一泊二日で和歌山観光に来ています。和歌山は、特に主要な観光地が東京からもっとも遠いと言われているだけあり、高野山周辺も那智周辺も日帰りは無理そうでした。一泊二日であれば、両方行けそうだったので、高野山内は高野山駅からはタクシー、那智周辺はバス観光で計画しました。高野山は、ローカル鉄道、ケーブルカーとまず一番奥の奥之院に行ってもらい、金剛峯寺(こんごうぶじ)に向かいました。
高野山の秋が深まり始めた本日、金剛峯寺を訪れました。空気は澄みわたり、木々は赤や黄に色づき、静けさのなかに厳かな気配が漂っていました。真言宗の総本山として知られるこの寺院は、今もなお多くの巡礼者や観光客を惹きつけてやみません。
正門をくぐると、まずその壮麗な構えに圧倒されました。門を越えた先には、歴史の重みと品格をまとった建物が静かに佇んでおり、時代の流れを超えてきた気配が感じられます。
境内を巡るうちに目にした蟠龍庭(ばんりゅうてい)は、言葉を失うほどの美しさでした。白砂に表現された龍の姿は、静止しているにもかかわらず、今にも動き出しそうな生命力を宿しているように見えました。その構図の中に込められた意図を想像するだけでも、自然と背筋が伸びるような思いがします。
土室(つちむろ)と呼ばれる空間にも足を踏み入れました。ひんやりとした空気の中にも張り詰めた気が漂っているように感じられました。現代の私たちには想像もつかないような精神の練磨が、この場所で行われていたのでしょう。
台所にも立ち寄り、驚くほど広大な空間に目を見張りました。大きな竈や道具の数々は、かつて多くの僧侶たちに食を提供してきた証です。修行の一環としての食事、それを支える調理の営みにも、仏教の教えが息づいていることを感じました。
金剛峯寺の中をめぐりながら、単に歴史ある建物を見学したという以上に、そこに流れる時間と精神に触れるような体験ができたことが何よりも印象的でした。秋の高野山は静謐で、どこか祈りの時間がゆるやかに流れているように思えました。この日感じた尊さと静けさは、心に長く残り続けることでしょう。
畠山氏
室町時代の政治を支えた重要な一族のひとつに、畠山氏(はたけやまし)があります。この家は、将軍を補佐する最高職「管領(かんれい)」を務めた家柄であり、細川氏、斯波氏と並ぶ三管領家の一角を成しました。特に15世紀の動乱期には、畠山氏の内紛が全国的な戦乱へと波及するきっかけにもなり、日本中を巻き込む大きな歴史のうねりの中に位置づけられる存在となりました。
畠山氏の出自は、南北朝時代に足利尊氏に従って活躍した畠山国清(くにきよ))に始まりますが、室町時代を通じて勢力を広げ、とくに紀伊・河内・越中といった地方の守護を歴任することで、地域支配にも深く関与していきました。畠山持国(もちくに)は4代将軍足利義持の時代に管領に任じられ、幕政の中心に立つ活躍を見せています。
しかしながら、畠山氏はその後、相次ぐ家督争いによって内部分裂を起こし、畠山政長(まさなが)と畠山義就(よしなり/よしひろ)の対立は次第に大名間の対立へと広がっていきました。この争いはやがて応仁の乱の一因ともなり、京都を舞台とする激しい戦乱を引き起こします。特に義就派は山名宗全(やまな そうぜん)と、政長派は細川勝元(ほそかわ かつもと)と結びつき、争いは単なる家内の問題にとどまらず、将軍家の後継問題や諸大名の思惑と複雑に絡み合いながら泥沼化していきました。
このように畠山氏は、室町時代の政権構造に深く関わる一方で、その分裂と抗争が大乱の引き金となるという皮肉な運命をたどることになります。やがて戦国時代に入ると、畠山氏の勢力は次第に衰退し、地域権力としての存在感を失っていきました。
現在、畠山氏に関する史跡は全国に点在しており、富山県高岡市には越中守護としての館跡が残り、和歌山県では紀伊守護としての活動を伝える資料が博物館などに保管されています。歴史の表舞台で活躍し、やがて歴史の渦に呑み込まれていった畠山家の歩みは、室町幕府という不安定な政権のあり方を今に伝えているようです。
何気ない一族の争いが、国全体を揺るがす戦乱につながってしまうこともある――畠山家の歴史は、権力と責任、そして分裂の危うさを考える上で、今なお示唆に富んでいます。
旅程
(略)
↓(タクシー)
高野山奥之院
↓(タクシー)
↓(タクシー)
壇上伽藍
↓(タクシー)
(略)
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