本日のメインの目的の金印を見るため、福岡市博物館(ふくおかしはくぶつかん)に来ました。博物館に入ってみると、朝早めの時間にも関わらず女性が並んでいます。受付と書かれていたので、人気があるんだなあ、と思いながら、よく確認もせずに並んで入ったところ、特別展の「美少女戦士セーラームーン ミュージアム」でした。先に進めば金印があると思い、先に進みましたが出口に来てしまい、金印を展示している常設展は別でした。料金も別々だったので、少し失敗しました。
福岡市博物館は、福岡の歴史や文化を深く知ることができる施設です。早良区のシーサイドももち地区に位置し、美しい海岸線を望むロケーションにあります。歴史や美術に興味がある方はもちろん、福岡の成り立ちや特色を学びたい方にもおすすめの場所です。
博物館のなかでも特に注目を集めるのが、国宝「金印」です。この金印は、江戸時代に志賀島で発見されました。表面には「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」という文字が刻まれており、『後漢書』に記された、後漢の光武帝が倭の使者に授けた印章とされています。実物は驚くほど小さいながらも、二千年近い歴史を持つ貴重な遺物として、多くの来館者が訪れます。
また、福岡藩主・黒田家に関連する展示も見どころの一つです。戦国時代から江戸時代にかけて活躍した黒田長政の甲冑や、名槍「日本号」など、歴史好きにはたまらない品々が展示されています。福岡が武士の町として栄えてきた歴史を感じることができます。
さらに、福岡は古くから中国や朝鮮半島との交易が盛んな土地でした。博物館ではその交流の歴史を学ぶことができ、遣唐使や日宋貿易、さらに江戸時代の長崎貿易といったテーマの展示も充実しています。博多祇園山笠や、福岡の祭りについての展示もあり、地域の文化に触れることができます。
常設展示に加え、定期的に企画展や特別展が開催されているのも魅力のひとつです。国内外の美術品や歴史資料をテーマごとに紹介し、訪れるたびに新しい発見があります。最新の企画展情報は、博物館の公式サイトをチェックすると良いでしょう。この日の特別展は、「美少女戦士セーラームーン ミュージアム」でした。
福岡市博物館は、福岡市地下鉄「西新駅」から徒歩約15分の場所にあります。バスを利用すれば、博物館のすぐそばまで行くことも可能です。周辺には福岡タワーやももち浜といった観光スポットも多く、博物館とあわせて訪れることで、より充実した一日を過ごせるでしょう。
福岡の歴史と文化を深く知りたい方にとって、福岡市博物館はぜひ訪れる価値のある場所です。歴史のロマンを感じながら、福岡の歩んできた道のりに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
北虜南倭
「北虜南倭(ほくりょなんわ)」という言葉は、明代の中国が直面していた深刻な対外的脅威を、端的に言い表したものです。この四字熟語の背景には、明王朝が抱えた二つの大きな課題、すなわち北方の遊牧民族と南方の海賊たちの存在があります。
「北虜」とは、主にモンゴル系の遊牧民族を指しています。明朝は元を滅ぼして建国された政権ですが、北方のモンゴル勢力は完全に消え去ったわけではありませんでした。特に15世紀半ばには、オイラトの首領であったエセン・ハーンが明軍を破り、当時の皇帝である英宗(正統帝)を捕虜とする「土木の変」が起こります。この事件は明朝にとって大きな衝撃であり、以降も北方の防衛は国家にとっての最重要課題の一つとなりました。
一方、「南倭」とは、明の東南沿岸地域を襲った倭寇のことを意味します。倭寇というと日本人の海賊というイメージがありますが、明代の中期以降には、多くが中国人で構成されるようになります。こうした倭寇たちは、海禁政策によって正規の貿易が制限されたことを逆手に取り、密貿易や略奪を繰り返しました。彼らは福建や浙江、広東などの沿岸を荒らし、明の海防に深刻な打撃を与えたのです。
このように、北からはモンゴルの脅威、南からは倭寇の侵略という二重の苦しみの中にあった明王朝は、「北虜南倭」という言葉を通して、自国の置かれた困難な状況を語り継いできました。そしてこの言葉は、単なる歴史的事実を超えて、国家が抱える地政学的ジレンマや軍事的課題を象徴する表現として、後世にも残されています。
もしこの言葉を現代に置き換えるとすれば、それはまるで国内外にさまざまな問題を抱える現代の国家にも通じる警句のようにも感じられます。過去の歴史が教えてくれることは、単なる出来事の羅列ではなく、その背景にある構造的な問題に目を向けることの大切さなのかもしれません。
日宋貿易
日宋貿易は、日本と中国・宋とのあいだで交わされた中世の海上交易であり、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて特に活発になります。当時の日本は国内において中央の力が弱まりつつあり、地方の武士勢力や寺社勢力が台頭する時代でした。そのようななか、交易によって得られる富や文物は、彼らの経済的基盤や文化的な威信を支える重要な手段となっていきます。
日本側からは金、硫黄、水銀、刀剣、漆器などが輸出され、宋からは銅銭(宋銭)、絹織物、陶磁器、書籍、医薬品、そして仏教経典などがもたらされました。特に宋銭は大量に流入し、のちの日本国内の貨幣流通にも大きな影響を与えています。これにより貨幣経済の発展が促され、荘園制の変容や都市の形成にもつながっていきました。
こうした貿易は、国家主導ではなく私貿易、すなわち民間レベルでの取り引きが中心だった点が特徴的です。日本からは寺院勢力や有力武士が、宋からは商人や僧侶が関与しており、経済だけでなく宗教・文化面での交流も盛んでした。特に禅宗や宋風建築、書道、茶の文化はこの時期に日本に根づき、のちの鎌倉文化や室町文化へと受け継がれていきます。
交易の主な拠点は九州の筑前国(ちくぜんのくに)の博多でした。博多湾には多くの宋船が来航し、そこを拠点にして物資の集散や人の往来が行われました。また、そこから内陸の太宰府へとつながるルートは、外交と貿易の要路として機能していました。これらの港町や関所には、宋の影響を受けた都市計画や建築、信仰などが根づき、現在でもその痕跡を感じることができます。
鎌倉幕府の成立以降も宋との交易は続きましたが、やがて元寇などによって日中関係が緊張すると、次第に変化していきます。しかし、日宋貿易によってもたらされた経済的・文化的なインパクトは計り知れず、中世日本の発展にとって不可欠な要素でした。それは単なる物資のやりとりにとどまらず、日本人の思想や美意識そのものに新たな刺激を与えたといえるでしょう。
日宋貿易の遺構や文化の名残は、今日でも博多の旧市街や鎌倉の建長寺・円覚寺といった禅寺に見ることができます。それは、かつて海を越えて交流した人びとの息づかいを、今に伝える貴重な証でもあります。
旅程
羽田空港
↓(飛行機)
福岡空港(FUK)
↓(バス)
博多駅
↓(福岡市地下鉄空港線)
西新駅
↓(徒歩)
サザエさん通り/磯野広場
↓(徒歩)
↓(徒歩)
福岡タワー
↓(徒歩)
西新駅
↓(福岡市地下鉄空港線/西鉄天神大牟田線/西鉄太宰府線)
太宰府駅
↓(徒歩)
↓(徒歩)
↓(バス)
福岡空港(FUK)
関連イベント
周辺のスポット
- 福岡タワー
- サザエさん通り/磯野広場
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