案件の切れ目で一週間ほど休みが取れたので、ウクライナのキーウ(キエフ)旅行に行くことにしました。この記事を書いているのは、2025年でこの旅行のあと、2014年にクリミア半島がロシアに加盟し、ウクライナ全土で内乱が発生し、2022年にはロシアがウクライナに侵攻しました。この時期にウクライナに行っておいて良かったと思うとともに、平和な生活が簡単に壊れるのを報道で見て恐ろしさを感じました。キーウへは、モスクワのシェレメーチエヴォ国際空港経由で行きましたが、この空港を使う機会もしばらくは来ないでしょう。
モスクワの空の玄関口として知られるシェレメーチエヴォ国際空港(SVO)は、ロシア最大の空港であり、多くの国際線が発着する重要なハブとなっています。モスクワ中心部から約30キロメートル北西に位置し、市内へのアクセスの良さも特徴の一つです。
この空港は1959年に開港し、その後も拡張を続けながら、現在では世界的に見ても大規模な空港の一つとなっています。特に、ロシアを代表する航空会社であるアエロフロート航空の本拠地として機能しており、ヨーロッパやアジア、アメリカを結ぶ重要な中継地点となっています。
シェレメーチエヴォ国際空港には複数のターミナルがあり、ターミナルBとCは国内線、ターミナルD、E、Fは国際線を主に担当しています。近年では、施設の近代化が進められ、ショッピングエリアやレストラン、ラウンジなどのサービスも充実しています。空港内には免税店やロシアならではのお土産を扱うショップも多く、旅行者にとって快適な滞在ができる環境が整っています。(2013年当時は、まだ工事中のターミナルが多く設備が整っていませんでしたが、現在は充実しているようです)
市内へのアクセスも便利で、特にアエロエクスプレス(Aeroexpress)を利用すると、モスクワ中心部のベラルースカヤ駅まで約35分で到着します。料金も手頃で、渋滞の影響を受けることなくスムーズに移動できるため、多くの旅行者にとって最適な交通手段となっています。タクシーやライドシェアサービスも利用可能ですが、非公式なタクシーを利用すると高額な料金を請求されることもあるため、注意が必要です。
また、ロシア入国時の手続きについても留意しておきたいポイントの一つです。シェレメーチエヴォ空港の入国審査は比較的厳しく、事前に必要な書類をしっかり準備しておくことが大切です。ビザの確認や入国カードの記入などをスムーズに行うことで、スムーズな入国が可能になります。
シェレメーチエヴォ国際空港は、単なる空港という枠を超えて、旅行者にとって快適な空間を提供する国際的なハブ空港です。ロシア旅行の出発点として、またはトランジットの際の滞在場所として、多くの魅力が詰まっています。訪れる際には、モダンで機能的な設備を存分に活用し、ロシアの玄関口での時間を楽しんでみてはいかがでしょうか。
イヴァン4世
16世紀のロシアに、後世に「雷帝(グローズヌイ)」と呼ばれる一人の支配者が誕生しました。彼の名はイヴァン4世。ロシア史上初めて「ツァーリ(皇帝)」を名乗ったこの人物は、激動の時代を生き、国家の拡大と統制を進める一方で、恐怖による支配をもって国民の心に深い影を落としました。イヴァン4世の生涯は、まさに光と闇の交錯する壮大な歴史のドラマそのものでした。
イヴァンは1530年、モスクワ大公ワシーリー3世の長男として生まれました。わずか3歳で大公の座を継いだものの、幼少期は貴族たちによって権力を奪われ、冷遇される日々が続きました。この孤独と不信が、彼の人格形成に大きな影響を与えたといわれています。1547年、16歳でツァーリとして即位すると、彼は国家と自らの関係を「神に選ばれた支配者」として位置づけ、宗教的権威を強く意識するようになります。
即位後のイヴァンは、理想主義的な改革者として始動しました。法の整備、軍の再編、地方行政の改革など、国家近代化を目指す数々の施策が打ち出されます。また、ロシア正教会との連携にも力を入れ、モスクワを「第三のローマ」とする理念を体現していきました。その統治は一時期、安定と繁栄をもたらしましたが、それはやがて、苛烈な独裁へと転じていきます。
彼の軍事的な栄光は、カザン・ハン国やアストラハン・ハン国の征服に象徴されます。これによりヴォルガ川流域がロシアに加わり、東方への拡大が進みました。しかし、長引くリヴォニア戦争や国内の不満が高まるにつれ、イヴァンは猜疑心を募らせ、1565年には悪名高いオプリーチニナ制度を導入します。これは国家の一部を自らの直轄地とし、特別警察によって反対勢力を粛清する恐怖の政策でした。ノヴゴロドでの大虐殺をはじめ、数多くの市民や貴族が命を落とし、国家には深い亀裂が生じました。
