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國學院大學博物館:渋谷で出会う神道と考古、そして和硯の世界

東京都渋谷区にある國學院大學博物館に行きました。現在、大学で学芸員のための勉強をしていることもあり、以前から他の大学博物館を見てみたいと思っていました。大学博物館には、それぞれの大学が積み重ねてきた研究の特色が表れます。國學院大學は神道研究や日本文化研究でよく知られているため、どのような展示が行われているのか、前から気になっていました。特に神道の展示が充実していると聞いていたので、今回はその点にも期待しながら足を運びました。 このとき開催されていた企画展は「和の硯-SUZURI-」でした。硯というと、書道で使う黒くて重い道具という程度の印象しかありませんでしたが、展示を見ているうちに、それが単なる文具ではなく、漢字文化そのものを支えてきた重要な道具であることがよく分かりました。第一章の「漢字文化と硯」では、筆・墨・硯・紙という文房四宝が、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わったことが紹介されていました。文字を書くための道具が伝来したということは、単に物が輸入されたという話ではなく、政治、記録、学問、祭祀といった社会の仕組みそのものが一緒に入ってきたということでもあります。古代国家の形成と文字文化の受容は切り離せない関係にあり、その入口に硯があるのだと思うと、急にその存在が重みを帯びて見えてきました。 ちょうど先日、斎宮の博物館で円形硯がいくつも展示されているのを見たばかりだったので、今回の展示ではその記憶とも自然につながりました。博物館を巡っていると、別の地域で見た資料が思わぬところで結びつくことがありますが、まさにその感覚がありました。ひとつの遺物だけを見ていたときには分からなかったことも、別の展示と重ねることで立体的に理解できるのが面白いところです。硯は地味な道具のようでいて、古代の文字文化や行政、信仰の実態を物語る存在なのだと改めて感じました。 第二章の「和硯と日本地図」では、日本各地の硯の産地が紹介されていました。北は岩手の紫雲硯から、南は屋久島硯まで、各地の石の個性を生かした多種多様な硯が並んでおり、思っていた以上に地域色の強い世界であることに驚きました。硯というと黒いものを想像していましたが、実際には石材の違いによって表情はかなり異なり、福井県の宮川硯のように赤みを帯びたものもありました。墨を磨るための道具でありながら、その見た目には工芸品としての魅力もあり...

京都文化博物館:企画展「アイヌの美―彩りと輝き―」:うずまきと対称の文様に惹かれて

京都文化博物館を訪れた日は、もともと開館に合わせて向かうつもりでしたが、京都御苑や新島旧邸で思いのほか足を止めてしまい、博物館に着いたころにはすでに昼を回っていました。けれども、そうして少し寄り道を重ねたあとにたどり着いたからこそ、京都という町の厚みを感じたまま展示に入ることができたようにも思います。 京都文化博物館は、京都の歴史と文化を紹介する博物館で、別館には明治39年(1906)竣工の旧日本銀行京都支店の建物も残っています。古都の文化を見せる場所として、建物自体にも時代の層が感じられるのが印象的です。 今回の目的は、企画展「アイヌの美―彩りと輝き―」でした。この展覧会は、服飾や木工芸に見られるアイヌの豊かな色彩感覚と美意識に注目し、衣服、ござ、首飾り、煙草入れ、マキリ、儀礼具、漆器などを通して、その美の世界を紹介する内容でした。また、チカップ美恵子さんの刺繍作品に加え、貝澤徹さん、下倉洋之さん、藤戸康平さんといった現代作家の作品も並び、過去の工芸と現代の表現が連続していることを感じさせる構成になっていました。 私は以前から、日本の歴史や文化を学ぶのであれば、本州中心の歴史だけではなく、アイヌや琉球についてもあわせて知りたいと考えていました。アイヌ民族は、20世紀半ばまで北海道、樺太、千島列島を主な生活圏とし、木や樹皮、骨、角、毛皮、魚皮、貝など身近な自然素材を用いて生活用具や儀礼具を作る一方、周辺の民族や和人との交流を通じて、布や糸、金属、ガラス玉なども取り入れ、独自の文化を発展させてきました。アイヌ文化は孤立したものではなく、北東アジアの諸民族や和人との長い接触の中で受け継がれてきた文化でもあります。 展示の冒頭では、チカップ美恵子さんの作品が並んでいました。私はそれまで、アイヌ文様とはどういうものかをはっきり理解していなかったので、作品を前にしても、これは作家自身の個性なのか、それともアイヌ文化に共通する造形なのかが分かりませんでした。ただ、見ているうちに、幾何学的で、うずまくようで、しかも左右の均衡を意識したような文様が繰り返し現れることに気づき、強い印象を受けました。先に進んで、国立民族学博物館所蔵の樹皮繊維の衣服や、煙草入れ袋、針入れ袋、ござなどを見たとき、そこに通じる造形がはっきり感じられ、ようやく「ああ、これがアイヌらしい意匠なのか」と腑に落ちま...

