プラハ城の敷地内の聖ヴィート大聖堂(Katedrála svatého Víta)に向かいました。
聖ヴィート大聖堂は、ゴシック建築の傑作で、チェコ最大のカトリック大聖堂です。プラハ城の中に位置し、何世紀にもわたってチェコ王やボヘミア王国の重要な儀式、例えば戴冠式や王族の葬儀が行われてきました。
925年、聖ヴィート大聖堂が建設される以前、プラハ城内に、聖ヴァーツラフ(ボヘミア公のヴァーツラフ1世、チェコの守護聖人)の指示で小さなロマネスク様式の礼拝堂が建てられました。これが聖ヴィートに捧げられた建物の原点です。
929年、この礼拝堂は聖ヴィートに献納されました。当時、聖ヴィートは神聖ローマ帝国において重要な聖人であり、チェコの君主たちにとっても信仰の象徴でした。
1060年、スピチフニェフ2世がロマネスク様式の大聖堂を建設しました。この時期には既に、プラハ城がチェコの政治的中心地として重要な地位を占めていました。
1344年、プラハが司教区から大司教区に昇格したのを機に、神聖ローマ皇帝カール4世(当時ボヘミア王、カレル1世)は、より壮大な大聖堂の建設を決定します。これが現在のゴシック様式の聖ヴィート大聖堂の建設の始まりです。カール4世はプラハを神聖ローマ帝国の首都にするため、フランスやドイツのゴシック大聖堂に匹敵する壮大な教会を望みました。
1344年当初は、フランス人建築家マティアス・アラスが建設を監督し、最初の計画を立案しました。彼はフランスのゴシック様式に影響を受けた設計を行い、特に西側のファサードと高いアーチ天井の部分にそのスタイルが反映されています。
マティアス・アラスが1352年に亡くなると、ペトル・パルレーが建設を引き継ぎました。パルレーは大胆で独創的なデザインを導入し、大聖堂の建築スタイルにさらなる深みを与えました。彼は、特に装飾的な細部や彫刻において独自のスタイルを反映させ、また、天井や窓のデザインをより複雑で豪華なものにしました。彼の影響は聖ヴァーツラフ礼拝堂や中央塔などに見られます。
15世紀は、フス戦争(1419年–1434年)によって、チェコ国内が宗教的対立に揺れ、大聖堂の建設は一時中断しました。戦争により財政が悪化し、建設は事実上止まってしまいました。
16世紀~17世紀、ルネサンス様式やバロック様式が支配的になった時代に、大聖堂の修復や拡張が少しずつ行われましたが、当初のゴシック建築はそのまま保たれていました。
19世紀半ばに、チェコ民族運動が高まり、文化的アイデンティティを再確認する動きの中で、大聖堂の未完成部分を仕上げるプロジェクトが再び注目されました。1844年、チェコ建築家ヨゼフ・クラーネルとヨゼフ・モッカーが中心となり、ゴシック様式のまま残されていた計画を引き継いで大聖堂の再建を行いました。
1929年、ついに大聖堂は完成しました。この時期までにチェコスロバキアが成立し、完成した大聖堂は新国家のシンボルとなりました。完成からまもなくして、カトリック教会の中心的存在としても再び注目されることとなりました。1929年は、聖ヴァーツラフの没後1000年に当たります。
現在、聖ヴィート大聖堂はチェコ共和国の文化遺産として保護されており、ユネスコの世界遺産にも登録されています。歴史的な儀式の場としても重要であり、チェコの大統領や政府の公式行事もこの大聖堂で行われることがあります。また、観光名所として多くの訪問者を魅了し、チェコ文化の象徴的存在であり続けています。
大聖堂の窓には美しいステンドグラスがあり、特にチェコの画家アルフォンス・ミュシャによる作品が有名です。ミュシャの窓は、チェコの歴史や宗教的テーマを象徴的に描いています。
内部には高いアーチ天井と巨大な柱が並び、神秘的で荘厳な雰囲気を作り出しています。また、祭壇や礼拝堂も見どころで、チェコ王家や貴族の墓も数多く安置されています。
大聖堂内にはチェコの守護聖人である聖ヴァーツラフの礼拝堂があり、金箔や宝石で装飾された豪華な空間です。
聖ヴィート大聖堂は、チェコの歴史と密接に結びついており、ボヘミア王国のシンボルとして君臨してきました。現在では、プラハ城全体とともにユネスコの世界遺産に登録され、観光客にとっても人気のスポットです。
聖ヴィート大聖堂は、その壮麗な建築と歴史的背景を持つ、チェコ文化と宗教の中心地と言えます。
旅程
(略)
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クラム・ガラス宮殿
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Old Town Bridge Tower
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