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平家屋敷民俗資料館:茅葺き屋根の下で語られる平家の物語

GWを利用して香川、徳島観光に来ました。

2日目の徳島は、メインの目的は大歩危小歩危ですが、自動車が無いと観光地をまわりにくい地域なので、四国交通のバスツアーを利用しました。JR阿波池田駅から乗りましたが、想像より小ぶりのバスが来ました。GWで満員でしたのでもう少し大きいバスの方が良いと思いましたが、この後、この大きさが最適であることが分かりました。道が狭いので、このバスの方が小回りが効きます。

平家屋敷民俗資料館はこのツアーの最初の観光スポットです。

徳島県三好市西祖谷山村にある「平家屋敷民俗資料館」は、平家の歴史や文化を今に伝える貴重な場所です。ここは、安徳天皇に仕えていた御典医、堀川内記の子孫である西岡家の旧宅を活用しており、主屋と土蔵は三好市の重要有形文化財にも指定されています。訪れると、まるで歴史の中に迷い込んだかのような感覚に包まれます。

資料館では、平家にまつわる鎧や旗、古文書、そして日常生活で使われた道具など、多彩な展示品を見ることができます。これらの品々は、単なる歴史資料としてではなく、かつての人々の暮らしや思いを今に伝えてくれる存在です。特に江戸時代に建てられた茅葺き(かやぶき)、寄棟造(よせむねづくり)、平屋建ての建物は見ごたえがあり、囲炉裏の煙によって黒光りした屋根裏や、力強い合掌造りの構造を間近で感じることができます。「コビラ玄関」という珍しい造りで、壁、押し入れがなく、戸をはずすと1室になります。

土蔵は、木造瓦葺き(かわらぶき)、切妻造(きりづまづくり)、2階建てで、主屋とほぼ同時期に造られました。上から火が入らないように屋根を上に乗せた状態で、火入らずの蔵と言われました。

また、資料館の庭には、樹齢約800年を数えるキンモクセイとギンモクセイの老樹が立っています。四季折々に姿を変える自然の美しさと、長い年月を刻んできた木々の存在感が、訪れる人々に静かな感動を与えてくれます。歴史だけでなく、自然とのつながりも感じられる点が、この資料館ならではの魅力といえるでしょう。

囲炉裏の温もりと平家の物語が静かに息づくこの場所で、過去と現在がゆっくりと交差するひとときを過ごすことができるでしょう。

安徳天皇

平安時代末期、日本は大きな動乱の時代を迎えていました。その中にあって、わずか数年という短い生涯を生きた悲劇の天皇がいます。今回は、源平争乱の渦中に生まれ、歴史に深い爪痕を残した安徳天皇(あんとくてんのう)についてご紹介します。

安徳天皇は、1178年(治承2年)に高倉天皇と平清盛の娘・建礼門院徳子との間に生まれました。平清盛は日本の政治の実権を握っていたため、幼い安徳天皇はその後ろ盾を得て、わずか2歳で即位します。幼帝の即位は、まさに平家一門の繁栄を象徴する出来事でした。しかしその栄光も、長くは続きませんでした。

平家政権の専横に反発する勢力が各地で蜂起し、源氏との対立が激化します。源義仲や源義経といった英雄たちの活躍によって、平家は次第に劣勢に追い込まれていきました。都落ちした平家は安徳天皇を擁し、西国へと逃れ、最後は長門国・壇ノ浦へと追いつめられます。

1185年(寿永4年)、壇ノ浦で源氏との決戦が行われました。平家は善戦したものの、潮流に翻弄され、次第に敗色が濃くなります。絶望した二位尼(平時子、安徳天皇の祖母)は、まだ幼い安徳天皇を抱きかかえ、海へと身を投じました。このとき、安徳天皇はわずか満6歳、短い生涯を静かに閉じたのです。

安徳天皇の最期は、『平家物語』をはじめ多くの文学作品や伝承に描かれ、後世に深い哀惜をもって語り継がれてきました。現在、山口県下関市の赤間神宮には安徳天皇を祀る御影堂があり、多くの参拝者がその御霊を慰めています。また、各地には安徳天皇が実は生き延びたという伝説も残っており、人々の心に強い印象を残していることがわかります。

わずか数年の在位と幼い死にもかかわらず、安徳天皇の存在は、単なる歴史上の一コマではありませんでした。源平の時代という激動の中で、人間のはかなさと、力の盛衰の無常を象徴する存在として、今なお日本人の記憶に生き続けているのです。

旅程

阿波池田駅

↓(バス)

阿波池田バスターミナル

↓(バス)

平家屋敷

↓(バス)

郷土料理の昼食

↓(バス)

祖谷のかずら橋

↓(バス)

祖谷渓の小便小僧

↓(バス)

道の駅大歩危

↓(バス)

大歩危峡船下り

↓(バス)

西宇

↓(バス)

阿波池田駅

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  • 祖谷そば

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