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平和公園(長崎):静寂の中で想う平和、声なき声に耳を澄ます、原爆の記憶を辿る旅

日帰りで長崎観光に来ました。午前中はグラバー園などを廻り、午後は平和公園に来ました。

長崎の平和公園を訪れると、静けさの中に込められた深い祈りと歴史の重みを感じます。この公園は、1945年(昭和20年)8月9日に長崎に投下された原子爆弾の記憶を今に伝え、世界の恒久平和を願うために整備された場所です。市の中心部からもアクセスしやすく、長崎駅から路面電車に乗れば10分ほどで到着します。

公園のシンボルとなっているのが、「平和祈念像」です。これは彫刻家の北村西望(きたむら せいぼう)によって制作されたもので、青銅製の巨大な像が訪れる人々を迎えてくれます。右手を高く天に向けて伸ばしている姿は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を意味しています。そして閉じた目は犠牲者への祈りを表しているのだそうです。その姿はとても印象的で、しばらく見入ってしまいます。

また、公園内には「原爆落下中心地碑」があり、ここがまさに爆心地であったことを静かに語っています。周囲には、被爆当時に崩れた浦上天主堂の遺構も保存されていて、当時の惨状を思い起こさせます。整然と配置された石碑や展示物が、過去の出来事を忘れないよう私たちに語りかけているようでした。

「平和の泉」も忘れてはならない場所です。ここは、被爆後に水を求めながら亡くなった人々への慰霊を込めて作られた泉で、そばにはある少女の言葉が刻まれた碑があります。「のどがかわいてたまりませんでした」という短い一文が、胸に深く刺さります。何気ない言葉なのに、重く響く一言です。

公園のすぐ隣には「長崎原爆資料館」もあり、被爆の事実や原爆の被害、そして平和への歩みについて学ぶことができます。館内には被爆者の遺品や写真、証言などが展示されており、一つ一つが生々しく、簡単には言葉にできない重さがあります。

長崎の平和公園は、単なる観光地ではありません。静かに歩きながら、過去の出来事に思いを馳せ、今ある日常の尊さを改めて感じさせてくれる場所です。毎年8月9日には平和祈念式典が行われ、世界中から人々が集まって祈りを捧げています。もし長崎を訪れる機会があれば、ぜひこの平和公園にも足を運び、心静かに過ごしてみてはいかがでしょうか。

第五福竜丸

1954年(昭和29年)3月1日、太平洋の静かな海に突如として巨大な閃光と衝撃が走りました。アメリカがマーシャル諸島・ビキニ環礁で行った水素爆弾実験「ブラボー実験」によるものでした。この爆発は予想をはるかに超える規模で、当時の核兵器の中でも最強クラスの威力を持っていました。その放射能は想定よりも広範囲に降り注ぎ、遠く離れた海域にいた一隻の日本のマグロ漁船をも巻き込みました。その漁船こそが「第五福竜丸(だいごふくりゅうまる)」です。

第五福竜丸は、静岡県焼津市を母港とする木造の遠洋マグロ漁船でした。ビキニ環礁からおよそ160キロ離れた場所で操業していたにもかかわらず、突如として降り注いだ白い灰のような粉――それが放射性降下物、すなわち“死の灰”でした。乗組員たちはそれが何であるかもわからず、服や肌に降り積もったその灰を払いながら漁を続けていたといいます。

帰国後、乗組員たちは原因不明の体調不良に悩まされ始めます。そしてその半年後、無線長を務めていた久保山愛吉(くぼやま あいきち)さんが亡くなりました。彼の最期の言葉とされる「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」は、日本中の人々の心に強い印象を与えました。この言葉はやがて、日本各地で反核運動のうねりを生むきっかけとなります。

当時の日本では、放射能という目に見えない脅威が広く認識されていなかったこともあり、第五福竜丸の被曝は大きな不安を呼びました。特に魚介類への放射能汚染への懸念から、マグロの価格が暴落するなど、水産業全体に深刻な影響が及びました。いわゆる「原爆マグロ騒動」と呼ばれる社会現象です。

