刀剣博物館の後、旧安田庭園(きゅうやすだていえん)にも寄りました。今日は最高気温38度の猛暑で、木陰で少し涼もうと思いましたが、そんなレベルの暑さではありませんでした。
東京・両国の喧騒から少し足を伸ばすだけで、静寂と緑に包まれた空間に出会える場所があります。それが、旧安田庭園です。この庭園は江戸時代後期に本庄松平氏の常陸国笠間藩主・本庄宗資 (ほんじょう むねすけ)の下屋敷の庭園として造られ、明治時代に安田財閥の創始者である安田善次郎(やすだ ぜんじろう)によって整備されたことで知られています。現在は東京都墨田区が管理する、入園無料の日本庭園として多くの人々に親しまれています。
本庄宗資は江戸時代中期から後期にかけて活躍した常陸国笠間藩の藩主であり、笠間藩約8万石を治めていました。本庄家は徳川幕府に仕える譜代大名として、幕政において重要な役割を担っていました。宗資は政治的な手腕だけでなく、文化や庭園造りにも深い関心を持っていたと考えられています。その証として、旧安田庭園は江戸の大名庭園の特徴を色濃く残しており、彼の美意識と統治理念が反映された空間となっています。
安田善次郎は、幕末から明治・大正時代にかけて活躍した実業家であり、安田財閥の創始者として知られています。1838年に現在の富山県高岡市で生まれ、商才に恵まれた彼は若くして江戸に出て両替商としてのキャリアをスタートさせました。明治維新後の経済変革期において、1876年に安田銀行(現在のみずほ銀行の前身)を設立し、金融業界で大きな成功を収めました。その後、不動産業や保険業など幅広い事業に進出し、安田財閥を日本四大財閥の一つにまで成長させました。
安田善次郎は事業だけでなく、文化財の保護や社会貢献活動にも積極的に取り組んでいました。その一環として、旧安田庭園を所有し、整備したことで知られています。もともと本庄宗資の下屋敷だったこの庭園を取得した善次郎は、美しい景観を維持しつつ、一般の人々にも楽しんでもらえるように工夫を凝らしました。彼の死後、庭園は東京市に寄贈され、現在は墨田区が管理する公園として多くの人々に親しまれています。
旧安田庭園の魅力は、都会の真ん中にありながらも、訪れる人々に心安らぐひとときを提供してくれるところにあります。庭園は池泉回遊式と呼ばれる形式で、中央には心字池と呼ばれる大きな池が広がり、その周囲を歩きながら四季折々の景観を楽しむことができます。江戸時代の当初から昭和初期までは、隅田川の水を引き込んで潮の干満により水位が変化する「潮入りの池」として機能していました。「潮入」は、東京湾の潮の満ち引きによって池の推移を上下させ、それとともに見え隠れする岩や護岸(ごがん)、浮沈する島などの景観変化を楽しむ技法でした。
このような潮入の池は、都内では他に浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園などでも取り入れられました。現在も目にすることができるのは浜離宮のみです。
旧安田庭園では、昭和40年ごろに隅田川の水質悪化によって潮入は行われなくなりましたが、当時の水位調整のために造られた水門は残っています。
現在は潮入の再現を図るため、昭和46年に貯水槽を地下に造り、人工的に干満を表現しています。池の水面に映る空や木々の姿は、まるで江戸時代の面影を今に伝えているかのようです。
晋堂雲南の句碑もあります。「水も亦器によらず草の露」「わが影にさへ別れけり秋の暮」の二句。
あとで調べてみると松尾芭蕉の句碑もあるらしいですが、気がつきませんでした。「みの虫の音をききにこよ草の庵」。
他の史跡としては、駒止石や駒止井戸があります。徳川家光の時代に隅田川が大洪水になったとき、その状況に尻込みする者が多い中、旗本の阿部忠秋(あべ ただあき)が馬を巧みに操り川を渡り、被害状況を調べました。その際に馬を止めて休憩したところが駒止石です。
庭園からは両国国技館や東京スカイツリーが望めるため、伝統と現代が絶妙に融合した風景も堪能できます。都会の喧騒を忘れて心穏やかなひとときを過ごしたいとき、旧安田庭園はまさに理想的な場所です。両国周辺を散策する際には、ぜひ立ち寄ってみてください。歴史の息吹と自然の調和が、訪れる人々にささやかな癒しを与えてくれることでしょう。
旅程
両国駅
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