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日本科学未来館:特別展「大南極展」:猛暑の東京で触れた南極の氷

東京都江東区青海にある日本科学未来館に行きました。 厳しい猛暑が続いていたため、都内で手軽に行ける屋内施設を探していたところ、日本科学未来館で特別展「大南極展」が開催されていることを知りました。南極という言葉だけでも少し涼しい気分になれそうだったので、久しぶりに日本科学未来館を訪れることにしました。 「大南極展」は、日本の南極観測70周年を記念して開催された特別展です。日本の南極観測は、1956年11月8日に第1次南極地域観測隊を乗せた観測船「宗谷」が東京港を出発したことから始まりました。翌1957年1月29日には隊員17人が東南極のオングル島に上陸し、そこを日本の観測拠点として「昭和基地」と名づけました。それ以来、南極では気象、地質、生物、海洋、宇宙など、さまざまな分野の観測が続けられています。 特別展の入口近くでは、実物の南極の氷が展示されていました。ケース越しに見るだけではなく、実際に手で触れられる展示だったため、多くの人が列を作っていました。日本科学未来館は常設展にも体験型の展示が多く、見るだけではなく、触ったり動かしたりしながら科学を学べるところが、いかにも科学館らしく感じられます。 南極の氷に触れるという体験は、単に冷たさを感じるだけではありません。はるか遠くにある南極大陸が、一時的に東京まで運ばれてきたようでもありました。猛暑の東京で南極の氷に手を触れるという状況も、少し不思議なものでした。 その先には、歴代の南極観測船などの模型が並んでいました。船体には「PL107」「5001」「5002」「5003」といった番号が記されていました。これは、初代観測船の「宗谷」、その後を継いだ「ふじ」、初代の「しらせ」、現在の「しらせ」へと続く日本の南極観測船の歴史を示しています。宗谷は第1次から第6次、ふじは第7次から第24次、初代しらせは第25次から第49次の観測を支えました。現在の「しらせ」は艦番号AGB-5003の砕氷艦で、厚さ約1.5メートルの氷を連続して砕きながら進む能力を備えています。 模型の近くには、南極地域観測隊が使用する防寒服も展示されていました。南極というと、氷と雪に覆われた静かな世界を想像しますが、実際には強風によるブリザードが発生し、短時間で視界が悪化することもあります。昭和基地周辺でも最大瞬間風速が毎秒50メートル前後に達することがあり、...

雄翔館:白い零戦を追って出会った、もう一つの戦争の記憶

白い零戦を求めて鹿児島県の知覧まで足を運びましたが、残念ながら目的としていた機体は見つかりませんでした。その後、ChatGPTで調べてみると、茨城県阿見町の予科練平和記念館に白い零戦の実物大模型が展示されていることが分かりました。思っていたよりも近い場所にあることに驚き、さっそく予科練平和記念館を訪れました。 館内を見学したあと、隣接する雄翔館にも向かいました。雄翔館は陸上自衛隊土浦駐屯地の敷地内にありますが、予科練平和記念館側にも専用の入り口があり見学できるようになっています。すぐ近くに予科練を扱う博物館が二つ並んでいるため、最初はなぜ別々の施設になっているのか不思議に思いました。 予科練とは、「海軍飛行予科練習生」と、その教育制度を指す略称です。航空戦力の拡充を進めていた旧日本海軍が、若いうちから搭乗員を育成するため、1930年に横須賀で教育を開始しました。1939年には予科練教育が阿見町へ移され、翌年に発足した土浦海軍航空隊が、その中心的な役割を担うようになりました。全国から多くの少年が集まりましたが、戦地に赴いた卒業生の約8割にあたる約1万9千人が亡くなったとされています。 二つの施設が並んでいる理由は、それぞれが異なる時代に、異なる目的で建てられたことにあります。雄翔館は、全国の予科練出身者が寄付を出し合い、戦没者の遺品や資料を保存するため、1968年に開館しました。これに対して、阿見町が運営する予科練平和記念館は、予科練の歴史や阿見町の戦争体験を伝え、命の尊さや平和について考える施設として、2010年に開館しています。 実際に見学すると、二つの施設の違いは展示内容からも感じられました。予科練平和記念館は、少年たちが受けた厳しい訓練や戦争による犠牲を通して、戦争の悲惨さと平和の大切さを伝える構成になっています。一般的な平和祈念館や戦争記念館に近い印象を受けました。 一方の雄翔館では、予科練出身者一人ひとりの経歴や遺影、遺書、遺品などが数多く展示されていました。雄翔館は、予科練戦没者の慰霊と顕彰を目的として設けられた施設で、予科練生の生活や遺書、遺品など約千点を展示・保管しています。そのため、戦争全体を大きな視点から振り返るというよりも、そこで生き、戦い、亡くなった人たちの姿を個人の記録から伝えることに重点が置かれています。 撃墜した敵機や攻撃した艦船など、...

