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7月, 2018の投稿を表示しています

聖ヴィート大聖堂:ゴシックの極致、プラハの空にそびえる祈りの塔

プラハ城の敷地内の聖ヴィート大聖堂(Katedrála svatého Víta)に向かいました。 聖ヴィート大聖堂は、ゴシック建築の傑作で、チェコ最大のカトリック大聖堂です。プラハ城の中に位置し、何世紀にもわたってチェコ王やボヘミア王国の重要な儀式、例えば戴冠式や王族の葬儀が行われてきました。 925年、聖ヴィート大聖堂が建設される以前、プラハ城内に、聖ヴァーツラフ(ボヘミア公のヴァーツラフ1世、チェコの守護聖人)の指示で小さなロマネスク様式の礼拝堂が建てられました。これが聖ヴィートに捧げられた建物の原点です。 929年、この礼拝堂は聖ヴィートに献納されました。当時、聖ヴィートは神聖ローマ帝国において重要な聖人であり、チェコの君主たちにとっても信仰の象徴でした。 1060年、スピチフニェフ2世がロマネスク様式の大聖堂を建設しました。この時期には既に、プラハ城がチェコの政治的中心地として重要な地位を占めていました。 1344年、プラハが司教区から大司教区に昇格したのを機に、神聖ローマ皇帝カール4世(当時ボヘミア王、カレル1世)は、より壮大な大聖堂の建設を決定します。これが現在のゴシック様式の聖ヴィート大聖堂の建設の始まりです。カール4世はプラハを神聖ローマ帝国の首都にするため、フランスやドイツのゴシック大聖堂に匹敵する壮大な教会を望みました。 1344年当初は、フランス人建築家マティアス・アラスが建設を監督し、最初の計画を立案しました。彼はフランスのゴシック様式に影響を受けた設計を行い、特に西側のファサードと高いアーチ天井の部分にそのスタイルが反映されています。 マティアス・アラスが1352年に亡くなると、ペトル・パルレーが建設を引き継ぎました。パルレーは大胆で独創的なデザインを導入し、大聖堂の建築スタイルにさらなる深みを与えました。彼は、特に装飾的な細部や彫刻において独自のスタイルを反映させ、また、天井や窓のデザインをより複雑で豪華なものにしました。彼の影響は聖ヴァーツラフ礼拝堂や中央塔などに見られます。 15世紀は、フス戦争(1419年–1434年)によって、チェコ国内が宗教的対立に揺れ、大聖堂の建設は一時中断しました。戦争により財政が悪化し、建設は事実上止まってしまいました。 16世紀~17世紀、ルネサンス様式やバロック様式が支配的になった時代に、大聖堂の修復...

プラハ城:城の石畳に刻まれたボヘミアの記憶、プラハの丘から千年の記憶を見下ろす

午前中は旧市街を探索し、カレル橋を渡ってプラハ城に来ました。 プラハの丘の上に静かにたたずむプラハ城は、ただの城というにはあまりにも豊かで、あまりにも深い歴史の層を抱えています。ヴルタヴァ川の西岸から旧市街を見下ろすその姿は、まるでプラハという都市の記憶そのものを体現しているかのようです。 この城の起源は9世紀後半にさかのぼります。ボヘミア公ボジヴォイ1世が築いた小さな要塞が始まりでしたが、それはやがて中欧の歴史の大舞台へとつながる大城郭へと成長していきます。中世にはボヘミア王国の中枢として、さらには神聖ローマ帝国の皇帝たちの居城としても用いられました。14世紀にはカール4世がゴシック様式の拡張を命じ、文化と政治の一大拠点としてその姿を整えていきます。 なかでもひときわ目を引くのが、聖ヴィート大聖堂です。その尖塔は遠くからでもよく見え、ゴシック建築の粋を集めた荘厳な姿は訪れる者を圧倒します。チェコの守護聖人ヴァーツラフに捧げられたこの聖堂では、歴代の王たちが戴冠式を行い、そして眠りにつきました。ステンドグラスの光が差し込む礼拝堂では、まるで時が止まっているかのような静けさが広がります。 一方、旧王宮に足を踏み入れると、ルネサンス期のヴラジスラフ・ホールが迎えてくれます。その広大な空間は、かつて騎馬試合が催され、王の権威と栄光が讃えられた場所です。ここから続く聖イジー教会では、さらに時を遡ったロマネスク建築がひっそりとその存在を示しています。赤いファサードと丸いアーチが特徴的なこの教会は、現在では国立美術館の分館として静かな芸術の空間となっています。 そして訪れる人々が心惹かれるのが、黄金小路です。小さなカラフルな家々が並ぶこの通りは、まるでおとぎ話の世界に迷い込んだかのような不思議な空気に包まれています。かつて錬金術師や城の衛兵が住んでいたという伝説もあり、20世紀初頭には作家フランツ・カフカが一時この地に住んでいたことでも知られています。 旧市街地のカフカ像 黄金小路の拷問器具博物館では、華やかなプラハ城の別の側面も見ることができます。 今日のプラハ城は、単なる過去の記憶にとどまらず、チェコ共和国の現在とも結びついています。城内には大統領府があり、衛兵交代式が厳かに行われ、国の中枢としての役割を今なお担っています。また、城のテラスから見下ろすプラハの街並みは、赤い...

