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春日大社国宝殿 / 春日大社:平安の宝と燈籠の光に出会う奈良散策

奈良県奈良市の春日大社に行きました。 今回は奈良国立博物館の特別展「南都仏画」を見るために奈良を訪れました。奈良国立博物館は遅くまで開館しているため、その前に周辺の寺社や博物館を巡ることにし、元興寺を見学したあと春日大社へ向かいました。 春日大社にはコロナ禍の時期に一度訪れたことがあります。そのため今回の一番の目的は、春日大社そのものというより春日大社国宝殿でした。 元興寺から歩いて向かったため、今回は一之鳥居から長い参道を進むことになりました。前回はタクシーを借り切って奈良を巡っており、二之鳥居近くの駐車場から参拝したため、一之鳥居から歩くのは初めてです。思っていた以上に距離がありましたが、参道では多くの観光客が鹿と写真を撮りながら春日大社へ向かっていました。奈良らしい風景の中を歩いていくこと自体が、参拝の一部のようにも感じられます。 春日大社は、奈良時代の神護景雲2年(768年)、称徳天皇の勅命により現在の地に社殿が整えられたと伝えられています。武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神の四柱を祀り、特に藤原氏との関係が深い神社として長い歴史を歩んできました。 まず向かったのが春日大社国宝殿です。春日大社には平安時代に制作された宝物が数多く伝わり、ここにしか残っていない品も多いことから、「平安の正倉院」とも呼ばれています。国宝殿には国宝354点、重要文化財2528点を中心に多数の文化財が収蔵されているそうです。これほど多くの文化財を所蔵していると知ると、今回見られるものはそのほんの一部なのだと分かります。 館内に入ると、最初はほとんど何も見えないほど暗い部屋でした。1階は撮影できたため、とりあえず写真を撮り、あとから確認してみると、暗闇の中に緑色の水面のようなものが浮かび上がっていました。これは「神垣」と呼ばれる、水と光によって春日の聖域を表現したインスタレーションです。展示品を見る前に、まず日常とは異なる空間へ入っていくための導入になっているようでした。 次の空間には巨大な鼉太鼓が展示されていました。高さは約6.5メートルもあるそうで、実際に目の前にすると楽器というより巨大な建造物のようです。赤を基調とする方には龍、青緑を基調とする方には鳳凰の装飾があり、鮮やかな色彩と大きさに圧倒されました。鼉太鼓は屋外で舞楽を演奏するときに使用される楽器で、春日若宮おん祭でも重...

住吉大社:遣唐使の旅立ちを見守った海の神

大阪府大阪市の住吉大社に行きました。 この日は、中之島美術館で開催されている『フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展』を見るため、朝から大阪市に来ていました。大阪市立科学館、国立国際美術館、中之島美術館、適塾と巡ったあと、まだ時間に余裕があったため、少し足を延ばして住吉大社に向かいました。 住吉大社の近くは、百舌鳥古墳群や大阪府立弥生文化博物館などを訪れた際に何度か通っています。そのたびに一度行ってみたいと思っていたのですが、なかなか機会がありませんでした。今回ようやく初めての参拝となりました。 住吉大社は、全国にある住吉神社の総本社で、古くから海上交通や航海安全の神として信仰されてきた神社です。社伝では神功皇后によって現在の地に住吉大神が祀られたとされ、のちに神功皇后自身も第四本宮の祭神となりました。 鳥居の手前で、まず目に入ったのが「遣唐使進発の地」と刻まれた石碑でした。住吉大社が海上交通と関係の深い神社であることは事前に調べていましたが、遣唐使とのつながりまでは知りませんでした。奈良時代、唐へ向かう遣唐使も出航前に住吉大神へ航海の安全を祈ったとされています。当時の中国への航海は、現在とは比較にならないほど危険なものでした。ここで無事を願ってから海へ向かった人々がいたと考えると、「航海安全の神」という言葉が急に現実味を帯びてきます。 参道を進むと、住吉大社を代表する景観の一つである反橋、いわゆる太鼓橋がありました。遠くから見てもかなり急な弧を描いています。最大傾斜は約48度もあるそうで、実際、多くの参拝者が足元を確認しながら恐る恐る渡っていました。現在の石造りの橋脚は、慶長年間に淀殿が豊臣秀頼の成長を祈願して奉納したものと伝えられています。 橋を渡って四つの本宮へ向かいました。 屋根は一見すると茅葺のようにも見えましたが、実際にはヒノキの樹皮を重ねた檜皮葺です。現在の本殿は文化7年(1810)に造営されたもので、古い神社建築の形式を伝える「住吉造」として四棟すべてが国宝に指定されています。 特に面白かったのが、その配置です。第一本宮、第二本宮、第三本宮が一直線に並び、第四本宮だけが第三本宮の横に並んでいます。公式の解説では、この配置は大海原を進む船団にもたとえられています。また、四本宮はすべて西、つまり大阪湾の方向を向いています。実際に歩いていると単に少し変わった...

