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矢切の渡し:下町の風を感じる小さな旅、柴又から矢切へ渡し舟に揺られて

寅さん記念館から東に進むと江戸川に着きます。江戸川の東京の葛飾側と千葉の千葉側を行き来する船「矢切の渡し (やきりのわたし)」に乗ってみることにしました。 東京の下町情緒を味わうなら、ぜひ足を運んでみたい場所のひとつに「矢切の渡し」があります。葛飾区柴又から江戸川を挟み、対岸の千葉県松戸市矢切地区へと渡る小さな渡し舟は、江戸時代から長い歴史を紡いできた貴重な交通手段です。船着場は、映画「男はつらいよ」でおなじみの柴又帝釈天から歩いてほど近い場所にあり、あの参道の賑わいとはまた違った、穏やかな川辺の雰囲気が漂っています。 かつては橋が十分に整備されておらず、江戸川沿いの人々はこの渡し舟を生活道路として利用してきました。現在ではモーターボートや橋が当たり前の時代になりましたが、矢切の渡しは地元の歴史と文化を守る象徴として、今なお運航を続けています。かつては手こぎが主流だった舟も、いまは小型エンジン付きの船が使われていますが、対岸までわずか数分の渡航は、川面に近い視線と静かな水音が心地よく、どこか昔にタイムスリップしたかのような気分に浸ることができます。 現在の運航は例年三月中旬から十一月下旬ごろまでは毎日運航され、12月から3月上旬は土日祝日のみの運行です。時間帯は午前から夕方までが目安ですが、天候や川の増水などでスケジュールが変わることもあります。乗船料金は片道大人は200円、子どもは100円で手軽さも魅力的です。自転車を持ち込む場合は追加料金が必要になる場合があるため、利用の際には公式情報や現地案内をチェックしておくと安心です。 川の向こう岸に着くと、柴又の門前町とは打って変わって、のんびりとした風景が広がります。周辺には畑や田園が残されていて、都心からそれほど遠くないとは思えない、のどかな里の空気を味わうことができます。もちろん渡し舟に乗らずとも、江戸川の土手を散策して川風を感じるのもおすすめですが、舟旅は短いながらにいつもと違った視点からこの地域を楽しむことができる特別な体験だと感じます。 矢切側では、名物の矢切ねぎが売っていました。 ちあきなおみや細川たかしの歌に「矢切の渡し」というのがありますが、子供頃聞いていたので、ずっと「やぎりの私」と思っていました。舟のことだったんですね。なお、矢切というのが、「やきり」だったり「やぎり」だったりしますが、地名としては...

大歩危峡:谷を泳ぐこいのぼりと穏やかな時間

四国旅行の2日目、徳島県の大歩危峡で遊覧船に乗りました。この日は、四国交通の定期観光バスツアーに参加し、山間の絶景を巡る一日でした。その締めくくりとして訪れたのが、大歩危の遊覧船です。 大歩危峡は、吉野川上流に位置する渓谷で、その名の通り「大股で歩くと危ないほどの険しさ」が由来とされる景勝地です。数千万年前の地殻変動でできたとされる結晶片岩の岩肌が、長年の風雨と川の流れに削られて生まれた奇岩怪石は、訪れる人の目を奪います。日本でも有数のV字型渓谷として知られ、その自然のダイナミズムは今もなお息づいています。 遊覧船の乗り場は、崖の上に建てられた施設の中にあります。高台から川を見下ろすと、思わず足がすくむほどの高さで、大歩危峡の深さと険しさが一目で伝わってきます。そこから下り、静かな吉野川の流れに浮かぶ船へと乗り込みました。 ゴールデンウィークの直前ということもあり、色とりどりのこいのぼりがロープに吊るされ、空を泳いでいました。険しい岩肌と、谷をわたる春風にたなびくこいのぼりとの対比が美しく、この時期ならではの光景に心が和みました。 船に乗ってみると、想像していたよりも流れは穏やかで、V字の谷底をゆっくりと進みます。上を見上げれば断崖絶壁がそびえ、下を見れば澄んだ水が静かに揺れています。ガイドさんの案内によれば、この一帯は、古くから交通の難所であり、江戸時代には藍の積み出しに使われた歴史もあるそうです。 わずか30分ほどの船旅でしたが、目に焼き付く景観の連続で、時間を忘れてしまいました。大歩危峡の自然は、ただ美しいだけでなく、悠久の時間を感じさせてくれる場所でした。ツアーの最後に訪れたことで、旅の締めくくりにふさわしい、静かな余韻を残してくれました。 旅程 阿波池田駅 ↓(バス) 阿波池田バスターミナル ↓(バス) 平家屋敷 ↓(バス) 郷土料理の昼食 ↓(バス) 祖谷のかずら橋 ↓(バス) 祖谷渓の小便小僧 ↓(バス) 道の駅大歩危 / 妖怪屋敷 ↓(バス) 大歩危峡船下り ↓(バス) 阿波池田駅 周辺のスポット 祖谷渓の小便小僧 祖谷のかずら橋 平家屋敷 地域の名物 祖谷そば リンク 大歩危小歩危 | 大歩危祖谷ナビ<三好市公式観光サイト> 【公式】大歩危峡まんなか|遊覧船・レストラン&お土産店・ホテル|大歩危祖谷観光の中心地

