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東京大学総合研究博物館:氷川神社裏貝塚を追って、鉱物・化石・考古資料に出会う

大学の授業で池袋周辺の遺跡を調べることになり、氷川神社裏貝塚について調査していました。調べているうちに、その出土品を東京大学総合研究博物館が所蔵していることを知り、展示されている可能性は低いと思いながらも、東京都文京区にある東京大学総合研究博物館へ行ってみることにしました。 東京大学の入口には「関係者以外入構禁止」と書かれており、少し不安になりました。しかし、警備員の方に聞いてみると、「全然大丈夫」とのことで、無事に構内へ入ることができました。大学の敷地内にある博物館というだけで、普段の博物館とは少し違う緊張感があります。 東京大学総合研究博物館は、国立博物館や県立博物館のような大規模な施設と比べると、展示室の広さは控えめです。しかし、内容は非常に幅広く、隕石や鉱物、生物標本、化石、考古資料まで、大学の研究機関らしい多彩な資料が並んでいました。東京大学が長い研究と教育の歴史の中で蓄積してきた標本や資料を、一般にも公開している場所という印象を受けました。 石が展示されているエリアでは、小惑星イトカワの模型やレアアースなど、宇宙から地下資源までを感じさせる資料が並んでいました。単にきれいな鉱物を眺めるというよりも、自然科学の研究対象として石を見る展示になっており、大学博物館らしさがよく表れていました。 環境と生物に関する展示では、白亜紀の爬虫類の前肢の化石や、さまざまな全身骨格、化石標本を見ることができました。生物の形や進化を考える展示が多く、自然史博物館のような楽しさもあります。 さらに、生物系コレクションのエリアには馬などの剥製やアジアゾウの骨格もあり、標本の迫力を間近で感じることができました。 今回の目的にもっとも近かったのは、考古学コレクションのエリアでした。ここに氷川神社裏貝塚の出土品があればと思って見て回りましたが、やはり展示はされていませんでした。総合研究博物館へ行く前に豊島区にも問い合わせており、見学後に回答をいただきましたが、残念ながら出土品は公開されていないとのことでした。 それでも、考古学コレクションの展示は見応えがありました。特に印象に残ったのは、モースや坪井正五郎に関するコレクションです。モースは大森貝塚の発見で知られ、日本の考古学史を語るうえで欠かせない人物です。坪井正五郎もまた、日本の人類学や考古学の初期に大きな役割を果たした研究者です。氷...

豊島区立郷土資料館:池袋の足元に眠る遺跡を探して

大学の考古学の授業で、近隣の遺跡について調べる必要があり、池袋東貝塚と氷川神社裏貝塚の手がかりを探すため、東京都豊島区の豊島区立郷土資料館に行きました。池袋というと、現在では繁華街やアニメ文化のイメージが強く、縄文時代の貝塚とはすぐには結びつきにくい場所です。そのため、実際に地域の資料を見れば、何か手がかりが得られるのではないかと思いました。 館内に入ると、まず目に入ったのは江戸時代から始まる大きな年表でした。歴史好きとしてはそれだけで興味を引かれましたが、今回の目的は貝塚や古い時代の遺跡だったので、少し嫌な予感もしました。一般的に、旧石器時代や縄文時代の資料が充実している展示であれば、年表もその時代から始まっていることが多いからです。豊島区の歴史展示は、どちらかというと近世以降に重点が置かれているように見えました。 とはいえ、その年表には豊島長崎の富士塚、自由学園明日館、長崎村、長崎神社など、自分がこれまでこのブログで取り上げてきた場所もいくつか登場していました。本来の目的からは少し外れますが、知っている場所が地域の歴史の流れの中に位置づけられているのを見るのは面白く、思わず時間をかけて眺めてしまいました。何度も歩いてきた場所でも、年表の中で見るとまた違った姿が見えてきます。 年表の向かい側の壁には、土器や石器などの考古資料が展示されていました。残念ながら、池袋東貝塚や氷川神社裏貝塚に直接関係する資料は見当たりませんでしたが、巣鴨遺跡や学習院大学周辺遺跡の資料がありました。目的の貝塚にたどり着けなかったのは残念でしたが、豊島区内にも古い時代の人々の痕跡が残っていることは確認できました。調査対象を変更する場合には、これらの遺跡も候補にできそうで、結果的には良い情報収集になりました。 その後の展示では、江戸時代の豊島区周辺の村の構成が紹介されていました。長崎村、池袋村、巣鴨村、上駒込村、雑司ヶ谷村など、現在の地名につながるような村の名前が並んでいます。特に長崎については、現在の椎名町駅周辺の印象が強かったため、椎名町という地名の方が古いのかと思っていました。しかし、地域としては長崎の名が古くから使われていたことが分かり、地名の由来や変化にも興味が湧きました。 近代以降の展示では、巣鴨監獄や戦時・戦後に関する資料も紹介されていました。展示の規模としては大きくありませんが...

