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7月, 2024の投稿を表示しています

SOMPO美術館: ロートレック展

新宿にあるSOMPO美術館に行ってきました。 若いころは旅行先の有名な美術館ですら入ることがないぐらい興味がありませんでしたが、今は芸術についても一般常識ぐらいは理解しておこうと思い、少しずつ行くようにしています。 今はロートレック展をやっていました。正直なところ、ロートレックについては名前すら聞いたことがありません。 アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは19世紀末にフランスで活躍した画家です。 ポスターなどの商業的なものも書かれていて、ムーランルージュなど知っている単語も出てきましたが、まだまだ勉強不足で全体的には理解が難しかったです。頭の片隅にでも記憶しておきたいと思います。 一部写真が許可されているものもありました。博物館や美術館にはまだまだ写真禁止のところが多いですが、SNSの普及で一部許可されているところも増えてきています。 ゴッホのひまわりも展示されています。こちらも写真撮影可です。 ゴッホのひまわりが日本にあるのかと驚きましたが、ひまわりは七点あり、そのうちの一点がSOMPO美術館にあるそうです。 ひまわり (絵画) - Wikipedia そういえば、ロンドンの ナショナル・ギャラリーでも見た気がします。いつかすべての美術館を訪ねてみたいと思います。 自宅が新宿から徒歩で約1時間なので歩いて帰りましたが、猛暑で非常に危険でした。先週の笠間も午前中で切り上げてきましたが、夏の外出は日本では難しくなり残念です。しばらくは夜までやっている施設か早朝でも入れる神社、お寺、公園に絞って行こうと思います。 本日、佐渡金山が世界文化遺産に登録されました。おめでとうございます。涼しくなったら、遊びに行きたいです。 旅程 新宿駅 ↓(徒歩5~10分) SOMPO美術館 ↓(徒歩) 帰宅 周辺のスポット 東京都庁 ルミネtheよしもと 花園神社 新宿御苑 地域の名物 関連スポット 大塚国際美術館 ノイエ・ピナコテーク(ミュンヘン) ナショナル・ギャラリー(ロンドン) ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム) フィラデルフィア美術館(フィラデルフィア) リンク SOMPO美術館(新宿駅 徒歩5分)|この街には《ひまわり》がある。

茨城県陶芸美術館

笠間つつじ公園から徒歩で茨城県陶芸美術館に行きました。 道は車道のみですが、自動車とバイクが1台ずつしか見かけないぐらい人通りが少ない道です。かなりの距離があるうえに、途中で自動販売機もないので、今日のような猛暑日には二度とやりたくありません。 陶芸美術館は笠間芸術の森公園の中にあります。笠間芸術の森公園も非常に広大な公園でスポーツなどを楽しむことができます。 「近代陶芸の祖」板谷波山さんの住宅や工房を再現した展示もあります。 非常に多くの陶芸が展示されていますが、まだよく分からないので、陶芸に見えないような作品ばかり見ていました。 特別展として、小中学生の作品も展示されていましたが、正直なところプロとの違いが分からないようなももあったり、逆にプロが先鋭的な作品を作ると子供の作品のようにも見え、違いが分からないぐらい小中学生の作品も素晴らしかったです(素人の感想です)。 旅程 都内 ↓(電車約2時間半) 笠間駅 ↓(徒歩約20分) 笠間稲荷神社 ↓(徒歩) 笠間日動美術館 ↓(徒歩) 笠間つつじ公園 ↓(徒歩 かなり遠い) 茨城県陶芸美術館 / 昼食 ↓(徒歩) 笠間駅 周辺のスポット 笠間稲荷神社 笠間日動美術館 笠間つつじ公園 地域の名物 笠間焼 結城紬 関連スポット リンク 笠間市公式ホームページ 茨城県陶芸美術館 Ibaraki Ceramic Art Museum 茨城県陶芸美術館 – 茨城県教育委員会 茨城県陶芸美術館 | 観光いばらき公式ホームページ