上野東照宮:上野に残る黄金の社殿と江戸の記憶

東京都台東区の上野東照宮に行きました。 この日は東京都美術館で特別展を見たあと、まだ少し時間に余裕がありました。上野恩賜公園の中には何度も来ていますが、上野東照宮には行ったことがなかったような気がしたため、立ち寄ってみることにしました。 ところが参道を歩いていくと、神楽殿や五重塔の景色に見覚えがあります。どうやら以前にも何度か訪れていたようで、実際に歩いてみてようやく思い出しました。何度も歩いている上野公園ですが、美術館や博物館を目的に訪れることが多いため、周囲の史跡については意外と記憶が曖昧になっているようです。 訪れたとき、五重塔は工事中でした。工事用の塀に囲まれていましたが、一部分だけ透明になっており、そこから塔を見ることができるようになっていました。この五重塔はもともと上野東照宮の塔として、寛永8年(1631年)に土井利勝によって建立されました。一度火災で焼失したものの寛永16年(1639年)に再建され、明治時代の神仏分離の際には寛永寺の所属とすることで取り壊しを免れました。その後、1958年に東京都へ寄贈され、現在は上野動物園の敷地内に残されています。 そのまま参道を進んでいくと、奥に金色に輝く唐門が見えてきました。上野東照宮は寛永4年(1627年)、徳川家康を祀る「東照社」として創建され、正保3年(1646年)に東照宮の宮号を授けられました。現在残っている社殿や唐門、透塀は、慶安4年(1651年)に三代将軍徳川家光によって造営されたものです。江戸の人々が遠く日光まで行かなくても家康を参拝できるよう、日光東照宮にならった豪華な社殿が造られたといいます。 まずは唐門の前で参拝しました。金色を基調とした門は非常に華やかで、上野公園の緑に囲まれた場所に突然、江戸時代の豪華な建築が現れたようにも感じられます。周辺には多くの灯籠が並んでいました。現在の社殿が造営された際には全国の大名から約250基もの灯籠が奉納されたそうで、現在も銅灯籠48基をはじめ、多くの灯籠が残されています。 周囲の銅灯籠などを撮影していると、唐門の右手に有料拝観の案内があることに気がつきました。せっかくなので拝観料を払い、中に入ってみることにしました。 中へ入ると、社殿を囲む透塀を間近で見ることができます。朱色を基調としながら、緑色の格子や金色の装飾が組み合わされ、さらにさまざまな動植物の彫刻...

釜蓋神社(射楯兵主神社):荒れた海と深紅の社殿

鹿児島県南九州市頴娃町にある釜蓋神社を参拝しました。 今回の鹿児島旅行では、「白いゼロ戦」を求めて知覧特攻平和会館を訪れました。しかし、残念ながら目的としていた白いゼロ戦は展示されていませんでした。 知覧や指宿周辺には公共交通機関だけでは訪れにくい場所も多いため、この日は観光タクシーを貸し切っていました。知覧特攻平和会館や周辺の戦争遺跡、知覧武家屋敷通りなどを巡ったあと、運転手さんの案内で釜蓋神社に向かいました。 釜蓋神社の正式名称は、射楯兵主神社といいます。「いたてつわものぬしじんじゃ」と読む難しい名前で、素盞鳴命などを祭神とする神社です。創建された年代は明らかではありませんが、江戸時代にはすでにこの地で信仰されていました。享保元年に火災で焼失し、その翌年に再建されたことや、天保14年に薩摩藩主の島津斉興が国家鎤護と武運長久を祈願したことも伝えられています。 「釜蓋神社」という通称には、この地方に残る不思議な伝説が関係しています。天智天皇と妃の大宮姫を迎えるため、大量の米を炊いていたところ、強い風によって釜の蓋が吹き飛ばされ、大川の浦に落ちたといいます。土地の人々はその釜蓋を拾い上げ、神としてまつったことから、釜蓋神社と呼ばれるようになったそうです。 運転手さんによると、なでしこジャパンの選手たちが近くで合宿した際に参拝し、その後の活躍によって、勝負運にご利益のある神社として広く知られるようになったそうです。現在では、サッカーに限らず多くのスポーツ選手が訪れる神社になっています。 この日の鹿児島は、ところどころに厚い雲が浮かんでいたものの、暑さを感じるほどよく晴れていました。一方で、大陸方面には台風が来ていたため、釜蓋神社を取り囲む海は激しく荒れていました。 神社は入り江の岩礁に突き出すような場所に鎮座しています。普段はもっと穏やかな海だそうですが、この日は大きな波が次々と押し寄せ、岩にぶつかって白いしぶきを上げていました。海辺の神社らしい美しさよりも、自然の力強さや怖さの方が強く感じられる光景でした。 境内に入ると、濃い赤色の鳥居が目に入りました。一般的な神社で見かける明るい朱色よりも深い色に見え、本殿も白と濃い赤を組み合わせた、よく目立つ色合いでした。 なでしこジャパンの話を聞いた直後だったこともあり、その色使いから、最初はどことなく女性的な印象を受けました。...

