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広島城:平和の街、夏空の下で歴史を感じる一日

真夏の猛暑の中、平和記念公園で静かな時間を過ごした後、広島城(ひろしまじょう)へと足を延ばしました。

平和公園を離れて少し歩くと、徐々にその姿が見えてきます。広島城は別名「鯉城(りじょう)」とも呼ばれ、かつて毛利輝元が1589年(天正17年)に築城を開始し、中国地方の政治の中心地として栄えました。江戸時代は、浅野氏一族の居城となり、約5倍の大きさに拡充されました。広島城は、明治以降も陸軍施設として利用されるなど、歴史の波を経てきましたが、1945年(昭和20年)の原爆によって完全に破壊され、現在の天守閣は1958年(昭和33年)に復元されたものです。

城の中に入ると、常設展が広がっていました。ここでは広島城の歴史だけでなく、戦国時代から江戸時代にかけての武具や文書、そして広島の街の移り変わりをわかりやすく展示していました。展示物をゆっくりと鑑賞していると、外の暑さを忘れてしまうほどでした。

常設展をひと通り見終え、階段を上がって最上階の展望室に向かいました。展望室からの眺めは素晴らしく、眼下には広島市の街並みが一望できます。暑さを伴った空気がかすかに揺れる中、目を凝らすと遠くには瀬戸内海も見え、その景色の美しさにしばらく見入ってしまいました。

展望室から見る広島の街は、かつての悲劇を乗り越えて再建され、活気に満ちています。その風景は、広島が持つ過去と現在、そして未来への希望を感じさせるものでした。

暑さが少し落ち着くまで展望室で過ごした後、再び城を後にしました。猛暑の日に訪れた広島城は、その歴史の深さと街の復興の力強さを感じさせてくれた、印象深い場所でした。

五奉行

豊臣秀吉が政権の頂点にあった時代、その行政機構の中枢を担ったのが「五奉行」と呼ばれる五人の官僚たちです。石田三成、増田長盛、長束正家、浅野長政、前田玄以。この五人は、豊臣政権において政策の実務を司る重要な役割を果たし、それぞれが個性豊かで、後の歴史に大きな影響を与えました。

石田三成は、近江国出身で、幼少期に観音寺で学んだとされます。秀吉に仕えるようになると、その卓越した事務能力と理知的な性格から、五奉行の筆頭として政務の中心を担いました。彼が居城とした佐和山城は、現在の滋賀県彦根市にその遺構を残しており、訪れると当時の緊迫した政治状況を肌で感じることができます。また、彼の出生地に近い長浜市石田町には石田会館(三成会館)があり、三成に関する資料が展示されています。

浅野長政は、尾張出身の武将で、豊臣政権では内政面でも活躍しました。彼の名は後に赤穂事件で知られる浅野家の祖としても残っています。広島に入封した彼の子・浅野長晟が築いた広島城は、今も天守が再建されて市のシンボルとなっています。広島城内の博物館では、浅野家の資料や関ヶ原以後の転変を知ることができます。

前田玄以は、元僧侶という異色の経歴を持ちながら、秀吉に仕えてからは主に京都の治安維持や宗教政策などに辣腕を振るいました。京都の妙心寺には彼の墓があり、穏やかな臨済宗の雰囲気の中に、戦国期の政治家の面影をしのぶことができます。玄以は聚楽第の奉行も務めており、現在その跡地には石碑が立ち、往時の政庁としての威容を想像することができます。

増田長盛は、土木や財政に長けた実務派で、奈良の郡山城主としても知られます。大和郡山市にある郡山城跡には、彼の築いた石垣や堀の一部が今も残っており、春には桜の名所として市民に親しまれています。彼もまた関ヶ原で西軍に与し、戦後に改易された数奇な運命の持ち主です。

そして長束正家は、豊臣政権の財務官僚として、細密な収支計算と管理能力で政権を支えました。滋賀県甲賀市にある水口岡山城跡は、彼の築いた城とされ、現在も石垣などの遺構が残っています。山の上にあるその場所は、政治家としての彼の用意周到さを象徴するかのようです。

五奉行は、それぞれが秀吉の絶大な権威のもとで行政を執行しながらも、秀吉の死後に政権の後継問題をめぐって複雑な対立に巻き込まれていきます。特に石田三成は、徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いの西軍の中心人物として散っていきました。このように五奉行の足跡をたどることは、単に史跡を巡る旅というだけではなく、戦国末期から江戸初期への激動の時代を体感することにもつながります。

政務に長けた文治派官僚たちの存在は、武断主義とは異なる形で戦国の終わりを演出しました。彼らの残した史跡や記録に触れることで、豊臣政権が築こうとした秩序と、その崩壊のドラマをより深く知ることができるのです。五奉行という制度は、単なる権力分掌ではなく、近世日本の官僚制度の先駆けとしても注目すべき存在だと思います。

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(略)

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