笠間つつじ公園

笠間日動美術館のあと、笠間つつじ公園に向かいました。 しかし、途中の道に書かれていた近道らしい方へ進んだところ、森のようなところに入ってしまい、しかも人が長い間通っていないようで、草をかき分けて進むことになってしまいました。素直に大きな道を通ってきた方がよいというか、公園も入口から上までそれなりに距離があったので、自動車で行く場所のようです。 午前中とは言え、猛暑の時期にこの道の選択は大失敗でした。 公園の入口。このあと、また頂上への近道みたいな案内がありますが、草が結構高くまで伸びていて、少し遠回りでも舗装道路を進んだ方が快適です。 頂上。 街を見渡すことができるのですが、ここまでが結構きつくてあまり感動はありませんでした。 キャンプも最近の大雨のせいか、猛暑のせいか、頂上では人は見かけませんでした。 笠間つつじ公園は、名前の通り、つつじなどが植えられており、5月初旬が見頃です。4月から5月初旬にかけてつつじ祭りを開催しているので、またその時期に訪れたいです。 少しネガティブな記事になりましたが、猛暑と道を間違えた私のミスです。 旅程 都内 ↓(電車約2時間半) 笠間駅 ↓(徒歩約20分) 笠間稲荷神社 ↓(徒歩) 笠間日動美術館 ↓(徒歩) 笠間つつじ公園 ↓(徒歩 かなり遠い) 茨城県陶芸美術館 / 昼食 ↓(徒歩) 笠間駅 周辺のスポット 笠間稲荷神社 笠間日動美術館 茨城県陶芸美術館 地域の名物 笠間焼 結城紬 関連スポット リンク 笠間つつじ公園 | 観光いばらき公式ホームページ つつじまつり | 笠間観光協会公式ホームページ 笠間つつじまつり – 観光いばらき 観光 | 笠間観光協会公式ホームページ  

笠間日動美術館

笠間稲荷神社参拝のあと、すぐ近くの笠間日動美術館に行きました。 特別展示として「Art & Mystery ウキウキ謎解き! トリックアート!!」を開催していました。 絵画に入ったような写真を撮ったり、 名画を立体的に見せたりするトリックアートがいくつか展示されており、楽しみながら芸術を学ぶことができます。 多くの画家のパレットが展示されており、非常に珍しく貴重なコレクションです。 笠間日動美術館は1972年(昭和47年)に画商の長谷川仁さん、林子さん夫妻により創設されました。パレットのコレクションはお二人と画家の親交から譲り受けたものです。 旅程 都内 ↓(電車約2時間半) 笠間駅 ↓(徒歩約20分) 笠間稲荷神社 ↓(徒歩) 笠間日動美術館 ↓(徒歩) 笠間つつじ公園 ↓(徒歩 かなり遠い) 茨城県陶芸美術館 / 昼食 ↓(徒歩) 笠間駅 周辺のスポット 笠間稲荷神社 笠間つつじ公園 茨城県陶芸美術館 地域の名物 笠間焼 結城紬 関連スポット リンク 笠間日動美術館|公益財団法人日動美術財団|笠間市 笠間日動美術館 笠間市公式ホームページ

笠間稲荷神社

東京から電車で約2時間半、笠間駅から徒歩約20分で到着。 今日の目的は旅行業務取扱管理者資格の勉強で学んだ笠間稲荷神社で茨城県笠間市にある稲荷神社。 日本三大稲荷の一つと言われていますが、確実に三大稲荷と言ってよい京都の伏見稲荷大社以外は、佐賀の祐徳稲荷神社や愛知の豊川稲荷などいくつもの稲荷が三大稲荷とうたっていてはっきりと決まっているわけではありません。 到着は9時半ごろでまだ朝早いからか人はまばら。 菊の名所で10月中旬から11月末にかけて菊まつりが開催されるらしいので、いつかその時期にまた訪れたいです。 おみくじは小吉。前回は鹿島神宮で引いた人生初の凶だったので、上り調子ということだろうか。仕事がうまくいっていないということだが、そういう認識はないので、しばらく気をつけて丁寧に仕事をしていきたい。 午前中他のスポットを回ったあと、この日は猛暑でこれ以上外を回るのは危険だと感じたので、茨城県陶芸美術館で昼を食べたあと水戸経由で帰りました。 旅程 都内 ↓(電車約2時間半) 笠間駅 ↓(徒歩約20分) 笠間稲荷神社 ↓(徒歩) 笠間日動美術館 ↓(徒歩) 笠間つつじ公園 ↓(徒歩 かなり遠い) 茨城県陶芸美術館 / 昼食 ↓(徒歩) 笠間駅 周辺のスポット 笠間日動美術館 笠間つつじ公園 茨城県陶芸美術館 地域の名物 笠間焼 結城紬 関連スポット 伏見稲荷大社 祐徳稲荷神社 豊川稲荷 リンク 笠間稲荷神社 笠間稲荷神社 | 観光いばらき公式ホームページ