池袋氷川神社/池袋東貝塚再発見の地:池袋の住宅地に眠る縄文の記憶をたどる

大学の考古学の授業のために、池袋周辺の遺跡を調べていたところ、氷川神社裏貝塚と池袋東貝塚という名前を知りました。池袋というと、現在では大きな駅や商業施設の印象が強い場所ですが、少し調べてみると、縄文時代の貝塚があった地域でもあることが分かります。 最初に向かったのは、東京大学総合研究博物館でした。博物館のデータベースによると、氷川神社裏貝塚の出土品を所蔵しているようでしたが、残念ながら展示はされていませんでした。実物を見ることはできませんでしたが、大学の博物館に出土品が収められているというだけでも、この地域の遺跡が研究対象として扱われてきたことを感じます。 その後、時間が余ったため、池袋氷川神社と池袋東貝塚再発見の地へ行くことにしました。どちらの周辺も、現在は密集した住宅地になっています。地図を見ながら歩いていると、ここに貝塚があったのだと想像するのが少し難しいほど、日常の町並みの中に溶け込んでいました。 池袋東貝塚再発見の地の石碑は、碧山巖寺東京別院の入口にありました。碧山巖寺東京別院はとてもモダンな建物で、貝塚の石碑とは少し不思議な組み合わせに見えました。後で調べてみると、台湾に関係する寺院のようで、池袋の町の中に、縄文時代の痕跡と台湾とのつながりを感じさせる場所が並んでいることも印象的でした。 石碑によると、池袋東貝塚は蒔田鎗次郎(まいたそうじろう)によって1896年、明治29年に発見された縄文時代の貝塚です。氷川神社裏貝塚、別名池袋西貝塚とともに知られていましたが、周辺の開発が進む中で、正確な位置が分からなくなっていったそうです。その後、2017年、平成29年に行われた発掘調査で貝塚が確認されたことから、「再発見の地」とされているようです。 次に池袋氷川神社へ向かいました。境内はとても整っていて、掃除も行き届いていました。街中の小さな神社というと、場所によってはひっそりとした印象を受けることもありますが、池袋氷川神社は地域の中で大切にされてきた神社であることが伝わってきました。境内には神輿などを収める蔵も複数あり、地域の祭礼との結びつきも感じられます。 境内の石碑によると、天保元年、1830年の記録にはこの村の氷川社が記されており、少なくともその頃にはすでに神社が存在していたようです。また、境内からは縄文時代後期の土器片が発掘されていること、さらに明治時代に...

橿原神宮:古代の壁画を見たあとに訪れた、もう一つのはじまりの場所

キトラ古墳の壁画を見るために朝から明日香村を訪れ、キトラ古墳や高松塚古墳をめぐったあと、橿原市へ移動しました。目的は橿原神宮(かしはらじんぐう)を参拝することでしたが、その前に近くの奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に立ち寄ったところ、想像していた以上に見応えがあり、気づけばかなり時間が過ぎていました。そのため、橿原神宮に向かう頃には、すでに夕方の空気になっていました。 橿原神宮は、初代天皇とされる神武天皇と、皇后である媛蹈鞴五十鈴媛皇后を祀る神社です。日本書紀などに伝わる神武天皇の即位の地、橿原宮の跡とされる場所に、明治時代に創建されました。古代そのものの遺構というより、近代国家の中で「日本のはじまり」を象徴する場所として整えられた神社でもあります。朝から飛鳥の古墳を見てきた後だったこともあり、古代の記憶と近代の国家観が重なる場所に来たような感覚がありました。 今回は北の入口から境内に入りました。まず印象に残ったのは、大きな木製の鳥居です。朱色に塗られた鳥居ではなく、木の色がそのまま生かされており、巨大でありながらも落ち着いた雰囲気がありました。そこから続く北参道はかなり長く、歩き始めてすぐに、境内の広さを実感しました。 参道には砂利がきれいに敷き詰められていました。見た目にはとても美しいのですが、距離が長いこともあり、歩いてみると意外と足を取られます。明日香村で古墳や史跡を歩いた後だったため、なおさら長く感じました。ただ、その歩きにくさも含めて、神域へ少しずつ近づいていく感覚がありました。舗装された道を効率よく進むのではなく、あえて時間をかけて歩くことで、日常の感覚から少し離れていくようでした。 拝殿のある区域に近づくと、北神門が見えてきました。これもまた大きく立派な門で、参道の長さに続いて、建物の規模にも圧倒されました。門をくぐると、広々とした空間の奥に拝殿が見えます。建物と建物の距離が非常に大きく、奥行きのある構成になっているため、視線が自然と遠くへ導かれていきます。 参拝したときには、正面に見える大きな建物を拝殿、そのさらに奥に見える建物を本殿のように感じていました。しかし後で調べてみると、私が拝殿だと思っていた建物は外拝殿で、本殿だと思っていた建物は内拝殿でした。本殿はさらに奥にあり、内拝殿での参拝も通常は事前の申し込みが必要なようです。実際に現地で見た...