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旧長崎英国領事館:外交の扉が開かれた場所、幕末・明治の影を映すレンガの館

出島から大浦天主堂に向かって歩いていたところ、途中で改築中らしいレンガ造りの建物を見つけました。あとで地図で確認したところ、旧長崎英国領事館でした。

かつて海を越えて日本と世界が出会った港町、長崎。そのなかでも大浦の丘にひっそりと佇む「旧長崎英国領事館」は、幕末から明治という激動の時代における国際交流の生き証人です。レンガ造りの落ち着いたたたずまいに足を踏み入れると、まるで当時の空気がそのまま閉じ込められているかのような感覚に包まれます。

長崎港が開港した1859年(安政6年)、イギリスはすぐさま領事館を設置しました。アヘン戦争後の中国情勢やアジアの海上貿易をにらんで、イギリスは長崎を極東の拠点として重視していたのです。はじめは仮の建物で外交業務をこなしていましたが、1907年(明治40年)には現在の本格的なレンガ造りの領事館が完成しました。以後、約半世紀にわたって、イギリスの外交官たちがここで働き、暮らし、日本との関係を築いていったのです。

建物は英国風のクラシックな外観が印象的で、赤レンガと白い石材のコントラストが美しいデザインです。内部には暖炉や木製の階段が残されており、当時のイギリス建築の雰囲気が今も色濃く感じられます。ステンドグラスのはめ込まれた窓から差し込む光はやわらかく、外交の舞台でありながらどこか家庭的なぬくもりも漂います。

1941年(昭和16年)、日英関係の悪化により領事館は閉鎖されました。その後はしばらく他の用途に使われた時期もありましたが、1955年(昭和30年)に長崎市の所有となり、現在は2025年まで改築工事中ですが、その後一般公開される予定です。

グラバー園や大浦天主堂といった名所に囲まれたこの建物は、幕末・明治の長崎を歩く旅のなかで、ひときわ印象深い一角となるはずです。歴史の表舞台にはあまり登場しない場所かもしれませんが、異国と日本が出会い、語り合い、時には衝突した、その「現場」に実際に立つことのできる貴重な空間です。

明治の空気と英国の気配が交錯する旧長崎英国領事館。時代の記憶を肌で感じたい方に、ぜひ訪れてほしい場所です。

日英同盟

20世紀の始まり、日本は一つの外交的転機を迎えました。それが、1902年(明治35年)に締結された日英同盟です。西洋列強によって世界秩序が築かれつつあった時代において、日本が初めて欧米列強と対等の立場で結んだ軍事同盟でした。この同盟は単なる条約以上の意味を持ち、日本の国際的地位を大きく押し上げることになりました。

この同盟の成立には、複雑な国際情勢が背景にありました。当時、アジアにおける最大の懸念はロシア帝国の南下政策でした。ロシアは朝鮮半島や満州へと勢力を伸ばしており、それは日本にとっての安全保障に直結する問題でした。一方、イギリスにとってもロシアはインドへの脅威であり、両国は自然と利害を共有するようになります。

こうして1902年(明治35年)1月30日、ロンドンにおいて日英両国は正式に同盟条約を結びました。この条約により、清国と朝鮮の独立と領土保全を共に支持し、どちらか一方が一国と戦争状態になった場合は中立を保つが、複数国と交戦することになった場合は相互に援助を行うという内容が定められました。とりわけ日本にとっては、三国干渉のような不当な圧力からの自衛手段となると同時に、列強の一員として認められる象徴でもありました。

その後、日英同盟は二度にわたって改定されていきます。1905年(明治38年)の日露戦争後には、イギリスは日本の朝鮮半島における影響力を事実上承認し、1911年(明治44年)にはさらなる軍事協力の強化が盛り込まれました。この第三次同盟は、第一次世界大戦での日本の参戦にもつながります。日本は連合国の一員として、イギリスの要請に応じてアジアや太平洋地域におけるドイツ勢力を排除し、地中海ではイギリス艦船の護衛任務にも従事しました。

しかし、時代の流れとともに、同盟の存在は新たな課題を生み出していきます。特にアメリカは、太平洋地域における日英の結びつきを警戒し、同盟の廃棄を強く主張しました。イギリスもまた、アメリカとの関係悪化を避けるため、日本との同盟よりも新たな多国間協調体制に舵を切ります。こうして1921年(大正10年)のワシントン会議において、四カ国条約が結ばれると同時に、約20年続いた日英同盟は静かに幕を下ろしました。

この同盟は、単なる条約文書の枠を超えた、近代日本の歩みの中でも極めて象徴的な出来事です。日本が「文明国」として、欧米列強の一角に足を踏み入れたその瞬間を、私たちは今も外交史の転換点として記憶しています。そしてその影には、国際秩序と緊張のはざまで、互いに利害を見出しながら手を結んだ二つの帝国の姿があったのです。

旅程

羽田空港

↓(飛行機)

長崎空港

↓(バス)

中央橋バス停

↓(徒歩)

眼鏡橋

↓(徒歩)

出島

↓(徒歩)

旧長崎英国領事館

↓(徒歩)

大浦天主堂

↓(徒歩)

グラバー園

↓(徒歩)

(略)

↓(徒歩)

長崎原爆資料館

↓(徒歩)

平和公園

↓(徒歩)

浦上天主堂

↓(徒歩)

平和公園バス停

↓(バス)

長崎空港

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