カップヌードルミュージアム 横浜

コロナ以降、週末の一日は都内の観光スポットをまわるのが習慣になっていますが、今日は都内で雨が降りそうだったので、少し距離を伸ばして横浜のカップヌードルミュージアムに行きました。 子供向けのアトラクションが多く小さな子供のいる家族が過ごすのに良い場所です。 自分だけのカップラーメンやチキンラーメンを作れるアトラクションもありますが、事前予約や先着順でこの日はすでに満員でした。そもそも子供向けで私は大人一人で行っているので、空いていてもよっぽど閑散としていないと参加しないと思います。 創業者の安藤百福さんのことを映像で学ぶことができます。 安藤百福さんは、48歳のときにインスタントラーメンを発明し起業されました。今の自分とほぼ同じ歳なので、この年齢でも新しいことに挑戦することが大切だと感じました。 その後、91歳で宇宙食用のラーメンを開発されているので生涯を通して挑戦されていました。 旅程 みなとみらい駅 ↓(徒歩約10分) カップヌードルミュージアム ↓(徒歩約10分) みなとみらい駅 周辺のスポット よこはまコスモワールド 横浜ランドマークタワー 横浜赤レンガ倉庫 山下公園 地域の名物 関連スポット リンク カップヌードルミュージアム 横浜

地下鉄博物館:東京の地下を支える技術と歴史に触れる

本日は残念ながら少し雨模様なので、葛西駅に近い地下鉄博物館を訪れました。平井大橋の近く、東京メトロ東西線の葛西駅の高架下にあるこの博物館は、地下鉄の歴史と技術が凝縮された空間で、鉄道好きにとってはまさに宝の山のような場所です。 館内に足を踏み入れると、まず目を引くのは実物の地下鉄車両たちでした。戦後すぐに運行を始めた丸ノ内線の301号車は、どこか懐かしさを感じさせる赤い車体が印象的でした。一方で、地下鉄黎明期を支えた東京地下鉄道の1001号車や、東京高速鉄道の129号車は、昭和初期のモダンな雰囲気を漂わせており、現在の地下鉄へとつながる原点を感じさせてくれます。静かにたたずむ車両たちは、それぞれが都市の成長とともに走り抜けた歴史の証人のようでした。 展示の中でも特に目を引いたのは、巨大なシールドマシンのカッターディスクです。直径数メートルにもなる円盤は、まるで怪獣の装甲のように迫力があり、東京の地下に無数のトンネルを掘り進めてきた機械の力強さを物語っていました。実際に掘削の仕組みを解説するコーナーでは、単線シールドトンネルの断面模型も展示されており、私たちが何気なく通っている地下鉄の路線の裏側にある緻密な設計と安全性への工夫を垣間見ることができました。 また、車両の屋根部分に取り付けられているパンダグラフの展示では、電気をどのように集電し、走行につなげているのかという仕組みを模型とともに学ぶことができました。普段は見上げるだけの存在ですが、こうして間近に見ることで、日常の中にある高度な技術への理解が深まりました。 館内の最後には、東京メトロ全体の路線や街の様子をジオラマで再現した「メトロパノラマ」があります。電車が走り、駅が明るく光り、都心の喧騒が精巧に再現されたその風景は、小さな箱庭ながらも、東京という巨大都市の躍動を感じさせてくれました。 地下鉄博物館は、単なる鉄道展示にとどまらず、都市のインフラを支える人々の努力や、技術の進歩、そしてそれを支えてきた長い歴史に目を向けるきっかけを与えてくれます。地下を走る電車の中に込められた無数の物語を、これからは少し違った目で見られるようになった気がしました。 また訪れたい、そんな博物館でした。 旅程 葛西駅 ↓(徒歩) 地下鉄博物館 ↓(徒歩) 葛西駅 関連イベント 周辺のスポット 江戸川区自然動物園 地域の名物 関連スポ...

