本日は、武田信玄ゆかりの地を訪れるため、山梨県の甲府に来ています。午前中は恵林寺周辺を探索し、午後は甲府駅に移動し、武田神社(たけだじんじゃ)に来ました。
山梨県甲府市にある武田神社は、戦国時代の名将・武田信玄公を祀る神社として知られています。場所も、かつての信玄公の居館「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」の跡地に建てられており、境内に足を踏み入れた瞬間から歴史の重みを感じることができました。現在は国の史跡にも指定されており、甲府市の歴史を語る上でも欠かせない場所となっています。
参道は広々としていて、両側に並ぶ石灯籠が印象的でした。境内にはどっしりとした拝殿が建っており、そこで参拝をすませたあと、宝物殿にも立ち寄りました。宝物殿では、信玄公ゆかりの品々が展示されていて、特に軍配や書状、戦国時代の甲冑などを見ると、彼の生きた時代がぐっと身近に感じられました。展示の解説も丁寧で、信玄公の人物像をより深く知ることができたのも嬉しいポイントです。
また、武田神社は勝運や武運のご利益があるとされ、受験やスポーツの祈願に訪れる人も多いそうです。風林火山をモチーフにした御朱印帳もあり、信玄公らしい力強さと美しさを感じさせてくれます。
私が訪れたのは3月だったため、まだ桜は満開ではありませんでしたが、木々の蕾がほころびはじめていて、境内全体が春を迎える準備をしているようでした。桜の名所としても知られているので、もう少し後の時期に訪れると、また違った景色が楽しめたかもしれません。
武田信玄という一人の人物に焦点を当てながら、その功績や生きざまを感じることができる武田神社は、歴史好きの方にはもちろん、静かに心を整えたい方にもおすすめできる場所です。甲府駅からもアクセスしやすく、日帰り旅の目的地としてもぴったりだと思います。
甲州法度次第
戦国時代、各地の大名たちは自国を統治するために、独自の法令を整備していました。そうした法令は「分国法(ぶんこくほう)」と呼ばれ、戦国大名がいかに領国を治めようとしていたのかを知る貴重な手がかりとなります。そのなかでも特に知られているのが、甲斐国(現在の山梨県)を支配した武田晴信(はるのぶ / 信玄)によって制定されたとされる「甲州法度次第(こうしゅうはっとしだい)」です。
この法度は、武田家の家臣団や地域の統治に関する規則をまとめたもので、当初55ヶ条の基本法からなり、2ヶ条追加され57ヶ条になった。後の時代にいくつかの条文が加えられた写本も存在しています。成立は信玄の治世である1547年(天文16年)で、武田氏の家中統制にとって中核をなす法令でした。
内容としては、主君への忠誠を重んじ、戦場での命令違反や敵前逃亡を厳しく禁じるなど、軍事的な規律に重点が置かれていることが特徴です。また、喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)として、家臣同士の喧嘩や私的な争いを禁じ、公の秩序を守るよう求める条文も見られます。戦国時代の荒々しいイメージとは裏腹に、こうした法度が存在していたことは、武田家が単なる武力に頼らず、規律ある家中運営を目指していたことを物語っています。
興味深いのは、これが単なる軍律や家中法にとどまらず、農民への過剰な搾取を戒めたり、年貢の徴収・報告を適正に行うよう命じたりするなど、地域の民政にまで目を配っている点です。武田信玄は「人は城、人は石垣、人は堀…」という言葉でも知られていますが、「甲州法度次第」にはその言葉どおり、家臣や領民一人ひとりを大切にし、規律を持って支配を築こうとする意志が読み取れます。
この法度は、北条氏の「早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)」、今川氏の「今川仮名目録(いまがわかなもくろく)」、朝倉氏の「朝倉孝景条々(あさくらたかかげじょうじょう)」などと並んで、戦国時代の分国法の中でも代表的なものとされています。実際のところ、現存するのは後世に写された文書であり、信玄自身がどこまで関わっていたのかについては議論が残りますが、それでもなお、戦国大名による秩序ある支配の姿を伝える重要な史料であることに変わりはありません。
信玄の武将としての強さだけでなく、法による支配という側面からも彼の統治を見直すことで、戦国時代のリーダー像がより立体的に浮かび上がってくるのではないでしょうか。
旅程
(略)
↓
甲府駅
↓(徒歩)
↓(徒歩)
武田信玄公の墓
↓(徒歩)
(略)
関連イベント
周辺のスポット
- 信玄ミュージアム
- 武田信玄公の墓
- 大泉寺
- 甲府城跡
地域の名物
- ほうとう
コメント
コメントを投稿