この事件はまた、日米関係にも微妙な影を落としました。アメリカは「遺憾の意」を表し、見舞金を支払ったものの、事件への正式な謝罪は行いませんでした。日本政府も、当時はアメリカとの関係を重視する姿勢を強く打ち出していたため、明確な抗議には慎重でした。それでも、一般市民の間では核兵器に対する恐怖と怒りが確実に広がっていきました。

その後、第五福竜丸は長らく廃船状態となっていましたが、保存運動の高まりによって復元され、現在では東京都江東区の「夢の島公園」にある第五福竜丸展示館に保管・公開されています。展示館では、当時の実物の船体や、乗組員たちの証言、資料、映像などを見ることができます。実際に訪れると、原水爆の恐ろしさと、それに立ち向かおうとした人々の思いが静かに伝わってきます。

第五福竜丸の悲劇は、ただ過去の出来事として忘れ去られるべきものではありません。核兵器の恐怖が世界から消えていない今こそ、改めてこの出来事を振り返り、学ぶことに意味があると感じます。「私を最後の被害者にしてほしい」という願いが、いまも私たちに問いかけ続けているのです。

原水爆禁止運動

原水爆禁止運動は、核兵器の廃絶を目指す市民による平和運動です。日本では、1945年(昭和20年)の広島・長崎への原爆投下という痛ましい経験が原点となり、核兵器に対する深い恐怖と拒否感が、戦後の社会に広く浸透していきました。

この運動が全国規模のうねりとなったのは、1954年(昭和29年)の「ビキニ事件」がきっかけです。アメリカが行った水爆実験によって、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が被曝し、放射能汚染への不安と怒りが一気に高まりました。この事件は「見えない戦争」とも呼ばれる放射線被害の現実を日本中に突きつけ、多くの市民が自発的に声を上げるようになりました。この年には約3,000万人が原水爆禁止署名に参加し、かつてないほどの市民運動が展開されました。

その翌年、1955年(昭和30年)には第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催されました。この大会には国内外から多くの人々が集まり、核兵器廃絶と平和の理念を共有する場となりました。以後、この大会は毎年開かれ、被爆地・広島と長崎から「核なき世界」への訴えを発信し続けています。

ただし、運動の中には政治的な立場の違いもありました。1950年代後半からは、共産党系や社会党系、あるいは宗教団体や市民団体など、さまざまな立場がそれぞれの原水爆禁止運動を展開し、団体が分裂してしまう時期もありました。しかし、どの団体も核兵器の廃絶という共通の願いを持ち、それぞれの方法で活動を続けてきました。

現在では、「ヒバクシャ国際署名」や、2017年(平成29年)に国連で採択された「核兵器禁止条約」の支持活動など、新たなかたちでの運動も展開されています。被爆者の高齢化が進む中で、その証言を受け継ぐ若い世代の参加も増えており、改めて核兵器の非人道性とその廃絶の必要性が世界で問い直されています。

日本は世界で唯一の被爆国として、核兵器に対する倫理的な発言力を持っています。原水爆禁止運動は、その歴史的責任と経験を踏まえながら、平和の未来を模索する歩みなのだと思います。被爆から80年近くが経とうとしている今こそ、私たちはこの運動の意義を改めて見つめ直す必要があるのではないでしょうか。

旅程

羽田空港

↓(飛行機)

長崎空港

↓(バス)

中央橋バス停

↓(徒歩)

眼鏡橋

↓(徒歩)

出島

↓(徒歩)

旧長崎英国領事館

↓(徒歩)

大浦天主堂

↓(徒歩)

グラバー園

↓(徒歩)

(略)

↓(徒歩)

長崎原爆資料館

↓(徒歩)

平和公園

↓(徒歩)

浦上天主堂

↓(徒歩)

平和公園バス停

↓(バス)

長崎空港

関連イベント


周辺のスポット

  • 長崎原爆資料館
  • 国立長崎原爆死没者 追悼平和祈念館
  • 浦上天主堂

地域の名物

  • 卓袱料理(しっぽくりょうり)

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