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1月, 2020の投稿を表示しています

永心寺:薬医門が語る、新宿の路地に残る方丈の記憶

昼休みの小さな散歩の途中で、新宿区須賀町にある永心寺(えいしんじ)に出会いました。オフィス街の喧騒から数分離れるだけで、門前にひときわ静かな空気が流れていて、足を止めずにはいられませんでした。時間は限られていましたが、まずは山門をくぐって一礼し、本堂に手を合わせて帰ることにしました。 境内の案内によれば、永心寺は江戸時代の建物が今も残る貴重なお寺だそうです。山門は薬医門という形式で、切妻屋根を載せた端正な姿をしています。掲げられた扁額には慶応三年(1867年)の年号が刻まれており、江戸の末の気配がふっと立ちのぼるようでした。装飾の意匠は元禄から18世紀中頃の作例に似るとのことで、時代の移ろいを背負いながらも、門は静かに町を見守り続けてきたのだと感じました。 奥に進むと本堂が現れます。こちらは享保十一年(1726年)の建立で、方丈型と呼ばれる間取りをとり、北面中央に向拝を備えています。内部は二列六室の整然とした構成で、広縁がめぐるつくりだと説明にありました。江戸の寺町の景観を今に伝える建物として新宿区の有形文化財に指定されているとのことで、震災や戦災の難を免れ、本堂と山門がそろって残っている点がとても貴重だそうです。忙しない昼の時間帯でも、柱や梁に染みこんだ時間の厚みは十分に伝わってきました。 滞在は長くはできませんでしたが、参拝をして心を整えるひとときを得ました。高層建築の谷間にこうした江戸の記憶が息づいていることに、東京という都市の層の厚さをあらためて感じます。次はもう少しゆっくり訪れ、山門の細部や本堂の間取りをじっくり見てみたいと思います。昼休みの偶然の寄り道が、小さな歴史散歩になりました。 旅程 四ツ谷駅 ↓(徒歩) 西應寺 ↓(徒歩) 永心寺 ↓(徒歩) 四ツ谷駅 周辺のスポット 迎賓館赤坂離宮 リンク 永心寺(東京都新宿区)の概要・価格・アクセス|東京の霊園.com

西應寺:喧騒の裏側に眠る剣客の記憶

最近は昼休みの散歩を習慣にしています。サンドイッチを片手に新宿の町を歩いていると、西應寺に行き当たりました。高層ビルの谷間を抜け、ふと路地に入ると、車の音が遠のき、砂利の感触と木々の匂いが立ちのぼります。新宿区といえば現代的な景観が真っ先に浮かびますが、実は寺社が点在し、由緒ある墓所や文化財が静かに息づいているのだと改めて感じました。 境内には榊原鍵吉の墓の案内があり、新宿区指定文化財であることが記されていました。幕末から明治にかけて名を馳せた剣客として広く知られる人物で、動乱の時代を生きた個人の物語が、この都会の片隅に確かに刻まれているのだと思うと、通り過ぎてきたオフィス街の喧騒が急に遠いものに思えます。また、正徳2年(1712年)鋳造の梵鐘も同じく区の文化財として保護されており、江戸の響きを伝える重厚な存在感がありました。幾世代を超えて受け継がれてきた金属の艶と刻まれた文字を前にすると、時間の厚みを手で触れられるような気持ちになります。 西應寺の静けさは、短い昼休みの中で心の速度を落としてくれます。歴史の断片に触れると、日々の仕事や歩数の記録といった目の前のタスクが、より大きな流れの中に位置づけられていくようです。新宿にはビル群と同じくらい、こうした小さな歴史の居場所があるのだと知ることができました。次の昼休みも、地図アプリでは見落としてしまう細い参道を探しながら、またどこかの寺の門をくぐってみたいと思います。 旅程 四ツ谷駅 ↓(徒歩) 西應寺 ↓(徒歩) 永心寺 ↓(徒歩) 四ツ谷駅 周辺のスポット 迎賓館赤坂離宮 リンク 卍西應寺|東京都新宿区 - 八百万の神

