紀ごろとも伝えられ、長い歴史の中で京都の東山エリアの中心的な存在としてあり続けてきました。現在も全国約2300社ある八坂神社・素戔嗚神社の総本社とされ、地元の人々からは今でも親しみを込めて「祇園さん」と呼ばれています。 北門を出ると、次の目的地である知恩院へと向かいました。振り返ると、先ほどまでいた境内の社殿の屋根が、東山の斜面と重なって見えます。疫病...