スキップしてメイン コンテンツに移動

大龍寺

東京都北区の大龍寺(だいりゅうじ)に行ってきました

以前、愛媛県松山市の子規記念博物館に行ったため、子規ゆかりの大龍寺にいつか行きたいと思っていました。入口にも子規の墓所があることの碑があります。

精舎(しょうじゃ)というのは、仏教の修行僧が修行するお寺のことです。「祇園精舎の鐘の声」の祇園精舎などが有名です。

大龍寺の創建は慶長年間(1596~1615年)で、もともとは不動院浄仙寺という名前でした。

その後、天明年間(1781~1789年)になって湯島霊雲寺の観鏡光顕が中興して、大龍寺と改称したと言われています。

所々に、徳川の葵の紋があります。大龍寺と徳川の関係は分かりませんが、大龍寺は真言宗霊雲寺派で、総本山の霊雲寺が徳川との繋がりが強いため、その影響かもしれません。

大龍寺には、正岡子規(1867年(慶応3年)~1902年(明治35年))のお墓があるため、子規寺とも呼ばれています。子規は生前に「静かな寺に葬ってほしい」と伝えていたため、田端の大龍寺に埋葬されました。

また、他にジャーナリストで宮廷音楽家のエドワード・ハワード・ハウス、柔道家の横山作次郎、子規を短歌の師と仰いだ歌人で鋳金家(ちゅうきんか)の木村芳雨、陶芸家の板谷波山、実業家の大川平三郎のお墓もあります。

エドワード・ハワード・ハウス(1836年~1901年)は、アメリカ出身のジャーナリストで、アメリカのNew-York Tribuneの記者をした後、日本に渡り東京タイムスという英字新聞を創刊しました。明治政府の外交をサポートしたり、日本人の黒田琴を養女にしたりしました。明治天皇から勳二等瑞宝章を下賜されています。


木村芳雨(きむらほうう)(1877年(明治10年)~1917年(大正6年))は本業は鋳物工ですが、子規の根岸短歌会の設立時の6名のうちの一人で、子規の死後は歌誌「アララギ」にも関係しました。鋳物工としては、夏目漱石の自用印二顆も造りました。

横山作次郎(よこやま さくじろう)(1864年(元治元年)~1912年(大正元年))は、柔道家です。嘉納治五郎が創設した柔道の総本山である講道館の四天王と呼ばれました。お墓の横の碑にも「柔道界の大先輩」と記されています。

板谷波山(いたや はざん)(1872年(明治5年)~1963年(昭和38年))は、茨城県出身のの陶芸家です。出身の茨城県には板谷波山記念館があります。日本の近代陶芸の開拓者で、1953年に陶芸家としては初の文化勲章を受章しました。田端には窯を築き、晩年まで創作活動を田端で行いました。墓碑には、夫婦の名前が同じ大きさので刻まれており、夫婦の仲の良さが伺えます。

大川平三郎(おおかわ へいざぶろう)(1860年(万延元年)~1936年(昭和11年))は、実業家で、「日本の製紙王」と呼ばれ「大川財閥」を築きました。渋沢栄一が設立した王子製紙に入社後、製紙の技術を習得し、その後複数の製紙会社の社長や会長を歴任したり、製紙会社を設立して、「日本の製紙王」と呼ばれるようになりました。

今日の東京は猛暑日で、それぞれのお墓の場所へのガイドが無い普通の墓地なので、お墓を探すのがたいへんでした。


旅程

駒込駅

↓(徒歩)

大龍寺

↓(徒歩)

上田端八幡神社

↓(徒歩)

田端駅

周辺のスポット

地域の名物


関連スポット

リンク

コメント

このブログの人気の投稿

桐生市の歴史的な建造物群:西桐生駅、蒲焼 泉新、矢野園、有鄰館、まちなか交流館、平田家住宅旧店舗、森合資会社事務所・店蔵・石蔵(旧穀蔵)、一の湯、旧桐生高等染織学校講堂、無鄰館、旧曽我織物工場、金善ビル、桐生倶楽部