徳川秀忠公誕生の井戸:二代将軍誕生の地、静かな井戸に伝わる将軍の記憶

本日は、静岡県浜松市を訪れました。朝から「家康の散歩道」を歩きながら、浜松城や浜松市博物館など、徳川家ゆかりの地を巡ることにしました。浜松の街は徳川家康が築いた城下町として知られ、歴史の足跡が随所に残されています。今回の散策の締めくくりとして選んだのは、「徳川秀忠公誕生の井戸」です。 浜松駅に戻り、一駅ですが遠州鉄道に乗り、遠州病院駅まで移動しました。駅のすぐ隣にその井戸はありました。案内板が設けられ、小さな祠のような雰囲気の場所です。ここは、徳川家康の次男であり、のちに江戸幕府二代将軍となる徳川秀忠が生まれた際、産湯として使われた井戸だと伝えられています。小さな一角ではありますが、当時の空気を感じさせる静けさと、歴史の重みが伝わってきます。 ただ、この「誕生の井戸」については別の説も存在します。もう一つの有力な説は、浜松城の二の丸、つまり北側のエリアに井戸があったというものです。実際、秀忠の誕生地に関する記録は明確ではなく、史実と伝承が交錯して今に伝わっています。井戸そのものは現代の風景に溶け込んでいますが、その背後にある物語に思いを馳せると、歴史散歩の楽しさがいっそう深まります。 このように、浜松には家康・秀忠親子の軌跡があちこちに残されています。井戸の水面に映る青空を眺めながら、江戸幕府の歴史に思いを馳せた一日となりました。家康と秀忠、二代にわたる将軍の時代を静かに見守ってきた浜松の地は、今もなお多くの歴史好きの人々を惹きつけています。 旅程 (略) ↓(徒歩) 五社神社·諏訪神社 ↓(徒歩) 浜松城 ↓(徒歩) 奥山線跡遊歩道 ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) 宗源院 ↓(徒歩) 浜松市博物館 ↓(徒歩) 蜆塚遺跡 ↓(徒歩) 太刀洗の池 ↓(タクシー) 浜松駅 ↓(遠州鉄道) 遠州病院駅 ↓(徒歩) 徳川秀忠公誕生の井戸 ↓(徒歩) 浜松駅 ↓(新幹線) 東京 関連イベント 周辺のスポット 浜松八幡宮 椿姫観音堂 元城町東照宮 地域の名物 うなぎ料理 浜松餃子 浜名湖の牡蠣 三ヶ日みかん 遠州焼き うなぎパイ 関連スポット リンク 徳川秀忠公誕生の井戸/ハローナビしずおか 静岡県観光情報 徳川秀忠公誕生の井戸 | 浜松情報BOOK 徳川家康公ゆかりの地 徳川秀忠公誕生の井戸 (とくがわひでただこうたんじょうのいど) を訪ねて | 静岡県信用金庫協会「しずおか...

