群馬県太田市の「新田義重夫妻の墓」を訪ねました。 朝は埼玉県の深谷駅から、世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産である「田島弥平旧宅」へ。田島弥平旧宅のあと、案内所に立ち寄って展示と解説を拝見し、歩いて世良田駅方面へ向かう予定を伝えたところ、学芸員の方から「この近くに“徳川氏発祥の地”があるんですよ」と教えていただき、この辺りも散策することにしました。蚕種家の近代化に触れた朝から、徳川のルーツへ――一本の道筋の上に、日本の歴史の異なる層が重なっていることに胸が躍りました。 町に入ると、道路沿いの案内や説明板に「徳川氏発祥の地」の文字が現れます。ここ太田市の旧・徳川郷(得川郷)は、源氏の嫡流・新田氏の地にあたります。平安末から鎌倉初頭にかけてこの地域を開いた新田義重の四男・義季(よしすえ)が徳川郷に住み、「徳川(得川)」を称したのが徳川氏の始まりと伝えられています。のちに義季の後裔が三河へ移り松平を名乗り、さらに家康の代で再び「徳川」を称したという系譜は、現地資料や市の解説でも繰り返し語られてきた物語です。土地の名がそのまま氏の名となり、やがて天下の姓となっていくダイナミズムを、地名「徳川町」にいまも感じます。 江戸時代に入ると、この一帯は幕府から特別な庇護を受けて栄えました。現在、夏には弘前市と結ぶ「尾島ねぷた祭り」が開かれるなど、歴史の縁が現在進行形で受け継がれています。 まず手を合わせたのが「新田義重夫妻の墓」です。住宅地の一角にひっそりと立つ宝塔は、天神山凝灰岩で造られたと伝わり、静かな空気の中で時の重みを感じさせます。史料的には「伝・新田義重墓」とされる点に学びの余地を残しつつも、ここで一礼する行為そのものが、土地に積もった記憶へ敬意を払うことだと改めて思いました。夫妻の墓の近くには徳川東照宮もあり、こちらも参拝しました。 深谷から始めた日帰りの小さな寄り道は、思いがけず日本史の大河へ合流する散歩になりました。絹産業が近代国家を形づくった足跡をたどった朝から、徳川の名の起点に触れた午後へ。史跡の数は多くても、町は静かで、参拝の時間もゆったり流れます。帰り道、「地名は歴史の器だ」とつぶやきながら、案内板の「徳川氏発祥の地」の文字をもう一度振り返りました。過去から現在へ、そして私たちの暮らしへ――名前に込められた物語は、今日も確かに生き続けていると感じま...