グリニッジ天文台を見た後、鉄道でロンドンの中心地に移動し、セントポール大聖堂に来ました。
セント・ポール大聖堂(St Paul's Cathedral)は、ロンドンのシンボルの一つとして知られる壮麗な大聖堂で、イギリスの歴史を見守り続けてきた由緒ある建築物です。
ロンドンの中心部、シティ・オブ・ロンドン地区にあるこの大聖堂は、17世紀後半に活躍した偉大な建築家、クリストファー・レンの最高傑作として有名です。現在の建物は、国王チャールズ2世の勅命により、1666年のロンドン大火で焼失した旧セント・ポール大聖堂の跡地に、1675年から1710年にかけて建てられました。
大聖堂を特徴づけているのは、その巨大なドームで、直径約34メートル、高さは地上から約111メートルに及びます。これはローマのサン・ピエトロ大聖堂に次ぐ規模で、当時の技術や建築美学を結集した構造です。堂内にある「ささやき回廊(Whispering Gallery)」はドームの内側に設けられた回廊で、壁に向かって小声でささやくだけで、反対側まで音が届くという驚くべき音響設計がなされています。
また、大聖堂の地下にはネルソン提督や初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーなどイギリス史に名を刻む英雄や著名人が眠っています。20世紀を代表する英国首相、ウィンストン・チャーチルの国葬が執り行われた場所としても知られています。
セント・ポール大聖堂はイギリスにおける重要な宗教儀式の舞台でもあり、1981年にはチャールズ皇太子(現・チャールズ3世)とダイアナ妃の華やかな結婚式が行われました。また、エリザベス2世女王の即位記念行事や特別な礼拝もたびたび催され、イギリス国民にとって精神的な支柱としての役割も果たしています。
訪れる人は、建物の美しさに感動すると同時に、ロンドンの街並みを一望できるドームの展望台へも登ることができます。長い歴史と荘厳な空間が調和したセント・ポール大聖堂は、今日でも多くの観光客や巡礼者を惹きつけ続けています。
チャールズ2世
17世紀のイングランドにおいて、チャールズ2世ほど波乱と復活の物語を体現した王はいないかもしれません。父チャールズ1世は清教徒革命の激動の中で処刑され、王政は一時的に終焉を迎えました。その血を継ぐ王子チャールズは、まだ20歳そこそこで祖国を追われ、ヨーロッパ各地を転々とする亡命生活を余儀なくされます。
しかし、歴史は劇的な反転を迎えます。クロムウェルの死後、イングランドには再び王を望む声が高まり、1660年、チャールズは「ブレダ宣言」をもって国民に寛容と和解を約束します。この政治的手腕は見事に功を奏し、彼は国王として凱旋し、再び王政が復活する――いわゆる「王政復古」の瞬間でした。
チャールズ2世の治世は、華やかであると同時に、現実的な妥協にも満ちていました。彼は国教会を支えつつも、非国教徒やカトリックへの一定の寛容を示しました。表向きは穏健ですが、その背後には巧みな政治計算が働いていたことは言うまでもありません。彼の治世の後半には、弟ジェームズのカトリック信仰をめぐって「王位継承排除危機」が起こり、議会と王権の緊張は続きました。
1665年のロンドン大ペスト、そして1666年のロンドン大火は、チャールズにとって王としての真価が問われる出来事でした。彼は災害後の都市再建に積極的に関与し、建築家クリストファー・レンのもとでセント・ポール大聖堂などが新たに築かれます。焼け野原となったロンドンに、新しい息吹を吹き込んだその姿は、単なる享楽的な王という評価を超えるものがあります。
一方で、チャールズ2世の宮廷は極めて華やかであり、数多くの愛人や非嫡出子がいたことでも知られています。とりわけネル・グウィンのような女優との関係は、市民からも親しまれ、「陽気な王様(Merry Monarch)」という愛称が生まれました。とはいえ、それは単なる放蕩ではなく、内戦と粛清の時代を経て国民が求めた「明るさ」だったのかもしれません。
また、科学と文化を愛した彼は、王立協会の設立を支援し、ニュートンなど新しい知の担い手たちが登場する礎を築きました。演劇も復活し、ロンドンの舞台は再び市民の娯楽の場として栄えます。チャールズ2世は、政治的にも文化的にも「復古」という言葉の意味を体現した存在でした。
1685年、彼は脳卒中により急逝します。死の床でひそかにカトリックに改宗したとされ、その最期は今なお謎めいた余韻を残しています。正妻キャサリンとの間には子がなかったものの、数多くの非嫡出子がイギリス貴族社会にその血を残しました。チャーチル家やリッチモンド公爵家などがその子孫とされ、現代にもつながる血統の一端を担っています。
チャールズ2世の治世は、政治的な繊細さと文化的な豊かさが同居する特異な時代でした。彼が王として果たした役割は、単に王位を取り戻したということにとどまらず、革命後のイングランドに新しい秩序と潤いをもたらしたという点にこそ、本質があります。その穏やかな微笑みの裏に、戦い抜いた王の複雑な人生が宿っているのです。
マーガレット・サッチャー
1925年10月13日、イングランド東部のリンカンシャー州グランサムに、雑貨店を営む家庭にマーガレット・ヒルダ・ロバーツは生まれました。父アルフレッド・ロバーツは敬虔なメソジストであり、地方議会の議員も務めており、その価値観がマーガレットに深く根付いたといわれています。彼女は努力家で、地元の学校を優秀な成績で卒業すると、オックスフォード大学サマーヴィル・カレッジへ進学し、化学を専攻しました。
大学卒業後は研究者や弁護士としての経歴を経て、1959年に下院議員として政界入りします。政治家としての彼女は一貫して「小さな政府」「自己責任」「市場の自由」を重視する保守的な立場をとり、やがて1975年に保守党の党首に選出されました。そして1979年、彼女はイギリス史上初の女性首相に就任し、その後11年半にわたり政権を担うことになります。
サッチャー政権下では、インフレや失業といったイギリス経済の停滞を打破すべく、大規模な民営化政策や労働組合の規制、市場原理の導入といった一連の改革を行いました。これにより一部の産業は活性化し、金融都市ロンドンは国際的地位を高めますが、一方で貧富の差の拡大や社会の分断も生みました。
1982年にはフォークランド戦争(アルゼンチンとの領有権紛争)を勝利に導き、「鉄の女(Iron Lady)」の異名は世界中に広まりました。この異名はもともと冷戦下のソ連によって皮肉を込めて付けられたものですが、結果的に彼女の強硬でぶれない姿勢を象徴する言葉として定着しました。
外交面では、アメリカのロナルド・レーガン大統領と親密な関係を築き、自由主義経済と反共主義を共に掲げて西側陣営をリードしました。また、ソ連のゴルバチョフ書記長に対しても「共に話ができる人物」と評価し、東西冷戦の緩和にも一役買いました。
1990年、党内の不満や政策への反発が高まり、彼女は首相の座を退きます。その後は上院(貴族院)議員としても活動しましたが、公的生活からは徐々に退いていきました。2013年4月8日、ロンドンで87歳の生涯を閉じました。彼女の国葬に準ずる葬儀はセント・ポール大聖堂で行われました。
旅程
ホテル
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テンプル駅
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チャリング・クロス駅
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ビッグベン
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(略)
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ロンドン大火記念塔
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タワー・ブリッジ
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ロンドン・ブリッジ駅
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Maze Hill駅
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Maze Hill駅
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Cannon Street Station
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St. Paul's駅
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(略)
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