予科練平和記念館:白い零戦を追う旅の終着点

先日、白い零戦を求めて鹿児島県の知覧を訪れました。しかし、知覧特攻平和会館に展示されていたのは海から引き揚げられた零戦で、探していた白い零戦とは異なるものでした。その後、ChatGPTで調べてみたところ、茨城県稲敷郡阿見町の予科練平和記念館に白い零戦の実物大模型があることが分かりました。 知覧まで行った後だったので、「案外近くにあったんだな」と驚きましたが、さっそく阿見町へ向かうことにしました。 予科練平和記念館の敷地に入ると、野外には人間魚雷「回天」の実物大模型が展示されていました。回天は、搭乗員が内部に乗り込んで敵艦に体当たりする特攻兵器です。その大きさを実物大の模型で見ると、兵器としての構造だけでなく、この狭い機体に人間が乗り込んだという事実を強く意識させられます。 回天の近くでは、インドネシアから来た若い人たちの集団に写真を撮ってほしいと頼まれました。写真を撮りながら、「この前、バリ島に行ったよ」などと少し話をしました。日本は戦時中にインドネシアを占領したため、日本人に対して複雑な感情を持っていても不思議ではありません。しかし、彼らは当時の日本の技術に興味があると話していました。 もちろん、短い会話だけで本心まで分かるわけではありません。それでも、戦争に関する施設で、かつて日本軍が進出した国から来た若者たちと、普通に写真を撮り合い、旅行の話ができたことには、不思議な感慨がありました。 阿見町は、かつて海軍航空と深い関係を持った町です。大正時代に霞ヶ浦海軍航空隊が置かれ、1939年には海軍飛行予科練習部が横須賀から移転しました。翌1940年には、予科練教育を専門に行う土浦海軍航空隊が設置され、阿見は予科練教育の中心地となりました。予科練は、若い段階から航空機搭乗員を育てるため、1930年に始まった制度です。全国から試験で選抜された少年たちは、厳しい教育と訓練を受け、やがて多くが戦地へ送られました。 館内の常設展示は、予科練習生の入隊から訓練、日常生活、戦局の悪化、特攻へと、時間の流れに沿って構成されていました。予科練の制服を象徴する「七つボタン」にちなみ、展示も七つのテーマに分けられています。 入隊試験の問題も展示されていました。幾何学や数学など、現在の学校の試験にもありそうな問題が並んでおり、予科練が単に体力のある少年を集めた場所ではなく、航空機を扱うために...

