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7月, 2023の投稿を表示しています

厳美渓:渓谷に響く水の声、急流の向こうに見た静けさ

本日は、岩手県一関市(いちのせきし)の名勝・厳美渓(げんびけい)を訪れました。 真夏の陽射しがまぶしい晴天で、朝から毛越寺や中尊寺といった平泉の世界遺産を巡り、仏教文化の香りに満ちた時空を旅してきました。中尊寺の金色堂では、奥州藤原氏が築いた栄華と祈りの重なりを感じ、毛越寺では浄土庭園に心を澄ませました。午後は、タクシーで達谷窟毘沙門堂にも足を運び、いよいよ厳美渓へ来ました。ゴウゴウと響く水音が森を揺らし、涼しげな風が頬をなでました。吊り橋の上から見下ろすと、栗駒山から流れる磐井川が花崗岩を削りながら曲がりくねり、滝のような急流をつくっていました。白く泡立つ流れと、褐色の岩肌が織りなす自然の造形は、静かな平泉の寺社とは対照的な力強さを見せつけてきます。 厳美渓の名前は「険しい美しさ」から名付けられたとされますが、その名のとおり、切り立った岩壁と渓流のコントラストは見る者の心を強く揺さぶります。かつてこの渓谷を訪れた明治天皇も、その景観に感嘆し「天工に出づ」と賞賛したと伝えられています。 自然と歴史と信仰が、時間と空間を越えて交差する岩手の一日。厳美渓の岩に砕ける水の音を耳に残しながら、心はまたどこか遠く、過去と現在のあいだを旅していたような気がしました。 旅程 (略) ↓(徒歩) 熊野三社(平泉) ↓(徒歩) 中尊寺 ↓(徒歩) 高館義経堂 ↓(徒歩) 無量光院跡 ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) 平泉駅 ↓(タクシー) 達谷窟毘沙門堂 ↓(タクシー) 厳美渓 ↓(バス) 一ノ関駅 関連イベント 周辺のスポット 達谷窟毘沙門堂 地域の名物 関連スポット 猊鼻渓 リンク 厳美渓 | 特集 | いち旅 | 一関市公式観光サイト【いちのせき観光NAVI】 厳美渓|東北の観光スポットを探す | 旅東北 - 東北の観光・旅行情報サイト 厳美渓 | 観光スポット | いわての旅

達谷窟毘沙門堂:岩壁に刻まれた信仰のかたち、伝説と自然が交差する場所

平泉の毛越寺、中尊寺など街の中心のスポットを見た後、多少時間が余ったので、タクシーで厳美渓(げんびけい)に行くことにしました。観光案内でいただいた観光マップを見ると、その途中に達谷窟(たっこくのいわや)というのもあったので寄ってもらいました。 事前に買った観光ガイドにも載っていなかったので、あまり期待していなかったのですが、敷地内に入ると壮観な建物に驚きました。 達谷窟毘沙門堂は延暦20年(801年)に、あの有名な坂上田村麻呂が建てました。何度か火災により焼失、その都度再建されています。伊達政宗が再建したこともあります。 奥の岩壁には岩面大佛が彫られています。 旅程 (略) ↓(徒歩) 熊野三社(平泉) ↓(徒歩) 中尊寺 ↓(徒歩) 高館義経堂 ↓(徒歩) 無量光院跡 ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) 平泉駅 ↓(タクシー) 達谷窟毘沙門堂 ↓(タクシー) 厳美渓 ↓(バス) 一ノ関駅 周辺のスポット 厳美渓 毛越寺 中尊寺 地域の名物 関連スポット リンク 達谷窟毘沙門堂 別當 達谷西光寺 達谷窟毘沙門堂│平泉を観る│観光アーカイブ│ひらいずみナビ 達谷窟毘沙門堂|東北の観光スポットを探す | 旅東北 - 東北の観光・旅行情報サイト

