中山道の板橋宿を歩いたとき、路地の切れ目にふっと現れる小さな祠と大きな榎に惹かれて足を止めました。そこが「縁切榎(えんきりえのき)」です。境内は建物の合間にすっぽりとおさまり、風に揺れる葉の音だけが街の喧騒から切り離してくれるようでした。目に入ってくるのは、所狭しとかかった絵馬の数々。願いごとの重みを感じつつも、私は切りたい「縁」があるわけではなかったので、その日は手を合わせず、ただ静かに眺めるだけにしました。
帰ってから由来を調べてみると、ここは江戸時代から板橋宿の名所として知られ、男女の悪縁を断つほか、断酒など「悪癖」を絶ちたい人々が願をかけた場所だと分かりました。現在は「悪縁は断ち、良縁は結ぶ」場として信仰され、境内に奉納された絵馬の多さにも合点がいきます。
名前の由来にも江戸らしい言葉遊びがあります。近隣の旗本屋敷の垣に、榎(えのき)と槻=けやき(つき)が並んでいたことから「えのき・つき」と呼ばれ、それが「えんつき(縁尽き)」へ、さらに「縁切り」へと転じて広まったと伝わります。いま境内に立つ木は三代目で、長い時間を経て信仰が受け継がれてきたことを物語っていました。
歴史の逸話も面白く、文久元年(1861年)に皇女和宮が十四代将軍・徳川家茂へ降嫁する道中、この「縁切り」にあやかるのを避けるため、行列はここを迂回したと伝わります。婚礼の一行がわざわざ道を変えたという話は、当時の人々がこの場に抱いた畏れと信心の深さをよく伝えています。
私自身はその場で手を合わせませんでしたが、「悪縁を断ってこそ、良縁が結ばれる」という考え方に触れると、あの日ひとことでも日々の煩わしさを手放す願いを託しておけばよかったかもしれない、と少しだけ思います。中山道の宿場の歴史が息づく一角で、過去と現在の祈りが折り重なっている――そんな感覚を味わいました。
ちなみに、板橋駅前の広場には「むすびのけやき」と呼ばれるケヤキがあり、縁切榎で悪縁を断ったあと、こちらでおみくじを結んで開運や良縁を願うという“切って結ぶ”巡りが地元で案内されています。宿場町の面影をたどりながら、心の区切りと新しい出会いの始まりを同時に願えるのは、板橋ならではの楽しみ方だと感じました。
最後に場所の印象をもう一度。商店街の角にぽっかり開いた小さな社と、空を支えるように枝を伸ばす榎。行き交う人の生活のすぐ脇に、静かな祈りの時間が確かに流れていました。次に板橋宿を歩くときは、絵馬に「手放したいもの」と「迎え入れたいご縁」を一枚に書いて、そっと結んでみたいと思います。
旅程
板橋本町駅
↓(徒歩)
↓(徒歩)
稲荷台遺跡
↓(徒歩)
(略)
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