愛知県豊橋市の吉田城に来ました。
吉田城は、豊橋駅から路面電車で行ける豊橋公園内にあります。
吉田城には天守が無いと言われていましたが、鉄櫓(くろがねやぐら)が実質的な天守でした。現在、鉄櫓は再建され、中は資料館になっており、多くの資料が展示されています。
吉田城は、1505年(永正2年)(1496年という説もあり)に一色城主(いっしきじょう)の牧野古白(まきの こはく)が今橋城として築きました。吉田城のある東三河(みかわ)は軍事、経済的に重要な拠点であり、城の争奪戦が繰り返されました。初めは、渥美郡(あつみぐん)の戸田氏、宝飯郡(ほいぐん)の牧野氏で争奪戦が繰り返され、城主が次々と替わりました。
1529年(享禄2年)に、西三河の徳川家康の祖父の松平清康(まつだいら きよやす)が吉田城を制し、一度は三河を安定させました。その後、清康が亡くなると、再度、戸田氏、牧野氏間で争奪戦になり、最終的に駿河(するが)の今川氏が入り管理下に置いたことで落ち着きました。
今川時代に、今橋城から吉田城に名前が変更されました。1522年(大永2年)に牧野信成(まきの のぶしげ)が「いまわし」(忌まわしい)は縁起が悪いということで吉田に変更したという説もあります。
今川氏が桶狭間の戦いで弱体化したのを狙って、1565年(永禄8年)、松平(徳川)家康が10か月かけて吉田城を攻略し、後に徳川四天王と呼ばれる酒井忠次(さかい ただつぐ)を城主に置きました。酒井忠次は、徳川家康から城を与えられた最初の家臣で、25年間城主を務めました。このころ、豊川には橋がありませんでしたが、酒井忠次が土橋をつくり、これが吉田橋となりました。
酒井忠次が城主の時代には、三河攻略中の武田信玄による攻撃を受けましたが、守りを固め守り切りました。
家康が豊臣秀吉によって、関東に移封されると、池田輝政(いけだ てるまさ)が城主となり、11年間務めました。後に姫路城を築城する池田輝政ですが、この城主時代には吉田城を近世城郭として改修し、城下町の整備や、吉田大橋の架け替えを行いました。
この吉田大橋は、豊橋の地名の由来です。当時の東海道は、吉田大橋のような大橋が少なく、多くの絵師に描かれました。
関ケ原の戦いの後、池田輝政は播州、姫路に移封され、22代に渡って譜代大名が吉田を支配しました。当時は、吉田城主は出生の登竜門で出世城と呼ばれました。
戦国時代の城主の名前を見ても、有名な武将ばかりで、重要な拠点であったことが分かります。
吉田城は、現在資料館になっている鉄櫓が実質的な天守の役割をしていました。その南に本丸御殿がありましたが、1707年(宝永4年)に宝永地震により倒壊しました。
吉田の宿は東海道ができた当初からの宿場でした。吉田の城下町は、1663年から1690年ごろに整備されました。
明治維新後、1869年に吉田城は兵部省の管轄となり、豊橋城と改名されました。その後、廃城令によって1873年に取り壊されました。1885年(明治18年)には、大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が置かれました。
明治期の吉田城大手門の写真が残っており、この時期には大手門が残っていました。この大手門と奥書院は、静岡県湖西市の本興寺に移築されました。現在の資料館は再建された鉄櫓ですが、明治期の写真には残っていないため、このころにはすでに鉄櫓は無くなっていました。
第二次世界大戦後、1945年、この地は豊橋公園として整備されました。
旅程
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吉田城
周辺のスポット
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地域の名物
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