高館義経堂:義経を偲ぶ、夏草揺れる見晴らしの地

岩手県平泉の高館義経堂に訪れました。朝から世界遺産にも登録されている毛越寺や中尊寺を巡り、平泉の歴史的な空気を存分に味わったあと、高館義経堂へと足を運びました。 高館義経堂は、源義経の終焉の地と伝わる場所に建てられたお堂です。小高い丘の上に立つこのお堂に到着すると、まずその立地の素晴らしさに感動しました。眼下には北上川が流れ、広がる景色は、かつてこの地に立った武将たちが見たであろう眺めを思い起こさせてくれます。 堂内には義経の像が祀られており、その凛とした姿が印象的でした。悲劇の英雄として名高い義経ですが、像の表情にはどこか安らぎのようなものも感じられ、長い歴史の時を経て、多くの人々に慕われてきたことを実感します。 併設の資料館には、仁王像などの仏教美術品が展示されていました。特に、仁王像はどこかユーモラスで親しみやすい顔立ちをしており、厳しい表情の中にもどこか温かみが感じられる独特の造形が、他ではなかなか見られない魅力を放っていました。 また、この高館には松尾芭蕉の句碑も残されています。芭蕉がこの地を訪れた際に詠んだ「夏草や 兵どもが 夢の跡」という有名な一句です。目の前に広がる夏草の野原と、かつての戦の名残を思わせる静かな風景が、芭蕉の詩情とともに心に染み入るひとときとなりました。 歴史の舞台として幾度となく語り継がれてきた高館義経堂ですが、実際に訪れてみると、過去と現在が静かに交差する特別な場所であることを強く感じます。平泉を旅する際には、ぜひ足を運んでほしい、そんな場所です。 旅程 (略) ↓(徒歩) 熊野三社(平泉) ↓(徒歩) 中尊寺 ↓(徒歩) 高館義経堂 ↓(徒歩) 無量光院跡 ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) 平泉駅 ↓(タクシー) 達谷窟毘沙門堂 ↓(タクシー) 厳美渓 ↓(バス) 一ノ関駅 関連イベント 周辺のスポット 平泉文化遺産センター 中尊寺 無量光院跡 岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター 毛越寺 地域の名物 わんこそば 南部鉄器 秀衡塗 関連スポット リンク 岩手県平泉町 高館義経堂 高館義経堂│平泉を観る│お店・施設│ひらいずみナビ 高館義経堂 | 観光スポット | いわての旅 平泉町 | 平泉の文化遺産 【歴史好き必見!】義経最期の地・高舘義経堂【義経や松尾芭蕉も訪れた平泉一の絶景】 | ヒライズミーツ Hiraizu-meets

中尊寺:真夏の古寺、句碑と木陰と光の記憶、夏の坂道をのぼって

岩手県の平泉に観光に来ています。旅行業務取扱管理者で勉強した毛越寺、中尊寺金色堂などが目的です。毛越寺を見た後、徒歩で北へ向かい中尊寺(ちゅうそんじ)を訪れました。夏も盛りの時期で、照りつける太陽の光に包まれながら、緑豊かな境内を歩くひとときとなりました。 中尊寺といえば、浄土教建設の代表例の金色堂が思い浮かびます。堂内は撮影禁止で写真を残すことはできませんでしたが、実際に目にしたその輝きは、まさに極楽浄土をこの世に現したかのような、言葉に尽くせない美しさでした。金色に輝く阿弥陀三尊像や繊細な螺鈿細工、煌びやかな装飾の数々は、長い年月を超えて今に伝わる奇跡のように感じられました。 松尾芭蕉もまた、この地を訪れ、金色堂を前に一句を残しました。「五月雨を 降り残してや 光堂」。 奥の細道の旅の途中、芭蕉はこの句に、長く降り続く雨さえも避けて通ったかのように、金色堂の存在が特別であることを託しました。私が訪れたのは梅雨明けの7月でしたが、強い陽ざしのなかにあっても、この句が思い出され、まるで堂内の光が雨をはね返していたかのような、神秘的な印象が胸に残りました。 金色堂を後にして、境内をさらに巡っていきました。弁慶堂では、静かに佇む義経弁慶像が訪れる人々を迎えてくれていました。瑠璃光院や地蔵堂、薬師堂など、どの建物もそれぞれに個性があり、細部にまで丁寧な意匠が施されていることに感嘆しました。本堂では、お線香の香りとともに荘厳な空気に包まれ、心が自然と落ち着いていくのを感じました。 光勝院、峯薬師堂へと歩を進めると、少しひんやりとした木陰に救われながら、心地よい時間が流れていきました。 さらに、経蔵や覆堂では、中尊寺の長い歴史に思いを馳せました。覆堂は金色堂を保護するための建物であり、文化財を守る人々の努力に頭が下がる思いでした。 境内の奥には、白山神社と、その一角に建つ能舞台がありました。野外に設けられた能楽殿は、自然の中に溶け込むようにたたずみ、ここで演じられる能は、どれほど幻想的な空間を生み出すのだろうと想像を膨らませました。 この日、中尊寺で見た堂宇のひとつひとつは、それぞれに異なる魅力を放っていました。そして、夏の強い日差しに照らされながらも、どこか涼しさを感じさせるような、深い緑と静けさが、心に深く残りました。平泉の文化と歴史に触れる、かけがえのない一日となりまし...

