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自由学園明日館:ライトと遠藤新の思想が息づく、石と木と窓

豊島区の住宅街を歩いていたとき、広い芝生と横に伸びる洋風建築がふいに視界を開き、いつか中を見たいと思っていた自由学園明日館(じゆうがくえんみょうにちかん)に足を踏み入れました。 入口から一階の教室をのぞくと、低く連なる天井と連窓が穏やかな光をほどよく散らし、学びの場らしい静けさが保たれているのが印象的でした。 やがてホールへ進むと、壁一面を切り取る大きな窓に迎えられます。説明によれば、この窓は復元前に強度確保のための補強枠が付いていたものの、復元の段で建築当初の姿に戻されたそうで、外と内がひと続きになるような開放感がよみがえっていました。 中階の食堂を抜けて二階へ上がると、設計の経緯や素材についての資料が並んでいました。最初に依頼を受けた遠藤新(えんどう あらた)が、学校創設者の羽仁もと子・吉一(はに もとこ・よしかず)夫妻にフランク・ロイド・ライトを紹介し、共同で計画が進んだこと、そして館内外に栃木の大谷石(おおやいし)が意匠として生かされていることが語られていました。先日、英語教材でライトと大谷石の関わりを読んだばかりだったので、ここでその具体例に触れられたのは幸運でした。水平線を強調する外観、厚みのある石の質感、光を和らげる窓の構成が一体となって、学びの時間を包み込むように感じられます。 さらに道を渡っての講堂を見学しました。こちらは遠藤新の設計で、復元過程では壁に閉じ込められていた当時のトイレが見つかり、そのまま展示されていました。日常の設備にまで時代の息遣いが残されていることに、保存という営みの奥行きを思います。 講堂の柱の一部にも大谷石と思われる石材が用いられ、ライトから受け継いだ素材感や水平性の感覚が確かに引き継がれていました。 大正期に芽吹いた新しい教育の理念を、建築そのものが形にした場所だと実感します。大きな開口部から射し込む自然光、庭とのつながりを意識した低く伸びやかなプロポーション、手で触れられる石の温度――それらは過去の遺物としてではなく、今も人を迎え入れる“学びの器”として生きています。復元で取り戻された窓の軽やかさや、偶然に発見されたトイレの素朴な存在感も含め、ここには設計者たちの思想と学校の記憶が、静かに重なり合っていました。再訪のたびに、光と素材が教えてくれる小さな発見が増えていくように思います。 旅程 池袋駅 ↓(徒歩) 自由学園明...

長崎神社(東京都豊島区椎名町): 例大祭:豊島区の癒しのスポット

西武池袋線の椎名町駅はよく利用するのですが、そのすぐ近くに長崎神社(ながさきじんじゃ)があります。普段は人気もない神社ですが、毎年9月の例大祭の2日は駅前の道が歩けないぐらい人であふれかえります。今年は9月7日、8日が例大祭でした。 東京都豊島区の椎名町駅近くにひっそりと佇む「長崎神社」は、都会の喧騒を忘れさせる落ち着いた雰囲気の神社です。この地域の歴史と文化に触れながら、心安らぐひとときを過ごせる場所として知られています。 境内には、印象的な狛犬が鎮座しています。 特に左側の狛犬は、親子の姿をしており、訪れる人々の目を引きます。この親子狛犬は、家族の絆や子供の成長を象徴していると言われ、家族の健康や幸せを願う参拝者にとっては心強い存在となっています。 長崎神社の創建時期は不詳ですが、伝えられるところによると、少なくとも江戸時代以前にはこの地域に存在していたとされています。昔は武州豊島郡「長崎村」(現在の豊島区長崎、南長崎、千早、要町、高松、千川、目白4丁目、5丁目、西池袋4丁目、5丁目、池袋3丁目の一部)と呼ばれていた農村地帯で、神社はこの地域の鎮守として信仰されてきました。現在もなお、椎名町エリアの住民にとっては生活に密着した大切な場所となっています。 江戸時代には、長崎村は農村として栄え、周辺は田畑が広がるのどかな地域でした。長崎神社は、その中心にあり、村の守り神として信仰されていました。当時は、仏教の十羅刹女(じゅうらせつにょ)を祀っていて、十羅刹女社(じゅうらせつにょしゃ)と呼ばれていました。境内には、1733年(享保18年)に奉納された「十羅刹女」と刻まれた手水鉢が残されています。 隣接する金剛院は、1868年(明治元年)の神仏分離まで、長崎神社の別当寺でした。 1872年(明治5年)に廃仏毀釈(神仏分離)により十羅刹女は祭神から排除され、代わりに埼玉県の氷川神社から須佐之男命(すさのおのみこと)の分霊を合祀して勧請し、氷川神社に改称しました。 1874年(明治7年)、長崎神社に改称しました。 本殿は、1849年(嘉永2年)に、拝殿は1899年(明治32年)に建立されました。旧社殿は絵馬を納める額堂として使用されています。ほかに山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)揮毫(きごう※)の神社額と祭礼幟(さいれいのぼり)があります。 ※揮毫(きごう): 毛筆...