カレル橋:中世から続くヴルタヴァ川に響く音楽と旅人が集う橋

プラハ観光の二日目、朝から旧市街地を歩きながら、チェコ随一の名所であるカレル橋へと向かいました。空は雲ひとつない快晴で、ヨーロッパの夏の陽射しがまぶしく感じられました。 カレル橋は、14世紀の神聖ローマ皇帝カレル4世によって建設が始められた歴史ある橋です。ヴルタヴァ川に架かるこの石橋は、長い間プラハの交通の要としてだけでなく、市民や旅人の憩いの場として愛されてきました。橋の両側には30体もの聖人像が並んでおり、ひとつひとつ異なる表情や仕草が、何世紀にもわたるチェコの歴史や信仰を物語っているようでした。 朝早くから多くの観光客や地元の人々でにぎわい、橋の上ではストリートミュージシャンの音楽や、時折現れる大道芸人のパフォーマンスが彩りを添えていました。音楽が流れる中、橋の上をゆっくり歩きながら、時折立ち止まって像を眺めたり、ヴルタヴァ川のきらめきを見下ろしたりと、特別な時間を過ごしました。 カレル橋はただの古い橋ではなく、プラハの歴史そのものが息づく場所だと実感しました。旧市街からマラーストラナ地区へと続くこの橋を渡ることで、時代を超えて人々が行き交い、思い思いの物語を紡いできたことが感じられます。青空の下、にぎわう橋の上で、私もその歴史の一部になったような気持ちになりました。 旅程 (略) ↓(徒歩) クラム・ガラス宮殿 ↓(徒歩) Old Town Bridge Tower ↓(徒歩) カレル橋 ↓(徒歩) St. Nicholas Church ↓(徒歩) プラハ城 ↓(徒歩) 聖ヴィート大聖堂 ↓(徒歩) レトナ公園 ↓(徒歩) (略) 関連イベント 周辺のスポット Old Town Bridge Tower マラー ・ストラナ橋塔 地域の名物 関連スポット リンク カレル橋 - 観光名所

旧市庁舎(プラハ):窓から始まった戦争、ゴシックの影と晴れ渡る空のコントラスト

2泊4日のチェコの首都プラハの観光に来ました。天気と気温だけでなんとなく選んだ都市でしたが、中世ヨーロッパの街並みが残る雰囲気と、おいしい食事、親切な人々と、本当に良い旅でした。 たまたま見つけたApple Musiumを見学した後、旧市庁舎を見に行きました。天気は快晴で、街の石畳や建物の陰影がくっきりと浮かび上がり、中世の趣をいっそう引き立てていました。 旧市庁舎は14世紀に建てられた建造物で、プラハの政治や歴史の中核を担ってきました。その中でも特に有名なのが、15世紀に取り付けられた天文時計です。通常であれば、毎正時になると十二使徒が動く仕掛けが見られるのですが、私が訪れた時はちょうど改修工事中で、残念ながらその姿を見ることはできませんでした。それでも、建物の外観からは中世ヨーロッパの精緻な技術と美意識が今もなお息づいているのを感じました。 広場には観光客があふれ、活気に満ちていました。人々の言葉がさまざまな国の言語で飛び交い、ここが世界的に愛される都市であることを実感します。そして、旧市庁舎前の広場からふと遠くを見上げると、尖塔が空に向かって鋭く伸びるティーン教会がそびえており、その姿にはただただ圧倒されました。ゴシック建築の荘厳さと、時の流れを超えてきた威厳が感じられる景色でした。 この旧市庁舎の近くでは、歴史的に有名な「プラハ窓外放出事件」が起こりました。1618年、宗教対立が深刻化する中で、プロテスタントの貴族たちが不満を抱き、カトリック側の役人を窓から放り出したという事件です。この出来事は「三十年戦争」の引き金の一つとなり、ヨーロッパ全体を巻き込む大戦争へとつながっていきました。街を歩いていると、こうした歴史が今も建物の石や通りの名前の中に息づいているように感じます。 天文時計は見られなかったものの、それ以上にプラハという都市の奥深さと歴史の厚みに触れることができた一日でした。またいつか、今度は天文時計が時を刻む姿を見に、改めてこの地を訪れたいと思います。 プラハ窓外放出事件 プラハ窓外放出事件(Defenestrations of Prague)は、ボヘミア(現在のチェコ)で発生した3つの歴史的事件を指し、いずれも政治的・宗教的対立が背景にあります。特に1419年と1618年の事件は、それぞれフス戦争と三十年戦争の引き金となりました。 1419年:第...