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館:古代人の死生観にふれる濃密な展示時間

奈良県橿原市の奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に行きました。 この日は、キトラ古墳の壁画を見るために朝から明日香村を訪れていました。キトラ古墳や高松塚古墳を見学したあと、橿原神宮を参拝するために橿原市へ移動しました。地図を見ていると、橿原神宮の近くに奈良県立橿原考古学研究所附属博物館があることに気づき、せっかくなので先に立ち寄ってみることにしました。 事前に詳しく調べていなかったため、どのくらいの規模の博物館なのかも分からないまま向かいましたが、実際に入ってみると想像以上に大きな博物館でした。軽く見てから橿原神宮へ向かうつもりでしたが、展示の量が非常に多く、気がつけば閉館時間ぎりぎりまで滞在することになりました。 訪問時には、特別展として「葬る―弥生人は墓に何を託したか?」が開催されていました。最近の博物館の企画展は、幅広い来館者に親しみやすいように、説明文を短めにし、専門用語も抑えた展示が多い印象があります。しかし、この特別展は文字による説明がかなり充実していて、良い意味で頭を使う展示でした。 土壙墓、土器、石器、埴輪など、展示物の数も非常に多く、弥生時代の人々が死者をどのように葬り、墓に何を込めたのかを、考古資料から丁寧に読み解いていく内容でした。墓というと、現代の感覚では個人の死や供養を思い浮かべますが、古代の墓には、集団のあり方、権力、身分、地域間の関係など、さまざまな情報が残されています。弥生時代は、水田稲作が広がり、社会のまとまりや階層が少しずつ明確になっていく時代でもあります。そのなかで墓がどのような意味を持ったのかを考えると、単なる埋葬の場ではなく、当時の社会を映す重要な手がかりであったことが分かります。 展示はかなり密度が高く、ひとつひとつを丁寧に読んでいくと、見学というよりも勉強に近い感覚になりました。悪い意味ではなく、見終わったあとに少し頭が疲れるような企画展でした。図録も購入したので、展示室で消化しきれなかった部分は、あとで少しずつ読み返しながら理解を深めていきたいと思いました。 常設展も非常に見応えがありました。旧石器時代から中世の室町時代頃まで、かなり広い時代を対象にした展示になっており、奈良という土地の歴史の厚みを感じる内容でした。明日香村や橿原周辺は、古墳時代から飛鳥時代にかけて、古代国家の形成と深く関わる地域です。そのため、考古資...

キトラ古墳:小さな古墳に閉じ込められた、飛鳥時代の宇宙

東京の博物館で、キトラ古墳の壁画公開のちらしを見つけました。奈良県明日香村にある有名な古墳であることは知っていましたが、実際に壁画を見られる機会は限られているようでした。せっかくなら見てみたいと思い、応募して、キトラ古墳を訪れることにしました。 キトラ古墳は、飛鳥時代の終わりごろ、7世紀末から8世紀初頭ごろに造られたと考えられている小さな円墳です。高松塚古墳に続いて発見された壁画古墳として知られ、石室の中には四神、獣頭人身の十二支像、そして天井の天文図などが描かれていました。現在は古墳そのものに入るのではなく、取り外され、保存・修復された壁画を、保存管理施設で期間を限って見学する形になっています。 当日は、応募した見学時間よりかなり早めに到着しました。まず向かったのは、キトラ古墳壁画体験館「四神の館」です。ここでは、キトラ古墳の石室の構造や、壁画に描かれた内容について、模型やパネルを通して学ぶことができました。 特に印象に残ったのは、石室の壁面と天井が、古代の宇宙観をそのまま閉じ込めたような構成になっていることです。東西南北の壁には、玄武、青龍、朱雀、白虎の四神が描かれ、その下には方位に対応する十二支像が配置されていました。さらに天井には、星々を描いた天文図があります。古墳というと、被葬者を葬るための場所という印象が強いですが、キトラ古墳の場合は、死後の世界や方位、天と地の秩序まで含めた、非常に大きな世界観が石室の中に表現されているように感じました。 今回公開されていたのは、天井に描かれた「天文図」でした。展示パネルを見ると、四神や十二支像など、他にも貴重な壁画が残っていることが分かります。最初は、なぜ今回は天文図だけなのだろうと思いました。しかし、この疑問は後で実物を見たときに自然と理解できました。 次に、発掘や調査、保存の歴史についての展示を見ました。1972年に高松塚古墳の壁画が発見された後、地元の人たちから似たような古墳があるという情報が寄せられ、それがキトラ古墳の調査につながったそうです。その後、石室の中に外気を入れないようにしながら、ファイバースコープなどを使った慎重な調査が行われました。 この調査の展示は、エンジニアとしても興味深いものでした。初期の調査では、映像の解像度も現在の感覚からするとかなり粗いものでしたが、調査のたびに機材が進歩し、より鮮明に...