指宿市考古博物館 時遊館COCCOはしむれ:開聞岳の麓に重なるいくつもの時代

鹿児島県指宿市にある指宿市考古博物館「時遊館COCCOはしむれ」に行きました。 今回の鹿児島旅行では、「白いゼロ戦」を見ることを主な目的として知覧特攻平和会館を訪れました。しかし、残念ながら探していた白いゼロ戦は展示されていませんでした。 もっとも、旅行を計画した段階から、知覧特攻平和会館だけでなく、知覧や指宿周辺の観光地も巡るつもりでした。公共交通機関だけでは移動しにくい場所が多いため、観光タクシーを貸し切り、知覧の戦争遺跡や武家屋敷通り、釜蓋神社、池田湖、西大山駅、区営鰻温泉などを案内していただきました。 区営鰻温泉を出たあと、この日の指宿観光の最後に訪れたのが、時遊館COCCOはしむれでした。 館内で特に印象に残ったのは、開聞岳の噴火と指宿の歴史との関係です。開聞岳は今から約3700年前の縄文時代に誕生し、その後も複数回の噴火を繰り返して形成された火山です。館内には、開聞岳周辺で採取された地層の剝ぎ取り資料がいくつも展示され、火山灰や火山弾なども見ることができました。 噴火は、その時代を生きていた人々にとって、生活の場を奪う深刻な災害だったはずです。しかし、降り積もった火山灰が住居や道具、生活の痕跡を覆ったことで、それらが後世まで残されることにもなりました。人間にとっての災害が、考古学にとっては過去を読み解くための重要な手掛かりになるという、少し複雑な関係を感じました。 この博物館の名前にも使われている橋牟礼川遺跡(はしむれがわいせき)では、開聞岳の火山灰を挟んで、上の地層から弥生土器、下の地層から縄文土器が発見されました。これによって、縄文土器が弥生土器よりも古いことが、日本で初めて地層によって確かめられたそうです。また、平安時代の貞観16年、874年の噴火で埋まった集落跡も発見されており、建物や畑、道などが火山灰の下に残されていました。 知覧や池田湖、西大山駅などから眺めてきた開聞岳は、雲に頂上を隠しながらも、整った形をした美しい山に見えました。しかし、博物館の展示を見ると、その美しい山が、長い歴史の中で周辺の人々の暮らしを何度も変えてきた火山であることが分かります。同じ開聞岳でも、外から眺めるのと、地層や遺跡を通して見るのとでは、かなり印象が異なりました。 動物に関する展示では、旧石器時代の九州にツキノワグマが生息していたことも紹介されていました。現在の...

知覧特攻平和会館:「白いゼロ戦」を探して知覧へ――特攻隊員の手紙と残された飛行機

鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館を訪れました。 今回、知覧まで足を運んだきっかけは、「白いゼロ戦」について調べていたとき、Google検索のAIが知覧特攻平和会館に展示されていると案内していたことでした。知覧周辺は公共交通機関だけで回るのが難しそうだったため、観光タクシーを貸し切ることにしました。 ところが、運転手さんに白いゼロ戦について尋ねても、そのような機体は聞いたことがないという返事でした。現地に到着する前から、検索結果の情報が正しいのか少し不安になりました。 知覧特攻平和会館の周辺に着くと、まず屋外に一式戦闘機「隼」のレプリカが展示されていました。 その近くには白く塗装されたT-3初等練習機も置かれています。T-3は戦時中の機体ではなく、戦後に航空自衛隊で使用された練習機です。もしかすると、検索AIがこの白い機体と零戦の情報を混同した可能性もあるのかもしれません。 その先には、数多くの石灯籠が並んでいました。参道の手前にある灯籠は、知覧で富屋食堂を営んでいた鳥濱トメさんが昭和31年に献灯したものだそうです。運転手さんによると、灯籠はこの場所だけでなく周辺の道路にも並び、全部で千二百基を超えるということでした。 このときは、鳥濱トメさんがどのような人物なのか、まだ詳しく知りませんでした。後に運転手さんが富屋食堂へ案内してくださり、出撃を前にした特攻隊員たちを支えたトメさんと、若者たちとの交流について知ることになります。知覧の戦争の記憶は、平和会館の中だけで完結するものではなく、町の各所に残されているのだと感じました。 灯籠が並ぶ参道を進み、特攻平和観音堂へ向かいました。案内してくださった運転手さんによれば、特定の宗教や宗派にかかわらず、誰もが戦没者のために祈れるよう、宗教色をできるだけ抑えた造りになっているそうです。現在の観音堂は、かつて知覧飛行場があった場所に建てられています。 知覧飛行場は、昭和16年に大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所として開設されました。当初は航空兵を育成する教育施設で、約三年間におよそ六百人の操縦者が養成されたとされています。しかし、戦争末期の昭和20年には沖縄戦に向かう陸軍特別攻撃隊の出撃基地となり、四百人を超える隊員が知覧から出撃しました。現在の静かな公園からは想像しにくいものの、ここは多くの若者が最後の時間を過ごした場所でした。...