群馬県桐生市は、江戸時代から続く織物の町として知られ、かつて「桐生新町(きりゅうしんまち)」と呼ばれた歴史ある地域です。市内には桐生明治館や桐生織物記念館、桐生天満宮、織物参考館・紫といった代表的な施設だけでなく、今もなお往時の面影を色濃く残す歴史的建造物が数多く点在しています。これらの建造物群は、伝統的な町並みや商家、蔵などが連なり、まるで時代を遡ったかのような雰囲気を味わうことができます。 特に「桐生新町」は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、歴史と文化の香りを今に伝える貴重なエリアです。昔ながらの格子戸や石畳、重厚な蔵造りの家々が並ぶ風景は、歩くだけで桐生の長い歴史や人々の暮らしを感じさせてくれます。この記事では、そんな桐生新町の歴史的建造物群についてご紹介したいと思います。 西桐生駅 西桐生駅は、木造の趣ある駅舎が印象的な駅です。1928年(昭和3年)の開業以来、上毛電気鉄道の駅として、現在も多くの人々に利用されています。時代の移り変わりの中で、駅舎そのものは大きな改修を受けることなく、当時の面影を色濃く残しているため、歴史好きの方やレトロな雰囲気を味わいたい方にとって、心惹かれるスポットとなっています。 私が訪れた日は、真夏のような強い日差しが照りつける暑い日でした。ホームや駅舎の待合スペースでは、電車を待つ人々だけでなく、ベンチで休憩をとる方や、涼を求めて飲み物や軽食を楽しむ方の姿も見られました。昔ながらの木造駅舎にはどこか心地よい落ち着きがあり、旅の合間にほっと一息つくにはぴったりの空間です。 私も駅舎内の自動販売機でアイスクリームを買い、ベンチに腰掛けてしばし涼を取りました。外の暑さを忘れさせてくれるような、静かな時間が流れていたのが印象的です。長い歴史を持つ西桐生駅は、日常の中にそっと溶け込みつつ、訪れる人に昔懐かしい風景と、ひとときのやすらぎを与えてくれる場所だと感じました。 蒲焼 泉新 桐生の町を歩いていると、ふと香ばしいうなぎの香りが漂ってきました。そこにあるのが、天保元年(1829年)創業の老舗「蒲焼 泉新(いずしん)」です。長い歴史を持つうなぎ料理屋で、創業以来、地元の人々や旅人に親しまれてきました。建物自体がいつ建てられたものかははっきりとは分かりませんが、昭和61年に曳き移転されたという記録が残っており、それ以前からこの...