日本郵船氷川丸:山下公園の海に浮かぶ、昭和の豪華船をたどる旅

横浜・山下公園の海に、黒と白と赤の船体が静かに浮かんでいます。この船、日本郵船氷川丸を本日の締めくくりとして訪れました。朝から三渓園を歩き、港の見える丘公園で港を見下ろしたあと、夕方の山下公園へ下りてくると、冬の澄んだ空気の中で氷川丸が待っていてくれたのが印象的でした。 氷川丸は、1930(昭和5)年に横浜で建造された日本郵船の貨客船で、太平洋横断のシアトル航路に就航した船です。戦前日本を代表する高速貨客船として活躍し、チャーリー・チャップリンや皇族、柔道の嘉納治五郎など、当時の著名人も乗船したことで知られています。太平洋戦争が始まると海軍の特設病院船となり、触雷しながらも沈まずに任務を続け、戦後は再び貨客船として太平洋を行き来しました。30年ほどの現役生活を終えたのち、1961年に山下公園前に係留されて保存され、現在は戦前に建造された唯一の現存貨客船として、国の重要文化財にも指定されています。横浜港のシンボルとして、単なる観光スポットという以上に、日本の海運史を物語る存在だと感じます。 船内に足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは、客席へと続く狭くて長い通路でした。現代のクルーズ船のような開放感とは違い、壁が迫ってくるような細い廊下を歩いていくと、かえって「ここから船旅が始まる」という期待感が高まります。 やがて通路の先が開け、アールデコ様式で整えられた食堂にたどり着きました。白いテーブルクロスがぴんと張られ、食器がきちんと並んだテーブルが規則正しく並ぶ様子は、まるで映画の中で見る昔の豪華客船の一場面そのものでした。実際、氷川丸の一等食堂や社交室は、シアトル航路で活躍していた時代の資料を基に復原されたもので、当時の雰囲気を今に伝えています。 食堂の先には、ソファーのある広間が続き、そこには暖炉もありました。船の中でどこまで実際に火を入れていたのかは分かりませんが、木目と暖炉の組み合わせは、海の上というよりも洋館のサロンにいるような不思議な感覚を与えてくれます。太平洋を何日もかけて渡る時代、人々はただ移動するだけでなく、こうした空間で食事をし、談笑し、音楽を楽しみながら時間を過ごしていたのだろうと想像すると、「船旅」という言葉の重みが今とはまったく違っていたのだと実感しました。 客船エリアから先へ進むと、展示パネルや写真で氷川丸の歴史が紹介されています。就航当...

桜島フェリー

連休を利用して、鹿児島、宮崎観光に来ました。 鹿児島駅の近くに安いホテルが見つかり、桜島への移動に良さそうなので、とても良い場所を見つけたと思ったのですが、鹿児島市の中心街は鹿児島駅周辺ではなく、鹿児島中央駅の周辺でした。鹿児島駅周辺は人が少なくかなり静かな場所です。 昨晩、鹿児島駅近くのホテルに泊まり、今朝朝早くからフェリーで桜島に向かうことにしました。 九州と桜島を結ぶ桜島フェリー(さくらじまフェリー)は、鹿児島市が運営している公営です。 九州側の鹿児島港 桜島フェリーターミナルは、かなり大きくコインロッカーなどもあります。 桜島フェリーは、1934年(昭和9年)に西桜島村の村営で運航が開始しました。その後、西桜島村が桜島町となり、桜島町が鹿児島市に吸収されたため、現在は鹿児島市が運営しています。 運行間隔が短く、大隅半島と薩摩半島・鹿児島市を行き来するのに便利なため、多くの人が利用しています。 桜島まで近いのでゆっくり休むという感じではありませんが、船内の座席数は多いです。 船から見る桜島は非常にきれいな形をしており、富士山の妹と言われるだけのことはあります。 15分ほどで桜島に到着です。 旅程 ホテル ↓(徒歩) 鹿児島港 桜島フェリーターミナル ↓( 桜島フェリー ) 桜島港フェリーターミナル ↓(タクシー) (略) ↓( 桜島フェリー ) 鹿児島港 桜島フェリーターミナル ↓(タクシー) 尚古集成館 / 仙厳 ↓(タクシー) ホテル 関連イベント 周辺のスポット 桜島 西郷隆盛銅像 島津久光公像 天文館 地域の名物 かるかん 豚骨料理 関連スポット リンク 桜島フェリー|桜島フェリー 桜島フェリー | 観光スポット | 【公式】鹿児島県観光サイト かごしまの旅 桜島フェリー | 交通アクセス | 【公式】鹿児島市の観光・旅行情報サイト|かごしま市観光ナビ 鹿児島県/鹿児島港桜島フェリーターミナル