古代オリエント博物館:遥かなるメソポタミア、文明のはじまりに触れる

今日は、台風10号で雨が降っていたため、駅から近い古代オリエント博物館に行ってきました。 古代オリエント博物館は、サンシャインシティの7Fにあります。現在は、「聖書の世界 ―伝承と考古学―」というイベントが開催されていて、旧約聖書の原典の複製などが展示されています。 古代オリエント博物館は、1978年に、古代オリエント専門の博物館として開館しました。 古代オリエント博物館には、古代オリエントの資料が展示されていますが、古代オリエントに関する調査研究も行っています。例えば、シリア北部のルメイラ・ミショルフェ地区にあるテル・ルメイラ遺跡の発掘調査を行いました。 テル・ルメイラ遺跡には、上層、中層、下層の三段の地層があり、およそ1800年間都市として使われてきた形跡が残っています。各層からそれぞれの時代の土器などが見つかっています。 下層は、紀元前2300~紀元前2000年ごろの前期青銅器時代の農村の跡で、出土品から地中海沿岸からメソポタミアまで幅広い交流があったこと分かりました。土器は無文が主流でした。 中層は、紀元前2000年~紀元前1600ごろの中期青銅器時代の集落で、ハンムラビ王の時代の日常生活の遺物が多く出土しました。土器は櫛描文土器(くしがきもんどき)が増えました。 また、家形の土製品も出土しています。奉献用の器などと出土したことから、日本の神棚のように祭祀で使われたと考えられています。 上層は、紀元前900~紀元前600年の中期鉄器時代の城壁に囲まれた町が見つかりました。 他にも旧石器時代からのオリエントの多くの資料が展示されています。 クレオパトラ クレオパトラという名前を聞くと、多くの人がまず思い浮かべるのは、「絶世の美女」「ローマの英雄たちを翻弄した魔性の女」といったイメージではないでしょうか。映画や小説の中の彼女は、豪華な衣装に身を包み、カエサルやアントニウスを虜にする妖艶な女王として描かれることが多いです。しかし、歴史研究が進むにつれて、クレオパトラ像は少しずつ塗り替えられています。今では、彼女は単なる恋愛ドラマの主役ではなく、「多言語を操る教養人であり、崩れゆく王国をなんとか守ろうとした政治家」という側面が強調されるようになってきました。 クレオパトラ七世は紀元前69年ごろ、エジプトのアレクサンドリアで生まれました。彼女が属したプトレマイオス朝は...