浦上天主堂:長崎の丘に響く祈りの光、戦争の爪痕と再生の物語

平和公園のあと、浦上天主堂(うらかみてんしゅどう)を訪れました。丘の上にたたずむこの教会は、日本のカトリック史と、戦争の歴史を静かに語り継ぐ場所です。 中に入ると、まず目に入ったのは、原爆によって破壊された遺物や、当時の様子を伝える説明資料の展示です。瓦礫となった鐘や崩れた聖像、焼け焦げた十字架の写真などは、戦争の爪痕をいまも色濃く残しており、訪れる人に平和の大切さを訴えかけているようでした。 教会内部はちょうど礼拝の最中で、写真撮影は禁止されていました。しかし、静寂のなか、陽の光を受けて輝くステンドグラスがとても印象的でした。鮮やかな色彩のガラス越しに差し込む光は、まるで希望や癒しを象徴しているようで、思わずしばらく立ち尽くしてしまいました。 浦上天主堂は、1945年8月9日の原爆投下で一度壊滅的な被害を受け、当時の信者や地域の人々も多く犠牲になりました。その後、多くの人々の努力と祈りによって再建され、現在では長崎の平和を願う象徴的な場所となっています。教会の外にも、当時のまま残された遺物が展示されており、崩れた壁や、溶けた鐘の破片などに触れることで、戦争の悲惨さと平和への誓いを改めて感じることができました。 歴史を刻みながら、いまも多くの人々が祈りを捧げる浦上天主堂。そこは、信仰だけでなく、長崎の記憶と希望が受け継がれる特別な場所だと、強く感じました。 旅程 羽田空港 ↓(飛行機) 長崎空港 ↓(バス) 中央橋バス停 ↓(徒歩) 眼鏡橋 ↓(徒歩) 出島 ↓(徒歩) 旧長崎英国領事館 ↓(徒歩) 大浦天主堂 ↓(徒歩) グラバー園 ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) 長崎原爆資料館 ↓(徒歩) 平和公園 ↓(徒歩) 浦上天主堂 ↓(徒歩) 平和公園バス停 ↓(バス) 長崎空港 関連イベント 周辺のスポット 平和公園 長崎原爆資料館 国立長崎原爆死没者 追悼平和祈念館 地域の名物 卓袱料理(しっぽくりょうり) 関連スポット リンク 浦上教会 | 教会めぐり | 【公式】長崎観光/旅行ポータルサイト ながさき旅ネット 浦上教会(浦上天主堂) | スポット | 長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」 長崎原爆と浦上天主堂 — Google Arts & Culture 浦上天主堂|写真|ライブラリ|九州観光機構 KYUSHU ONLINE MEDI...

平和公園(長崎):静寂の中で想う平和、声なき声に耳を澄ます、原爆の記憶を辿る旅

日帰りで長崎観光に来ました。午前中はグラバー園などを廻り、午後は平和公園に来ました。 長崎の平和公園を訪れると、静けさの中に込められた深い祈りと歴史の重みを感じます。この公園は、1945年(昭和20年)8月9日に長崎に投下された原子爆弾の記憶を今に伝え、世界の恒久平和を願うために整備された場所です。市の中心部からもアクセスしやすく、長崎駅から路面電車に乗れば10分ほどで到着します。 公園のシンボルとなっているのが、「平和祈念像」です。これは彫刻家の北村西望(きたむら せいぼう)によって制作されたもので、青銅製の巨大な像が訪れる人々を迎えてくれます。右手を高く天に向けて伸ばしている姿は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を意味しています。そして閉じた目は犠牲者への祈りを表しているのだそうです。その姿はとても印象的で、しばらく見入ってしまいます。 また、公園内には「原爆落下中心地碑」があり、ここがまさに爆心地であったことを静かに語っています。周囲には、被爆当時に崩れた浦上天主堂の遺構も保存されていて、当時の惨状を思い起こさせます。整然と配置された石碑や展示物が、過去の出来事を忘れないよう私たちに語りかけているようでした。 「平和の泉」も忘れてはならない場所です。ここは、被爆後に水を求めながら亡くなった人々への慰霊を込めて作られた泉で、そばにはある少女の言葉が刻まれた碑があります。「のどがかわいてたまりませんでした」という短い一文が、胸に深く刺さります。何気ない言葉なのに、重く響く一言です。 公園のすぐ隣には「長崎原爆資料館」もあり、被爆の事実や原爆の被害、そして平和への歩みについて学ぶことができます。館内には被爆者の遺品や写真、証言などが展示されており、一つ一つが生々しく、簡単には言葉にできない重さがあります。 長崎の平和公園は、単なる観光地ではありません。静かに歩きながら、過去の出来事に思いを馳せ、今ある日常の尊さを改めて感じさせてくれる場所です。毎年8月9日には平和祈念式典が行われ、世界中から人々が集まって祈りを捧げています。もし長崎を訪れる機会があれば、ぜひこの平和公園にも足を運び、心静かに過ごしてみてはいかがでしょうか。 第五福竜丸 1954年(昭和29年)3月1日、太平洋の静かな海に突如として巨大な閃光と衝撃が走りました。アメリカがマーシャル諸島・ビキニ環礁...

