高山社跡に行くため、群馬県藤岡市に来ました。 群馬藤岡駅へ向かう電車はワンマンカーで、人の少ない地域に向かうことが分かります。 (かなり)がんばれば駅から歩いていける距離なので、ウォーキングを兼ねて徒歩でいきましたが、予定を立てているときから分かっていたのですが、途中に観光スポットが無く、かなり辛いウォーキングになりました。気分転換に、季節外れのふじの咲く丘に寄ったあと、高山社跡に徒歩で向かいました。 高山社跡は、世界遺産の「富岡製糸場と絹産業遺産群」を構成する資産の一つで、富岡製糸場に行ったときに知りました。 高山社に近づくと、完全に山に中になりきれいな川が流れています。写真では涼し気ですが、当日は猛暑で汗だくでした。 高山社跡の手前の駐車場(普通は車で来る距離です)に、お勧めのルートとして、先に高山社情報館に行くようになっていたので、まず情報館に行きました。 手間の広場には、高山社創設者の高山長五郎(たかやま ちょうごろう)(1830年(文政13年)~1886年(明治19年))の銅像があります。 情報館では、学芸員の方に、富岡製糸場、高山社跡、田島弥平旧宅、荒船風穴について説明していただけます。興味深かったのは、養蚕業が日本中でブームになっていた当時、蚕の天敵のねずみ対策として、ネコやへびの需要が高まり、神社などで祀られたそうです。ネコの需要は特に高まり、非常に高額になったそうです。あまり知られていませんが、ネコバブルです。コロナ中に、マスクやトイレットペーパーが高騰したことを考えると、人は150年たっても変わらないな、と思います。 明治の絹産業、養蚕業に関わった人の資料や、養蚕に関わる道具の展示もされています。 情報館でお話を聞いて、資料全体を見た後、高山社跡に向かいました。ここは徒歩数分です。 高山社は、高山長五郎が養蚕技術を指導するために1873年(明治6年)に高山組を作り、その後1884年に高山社となりました。社となっていますが、養蚕の教育機関です。 高山長五郎は1886年に亡くなり、後を継いだ門下の町田菊次郎が私立甲種高山社蚕業学校(養蚕学校)を設立しました。 当時の養蚕は田島弥平が確立した「清涼育」という方法で育てられていましたが、高山長五郎は「清温育」を新しく確立し、それを学校で教えました。 高山社蚕業学校の卒業生には、荒船風穴を築いた庭屋千壽もい...