松阪市立歴史民俗資料館/小津安二郎松阪記念館:松阪の城下町でたどる商人文化と映画の記憶

三重県松阪市の松阪市立歴史民俗資料館に行きました。この日は朝から斎宮で博物館や復元史跡を巡っていましたが、少し時間が余ったため、近くの松阪市まで足を延ばしました。御城番屋敷、本居宣長ノ宮、松阪神社、本居宣長記念館、そして松坂城跡を見て歩いたあと、この日の締めくくりとして訪れたのが松阪市立歴史民俗資料館です。資料館も松坂城跡の敷地内にあり、城下町の歴史をたどってきた流れの中で立ち寄るには、とてもよい場所でした。 建物は外から見ただけでもかなり古く見え、いかにも明治の面影を残しているような雰囲気がありました。入り口の説明によると、この建物は明治43年(1910年)に建てられたもので、もとは飯南郡図書館だったそうです。博物館や資料館というと、近年はガラス張りで映像展示の多い新しい施設を思い浮かべることも多いですが、ここは建物そのものがすでに展示物の一つのようでした。長い年月を経た木造建築の空気に包まれながら中へ入ると、これから松阪という町の記憶に触れていくのだという気持ちが自然と高まっていきました。 松阪といえば、私にとってはこれまで松阪牛の印象が強く、歴史や文化についてはほとんど知りませんでした。しかし、実際に町を歩き、最後にこの資料館を訪れてみると、松阪は商人の町であり、城下町であり、学問や工芸、さらに映画文化にもつながる豊かな土地であったことが分かりました。松阪商人、蒲生氏郷(がもううじさと)と松坂城、松阪木綿、そして映画監督の小津安二郎と、ひとつの町から実にさまざまな歴史の糸が伸びていることに驚かされました。 この日に開催されていた企画展は「松阪商人と小津安二郎」でした。小津安二郎というと、日本映画を代表する巨匠として名前はよく知られていますが、その背景に松阪商人の系譜があったということは、この展示を見るまで意識していませんでした。展示では、小津安二郎の祖父である新七(しんしち)が商人でありながら、歌舞伎や相撲を好み、多くの資料を収集していたことが紹介されていました。商いに携わる一方で、芸能や文化への関心を深く持ち、それらを身近に置いていたというのは、いかにも町人文化の成熟を感じさせます。そうした環境の中で育ったことが、小津安二郎の美意識や芸術感覚にも少なからず影響を与えたのだろうと思うと、映画監督のルーツをたどる面白さがありました。 常設展では、松阪商人の家の玄...

本居宣長記念館/鈴屋:松阪城で出会う、江戸の知と学びの世界

三重県松阪市にある本居宣長記念館に行きました。 この日は朝から斎宮で、博物館や復元史跡などを見ていました。斎宮では、古代の制度や伊勢神宮との関わりを学ぶことができ、かなり充実した時間を過ごしましたが、まだ少し時間があったため、そのまま近くの松阪市まで移動することにしました。地図を見ると松坂城が駅の近くにあり、その周辺にも見どころが集まっていたので、御城番屋敷、本居宣長ノ宮、松阪神社に立ち寄りながら、目的地である本居宣長記念館に向かいました。 本居宣長という名前は、歴史の授業などで聞いた記憶があり、なんとなく学問の神様のような存在という印象も持っていましたが、実際に何をした人物なのかはよく知りませんでした。そのため、今回の見学は、名前だけ知っている人物の実像に触れるよい機会になりました。 本居宣長記念館は、展示を行う博物館と、本居宣長が暮らした旧宅「鈴屋」から成っています。まずは博物館から見学しました。館内に入って最初に見た紹介映像がとても分かりやすく、そこで本居宣長の最大の業績が『古事記伝』であることを知りました。『古事記伝』は、日本最古の歴史書のひとつである『古事記』を長年にわたって読み解き、注釈を加えた大著です。江戸時代には中国の思想や仏教の影響を受けた学問が広く行われていましたが、宣長はそうした外来の思想を通してではなく、日本の古典そのものに立ち返って日本人の心や感性を探ろうとしました。その姿勢は国学を代表するものとして知られており、後世にも大きな影響を与えています。 また、映像の中で印象に残ったのが、宣長の旧宅である鈴屋が、現代で言うサロンのような場になっていたという話でした。学問というと、机に向かって一人で静かに研究するイメージがありますが、実際には人が集まり、語り合い、学び合う場所でもあったことが分かります。江戸時代の地方都市に、そのような知的交流の場が存在していたと思うと、とても興味深く感じました。 二階の展示室へ向かう途中には、宣長が十七歳ごろに描いたという「大日本天下四海面図」のコピーが展示されていました。若いころにこれほど大きな視野で日本を捉えようとしていたことに驚かされます。しかも、単なる思いつきではなく、地理や世界への関心が早くから育っていたことが感じられました。二階には本物も展示されており、若き日の知的好奇心の強さを実感しました。 展示室で...