浜松市博物館:旧石器時代から近代まで歴史と文化の宝庫

宗源院から西へ進み浜松市博物館(はままつしはくぶつかん)に向かいました。 浜松市博物館は、静岡県浜松市中区蜆塚四丁目に位置する、地域の歴史と文化を学べる魅力的な博物館です。この博物館は、もともと1958年に「浜松市立郷土博物館」として浜松城天守閣内に開館しましたが、1979年に現在の場所へ移転し、「浜松市博物館」として新たにスタートしました。 館内では、浜松地域の歴史を原始時代から近代まで幅広く紹介しています。特に注目すべきは、約50万年前から1万5千年前に生息していたナウマンゾウの骨格模型です。その迫力ある姿は、来館者に太古の地球の歴史を感じさせてくれます。また、浜松周辺の遺跡や古墳から出土した装飾品や農具なども展示されており、当時の人々の暮らしぶりを垣間見ることができます。 浜松市博物館のすぐ隣には、国指定史跡「蜆塚遺跡」があります。この遺跡は、縄文時代後期から晩期(約4,000年前~3,000年前)の集落跡として知られており、復元された竪穴住居や、貝殻が堆積した貝塚を見学することができます。青空の下、古代の住居や遺構を歩きながら、縄文時代の人々の生活に思いを馳せることができるのは、非常に貴重な体験です。 浜松市博物館は、家族連れや歴史好きな方はもちろん、浜松の文化に興味を持つすべての人におすすめのスポットです。展示物の豊富さや、実際に遺跡を見学できる体験型の魅力もあり、訪れるたびに新たな発見があることでしょう。浜松観光の際には、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。 浜北人 浜北人(はまきたじん)は、約18,000年前の旧石器時代後期に日本列島に住んでいた人々の一人で、1962年に静岡県浜松市浜北区の根堅洞窟から発見されました。この人骨は、若い成人女性のものと考えられており、国内で見つかった最古級の人骨として注目されています。 浜北人が暮らしていた旧石器時代後期は、まだ農耕や定住生活が始まる前の時代です。彼らは主に狩猟や採集による生活を送っていたと考えられます。根堅洞窟周辺の自然環境は、狩猟採集生活に適しており、彼らが日常的に利用していた場所であったことが推測されます。 浜北人の発見は、沖縄県で発見された港川人(みなとがわじん、約18,000年前)や山下洞人(やましたどうじん、約32,000年前)と並び、日本人のルーツを考える上で貴重な資料となっています。...

浜松城:徳川家康ゆかりの「出世城」、歴史×自然を楽しむ桜の名所

静岡県の浜松に観光に来ました。浜松の高校に通っていたこともあり、知っている場所も多いですが、当時はただ横を通り過ぎていただけで、歳をとってからこういった史跡に興味を持つとは思いもしませんでした。 五社神社·諏訪神社で参拝したあと、浜松城(はままつじょう)のある浜松城公園に向かいました。 浜松城は、静岡県浜松市にある歴史的な城で、徳川家康が若き日に拠点としたことで知られています。戦国時代から江戸時代にかけての重要な舞台となり、現在は復元された天守や美しい公園が訪れる人々を魅了しています。 この城は、1570年頃に徳川家康によって築かれました。当時の家康は今川家から独立し、武田信玄などの強敵と戦いながら勢力を拡大していた時期でした。そのなかで、家康は浜松城を本拠地として17年間過ごし、戦国大名としての基盤を築いていきました。特に、1572年に起こった三方ヶ原の戦いでは、家康が武田信玄に敗北するものの、その経験が後の天下統一への足がかりとなったと言われています。 家康が駿府城へ移った後も、浜松城は重要な城として機能しました。歴代の城主には、後に幕府の要職に就く人物が多かったことから、「出世城」としても有名です。そのため、現在も多くの人々が出世や成功を願いながら浜松城を訪れています。 浜松城の天守閣は、1958年に再建され、現在は歴史資料館として一般公開されています。館内には家康や浜松城に関する資料が展示されており、戦国時代の歴史に触れることができます。 また、天守からは浜松市の街並みが一望でき、特に晴れた日には遠くの景色まで楽しむことができます。 この城の特徴のひとつに、当時のまま残る野面積み(のづらづみ)の石垣があります。大きさや形が不揃いな石を積み上げるこの工法は、戦国時代の築城技術のひとつであり、戦国武将たちの知恵と工夫を感じることができます。 浜松城の周辺は現在、浜松城公園として整備されており、四季折々の風景を楽しむことができます。特に春には桜が咲き誇り、多くの花見客が訪れます。また、公園内には徳川家康の銅像があり、戦国時代のロマンを感じさせます。 浜松城へのアクセスは、JR浜松駅から徒歩約20分、または遠鉄バスを利用して「浜松城公園入口」で下車すると便利です。浜松城だけでなく、近くの浜松八幡宮や浜名湖なども合わせて訪れることで、浜松の歴史や自然をより深く味わうこ...