聖書考古学資料館:小さな展示室に凝縮された聖書の背景

東京都千代田区にある聖書考古学資料館に行きました。 聖書考古学資料館は、御茶ノ水クリスチャンセンターの5階にあります。名前から独立した資料館のような建物を想像していたため、最初は少し場所が分かりにくく感じました。建物の外には「聖書考古学資料館」という表示がなく、同じキリスト教に関係する施設なのでおそらくここだろうと思い、御茶ノ水クリスチャンセンターの中に入りました。中のフロア案内に資料館の名前があり、そこでようやく場所が確認できました。 5階に上がると、聖書考古学資料館は一室を使った小さな資料館でした。大きな博物館のような広さはありませんが、中に入ると部屋の中央に実物大のブラック・オベリスクのレプリカが置かれており、まずその存在感に目を引かれました。ブラック・オベリスクは古代アッシリアの王に関係する記念碑で、聖書の世界と古代オリエントの歴史がつながっていることを感じさせる資料です。 周囲には、楔形文字が刻まれた粘土板、ランプなどの土器、ロゼッタストーンの縮小レプリカ、古代のコインなどが展示されていました。ギルガメッシュ叙事詩に関する資料もあり、聖書そのものだけではなく、聖書が成立した背景にある古代メソポタミアやエジプト、オリエント世界の文化に触れられる展示になっていました。 訪れる前は、聖書考古学という名前から、キリスト教が成立した紀元前後の資料が中心なのだろうと想像していました。しかし、聖書には新約聖書だけでなく旧約聖書もあり、その背景にはさらに古い時代の人々の生活、都市、文字、信仰、国際関係があります。そう考えると、楔形文字の粘土板や古代の土器が展示されていることも納得できます。聖書の記述を理解するためには、キリスト教の成立期だけでなく、その前提となる古代西アジアの歴史や文化を知ることが重要なのだと思いました。 購入した図録によると、この資料館は考古学の研究や学びを通して聖書理解を助け、キリスト者の生活にも反映させることを目的としているそうです。たしかに展示を見ていると、信仰のための資料館であると同時に、古代史や考古学に関心がある人にとっても興味深い場所でした。 規模は小さく、展示室も一部屋だけなので、最初に想像していた資料館とは少し違いました。それでも、限られた空間の中に古代オリエントの文字、生活道具、記念碑、貨幣などが凝縮されており、短い時間でも多くのことを...

東京大学総合研究博物館:氷川神社裏貝塚を追って、鉱物・化石・考古資料に出会う

大学の授業で池袋周辺の遺跡を調べることになり、氷川神社裏貝塚について調査していました。調べているうちに、その出土品を東京大学総合研究博物館が所蔵していることを知り、展示されている可能性は低いと思いながらも、東京都文京区にある東京大学総合研究博物館へ行ってみることにしました。 東京大学の入口には「関係者以外入構禁止」と書かれており、少し不安になりました。しかし、警備員の方に聞いてみると、「全然大丈夫」とのことで、無事に構内へ入ることができました。大学の敷地内にある博物館というだけで、普段の博物館とは少し違う緊張感があります。 東京大学総合研究博物館は、国立博物館や県立博物館のような大規模な施設と比べると、展示室の広さは控えめです。しかし、内容は非常に幅広く、隕石や鉱物、生物標本、化石、考古資料まで、大学の研究機関らしい多彩な資料が並んでいました。東京大学が長い研究と教育の歴史の中で蓄積してきた標本や資料を、一般にも公開している場所という印象を受けました。 石が展示されているエリアでは、小惑星イトカワの模型やレアアースなど、宇宙から地下資源までを感じさせる資料が並んでいました。単にきれいな鉱物を眺めるというよりも、自然科学の研究対象として石を見る展示になっており、大学博物館らしさがよく表れていました。 環境と生物に関する展示では、白亜紀の爬虫類の前肢の化石や、さまざまな全身骨格、化石標本を見ることができました。生物の形や進化を考える展示が多く、自然史博物館のような楽しさもあります。 さらに、生物系コレクションのエリアには馬などの剥製やアジアゾウの骨格もあり、標本の迫力を間近で感じることができました。 今回の目的にもっとも近かったのは、考古学コレクションのエリアでした。ここに氷川神社裏貝塚の出土品があればと思って見て回りましたが、やはり展示はされていませんでした。総合研究博物館へ行く前に豊島区にも問い合わせており、見学後に回答をいただきましたが、残念ながら出土品は公開されていないとのことでした。 それでも、考古学コレクションの展示は見応えがありました。特に印象に残ったのは、モースや坪井正五郎に関するコレクションです。モースは大森貝塚の発見で知られ、日本の考古学史を語るうえで欠かせない人物です。坪井正五郎もまた、日本の人類学や考古学の初期に大きな役割を果たした研究者です。氷...