法隆寺:世界最古の木造建築と聖徳太子の遺産

京都・奈良観光に来ています。貸し切りのタクシーで刊行しており、法起寺と山背大兄王の墓所のあと、法隆寺に案内されました。 奈良県斑鳩町にある法隆寺(ほうりゅうじ)は、日本最古の仏教寺院の一つとして知られています。推古天皇15年(607年)に聖徳太子によって創建されたと伝えられ、1993年にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。創建当時は、斑鳩寺(いかるがでら / 鵤寺)と呼ばれていました。歴史の重みを感じるこの寺院は、日本の仏教美術や建築を語る上で欠かせない存在です。 法隆寺の伽藍は、西院伽藍と東院伽藍の二つのエリアに分かれています。西院伽藍には、世界最古の木造建築群が立ち並び、特に金堂と五重塔が有名です。金堂には飛鳥時代の代表的な仏像である釈迦三尊像が安置され、その表情や姿勢からは深い歴史と信仰の重みを感じることができます。五重塔は仏教建築の粋を集めたもので、塔内部には釈迦の入滅や舎利信仰を表す塑像群が残されています。 東院伽藍には、聖徳太子を祀る夢殿が建っています。夢殿は八角形の美しい建築様式を持ち、太子信仰の中心となる場所です。内部には秘仏・救世観音像が安置され、特定の期間のみ御開帳されることで知られています。また、法隆寺には百済観音と呼ばれる国宝の仏像も所蔵されており、その優雅な姿は多くの参拝者を魅了しています。 法隆寺の歴史をひも解くと、670年(天智9年)に火災で焼失し、その後再建されたとされています。これを巡って「法隆寺再建非再建論争」と呼ばれる学術的な議論が行われましたが、現在の伽藍は7世紀後半のものと考えられています。そのため、再建されたものではあるものの、非常に古い建築物として世界的にも貴重な文化財とされています。 法隆寺は単なる歴史的建造物ではなく、日本の仏教文化がどのように根付いていったのかを知る手がかりとなる場所です。その荘厳な雰囲気の中で、飛鳥時代の人々が抱いていた信仰や仏教の広がりを感じ取ることができます。奈良を訪れる際には、ぜひ足を運び、悠久の時を超えて受け継がれてきた法隆寺の魅力に触れてみてください。 文化財保護法 日本には数多くの歴史的建物や美術工芸品、伝統芸能や美しい自然環境など、次世代へと引き継ぐべき貴重な文化財があります。これらの文化財を守り、次の世代にも伝えていくために制定されたのが、「文化財保護法(ぶんかざいほごほう)...

曹洞宗 大泉寺 (甲府市):本堂からはじまった一巡、甲府で感じた落ち着き

北国街道の春はまだ浅く、甲府の空気には少しだけ山の冷たさが残っていました。朝から武田ゆかりの地を巡り、武田神社で背筋を正し、武田信玄公の墓所で静かに手を合わせたあと、足を延ばして大泉寺(だいせんじ)へ向かいました。信玄公の墓から歩いたので寺域には北側から入り、門前の段取りもなく、いきなり本堂と向き合うかたちになりました。思いがけない近さに少し驚きながら、まずは合掌して旅の無事を報告します。 本堂前には、甲斐の寺らしい端正さが漂っていました。大きな誇張はないのに、柱の一本一本が落ち着きと気概を帯びているように感じます。境内をゆっくり一巡すると、堂宇の配置に無駄がなく、山裾の地形に寄り添って築かれていることが分かりました。戦国の気配を帯びた史跡を歩いた後だからでしょうか、ここでは時間が一段ゆっくり流れているように思えます。 南へ抜けると、山門の額に「萬年山」と大書されていました。風に晒された木額の筆勢は力強く、寺号を越えて「この地で幾世代も祈りが重ねられてきた」という気配を直接伝えてきます。甲府の寺には武田氏ゆかりの由緒が折々に残り、祈願所や菩提寺として地域の信仰と政治の結節点を担ってきた歴史があります。大泉寺の静けさもまた、合戦や政変の記憶を飲み込み、日々の祈りの層を積み重ねてきた時間の厚みから生まれているのだと思いました。 境内の片隅でしばし腰を下ろすと、風に鳴る木の葉の擦れ合いが、さっきまでの史跡巡りの緊張をやわらげてくれます。武家の栄枯盛衰は書物や石碑の中で雄弁ですが、寺の空気はもっと寡黙で、それでも確かに当時を伝えてくれる。華やかな戦功の陰で、人びとの生活と祈りが確かに続いていたことを、こうした場所はさりげなく教えてくれます。 北から入って本堂に迎えられ、南の山門から「萬年山」に送られる――結果的に境内を南へと抜ける流れになったことで、祈りの導線を逆向きにたどったような、不思議な余韻が残りました。史跡としての手がかりを探す旅でもあり、同時に心を整える旅でもある。甲府での一日は、武田の記憶に触れつつ、静かな寺の時間に身をひたすことで締めくくられました。 大泉寺のことを思い返すと、派手な見どころを挙げるよりも、境内の空気そのものが記憶に残ります。歴史は大河のように語られますが、現地で向き合うと湧水のように足元から滲み出てくる。甲斐の山に抱かれた小さな時間が、長い歴...