吉田城

愛知県豊橋市の吉田城に来ました。 吉田城は、豊橋駅から路面電車で行ける豊橋公園内にあります。 吉田城には天守が無いと言われていましたが、鉄櫓(くろがねやぐら)が実質的な天守でした。現在、鉄櫓は再建され、中は資料館になっており、多くの資料が展示されています。 吉田城は、1505年(永正2年)(1496年という説もあり)に一色城主( いっしきじょう )の牧野古白(まきの こはく)が今橋城として築きました。吉田城のある東三河(みかわ)は軍事、経済的に重要な拠点であり、城の争奪戦が繰り返されました。初めは、渥美郡(あつみぐん)の戸田氏、宝飯郡(ほいぐん)の牧野氏で争奪戦が繰り返され、城主が次々と替わりました。 1529年(享禄2年)に、西三河の徳川家康の祖父の松平清康(まつだいら きよやす)が吉田城を制し、一度は三河を安定させました。その後、清康が亡くなると、再度、戸田氏、牧野氏間で争奪戦になり、最終的に駿河(するが)の今川氏が入り管理下に置いたことで落ち着きました。 今川時代に、今橋城から吉田城に名前が変更されました。1522年(大永2年)に牧野信成(まきの のぶしげ)が「いまわし」(忌まわしい)は縁起が悪いということで吉田に変更したという説もあります。 今川氏が桶狭間の戦いで弱体化したのを狙って、1565年(永禄8年)、松平(徳川)家康が10か月かけて吉田城を攻略し、後に徳川四天王と呼ばれる酒井忠次(さかい ただつぐ)を城主に置きました。酒井忠次は、徳川家康から城を与えられた最初の家臣で、25年間城主を務めました。このころ、豊川には橋がありませんでしたが、酒井忠次が土橋をつくり、これが吉田橋となりました。 酒井忠次が城主の時代には、三河攻略中の武田信玄による攻撃を受けましたが、守りを固め守り切りました。 家康が豊臣秀吉によって、関東に移封されると、池田輝政(いけだ てるまさ)が城主となり、11年間務めました。後に姫路城を築城する池田輝政ですが、この城主時代には吉田城を近世城郭として改修し、城下町の整備や、吉田大橋の架け替えを行いました。 この吉田大橋は、豊橋の地名の由来です。当時の東海道は、吉田大橋のような大橋が少なく、多くの絵師に描かれました。 関ケ原の戦いの後、池田輝政は播州、姫路に移封され、22代に渡って譜代大名が吉田を支配しました。当時は、吉田城主は出生の登竜門...

根津神社

初詣を兼ねて、根津神社(ねづじんじゃ)に来ました。 根津神社の歴史は古く、1900年前に日本武尊(やまとたけるのみこと)により千駄木に創建されています。 文明年間(1469年-1486年)に、太田道灌(おおた どうかん)により社殿が造られたとも伝わっています。 現在の社殿は、江戸時代の1706年(宝永3年)に、五代将軍 徳川綱吉(とくがわ つなよし)より、6代将軍家宣(いえのぶ、綱豊(つなとよ))の産土神(うぶすながみ)として築かれました。国の重要文化財に指定されており、その美しい建築様式が評価されています。 根津神社の主祭神は「須佐之男命(すさのおのみこと)」で、天皇家ゆかりの神社として知られています。 春に開催される「つつじ祭り」では、約100種3,000株のツツジが境内を彩り、多くの観光客が訪れます。 根津神社の境内にある「乙女稲荷神社」は、根津神社の摂社(せっしゃ)で、特に女性や縁結びにご利益があるとされています。「乙女」という名の通り、乙女の純粋さや清らかさに由来しており、縁結びや恋愛成就、安産など、女性の願いに応える神社として多くの参拝者に親しまれています。 乙女稲荷神社の境内は、朱色の千本鳥居が並んでいることで有名です。この鳥居は、神社を訪れる際に象徴的なものとして写真に撮られることが多く、まるで鳥居のトンネルをくぐるかのような神秘的な雰囲気が漂います。 乙女稲荷神社の主祭神は「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」で、稲荷神社としての特徴を持ち、農業や商売繁盛の神としても信仰されていますが、特にこの乙女稲荷神社は、女性や家庭に関わる願いに強いご利益があるとされています。 根津神社の境内には静けさが漂い、都会の喧騒を忘れることができる場所として、地元の人々にも親しまれています。歴史や自然、そして祭事が融合した場所として、観光客にも人気のスポットです。 旅程 根津駅 ↓(徒歩) 根津神社 関連イベント 文京つつじまつり: 4月1日~30日 周辺のスポット へび道 上野桜木あたり 谷中銀座 文京区立森鴎外記念館(観潮楼跡) 地域の名物 関連スポット 明治村 : 裏門前の根津裏門坂の坂上にあった夏目漱石の「猫の家」が移築されている リンク 根津神社HP 根津神社/東京の観光公式サイトGO TOKYO

