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金沢城公園:庭園の静寂、庭園の水面に映る加賀の静けさ

春の気配が少しずつ感じられる本日、金沢を訪れました。尾山神社の和洋折衷の独特な神門をくぐり、静かな境内を歩いた後、私はその足で金沢城公園へと向かいました。


鼠多門からの入場です。再建されたばかりの鼠多門橋を渡ると、加賀藩ゆかりの往時の風情がそこかしこに感じられました。

門を抜けた先で広がるのは、整えられた玉泉院丸庭園。池泉回遊式庭園の姿に心をなごませながら、園内を歩いていると、弟から一通のメッセージが届きました。開いてみると、先週生まれたばかりの姪の写真。生まれたばかりの小さな命がスマートフォンの画面に笑みを浮かべているようで、その瞬間、風景以上に心があたたかく満たされたのを覚えています。

玉泉院丸庭園の一角には、旧第六旅団司令部庁舎が立っています。明治期の軍の歴史を伝えるこの建物は、かつての近代化の一端を担っていたことを思わせる静かな佇まいでした。

そこから金沢城の中心部、菱櫓や五十間長屋、橋爪門続櫓などの復元建造物を見学しました。内部に入ると、展示によって再建の工法や歴史的な背景が丁寧に解説されており、ただの復元建築にとどまらない、時代をつなぐ意志を感じました。木組みの美しさや石垣の工夫には、加賀百万石の力と知恵が今も息づいているかのようです。

見学のあとは、鶴丸倉庫を見て回り、再び外へ出て橋爪門を正面から眺めました。そして、百間堀跡をたどりながら、兼六園へと歩を進めます。江戸と明治、自然と人工、歴史と現在が折り重なるこの道のりは、ただの観光ではなく、時間の流れの中に身を置くような体験でした。

金沢の空の下、静かに揺れる庭園の水面と、生まれたばかりの姪のまなざしとが、心の中で重なり合った一日でした。歴史の中を歩きながら、新しい命と向き合う──そんな春の訪れを、私は金沢で迎えました。

金沢城

金沢城は、石川県金沢市の中心に位置する歴史的な城郭で、加賀百万石を誇った前田家の居城として知られています。その威容は現在もなお、兼六園と並ぶ観光名所として多くの人々を惹きつけています。

この城の起源は戦国時代にさかのぼります。もともとは一向一揆勢が拠点としていた尾山御坊(おやまごぼう)という宗教施設でしたが、1580年(天正8年)に織田信長の命を受けた佐久間盛政(さくま もりまさ)によって攻略され、その跡地に金沢城が築かれました。後に豊臣秀吉の配下であった前田利家(まえだ としいえ)が加賀に入封し、金沢城を本拠地として整備・拡張していきました。以後、幕末に至るまで前田家が代々城主を務めています。

金沢城はその構造や石垣に特徴があり、現在も見ることができる石垣の数々は、築城技術の高さを物語っています。特に「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」と呼ばれる加工技法で精密に組まれた石垣などは、訪れた人々を感嘆させます。また、火災や地震で幾度も焼失・再建が繰り返されてきた歴史もあり、現在の金沢城は復元と保存によってその姿をとどめています。

五大老

五大老(ごたいろう)という制度は、豊臣秀吉が晩年に設けた政権維持のための枠組みであり、戦国から安土桃山時代の政局を理解するうえで極めて重要な存在です。秀吉の死後、その遺児・豊臣秀頼がまだ幼少であったことから、五人の有力大名が後見人のような立場となり、政務を合議制で取り仕切ることになりました。この五人を「五大老」と呼びます。

五大老に任命されたのは、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、そして上杉景勝の五名です。いずれも広大な領地と軍事力を持ち、秀吉から信頼されていた武将たちでした。ですが、彼らは単なる「家臣」ではなく、それぞれが大名としての独立性を強く持っていたため、合議制とはいえ実際には微妙な力関係が常に働いていました。

最も有名なのは徳川家康でしょう。家康は江戸に根拠地を置き、やがて豊臣政権を凌駕する存在へと成長します。彼にゆかりのある場所といえば、静岡の久能山東照宮や栃木の日光東照宮、さらに尾張徳川家の財宝を展示する名古屋の徳川美術館などが挙げられます。これらの施設では、家康の遺品や政治手腕を物語る展示を見ることができます。

次に、加賀百万石の主・前田利家も忘れてはなりません。金沢を中心に北陸に大きな勢力を持ち、豊臣家に忠誠を誓ったことで知られます。金沢市にある尾山神社では利家が祀られており、独特の和洋折衷の門構えが印象的です。また、加賀藩の資料を収蔵する前田土佐守家資料館なども、利家の時代の文化や政治を知る貴重な施設です。

西国の大名、毛利輝元もまた重要な存在です。もともと中国地方一帯に強い勢力を持っていた毛利氏は、関ヶ原の戦いののちに減封されつつも、長州藩として幕末まで存続します。山口県の萩城跡や、華族時代の邸宅を利用した毛利博物館では、輝元をはじめとする毛利家の歴史を深く学ぶことができます。

宇喜多秀家は比較的若くして五大老に選ばれた人物で、岡山城を本拠としていました。秀吉の養女を妻に迎えるなど、豊臣家との関係は極めて親密でした。しかし、関ヶ原の戦いでは西軍の中心人物の一人となり、敗北後は八丈島に流されてその生涯を閉じました。岡山城では今も彼の治世を偲ぶことができ、また八丈島にも彼をしのぶ碑が建てられています。

最後に、上杉景勝もまた忘れがたい人物です。謙信の養子として上杉家を継ぎ、会津を中心に東北の要地を治めていました。彼の忠義と知略は高く評価されており、直江兼続とともに語られることが多い人物です。現在の山形県米沢市にある上杉神社や上杉博物館では、景勝の遺徳を感じることができます。さらに、上越市の春日山城跡は上杉家発祥の地としても知られ、歴史ファンにとっては訪れる価値のある場所です。

このように、五大老それぞれにゆかりの地や資料館が点在しており、豊臣政権という時代の終焉を多面的に理解する手がかりを与えてくれます。訪れる先々で、彼らの人物像や、合議の中で交錯した思惑に思いを馳せるのもまた、歴史散策の醍醐味といえるでしょう。

旅程

(略)

↓(徒歩)

尾山神社

↓(徒歩)

金沢城公園

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兼六園

↓(徒歩)

(略)

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