大浦天主堂:200年の沈黙を越えて、世界遺産が語る日本のキリスト教史

出島を見学したあと、徒歩で大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)に向かいました。 長崎の丘の上にたたずむ大浦天主堂は、日本のキリスト教史に深く根ざした特別な場所です。港町長崎を見下ろすように建つその白亜の教会は、訪れる人々に静かな感動を与えてくれます。私が初めてこの教会を訪れた時、ただ美しいだけではない、長い歴史の重みと信仰の深さが感じられ、胸が熱くなったことを今でもはっきりと覚えています。 大浦天主堂が建てられたのは1864年(元治元年)。日本がまだ江戸から明治へと大きく変わろうとしていた時代のことです。当時、日本はようやく開国を果たし、外国人の往来が許されるようになったばかりでした。そうした中で来日したフランス人の宣教師たちが、長崎の外国人居留地に住む信者のためにと、この教会を建てました。設計を手がけたのはパリ外国宣教会のフューレ神父、そして実際に建てたのは日本人の職人たちです。ヨーロッパのゴシック建築に、日本独自の瓦や漆喰の技術が融合した外観は、どこか懐かしさと異国情緒を同時に感じさせてくれます。 この教会を語るうえで欠かせない出来事が、1865年(元治2年)の「信徒発見」です。教会の完成からわずか1か月後、長崎の浦上からやってきた数人の村人が、プティジャン神父のもとを訪れ、信仰を打ち明けたのです。「私たちは、あなたと同じ信仰を持っています」――200年以上にもわたる禁教の時代を密かに生き延びてきた隠れキリシタンたちが、ついに表に出てきた瞬間でした。この出来事は「東洋の奇跡」と呼ばれ、遠くバチカンのローマ教皇ピオ9世をも感動させました。 教会の中に足を踏み入れると、色鮮やかなステンドグラスから差し込む光が、荘厳な空気を醸し出しています。天井の高い空間に響く足音さえ、まるで祈りの一部のように感じられるほどの静けさです。祭壇の奥には、26聖人の名を冠した殉教者たちを祀る像が立ち、訪れる人々の思いを受け止めてくれているかのようです。隣接するキリシタン博物館では、弾圧の時代に密かに守られてきた信仰の証が展示されており、その一つひとつに、当時の人々の覚悟と苦しみ、そして希望が込められていることが伝わってきます。 2018年(平成30年)、大浦天主堂は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一部として、ユネスコ世界文化遺産に登録されました。それは、建物の美しさだけでなく、...