St. Andrew's Church (トロント):円花窓に射す薄日、年越し前の小さな寄り道

トロントの街歩きの合間に立ち寄ったのが、キング・ストリートとシムコー・ストリートの角に建つセント・アンドリューズ教会でした。午前中はホッケーの殿堂やリプレーズ・アクアリウムを回り、高層ビルが林立する都会のまっただ中で、石造りの重厚な聖堂だけが時間の流れを別にしているように感じられました。最初は西側の通りから眺め、城の一角のようにそびえる塔を正面と思い込んだのですが、北側に回り込むと、三つのアーチを構えた堂々たる玄関が現れ、こちらが真正面なのだと分かりました。扉の木目と円花窓の繊細な石細工が冬の薄日の下でやわらかく浮かび上がり、にぎわうダウンタウンに静かな節目を刻むようでした。 この教会の起源は19世紀初頭にさかのぼります。1830年にヨーク(のちのトロント)で創設されたスコットランド長老派の会衆が母体で、現在の建物は1876年に献堂されました。設計はトロントの建築家ウィリアム・ジョージ・ストームで、ロマネスク・リバイバルの力強い様式を基調としています。角に据えられた塔の小さな櫓や、重厚な砂岩の壁がスコットランドとの結びつきを感じさせるのが特徴です。 立地はトロント中心部の真ん中で、昔も今も街の動脈に面しています。かつてこの交差点は、州総督邸やアッパー・カナダ・カレッジ、人気の酒場が向かい合い、「救い(教会)・立法・教育・破滅」が集う場所と語られたそうです。現在の住所はシムコー・ストリート73番で、教会は1970年代以降の都心再生の波に寄り添いながら、文化施設が建ち並ぶ一角のランドマークであり続けています。 北面の階段を上がって見上げると、三連アーチの上に規則正しく並ぶ小アーチ列(アーケード)と、花のような意匠の大きな円窓が目を引きます。素材はジョージタウン産の砂岩が中心で、近代的なガラスの塔に囲まれていても質感が負けません。角塔の最上部にめぐらされた張り出しや小窓の造作は、写真で見るよりも立体感があり、冬枯れの街路樹の枝越しに眺めると、中世の砦のディテールを凝縮した模型のようにも感じられました。 この日は年越しイベントを控えた二日目で、街はどこか浮き立つ空気に包まれていました。CNタワーの足元にある水族館から歩いてくると、観光の喧騒と聖堂の静けさの対比がいっそう鮮やかです。西側から塔を「正面」と見誤るほど、角塔の存在感は強烈ですが、北側の玄関前に立つと、アーチの曲線...

