ロンドン塔、タワーブリッジはオンライン予約制でチケットが買えなかったので外から見た後、ロンドン・ブリッジ駅から列車に乗りグリニッジ天文台に向かいました。
ロンドン南東部、テムズ川を望む丘の上にたたずむグリニッジ天文台(Royal Observatory, Greenwich)は、世界の時間と空の観測を語るうえで欠かせない場所です。訪れると、まずその静かな佇まいに心を打たれます。17世紀にチャールズ2世の命によって設立されたこの天文台は、かつて「経度の謎」に挑んだ科学者たちの拠点であり、現在もその偉業の数々を私たちに伝えてくれます。
グリニッジ天文台が設立されたのは1675年のことです。航海において正確な位置を知るためには星の動きを測る必要がありましたが、当時は緯度はともかく、経度を正確に知る手段がなかったのです。その課題を解決するため、王室天文官として任命されたジョン・フラムスティードが観測を開始しました。彼の名を冠した「フラムスティード・ハウス」には、彼が使用した観測機器や天体図が今も展示されており、当時の努力がいかに根気強いものであったかを感じさせてくれます。
そして何よりも象徴的なのが、1884年に世界の本初子午線として定められた「グリニッジ子午線」です。この線を基準に、地球上のすべての経度が定義され、世界中の時計が「グリニッジ標準時(GMT)」を基準に動くようになりました。天文台の中庭には、地面に埋め込まれたステンレス製の子午線があり、訪問者たちは東半球と西半球をまたぐようにして記念写真を撮ります。夜には子午線の上空にレーザーが投射され、空に光の道が浮かび上がります。
天文台の内部には、経度問題を解決したジョン・ハリソンの海洋クロノメーターが展示されており、彼の設計したH1からH4までの時計を間近に見ることができます。これらの時計こそ、長い間解決できなかった「海上での正確な経度測定」を実現した画期的な発明であり、グリニッジ天文台を歴史の中心に押し上げた要因でもあります。
館内にはプラネタリウムもあり、現代の天文学にも触れることができますが、建物自体が語る歴史の重みは格別です。設計は、セント・ポール大聖堂でも知られるクリストファー・レンとその弟子ロバート・フックによるもので、赤レンガと石のコントラストが美しい外観を形作っています。
グリニッジ天文台の周辺には、国立海事博物館や旧王立海軍大学もあり、この一帯は「マリタイム・グリニッジ」としてユネスコ世界遺産に登録されています。科学、建築、航海、天文学──それらが一体となって、訪れる人に時空を超えるような体験をもたらしてくれるのです。
時間の起点に立ち、空を見上げる。そんな特別なひとときを味わえるグリニッジ天文台は、ロンドンを訪れるならぜひ足を運んでおきたい場所のひとつです。
グリニッジ公園
ロンドンの喧騒を離れて、少し足を延ばすと、そこには時の流れを静かに見守ってきた緑の楽園、グリニッジ公園があります。テムズ川を望む小高い丘に広がるこの公園は、イギリス最古の王立公園のひとつとして知られ、訪れる人に歴史と自然が織りなす豊かな時間を届けてくれます。
グリニッジという地名を耳にすると、多くの人が「本初子午線」や「グリニッジ標準時(GMT)」を思い浮かべるのではないでしょうか。その中核をなすのが、園内の丘の上にあるグリニッジ天文台です。17世紀にチャールズ2世の命により設立されたこの天文台では、世界の時間と空の観測が行われてきました。今では、観光客が子午線上に立って写真を撮る人気スポットとしても親しまれています。
この場所の歴史はさらに遡ります。もともとはプラセンティア宮殿(グリニッジ宮殿)の敷地内で、15世紀には、ヘンリー7世によってこの一帯が王室の狩猟場として整備され、その後、ヘンリー8世やエリザベス1世といったチューダー朝の王たちがこの地で過ごしました。現在では往時の宮殿こそ姿を消しましたが、樹々の合間を抜ける風の中には、どこか王たちの気配が残っているような気さえします。
園内を歩いていると、のびやかな芝生が広がり、花々が彩るバラ園や、鹿が静かに草を食む放牧エリアが目に入ります。とくに丘の上から見下ろすロンドンのパノラマは圧巻で、旧海軍大学のクラシカルな建築や、遠くに広がる高層ビル群のコントラストが、まるで時空を超えた眺めのように感じられます。晴れた日には、多くの人がここでピクニックを楽しみ、家族連れやカップルがゆったりとした時間を過ごしています。