サンシャイン水族館:ゆらめく光と静寂の中で、空に浮かぶ水の世界

本日はサンシャイン水族館に来ました。   池袋の高層ビル群に囲まれた場所に、まるで空に浮かぶような水族館があります。それが「サンシャイン水族館」です。地上40メートルという異色のロケーションにあるこの水族館は、「天空のオアシス」というキャッチフレーズそのままに、都市の喧騒を忘れさせてくれる癒やしの空間です。 この日も、晴れた空の下、水族館は多くの人々で賑わっていました。まず迎えてくれたのは、小さめの色とりどりの魚たち。名前こそ分からなくとも、それぞれが美しい模様や動きで、水槽の中に静かなドラマを展開していました。人の気配にも驚かず、悠々と泳ぐ姿は、見ているこちらの気持ちを自然と落ち着かせてくれます。 館内を進んでいると、ふと目を引いたのは、ダイバーの方が水槽内で掃除をしている場面でした。潜水装備を整えたスタッフが、大きな水槽の中で実に器用に、そして丁寧に作業している様子には感心させられました。魚たちを驚かせないよう、静かに道具を扱う姿からは、水族館がどれだけ細やかな心配りの上に成り立っているかが伝わってきます。 続いて訪れたのは、幻想的なくらげのコーナーです。淡く光る照明の中で、ふわりふわりと浮かぶクラゲたちは、まるで別の時間軸を生きているかのような静けさをまとっていました。透明な身体、たおやかな動き、そのどれもが日常とは違う空間へと連れて行ってくれるようで、しばらくその場から動けなくなってしまいました。 そして、屋外エリアに出ると、ちょうどアシカのショーが始まるところでした。飼育員との息の合ったパフォーマンスや、観客への愛嬌たっぷりのアピールは、子どもたちだけでなく大人の心も和ませてくれます。知性とユーモアが共存したアシカたちの動きに、会場は自然と笑顔に包まれていました。 さらに歩を進めると、地上でくつろぐペンギンたちの姿が目に入りました。 愛嬌あるヨチヨチ歩きに目を細めたのも束の間、建物の下層に降りると、今度は泳いでいるペンギンたちを下から見上げる形で観察できるエリアへ。頭上を滑るように泳ぐ姿は、空を飛んでいるかのようで、「天空のペンギン」という名前にふさわしい光景でした。 高層ビルの屋上に広がるこの不思議な水の楽園は、ただ生き物を見る場所というだけでなく、人と自然とが静かに交わるひとときの場でもあります。水族館という空間に、ここまでの工夫と演出を施して...

粟島神社:池袋のビルの谷間、イケとフクロウ

豊島区の小さな粟島神社(あわしまじんじゃ)を訪ねました。 境内はこぢんまりとしていますが、まず目に入ったのは清らかな水をたたえる池でした。案内によれば自然の湧き水で満たされているとのことで、武蔵野台地の縁に点在する湧水の名残が、町なかの祈りの場にそっと息づいているのだと実感します。ビルの谷間で水面が風にさざめくさまを眺めていると、時間がふっと緩むようでした。 社名の「淡島(粟島)」は、和歌山・加太の淡嶋神社に源流を持つ淡島信仰に通じ、女性の守護や病の平癒に霊験があるとして江戸でも勧請が広がったと伝えられます。小社ながらも、旅の安全と日々の無事を祈る人々の気持ちが積み重なってきたのでしょう。本殿に手を合わせると、境内の静けさが一層深く感じられました。 ふと見ると、フクロウの石像がこちらを見守っていました。池袋界隈でフクロウ像をよく見かけるのは、地名の「池袋」と「ふくろう(梟)」の語呂合わせから生まれた街のシンボルゆえです。駅構内の「いけふくろう」をはじめ、商店街の装飾やベンチ、モニュメントまで幅広く用いられ、〈福が来る〉〈不苦労〉といった当て字の縁起も手伝って、地域の親しみやすい守り神のような存在になっています。粟島神社のフクロウも、そんな街の文脈の中で、湧水の池とともに訪れる人をやさしく迎えているのだと感じました。 参拝を終えて振り返ると、水面に揺れる木々の影が印象に残りました。都市の喧噪から一歩離れ、湧き水と小さな社に守られた空間に立つと、江戸からつづく信仰の糸が現在の日常へと静かにつながっていることに気づきます。次に訪れるときは、季節を変えてこの池の表情をもう一度見てみたいと思いました。 旅程 椎名町駅 ↓(徒歩) 粟島神社 ↓(徒歩) 椎名町駅 周辺のスポット 豊島区立熊谷守一美術館 リンク 粟島神社|2022年7月16日|出没!アド街ック天国:テレビ東京