江戸東京博物館:特別展「大江戸礼賛」:リニューアル後の博物館でたどる、花のお江戸の記憶

東京都墨田区の江戸東京博物館に行きました。リニューアルオープンしたばかりということで、訪れるのを楽しみにしていました。 両国駅周辺ではちょうど大相撲が行われており、国技館のまわりには出待ちの人も含めて多くの人が集まっていました。そのため、最初は博物館へ向かう人はそれほど多くないようにも見えましたが、新しく作られた赤いアーチを進んでいくと、チケット売り場には長い行列ができていました。 今回は事前に特別展「大江戸礼賛」のチケットを購入していたため、長い列に並ばず、そのまま展示室へ向かうことができました。展示室内には行列こそありませんでしたが、企画展としては最終日であり、リニューアル後の注目も重なっていたため、会場内はかなり多くの人でにぎわっていました。ゆっくり一つひとつを見ていくには少し難しいほどでしたが、それだけ江戸という都市への関心の高さも感じられました。 展示の序章では、入口付近に「武蔵野図屏風」が展示されていました。現在の東京や埼玉の一帯は、かつて広く武蔵野と呼ばれていました。今では都市のイメージが強い東京も、江戸以前には野や林が広がる土地であり、その風景から展示が始まることで、江戸という都市がどのように形づくられていったのかを考える導入になっていました。 第1章の「将軍のお膝元」では、徳川家康が慶長8年、1603年に江戸幕府を開いたころから、明暦の大火までの江戸が紹介されていました。江戸はもともと日本の中心だったわけではなく、徳川政権の成立とともに、武士の都として急速に整えられていきました。江戸城を中心に大名屋敷や町が広がり、政治都市としての性格を強めていきます。明暦の大火以前の江戸城を描いた資料からは、後に大きく姿を変える前の江戸の様子を想像することができました。 この章では、紺糸素懸威五枚胴具足などの甲冑、鞍、刀、香箱、打掛なども展示されていました。絵画や書物が中心となる後半の展示に比べると、武家文化を象徴する実物資料が多く、海外から訪れた人にとっても、いかにも江戸時代らしい印象を受けやすい展示だったように思います。武士の都として始まった江戸の姿が、視覚的にもわかりやすく伝わってきました。 第2章の「江戸繁華」では、町人文化の開花がテーマになっていました。江戸は政治都市であると同時に、やがて巨大な消費都市、娯楽都市としても発展していきます。「江戸名所図会」...

国立映画アーカイブ:写し絵からゴジラまで、日本映画の長い道のり

東京都中央区の国立映画アーカイブを訪れました。東京の中心部にありながら、館内に入ると、そこには映画という娯楽がどのように日本へ入り、どのように社会や文化と結びつきながら発展してきたのかをたどる、濃密な時間が広がっていました。国立映画アーカイブは、国立の美術館の一つでもあり、日本映画に関する資料を保存し、公開し、研究する施設です。映画というと、どうしても作品そのものや俳優、監督に目が向きがちですが、展示を見ていると、映画は単なる娯楽ではなく、技術、産業、スター、観客、そして時代の空気が複雑に重なり合って生まれてきた文化なのだと感じました。 展示の始まりは「日本映画のはじまり」でした。映画が日本に渡来する以前から、江戸時代には幻燈、いわゆるマジック・ランタンがオランダから伝わり、「写し絵」や「錦影絵」として広まっていました。暗い空間に映し出される絵と、それに添えられる語りは、現代の映画とは仕組みこそ違いますが、人々が映像と物語を楽しむ文化の原型のように見えます。ここでの語り物の伝統が、後の「活動弁士」につながっていくという流れは、とても興味深いものでした。映画は突然外国から入ってきた新技術であると同時に、日本にすでにあった語りや見世物の文化とも結びついて受け入れられていったのだと思います。 日本に映画が渡来したのは1896年ごろとされ、その後、日本でも映画作品が作られるようになりました。吉沢商店、横田商会、Mパテー商会、福宝堂といった初期の映画会社が登場し、それらが統合されて日活が誕生していく流れを見ると、映画が一つの産業として急速に形を整えていったことが分かります。まだ映画というもの自体が新しかった時代に、撮影し、上映し、観客を集める仕組みが作られていく様子には、明治から大正にかけての近代化の勢いも感じられました。日本最初の映画スターとされる尾上松之助が人気を集めたことも、映画が単なる珍しい見世物から、人々が俳優に熱狂する大衆文化へと変わっていったことを示しているようでした。 続く「サイレント映画の黄金時代」では、1920年代の日本映画が紹介されていました。この時代を特徴づける存在として、やはり活動弁士があります。サイレント映画は音声のない映画ですが、日本では上映の場で活動弁士が登場人物の台詞や情景を語り、物語に命を吹き込んでいました。徳川夢声のように、俳優をしのぐほ...