グリニッジ公園の魅力は、その静けさの中に豊かな物語が息づいているところにあります。目まぐるしく変わる都市のリズムとは別の時間がここには流れており、それが訪れる人の心を自然とほぐしてくれるのです。近くには国立海事博物館やクイーンズ・ハウスといった見どころもあり、歴史散歩を楽しみたい方にもぴったりです。
都会のなかでふと立ち止まりたくなったとき、グリニッジ公園はやさしく迎えてくれる場所です。時のはじまりを感じながら、静かな自然の中で自分の時間を取り戻してみてはいかがでしょうか。
ヘンリ8世
イングランド王ヘンリ8世と聞くと、多くの方が「6人の妻を持った王」として思い浮かべるかもしれません。しかし、彼の生涯は単なる恋愛の遍歴を超え、宗教、政治、そして国家の形そのものを揺るがす波瀾に満ちていました。16世紀のイングランドを導いたこの王の姿を、今日は少し丁寧にたどってみたいと思います。
ヘンリ8世は1491年、グリニッジにあったプラセンティア宮殿で、チューダー朝の創始者ヘンリ7世の次男として生まれました。本来なら王位とは縁のない人生を歩むはずでしたが、兄アーサーの早世により王太子となり、1509年、若干17歳でイングランド王に即位します。即位当初の彼は教養深く、音楽やスポーツを愛し、ルネサンスの理想を体現する魅力的な青年王でした。人々は彼に対して希望と誇りを抱いていたと言われています。
しかし、やがて王の人生は一つの大きな転機を迎えます。スペイン王家から迎えた最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に男子の後継ぎが生まれなかったことが、王権と宗教との根本的な衝突を生むきっかけとなったのです。ヘンリ8世は教皇に結婚の無効を願い出ますが、これが受け入れられなかったことから、彼はローマ・カトリック教会との関係を断絶。ついに1534年、イングランド国教会を創設し、自らその首長となりました。
この宗教改革の動きは、単なる教義の変更にとどまらず、王権の強化、修道院の解体、社会の構造変化にまで及びました。修道院の土地と財産を国有化することで国家財政は潤いましたが、長年慈善や教育を担ってきた修道制度の崩壊は、貧しい人々の生活に大きな影響を与えることにもなります。
王の私生活もまた、激しく揺れ動きました。6人の妃との結婚と別離の物語は、まさに王の愛と恐れの歴史です。とりわけ、2番目の妃アン・ブーリンの処刑、そして5番目の妃キャサリン・ハワードの同様の運命は、王の権威がどれほど絶対的であったかを象徴しています。一方、3番目の妃ジェーン・シーモアとの間に生まれた唯一の嫡男エドワード6世は、短命ながらも父の望んだ後継者となりました。
晩年のヘンリ8世は、かつての華やかな姿を失い、病と孤独に悩まされながら王座にあり続けました。肥満と糖尿病に苦しみ、宮廷内では恐怖による統治が色濃くなっていきます。それでも彼の死後、エリザベス1世の治世へとつながる宗教的・政治的な地盤は、確かに彼の手によって築かれたものでした。
現在のイギリス国教会の原点を作り、イングランドの王権と宗教の関係に大きな分岐点をもたらしたヘンリ8世。彼は決して「善き王」ではありませんでしたが、時代を変えた「大きすぎる王」として、その影は今なお色濃く歴史に残っています。
エリザベス1世
16世紀のイングランドにおいて、最も輝かしい治世を築き上げた女王、それがエリザベス1世です。1558年から1603年まで、45年という長きにわたりイングランドを治めたこの女王の物語は、政治的混乱と宗教的対立を乗り越え、文化と海洋帝国の礎を築いた伝説として今も語り継がれています。
エリザベスは1533年、テムズ川沿いのグリニッジ宮殿にて、ヘンリ8世とアン・ブーリンの間に生まれました。しかし、母アンは失脚の末に処刑され、エリザベスも王位継承権を失うなど、幼少期から波乱の人生を歩みます。兄エドワード6世、姉メアリー1世の治世を経て、1558年、ついに王位に就くと、イングランドの歴史は大きく舵を切ることになります。
当時のイングランドは、カトリックとプロテスタントの宗教的対立に揺れていました。エリザベスは女王として、いずれにも偏らない中道的な宗教政策を打ち出し、国教会を再編することで、国の安定を実現していきます。この慎重さと柔軟性は、政治手腕の高さを物語っています。