人道の港 敦賀ムゼウム

気比の松原を目的に敦賀市へ来たが、余った時間で敦賀赤レンガ倉庫や金崎宮を見るついでになんとなく寄ったのが敦賀ムゼウム。結果的に敦賀観光で一番良かった場所になりました。 ムゼウムはポーランド語で資料館の意味らしいです。意識してみるとミュージアムに近い発音。 杉原千畝(ちうね)さんに命のビザを発行されたユダヤ難民が上陸したのが敦賀港で、ユダヤ難民受け入れに関わった人や町の人に関する資料館でした。 また、同じようにシベリアのポーランド孤児も受け入れた歴史があり、ポーランド孤児とユダヤ難民受け入れの関することを学ぶことができます まだ勉強不足ですが、杉原千畝さんには興味があり、いつか岐阜の杉原千畝記念館に行きたいと思っていたので、先にこちらで学ぶことができたのは想定外の幸運でした。 周辺のスポット 気比の松原 氣比神宮 敦賀赤レンガ倉庫 金崎宮 地域の名物 関連スポット 杉原千畝記念館 リンク 敦賀ムゼウム

広島城:平和の街、夏空の下で歴史を感じる一日

真夏の猛暑の中、平和記念公園で静かな時間を過ごした後、広島城(ひろしまじょう)へと足を延ばしました。 平和公園を離れて少し歩くと、徐々にその姿が見えてきます。広島城は別名「鯉城(りじょう)」とも呼ばれ、かつて毛利輝元が1589年(天正17年)に築城を開始し、中国地方の政治の中心地として栄えました。江戸時代は、浅野氏一族の居城となり、約5倍の大きさに拡充されました。広島城は、明治以降も陸軍施設として利用されるなど、歴史の波を経てきましたが、1945年(昭和20年)の原爆によって完全に破壊され、現在の天守閣は1958年(昭和33年)に復元されたものです。 城の中に入ると、常設展が広がっていました。ここでは広島城の歴史だけでなく、戦国時代から江戸時代にかけての武具や文書、そして広島の街の移り変わりをわかりやすく展示していました。展示物をゆっくりと鑑賞していると、外の暑さを忘れてしまうほどでした。 常設展をひと通り見終え、階段を上がって最上階の展望室に向かいました。展望室からの眺めは素晴らしく、眼下には広島市の街並みが一望できます。暑さを伴った空気がかすかに揺れる中、目を凝らすと遠くには瀬戸内海も見え、その景色の美しさにしばらく見入ってしまいました。 展望室から見る広島の街は、かつての悲劇を乗り越えて再建され、活気に満ちています。その風景は、広島が持つ過去と現在、そして未来への希望を感じさせるものでした。 暑さが少し落ち着くまで展望室で過ごした後、再び城を後にしました。猛暑の日に訪れた広島城は、その歴史の深さと街の復興の力強さを感じさせてくれた、印象深い場所でした。 五奉行 豊臣秀吉が政権の頂点にあった時代、その行政機構の中枢を担ったのが「五奉行」と呼ばれる五人の官僚たちです。石田三成、増田長盛、長束正家、浅野長政、前田玄以。この五人は、豊臣政権において政策の実務を司る重要な役割を果たし、それぞれが個性豊かで、後の歴史に大きな影響を与えました。 石田三成は、近江国出身で、幼少期に観音寺で学んだとされます。秀吉に仕えるようになると、その卓越した事務能力と理知的な性格から、五奉行の筆頭として政務の中心を担いました。彼が居城とした佐和山城は、現在の滋賀県彦根市にその遺構を残しており、訪れると当時の緊迫した政治状況を肌で感じることができます。また、彼の出生地に近い長浜市石田町には石...