トキワ荘:世代を越えて、ページはめくられる、四畳半に残るインクの匂い

豊島区にある再現施設のトキワ荘マンガミュージアムを訪ねました。冬の乾いた空気のなか、公園に足を踏み入れると、まず目に入るのは昭和の街角を思わせる電話ボックスや屋台の再現で、遠い時代の生活音まで聞こえてきそうでした。ミュージアム本体も、かつての木造アパートを忠実に蘇らせた造りで、外観からすでに時間旅行が始まっているように感じます。 館内に入ると、細い板張りの廊下と共同の台所、薄い壁の向こうに広がる四畳半――若い漫画家たちが暮らし、徹夜で原稿を仕上げ、互いに作品を見せ合っていた日々が、生活の手触りごと立ち上がってきます。ちゃぶ台にはペン先とインク、酒の空き瓶を花瓶代わりにした小さな一輪挿し。机上のライトは今も原稿を照らしているかのようで、紙の擦れる音や笑い声まで想像してしまいました。 展示では、当時の部屋の再現だけでなく、戦後から高度成長期にかけてのマンガ史が丁寧に辿られていました。昭和27年に建てられたトキワ荘には、のちに日本の大衆文化を形づくることになる若手が集い、互いの作品に意見をぶつけ合いながら切磋琢磨しました。貧しくも創造力に満ちた共同生活が、新しい表現の実験場となり、雑誌文化の発展とともに読者の裾野が一気に広がっていったことが、資料や誌面の変遷からもよく伝わってきます。老朽化で建物自体は解体されましたが、こうして再現された空間に立つと、失われたはずの時間が確かな重みを取り戻すのだと実感しました。 私は子どものころ『北斗の拳』や『ドラゴンボール』で育った世代です。展示されていた作品は少し前の世代の名作が中心で、実際には読んだことのないタイトルも多かったのですが、紙の匂いが残る雑誌の背や、手描きの線の勢いに触れるうち、少年誌が放つ高揚感が自分の記憶と自然に重なっていきました。作画机に置かれた道具やトーン、修正液の痕は、私が夢中になってページをめくった時代へと続く「はじまり」の証であり、世代をまたいで受け継がれる創作の系譜を目の前で確かめる体験でもありました。 見学を終えて外に出ると、電話ボックスのガラスに冬の日差しが反射していました。トキワ荘は単なる「伝説の建物」ではなく、互いに学び合い、挑み合うことで新しい価値を生み出した学びの共同体だったのだと改めて思います。作品は時代とともに変わりますが、創作の背骨にある情熱と対話は変わらない――そんな普遍性を、静かな部屋...

金剛院 (豊島区):江戸の由緒を今に染める赤門

豊島区・椎名町駅の北口を出てすぐの寺、金剛院をお参りしました。駅前の賑わいから一歩入ると、まず目に入るのは鮮やかな朱の山門――通称「赤門」です。境内には弘法大師像が立ち、手前の赤と、奥に見える本堂などの落ち着いた茶のコントラストが印象的でした。茶といっても古色蒼然ではなく、近代的で端正な色合いで、駅前の景色とも不思議となじんでいます。 この赤門には物語があります。江戸時代、天明年間の大火の折に、当時の住職・宥憲和尚が多くの罹災者を寺に収容して救った功績により、10代将軍・徳川家治から山門を朱塗りとする特別の許可が与えられ、安永9年(1780)に現在の赤門が完成しました。赤い門は本来、将軍家ゆかりだけに許された格式の象徴で、地域の人びとはやがてこの寺を親しみを込めて「赤門寺」と呼ぶようになります。平成6年(1994)には豊島区の有形文化財にも指定され、いまも町のランドマークとして参拝者を迎えています。 金剛院は真言宗豊山派の寺で、本山は奈良・長谷寺。本尊は阿弥陀三尊で、御府内八十八ヶ所霊場の第76番札所でもあります。創建は大永2年(1522)、聖弁和尚によるもので、のちに宝永6年(1709)に現在地へ移りました。境内には「長崎不動」の名でも親しまれる祈りの場があり、寺は駅前でカフェを営むなど、時代に合わせて地域と寄り添ってきました。朱の門をくぐると、江戸の面影と現代の暮らしが同居する、この町ならではの時間が流れているように感じます。 赤門をくぐって弘法大師像に手を合わせ、本堂に参ると、小さな移動の合間にも心が澄むようでした。駅前にありながら、歴史の厚みがはっきりと伝わってくる場所です。次に訪れるときは、赤門の細部の彫りや、阿弥陀三尊の来歴にももう少し目を凝らしてみたいと思います。 旅程 都内 ↓(徒歩) 金剛院 ↓(徒歩) 都内 周辺のスポット 長崎神社 トキワ荘マンガミュージアム トキワ荘通り昭和レトロ館(豊島区立昭和歴史文化記念館) トキワ荘 跡地碑 リンク ようこそ、こんごういんへ。 真言宗豊山派 金剛院 - ようこそ、こんごういんへ! 真言宗豊山派 金剛院 公式サイト