東京都豊島区にある豊島長崎の富士塚に行きました。あのころはコロナ禍のただ中で、できるだけ人の多い場所を避けながら過ごすことを意識していました。この日もスクーターで池袋駅付近まで出て、そのまま西側をあてもなく探索していました。繁華街から少し離れるだけで、街の表情はずいぶん落ち着いたものに変わります。そうした中で見つけたのが、この豊島長崎の富士塚でした。 富士塚そのものは、東京を歩いていると時々見かけます。ですので、最初は「ここにもあるのか」くらいの気持ちでした。けれども、現地の案内パネルを読んで、その印象は大きく変わりました。この富士塚は国指定重要有形民俗文化財であり、しかも1862年、文久2年に築造されたと考えられているというのです。ただの小さな塚ではなく、江戸から続く人々の信仰と暮らしを今に伝える、きわめて貴重な存在だったのだと分かりました。 富士塚とは、富士山を信仰する人々が、身近な場所で富士登山を疑似的に体験できるようにつくられた人工の山です。江戸時代には富士講と呼ばれる信仰の集まりが広まり、実際に富士山へ登ることが大きな意味を持っていました。しかし、誰もが遠くの富士山まで旅をできたわけではありません。時間や費用の問題もあれば、体力や健康の事情もあります。そうした中で、地域の中に富士山を象徴する塚を築き、そこに登ることで富士登拝に代えるという信仰の形が生まれました。富士塚は、単なる模型や遊具ではなく、人々の祈りや共同体の結びつきが形になったものだったのです。 とくに江戸・東京周辺には富士講が盛んだった地域が多く、今でも各地に富士塚が残されています。黒ボク石や溶岩を用いて富士山らしい景観を再現したり、登山道や祠を設けたりと、それぞれに工夫が見られます。こうした富士塚は、山岳信仰、民間信仰、地域の講の活動、さらには都市生活の中で人々がどのように宗教心を育んでいたかを知るうえでも、非常に重要な文化遺産です。大きな寺社や有名な城郭のように派手ではありませんが、むしろこうした場所にこそ、その時代を生きた普通の人々の実感が色濃く残っているように思います。 豊島長崎の富士塚も、そうした江戸の民衆信仰を今に伝える存在なのでしょう。案内板によれば、築造は1862年、江戸時代の末期です。幕末というと政治的な動乱に目が向きがちですが、その一方で、人々の日々の暮らしや信仰は確かに続い...