平和記念公園(広島):千羽鶴の祈りとともに、祈りの火が灯る場所で、平和の尊さを感じる旅

今日は一泊二日の広島観光の二日目です。まず、広島平和記念資料館が朝早くから開館しているので、平和記念公園(へいわきねんこうえん)に向かいました。 広島の平和記念公園は、広島市の中心部に位置する、世界的に知られる平和の象徴です。1945年(昭和20年)8月6日、広島に原子爆弾が投下され、多くの命が奪われました。その惨禍を後世に伝え、再び同じ過ちを繰り返さないという願いから、この公園は造られました。現在では、国内外から多くの人が訪れ、静かに祈りを捧げたり、平和の大切さについて思いを巡らせたりする場所となっています。 園内にある原爆ドームは、もともと広島県産業奨励館という名前の建物でした。原爆による爆風で壊滅的な被害を受けながらも、外壁の一部が残り、その姿は今も当時の惨状を物語っています。1996年(平成9年)にはユネスコの世界遺産にも登録され、広島の、そして世界の平和への願いを象徴する存在となりました。 もうひとつ、訪れた人が必ず足を運ぶのが「広島平和記念資料館」です。ここでは、被爆の実態を伝える写真や遺品、被爆者の証言が数多く展示されています。実際に見てまわると、その生々しさに胸が締めつけられるような思いがこみ上げてきます。改めて、核兵器の恐ろしさと平和の尊さを深く実感できる場所です。 公園の中央には、「原爆死没者慰霊碑」があります。この碑には、「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」という有名な言葉が刻まれています。この言葉に立ち止まり、静かに手を合わせる人の姿が絶えません。そのすぐ先には「平和の灯」が灯されています。この灯火は、核兵器がこの世から完全になくなる日まで消さないと誓われており、昼も夜も静かに燃え続けています。 また、園内には「原爆の子の像」もあります。これは、原爆で被ばくし、のちに白血病で亡くなった佐々木禎子(ささき さだこ)さんという少女をモデルにした像です。千羽鶴を折り続けて回復を願っていた彼女のエピソードは世界中に知られ、像のまわりには今でも多くの千羽鶴が捧げられています。子どもたちの未来を守りたいという思いが、形になって表れている場所だと感じます。 平和記念公園の敷地内は緑も豊かで、四季折々の風景も楽しめます。春には桜が咲き誇り、夏にはセミの声が響き渡り、秋には落ち葉が舞い、冬には凛とした空気の中で静かな時間が流れます。そうした自然の...

弥山:千年の祈り、瀬戸内に浮かぶ、神々が見下ろす天空の聖地

世界遺産の厳島神社に行くために広島県廿日市市に来ました。 厳島神社の背後にそびえ立ち、世界遺産「厳島神社」の構成資産の弥山(みせん)にも登ってきました。 まずはロープウェイで中腹の獅子岩駅まで。 正直なところ、観光気分の軽いノリで来ましたが、ここから頂上までが結構遠いです。 弥山の原生林は天然記念物です。 途中の広場に、弥山本堂、霊火堂、三鬼堂があります。 そこから頂上に向かうとくぐり岩があります。 途中ですれ違う海外の方たちが(もちろん日本人もですが)元気に「こんにちは」と声をかけてくれて、暑い中でも頂上まで登ることができました。 帰りは結構急なので気をつけて帰りつつ、嚴島神社奥宮に寄りました。 弥山は世界遺産に厳島神社と共に登録されるように、古くからこの地域の信仰の対象となっています。 瀬戸内海国立公園の一部にもなっており、貴重で多様な植物や鹿などの動物がいます。 旅程 東京 ↓(新幹線) 広島駅 ↓(電車) 宮島口 ↓(フェリー) 宮島港 ↓(ロープウェイ) 獅子岩駅 ↓(徒歩 それなりの距離/斜面) 弥山頂上 ↓(徒歩 それなりの距離/斜面) 獅子岩駅 周辺のスポット 嚴島神社 豊国神社 大聖院 清盛神社 地域の名物 関連スポット リンク 弥山とは | 宮島弥山 大本山 大聖院 弥山|観光スポット|一般社団法人宮島観光協会 弥山エリア | 宮島ロープウェー 宮島・弥山の歴史探訪 | 宮島ロープウェー 弥山:登山コース(全体マップ) - 広島県廿日市市(はつかいち)けん玉発祥・宮島のあるまち 弥山 - 広島県廿日市市(はつかいち)けん玉発祥・宮島のあるまち 弥山展望台 | 【公式】広島の観光・旅行情報サイト Dive! Hiroshima

