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サン・ロッケ教会:リスボンのバロック美術の最高峰

ポルトガルのリスボン観光の2日目。天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)の宿舎としても利用されたサン・ロッケ教会に来ました。

リスボンには数多くの美しい教会がありますが、その中でも特に印象的なのがサン・ロッケ教会です。この教会は16世紀にイエズス会によって建てられ、ポルトガルで最も豪華なバロック様式の装飾が施された場所の一つとして知られています。

外観は比較的シンプルなデザインですが、一歩中に足を踏み入れると、その壮麗な装飾に圧倒されます。特に見逃せないのが「サン・ジョアン・バプティスタ礼拝堂(Capela de São João Baptista)」です。この礼拝堂は18世紀にポルトガル王ジョアン5世の命によってローマで制作され、リスボンに運ばれました。礼拝堂の内部にはラピスラズリ、アラバスター、金、銀、象牙、貴石などが贅沢に使われており、「世界で最も高価な礼拝堂」とも称されています。

また、サン・ロッケ教会の天井画やアズレージョ(ポルトガル特有の青と白の装飾タイル)も素晴らしい見どころです。天井には細部まで緻密に描かれたフレスコ画が施されており、天井を見上げるとまるで絵画の中に入り込んだかのような感覚を味わうことができます。ポルトガルの教会ではしばしば見られるアズレージョも、ここでは特に美しく、宗教的な物語を繊細に描いています。

教会に隣接する博物館「Museu de São Roque」も訪れる価値があります。ここではイエズス会に関連する美術品や聖具、宗教画、装飾品などが展示されており、サン・ロッケ教会の歴史をより深く知ることができます。サン・ジョアン・バプティスタ礼拝堂の建設過程やローマからの輸送に関する資料も展示されており、その壮大な計画と制作過程を垣間見ることができます。

サン・ロッケ教会の歴史を振り返ると、ポルトガルの宗教史や王室との深いつながりが見えてきます。1506年にはペストの流行の際にサン・ロッケ(聖ロクス)を祀る小さな礼拝堂が建設されました。その後、16世紀後半にイエズス会の拠点として本格的な教会が建てられ、18世紀にはポルトガル王ジョアン5世の庇護のもと、より豪華な装飾が施されることとなりました。1755年のリスボン大地震では、奇跡的にほぼ無傷で生き残ったことからも、この教会がいかに堅牢に造られていたかがうかがえます。

1582年(天正10年)に出発した天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)は、1584年(天正12年)にポルトガルに到達し、サン・ロッケ教会を宿舎としました。

この教会は、リスボンのバイシャ地区から徒歩圏内にあり、バイロ・アルトの丘の上に位置しています。リスボン観光の際には、ぜひこの教会を訪れてみてください。外観のシンプルさと内部の豪華さのコントラストに驚かされることでしょう。そして、ただ美しさに圧倒されるだけでなく、ポルトガルの歴史や宗教文化を感じることができる貴重な場所です。

天正遣欧使節

天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)は、日本史上初めて公式にヨーロッパへ派遣された使節団です。16世紀後半、日本ではキリスト教が南蛮貿易とともに広まり、特に九州の大名たちは積極的にキリスト教を受け入れていました。そのような背景のもと、1582年(天正10年)に大友義鎮(おおとも よししげ / 宗麟(そうりん))、有馬晴信(ありま はるのぶ)、大村純忠(おおむら すみただ)といった九州のキリシタン大名の支援を受けて、4人の少年たちがヨーロッパへ向かうことになりました。

選ばれたのは伊東マンショ、千々石ミゲル(ちぢわ ミゲル)、中浦ジュリアン(なかうら ジュリアン)、原マルティノ(はら マルティノ)の4人で、彼らは幼い頃からイエズス会の教育を受け、西洋の言葉や文化に触れていました。彼らはローマ教皇に謁見することを目的に、長崎を出航し、ポルトガルやスペインを経由してローマへと向かいました。道中、インドのゴアにも立ち寄りながら、約2年の航海を経て1584年(天正12年)にポルトガルへ到着します。

ヨーロッパでは、使節団はスペイン国王フェリペ2世やローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、日本のキリスト教の状況を伝えました。彼らは各地で歓迎を受け、西洋の文化や技術にも触れる機会を得ました。特にローマでは、教皇から「騎士」の称号を授けられるなど、特別な待遇を受けたことが記録されています。

ヨーロッパ滞在は長期にわたり、1587年(天正15年)にようやく帰国の途につきます。しかし、日本に戻った彼らを待っていたのは、すでに変わってしまった状況でした。豊臣秀吉は1587年(天正15年)に「バテレン追放令」を発布し、キリスト教への弾圧が始まっていたのです。使節団の帰国は1590年(天正18年)でしたが、彼らの活動はかつてのようには受け入れられず、それぞれ異なる運命をたどることになりました。

伊東マンショと中浦ジュリアン、原マルティノはその後も司祭としてキリスト教の布教に尽力しましたが、弾圧により苦難の道を歩みました。中浦ジュリアンと原マルティノは後に迫害を受け、命を落とします。一方、千々石ミゲルはキリスト教を捨て、キリシタンから離れる道を選びました。

天正遣欧使節は、日本と西洋の本格的な交流の第一歩でしたが、その影響が長く続くことはありませんでした。しかし、彼らの旅は日本が西洋と関わる契機となり、後世の国際交流の礎ともなりました。彼らが見たヨーロッパの世界は、当時の日本とはまったく異なるものであり、その経験は彼らの人生を大きく変えたことでしょう。

現在でも、天正遣欧使節に関連する史跡や資料は国内外に残されており、彼らの壮大な旅の記録をたどることができます。特にローマやスペイン、ポルトガルでは、彼らが訪れた場所が今も記憶されています。歴史の中に埋もれがちな彼らの足跡を辿ることで、日本と西洋の交流の歴史を改めて感じることができるでしょう。

旅程

ホテル

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(略)

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Praça Luís de Camões

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サン・ロッケ教会

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サン ペドロ デ アルカンタラ展望台

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(略)

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