彼女の治世が「エリザベス朝」として記憶される所以は、文化の黄金時代であったことにもあります。シェイクスピア、マーロウといった文学者が活躍し、演劇や詩の世界が花開いたのはこの時代です。王権による保護と支援のもと、市民文化も成熟し、ロンドンには劇場が建ち並び、人々の知的関心が高まりました。エリザベスは文化の庇護者としてもその名を刻んでいます。
また、海外進出の野望も現実のものとなります。フランシス・ドレークやウォルター・ローリーといった冒険家たちは、海を越えて新たな世界を開拓し、イングランドは海洋国家としての道を歩み始めます。1588年には、ヨーロッパ最強といわれたスペインの無敵艦隊がイングランドに侵攻しますが、女王は果敢にも軍の士気を鼓舞し、結果としてイングランドが勝利を収めます。この「アルマダの海戦」は、エリザベスの統治が頂点に達した象徴とも言える出来事でした。
エリザベスは生涯独身を貫き、「処女王(The Virgin Queen)」として知られるようになります。彼女は「自分は国家と結婚した」と語り、王妃としてではなく、統治者としての自立した女性像を打ち出しました。政略結婚の誘いは数多くありましたが、彼女はすべてを巧みに利用し、外交と内政の主導権を手放すことはありませんでした。
その一方で、晩年の彼女は次第に孤独に包まれていきます。信頼していた側近や忠臣たちが次々と亡くなり、国民の間にも不満が募る中で、彼女はかつての若さと輝きを失いながらも、最後まで国を導き続けました。1603年、リッチモンド宮殿で静かに息を引き取った彼女の亡骸は、ロンドンのウェストミンスター寺院に葬られました。
エリザベス1世の治世は、イングランドを大国へと導く転換点であり、彼女自身の人生は、個人としても国家の顔としても、強さと孤高の精神に満ちています。宗教、文化、外交、そして女性としての在り方において、後世に与えた影響は計り知れません。彼女の肖像は今なお、イングランドの精神を象徴するイメージとして、多くの人々に愛され続けています。
旅程
ホテル
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テンプル駅
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チャリング・クロス駅
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ビッグベン
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(略)
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ロンドン大火記念塔
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タワー・ブリッジ
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ロンドン・ブリッジ駅
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Maze Hill駅
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Maze Hill駅
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Cannon Street Station
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St. Paul's駅
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(略)
関連イベント
周辺のスポット
- クイーンズ ハウス
- 国立海洋博物館
- オールド・ロイヤル・ネイバル・カレッジ
- カティーサーク
- Greenwich Market
地域の名物
- フィッシュ・アンド・チップス
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- スコーン&クロテッドクリーム
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- ジン
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