斎宮歴史博物館:柵列の間をくぐり抜け、古代国家の祈りに触れる、祈りの都が農村へ変わるまで

斎宮跡を歩いたあと、その流れのまま斎宮歴史博物館へ向かいました。駅前から感じていた木造風の意匠や、整えられた景観の延長線上に、この博物館の落ち着いた佇まいがあり、ここでようやく「斎宮」という言葉が指す世界の輪郭を、資料と展示で掴めそうだと思いました。斎宮は史跡としては広々としていて、当時の建物がそのまま立ち上がっているわけではありません。その分、見学者の頭の中で想像を補う余地が大きいのですが、博物館はその空白を、根拠と手触りのある情報で丁寧に埋めてくれる場所でした。 ちょうど特別展「天地(あめつち)の神を祈りて-伊勢神宮、そして斎宮-」が開催されており、展示室に入ると、ここが古代から信仰の重要な舞台だったことを、古墳時代の出土品などの実物資料を通して実感できました。伊勢神宮が成立していく過程、そこに斎宮・斎王という制度が結びついていく必然性が、単なる言葉の説明ではなく「この土地から出てきたもの」と一緒に語られるので、歴史がふわっとした神話のように遠ざからず、現実の地層の上に積み上がった出来事として迫ってきます。斎宮跡を先に見ていたからこそ、「あの広い区画が、ただの空き地ではなく、国家的な祈りを担う装置だったのだ」という感覚が、じわじわと身体に染みてきました。 特別展のあとに常設展を見ていくと、展示室が二つに分かれている構成が分かりやすく、斎宮という存在を別々の角度から立体的に捉えられるようになっていました。展示室1のテーマは「文字からわかる斎宮」です。延喜式のレプリカが示す制度としての斎宮、そして源氏物語、栄華物語、大和物語といった文学作品の中に現れる斎宮や斎王の姿が並ぶと、斎王がただの宗教的存在ではなく、宮廷文化の文脈の中でも強く意識された存在だったことが見えてきます。文学の中の斎王は、歴史の事実だけでは捉えきれない感情や視線をまとっていて、制度の説明とは違う温度で当時の人々の心情を想像させます。 さらに、文字が書かれた土器や印といった資料も展示されていて、「斎宮は祈りの場」という一言では片づかない、運用のための事務や情報のやりとりが確かにあったことが伝わってきました。展示の中には、武官や男女の子どもの等身大人形と当時の衣装があり、そこに復元された葱華輦(そうかれん)や斎王の居室の再現も続きます。文字資料を中心とする展示室1なのに、こうした視覚的・空間的な復元がし...

開成館:主役はまさかの工事中、官舎から入植者住宅へ、建物のサイズで読む明治のくらし

郡山に来た目的は、郡山市歴史情報博物館の特別展と、もう一つは開成館でした。ところが朝いちばんで入った博物館が、特別展も常設展も思った以上に濃くて、気づけば予定を大幅にオーバーしていました。昼過ぎにようやく開成館へ向かった私は、少し急ぎ足のまま「今度は短時間でさらっと……」と自分に言い聞かせていたのですが、入口で最初に目に入ったのは、「開誠館は復旧工事中」という文字でした。 開成館本館は、福島県沖地震での被害と老朽化への対応として、耐震補強を含む改修が進められており、工事は2025年1月開始、2028年7月完了、展示リニューアル後に2028年中の再開館予定だそうです。とはいえ、敷地内の「旧立岩一郎邸」「旧坪内家」「旧小山家」は公開されていると知り、せっかく来たのだからと、今日は“本館の代わりに旧家を読む日”に切り替えることにしました。  最初に入ったのは旧立岩一郎邸です。「福島県開拓掛」の職員用官舎として、いわゆる「一番官舎」に当たる建物だと説明されていました。開拓に関わる“役所の家”という性格が最初からはっきりしていて、玄関をくぐった瞬間に、生活の場でありながら同時に仕事の延長線上でもあった空気が伝わってきます。展示は安積疏水関連が中心で、映像やパネルがこれでもかと並び、狭い空間が情報で満たされていました。急な階段を上がると、昔の家らしい角度と踏み幅で、足元に意識が持っていかれます。見学というより、当時の生活のテンポに身体のほうが合わせに行く感覚でした。ちなみにこの官舎には、安積疏水の着工式(1879年)に出席した伊藤博文や松方正義が宿泊したという話も伝わっているそうで、家のスケール感と「ここに要人が泊まった」という事実のギャップが、かえって明治の現場感を強くしました。 次に見たのが旧坪内家です。鳥取から入植した「鳥取開墾社」の副頭取、坪内元興の住宅で、入植者住宅としては最上級の“規格住宅(雛形)”をもとに建てられたと紹介されていました。旧立岩一郎邸が「行政の家」だとすれば、旧坪内家は「開墾を進める側の拠点の家」という印象です。糸車が置かれていたのが目に留まりました。副頭取という肩書きからすると、いかにも生活道具らしいものがあるのは少し意外で、もしかすると家の中の労働がとても身近だったのか、あるいは家族や手伝いの人を含めた暮らしの厚みがあったのか、と想像が膨...