ラウンドハウス・パーク:歴史ある鉄道の足跡をたどるトロントの冬

トロント観光の2日目を迎え、快晴の青空のもとでラウンドハウス・パークを訪れました。朝からCNタワーやRipley's Aquarium of Canadaなど、トロントを代表する観光スポットを巡り、そのすぐ隣に位置するこの公園に足を運んだのです。トロントの冬らしい澄んだ空気と、都市の中心に残る歴史的な雰囲気が印象的でした。 ラウンドハウス・パークは、その名の通り円形の機関車庫と大きな転車台が公園のシンボルになっています。特に転車台は予想以上の大きさで、かつてここが鉄道の要衝であったことを静かに物語っていました。19世紀から20世紀初頭にかけて、トロントはカナダの交通の中心地として発展し、蒸気機関車が活躍していた時代には、このラウンドハウスも重要な役割を担っていたそうです。実際に現地では、その歴史を伝えるパネルや説明も目にしました。 公園内には様々な種類の汽車やトロッコが展示されており、子供たちが楽しそうに駆け回っている姿が印象的でした。 鉄道ファンでなくとも、間近に見る本物の機関車や貨車は迫力があり、その時代の技術や人々の生活を想像させてくれます。また、古い駅舎らしき建物もあり、当時の旅人たちがどのように駅で過ごしたのか、ふと想像が膨らみました。 都会のビル群に囲まれながらも、ラウンドハウス・パークはトロントの歴史や産業遺産に静かに触れることのできる場所です。旅の途中で少し足を止め、過去の時代へ思いを馳せるひとときは、観光名所とは違った深い味わいがありました。今もなお保存・活用されているラウンドハウスの建物や転車台は、トロントの歩んできた道を静かに見守っているように感じられます。 旅程 (略) ↓(徒歩) グッダーハム・ビル ↓(徒歩) ホッケーの殿堂 ↓(徒歩) Ripley's Aquarium of Canada ↓(徒歩) ラウンドハウス・パーク ↓(徒歩) ロジャーズ・センター ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) Historic Sites and Monuments Board of Canada: Glenn Gould (1932 to 1982) ↓(徒歩) St. Andrew's Church ↓(徒歩) CF Toronto Eaton Centre ↓(徒歩) ホテル 周辺のスポット Ripley's Aqua...

ホッケーの殿堂:予習なしで飛び込むアイスホッケー入門、マスクとスティックが語る物語

ホッケーの殿堂を訪れました。実はホッケーの知識はほとんどなく、チーム名もスター選手もルールもあやふやなままでしたが、展示室に一歩入ると、その心配はすぐに薄れました。 各チームのヘルメットやユニフォームが色とりどりに並び、使い込まれたスティックやゴールキーパーのマスクが、氷上の激しさと駆け引きの歴史を静かに物語っていました。 ロッカールームを再現したコーナーでは、汗の気配まで想像できるような臨場感があり、まるで試合前の緊張を分けてもらったような気持ちになります。 殿堂の中心には、偉業を残したプレーヤーたちのプレートがびっしりと並び、銅色の顔ぶれが時代ごとの物語をつないでいました。名前を知らない選手が多い私でも、刻まれた成績や短い解説から、彼らがどんな瞬間に観客を沸かせ、どんな試合で時代を変えたのかが伝わってきます。像や写真に添えられたエピソードは、勝敗の数字の裏にある人の努力と工夫を感じさせ、スポーツの歴史が単なる記録の積み上げではないことを教えてくれました。 アイスホッケーはカナダで長く親しまれてきた国民的スポーツで、20世紀半ばに創設された殿堂は、その歩みを保存し後世に伝える役割を担っています。歴史的な銀行建築を生かした美しい大広間では、天井の装飾や光の差し込みさえ展示の一部のようで、ここに集められたトロフィーやパネルに特別な重みを与えていました。栄光の象徴であるカップの周りには、年ごとに刻まれたチーム名が帯のように重なり、勝者の喜びと次の挑戦者の決意が、金属の冷たい光の中に層をなしているように見えます。 初心者の私にとってうれしかったのは、プレーの仕組みや戦術の基礎を解きほぐしてくれる展示が多いことでした。フェイスオフやパワープレーといった用語の解説、スティックやパックの素材の変遷、ゴールキーパー用具の安全性の進歩など、技術と競技が互いに高め合ってきた歴史が、手に取るように分かります。スポーツを「知っている人のため」だけではなく、「これから好きになる人のため」にも開かれている場所だと感じました。 残念ながら年末年始でチケットが取れず、本物の試合は観戦できませんでしたが、殿堂での時間は、次こそリンクへ行こうという気持ちを強くしてくれました。観客席から聞く氷のきしむ音、ボード際のぶつかり合い、ゴールが決まった瞬間の地鳴りのような歓声――想像は膨らむばかりです。その日...