私生活でもイヴァンは苦悩に満ちていました。最愛の妻アナスタシアの死後、精神の不安定さが顕著となり、怒りや狂気に支配されるようになります。1581年には、激しい怒りの末に後継者である息子を自らの手で殺してしまうという、王としても父としても取り返しのつかない過ちを犯しました。この出来事は彼の最晩年に深い悔恨と孤独をもたらし、1584年にその波乱に満ちた生涯を閉じることとなります。
イヴァン4世の評価は今なお分かれています。専制と暴力による支配者としての一面と、国家形成の礎を築いた改革者としての顔。そのどちらもが、彼という人物の真実を構成しています。恐怖の象徴でありながら、ロシアという国の骨格を形づくった存在。イヴァン雷帝は、ロシアの歴史において決して避けて通れない重厚な存在なのです。
ロマノフ朝
ロシアの壮大な歴史の中でも、特に劇的な運命をたどったのがロマノフ朝という王朝です。1613年から1917年まで続いたこの王朝は、動乱の時代を収束させ、ロシアをヨーロッパの大国に押し上げる原動力となりました。そして、最後は革命の嵐に呑まれて滅び、世界史にその名を深く刻むことになりました。
ロマノフ朝が誕生したのは、ロシアが無政府状態に陥っていた「動乱期」のさなかでした。リューリク朝が断絶し、外国勢力が介入し、偽のツァーリが次々と現れる混乱の中、若干16歳のミハイル・ロマノフが新たなツァーリに選ばれました。選出された背景には、彼の父フョードルが正教会の高位聖職者であり、国民の支持を得ていたという事情がありました。こうしてロマノフ家は新たな王朝としてロシアを治めることになります。
時を経て、ロマノフ朝の中でも最も名高い皇帝のひとり、ピョートル大帝が登場します。彼は17世紀末から18世紀初頭にかけて、西欧を視察し、帰国後には軍制や産業、教育制度の近代化を一気に進めました。自ら築いた新都サンクトペテルブルクは、まさにロシアの「西への窓」となり、以後の帝国の象徴となります。彼の改革によってロシアは近代国家としての道を歩みはじめたのです。
続くエカチェリーナ2世の時代には、さらにロシア帝国の威光が高まりました。彼女は啓蒙思想を取り入れた政策を展開し、芸術や教育を奨励しました。フランスの哲学者ヴォルテールとの書簡のやりとりなどは、知的な女帝としてのイメージを裏付けています。しかし一方で、農奴制を強化し、プガチョフの乱のような農民反乱を招いたことも、ロシアの深層にある矛盾を表す出来事でした。
19世紀に入ると、ロマノフ朝はさらに複雑な道を歩みます。アレクサンドル1世はナポレオン戦争においてロシアを勝利に導き、ヨーロッパの秩序再建に重要な役割を果たしますが、戦後の国内では改革と保守の間で揺れ動きました。やがてアレクサンドル2世が農奴解放を実施し、一時は進歩的な皇帝として称賛されましたが、最終的には革命的分子によって暗殺されてしまいます。以後、体制はより保守的になり、民衆との距離は広がっていきました。
そして最後の皇帝、ニコライ2世の時代を迎えます。彼は家庭的で誠実な人物でありながら、国家運営には不器用でした。第一次世界大戦が始まると、軍事的・経済的な失敗が続き、民衆の不満が爆発します。1917年、ついに二月革命が勃発し、ニコライ2世は退位。ロマノフ朝は三百年の歴史に幕を下ろします。その翌年、皇帝一家はエカテリンブルクで革命政府によって処刑されるという、あまりにも悲劇的な最期を迎えることとなりました。
ロマノフ朝の物語は、帝国の夢と挫折が織りなす壮大な叙事詩のようです。今日では、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館やペテルゴフ宮殿、エカテリンブルクの血の上の教会など、当時の栄光と悲劇を今に伝える数々の史跡が残されています。それらの場所を訪れることで、歴史の重みとともに、人間の営みのはかなさを感じることができるでしょう。
華麗なる栄光と静かな終焉。ロマノフ朝の歴史は、今も多くの人々に問いかけ続けています。「権力とは何か」「国家とは何か」――その答えを求める旅は、きっと今なお終わってはいないのです。
旅程
成田空港
↓(アエロフロート・ロシア航空 / SU)
↓(アエロフロート・ロシア航空 / SU)
ボルィースピリ国際空港
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