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸:船上でたどる鉄路と海の交差点

三内丸山遺跡のあと、ねぶたの家 ワ・ラッセを見て、青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸に来ました。 子供頃、1988年に青函トンネル開通直前に青函連絡船に乗ったことがあります。当然、詳細は覚えていないですが、なんとなくノスタルジックな感じになりました。 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸は、1988年に廃止になった青函連絡船の八甲田丸を利用した青函連絡船や当時の青森に関する資料が展示された博物館です。 八甲田丸は、1964年(昭和39年)に竣工し、1988年(昭和63年)の青函連絡船が終航するまでの23年間運行されました。 内部は、エンジンなどの船の設備、 電車の車両、 客室、 操縦室、 甲板など、当時の青函連絡船の設備のほぼすべてを見てまわることができます。 また、当時の青森の街の雰囲気を再現した実物大の模型などもあり、青函連絡船だけでなく、周辺の文化や歴史についても学ぶことができます。 旅程 東京 ↓(新幹線) 新青森駅 ↓(徒歩 結構遠い) 三内丸山遺跡 ↓(タクシー) ねぶたの家 ワ・ラッセ ↓(徒歩) 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸 ↓ (略) 周辺のスポット 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸 ねぶたの家 ワ・ラッセ 青森県観光物産館アスパム 三内丸山遺跡 地域の名物 関連スポット リンク 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸|スポット・体験|【公式】青森県観光情報サイト Amazing AOMORI 青函連絡船 メモリアルシップ八甲田丸 青函連絡船メモリアルシップ 八甲田丸  | 見る | 青森市観光情報サイト「あおもり案内名人」

三内丸山遺跡:縄文の風が吹く丘で、5900年前にタイムスリップ、日本最大級の縄文遺跡

縄文時代から古墳時代の文字がなく作者が分からない土器、土偶、石器などを眺めるのが好きで、以前から行きたいと思っていた三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)に来ました。 青森というと東京から遠いので宿泊が必要かと思ったのですが、計算してみると日帰りでも十分楽しめそうだったので、新幹線を使って日帰りで来ました。三内丸山遺跡は新青森駅から近く、歩くのが好きな人にはちょうど良い距離です。 青森市にある三内丸山遺跡は、日本の縄文時代を語るうえで欠かせない、非常に貴重な史跡です。およそ5,900年前から4,200年前、縄文時代中期に栄えたこの遺跡は、かつての縄文人たちの生活の様子を現代に伝えてくれる「タイムカプセル」のような場所です。 遺跡が発見されたのは1992年(平成4年)のことでした。もともとは野球場の建設予定地として整地されていた土地でしたが、その調査の過程で地中に埋もれた巨大な集落跡が姿を現しました。この発見により、計画は大きく変更され、現在では遺跡が保存・公開される施設「三内丸山遺跡センター」として整備されています。 三内丸山遺跡を訪れると、まず目を引くのが巨大な柱を使った建物の復元です。地面には直径1メートルを超えるクリの木の柱穴が6本並び、それをもとにした高床建物の模型が建てられています。この建物は、単なる住居ではなく、儀式や共同作業などに使われた可能性があると言われています。何のためにこのような大きな構造物を造ったのか。現在でもその正確な用途はわかっておらず、想像をかき立てられます。 また、遺跡内には大型の竪穴建物跡もあり、こちらは住居として使用されていたと考えられています。このような建物の多くが一箇所にまとまって存在していることから、三内丸山は一時的なキャンプではなく、何世代にもわたって人々が定住していた大規模な集落だったことがわかります。 遺跡からは多くの土器や石器、装身具も発掘されており、展示室ではそれらをじっくり見ることができます。中には翡翠の玉や彩色された土器もあり、遠方との交易が行われていたことがうかがえます。さらに、クリの栽培跡も見つかっており、縄文人たちが自然に頼るだけでなく、植物を選び育てていた可能性があるとされています。これは「森林農法」と呼ばれるもので、農耕以前の社会の在り方に新しい視点をもたらしました。 見学にはガイドツアーを利用するの...