旧長崎英国領事館:外交の扉が開かれた場所、幕末・明治の影を映すレンガの館

出島から大浦天主堂に向かって歩いていたところ、途中で改築中らしいレンガ造りの建物を見つけました。あとで地図で確認したところ、旧長崎英国領事館でした。 かつて海を越えて日本と世界が出会った港町、長崎。そのなかでも大浦の丘にひっそりと佇む「旧長崎英国領事館」は、幕末から明治という激動の時代における国際交流の生き証人です。レンガ造りの落ち着いたたたずまいに足を踏み入れると、まるで当時の空気がそのまま閉じ込められているかのような感覚に包まれます。 長崎港が開港した1859年(安政6年)、イギリスはすぐさま領事館を設置しました。アヘン戦争後の中国情勢やアジアの海上貿易をにらんで、イギリスは長崎を極東の拠点として重視していたのです。はじめは仮の建物で外交業務をこなしていましたが、1907年(明治40年)には現在の本格的なレンガ造りの領事館が完成しました。以後、約半世紀にわたって、イギリスの外交官たちがここで働き、暮らし、日本との関係を築いていったのです。 建物は英国風のクラシックな外観が印象的で、赤レンガと白い石材のコントラストが美しいデザインです。内部には暖炉や木製の階段が残されており、当時のイギリス建築の雰囲気が今も色濃く感じられます。ステンドグラスのはめ込まれた窓から差し込む光はやわらかく、外交の舞台でありながらどこか家庭的なぬくもりも漂います。 1941年(昭和16年)、日英関係の悪化により領事館は閉鎖されました。その後はしばらく他の用途に使われた時期もありましたが、1955年(昭和30年)に長崎市の所有となり、現在は2025年まで改築工事中ですが、その後一般公開される予定です。 グラバー園や大浦天主堂といった名所に囲まれたこの建物は、幕末・明治の長崎を歩く旅のなかで、ひときわ印象深い一角となるはずです。歴史の表舞台にはあまり登場しない場所かもしれませんが、異国と日本が出会い、語り合い、時には衝突した、その「現場」に実際に立つことのできる貴重な空間です。 明治の空気と英国の気配が交錯する旧長崎英国領事館。時代の記憶を肌で感じたい方に、ぜひ訪れてほしい場所です。 日英同盟 20世紀の始まり、日本は一つの外交的転機を迎えました。それが、1902年(明治35年)に締結された日英同盟です。西洋列強によって世界秩序が築かれつつあった時代において、日本が初めて欧米列強と対等の立場で...

出島:鎖国の時代を貫いた、異文化交流の島、静かなる国際都市

長崎市に観光に来ました。眼鏡橋を見た後、出島(でじま)に向かいました。 長崎の海に浮かぶ小さな扇形の島、出島。現在は陸続きとなって長崎市街の一角に溶け込んでいますが、かつてここは日本と西洋をつなぐ唯一の窓口として、200年以上にわたって歴史の大きな舞台となってきました。 出島が築かれたのは1634年(寛永11年)のことです。当時、日本はキリスト教の布教活動に対して強い警戒心を抱いており、とくにポルトガル人の存在がその象徴とされていました。幕府はポルトガル人を隔離するために人工島を築き、そこに彼らを閉じ込めることで日本人との接触を制限しようとしたのです。しかし、1639年(寛永16年)にはポルトガル船の来航そのものが禁止され、出島はその役目を一時失います。 出島の本格的な歴史が動き出すのは1641年(寛永18年)、オランダ東インド会社の商館が平戸からこの島へ移転してからです。これ以降、幕末にいたるまでの約200年間、出島はオランダと日本のあいだで行われる唯一の公的な貿易拠点となりました。幕府はキリスト教の布教を行わないオランダに限って交易を認めていたため、出島は「鎖国」体制下における例外的な存在となったのです。 この小さな島では、実に多彩な交流が行われていました。日本からは銅や銀、漆器、陶磁器などが輸出され、ヨーロッパからは薬品やガラス器、時計、西洋の書物などがもたらされました。なかでも注目すべきは、出島を通じて日本にもたらされた西洋の学問です。医術や天文学、物理学といった分野の知識は、当時の日本の知識人たちによって熱心に学ばれ、「蘭学」という新しい学問分野が形成されていきました。杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳も、出島を通して手に入れたオランダの医学書があってこそ成し得た偉業でした。 しかし時代は変わります。1853年(嘉永6年)にペリー提督が浦賀に来航し、1859年(安政6年)には横浜・長崎・函館などが正式に開港されると、日本は本格的な開国の道を歩みはじめます。そうなると、出島という限られた空間だけに外交を閉じ込めておく必要はなくなり、オランダ商館もその地を離れました。出島はその後、長崎の市街地の中に取り込まれ、長らく歴史の表舞台から姿を消します。 しかし近年、出島の歴史的意義を見直す動きが高まり、かつての島の姿を取り戻す復元事業が進められてきました。現在では1...