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「弥生式土器ゆかりの地」碑:日本史の時代名、そのルーツを訪ねて

東京都文京区の「弥生式土器ゆかりの地」碑に行きました。 この日は東京都美術館で特別展を見た後、上野東照宮を参拝しました。まだ少し時間が余っていたため、以前から気になっていた「弥生式土器ゆかりの地」碑まで足を延ばすことにしました。 以前、弥生時代の遺跡について調べていたとき、東京に弥生時代の名前の由来となった場所があることを知りました。 縄文時代という名前であれば、特徴的な縄目の文様を持つ縄文土器から付けられたことは比較的想像しやすいと思います。しかし、「弥生時代」の「弥生」がどこから来たのかは、名前だけではなかなか想像できません。 明治17年(1884年)、現在の東京大学弥生キャンパス周辺にあった向ヶ岡弥生町の貝塚で、坪井正五郎、白井光太郎、有坂鉊蔵の3人によって、それまで知られていた縄文土器とは異なる土器が発見されました。後に発見地の町名から「弥生式土器」と呼ばれるようになり、さらに縄文時代と古墳時代の間に位置する時代そのものが「弥生時代」と呼ばれるようになりました。 つまり、日本史の教科書で何度も目にする「弥生」という言葉は、この東京の小さな地域の地名から全国へ広がったことになります。「弥生」という古くからある日本語らしい響きを持つ町名だったことも、時代の名称としてよく似合っているように感じました。 さらに面白いのは、その「弥生町」という地名にも由来があることです。 この一帯には江戸時代、水戸藩の屋敷がありました。文政11年(1828年)、後に第9代水戸藩主となる徳川斉昭が「向岡記」と呼ばれる碑文を残しました。その文章には「やよい」と「向ふが岡」という言葉があり、明治5年(1872年)に旧水戸藩邸跡へ町名を付ける際、「向ヶ岡弥生町」と名付けられたとされています。 江戸時代に斉昭が記した「やよい」という言葉が明治時代の町名となり、その町で発見された土器が「弥生式土器」と呼ばれ、やがて日本史の一時代を表す「弥生時代」という名称になったわけです。 「弥生時代」という非常に古い時代を示す言葉の由来をたどっていくと、意外にも江戸時代から明治時代にかけての歴史へとつながっていくところが面白いです。 ただし、最初の弥生式土器が出土した正確な場所は現在も特定されていません。そのため、ここにある碑も「発見地」ではなく、「ゆかりの地」とされています。昭和49年(1974年)には東京...

新田義重夫妻の墓(徳川館跡の宝塔) / 徳川東照宮(太田市)

群馬県太田市の「新田義重夫妻の墓」を訪ねました。 朝は埼玉県の深谷駅から、世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産である「田島弥平旧宅」へ。田島弥平旧宅のあと、案内所に立ち寄って展示と解説を拝見し、歩いて世良田駅方面へ向かう予定を伝えたところ、学芸員の方から「この近くに“徳川氏発祥の地”があるんですよ」と教えていただき、この辺りも散策することにしました。蚕種家の近代化に触れた朝から、徳川のルーツへ――一本の道筋の上に、日本の歴史の異なる層が重なっていることに胸が躍りました。 町に入ると、道路沿いの案内や説明板に「徳川氏発祥の地」の文字が現れます。ここ太田市の旧・徳川郷(得川郷)は、源氏の嫡流・新田氏の地にあたります。平安末から鎌倉初頭にかけてこの地域を開いた新田義重の四男・義季(よしすえ)が徳川郷に住み、「徳川(得川)」を称したのが徳川氏の始まりと伝えられています。のちに義季の後裔が三河へ移り松平を名乗り、さらに家康の代で再び「徳川」を称したという系譜は、現地資料や市の解説でも繰り返し語られてきた物語です。土地の名がそのまま氏の名となり、やがて天下の姓となっていくダイナミズムを、地名「徳川町」にいまも感じます。 江戸時代に入ると、この一帯は幕府から特別な庇護を受けて栄えました。現在、夏には弘前市と結ぶ「尾島ねぷた祭り」が開かれるなど、歴史の縁が現在進行形で受け継がれています。 まず手を合わせたのが「新田義重夫妻の墓」です。住宅地の一角にひっそりと立つ宝塔は、天神山凝灰岩で造られたと伝わり、静かな空気の中で時の重みを感じさせます。史料的には「伝・新田義重墓」とされる点に学びの余地を残しつつも、ここで一礼する行為そのものが、土地に積もった記憶へ敬意を払うことだと改めて思いました。夫妻の墓の近くには徳川東照宮もあり、こちらも参拝しました。 深谷から始めた日帰りの小さな寄り道は、思いがけず日本史の大河へ合流する散歩になりました。絹産業が近代国家を形づくった足跡をたどった朝から、徳川の名の起点に触れた午後へ。史跡の数は多くても、町は静かで、参拝の時間もゆったり流れます。帰り道、「地名は歴史の器だ」とつぶやきながら、案内板の「徳川氏発祥の地」の文字をもう一度振り返りました。過去から現在へ、そして私たちの暮らしへ――名前に込められた物語は、今日も確かに生き続けていると感じま...

リシクラテス記念碑:紀元前にの「歌の競技会」、芸能の勝者を讃える円形の塔

アテネ観光2日目の途中で「リシクラテス記念碑(リシクラテスのコラギコス記念碑)」にも立ち寄りました。朝から遺跡や史跡を巡っていると、どうしても大きな見どころに意識が引っ張られがちですが、この記念碑は「ふと寄り道した先に、都市の文化の芯が残っていた」というタイプの場所でした。プラカ周辺の小さな広場に、円筒形の大理石建築がすっと立っていて、規模は大きくないのに、視線を奪われる端正さがあります。 この記念碑が建てられたのは紀元前335/334年ごろで、ディオニューソスを讃える都市祭(シティ・ディオニューシア)で、合唱(ディテュランボス)の競技に優勝したことを記念して、リシクラテスという資力ある後援者(コレゴス)が奉納したものだとされています。つまり「芸能の勝利」を、個人の名とともに石に刻んで都市空間に残したわけで、紀元前に合唱のコンテストが制度として成立していたこと、その優勝を“記念碑”として建てる文化があったこと、そして誰が勝ち、誰が関わったのかまで記録が伝わっていることに、素直に驚かされました。祭礼と芸能と市民の誇りが、観光資源になる以前から都市の中心にあったのだと実感します。 建築としても見どころが多く、円形平面に6本のコリント式の柱が巡る姿は、優雅でありながら緊張感があります。外観にコリント式を本格的に用いた最初期の例として語られることも多く、細部の彫刻や全体のプロポーションが「小さくても一級品」である理由を納得させます。もともとは屋根の上に、優勝の象徴である青銅の三脚(トリポッド)が載っていたとされ、勝利の記憶が上へ上へと掲げられていた情景を想像すると、この場所の意味が一段立体的になります。さらにフリーズ(帯状浮彫)にはディオニューソスに関わる神話場面が彫られており、ここが単なる記録装置ではなく、祭礼の神に捧げられた造形でもあったことが伝わってきます。 立地も象徴的で、周辺は「トリポドン通り(トリポッドの通り)」と呼ばれ、かつては同種の記念碑が並んでいた道筋だといいます。いまは多くが失われ、この一基が際立って残っているからこそ、逆に当時のアテネで芸能競技がどれほど重要だったのか、想像力が刺激されました。後世には修道院の敷地に取り込まれて保存され、時代によって「ランタン(灯火)」のような愛称でも呼ばれたという逸話まで含めて、古代遺産が都市の生活の中で姿を変えながら...