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東京ジャーミイ:トルコ文化とイスラーム文化の玄関口、東京観光で異文化体験

コロナも落ち着いてきたので、最近は東京都内の観光をしています。本日は、正月の休みを利用して、新宿にあるイスラーム教のモスクの東京ジャーミイに来ました。コロナ前にトルコのイスタンブール観光したときに、日本語が話せる

東京の喧騒の中に、まるで異国に迷い込んだような静謐な空間があります。代々木上原駅から徒歩数分の場所に立つ「東京ジャーミイ」は、日本にいながらオスマン建築の美しさとイスラーム文化の精神に触れられる、まさに宝石のような存在です。

このモスクは1938年(昭和13年)、日本に移住していたタタール系トルコ人によって建てられました。戦争や時代の変遷を経て老朽化し、やがて取り壊されることになりますが、2000年(平成12年)、トルコ共和国の支援のもと再び新たな姿で蘇りました。再建にあたっては、建築資材も職人もトルコから招かれ、本場の技術と精神が丁寧に注ぎ込まれています。

建物の外観からして圧倒されます。白亜の壁に繊細なアラベスク模様、空に向かって伸びるミナレット。まるでイスタンブールのモスクをそのまま東京に移築したかのような印象を受けます。内部に一歩足を踏み入れると、そこにはステンドグラスの柔らかな光、天井を彩るカリグラフィー、そして祈りの静けさに満ちた空気が広がっています。礼拝の時間になると、館内にアザーンが響き渡り、心が自然と落ち着いていくのを感じることでしょう。

東京ジャーミイは、単なる宗教施設にとどまりません。併設のトルコ文化センターでは、トルコ語やトルコ料理、書道や陶芸など、多彩な講座や展示が行われており、宗教や国籍を越えた文化交流の場となっています。特に週末には、建物内のガイドツアーが開催され、訪れた人々はオスマン様式の建築やイスラーム文化について学ぶことができます。日本語と英語の解説が用意されているため、観光客にとっても理解しやすい内容となっています。

見学に際しては、肌の露出を控えた服装を求められますが、スカーフなどは貸し出しも行われていますので、気軽に訪れることができます。モスクというと敷居が高いと感じる方もいるかもしれませんが、東京ジャーミイは常に開かれており、「知ること」を歓迎してくれる場所です。

宗教、文化、建築、そして人々の祈りの場としてのジャーミイ。その静けさと美しさを感じに、東京を訪れた際にはぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。日常から少し離れた場所で、心と視野が広がるひとときが待っています。

ムハンマド(マホメット)

アラビア半島の乾いた大地に、ひとりの男が神の言葉を受け取ったとき、歴史は大きく動き出しました。その名はムハンマド。イスラームの開祖として知られ、現在に至るまで十数億人の人々に崇敬されている存在です。

彼が生まれたのは570年頃、アラビア半島の商業都市メッカでした。クライシュ族という有力部族に属していましたが、早くに両親を失い、孤児として育ちました。誠実で信頼される商人として名を馳せた彼は、裕福な未亡人ハディージャと結婚し、安定した生活を送り始めます。

しかし、40歳のある日、メッカ郊外のヒラー山の洞窟で彼の人生は一変します。天使ジブリール(ガブリエル)が現れ、神の言葉を伝えたのです。この啓示が、のちに『クルアーン(コーラン)』として編纂され、イスラームの聖典となります。彼はただの商人から、「神の使徒」として新しい宗教を広める預言者へと変貌を遂げました。

しかしその道のりは平坦ではありませんでした。彼の説く唯一神アッラーの教えは、多神教を信じるメッカの有力者たちの怒りを買い、激しい迫害を受けます。ついに彼は622年、信者たちとともに北の町メディナへと移住しました。これが「ヒジュラ(聖遷)」と呼ばれる出来事であり、イスラーム暦の元年とされています。

メディナでは、ムハンマドは宗教指導者としてだけでなく、政治的なリーダーとしても手腕を発揮します。彼は部族間の争いを仲裁し、異なる宗教の人々とも共存の道を模索しました。そしてイスラーム共同体「ウンマ」が形づくられていきます。メッカとの緊張関係は武力衝突に発展し、いくつかの戦いを経て、ついに630年、ムハンマドはメッカを無血で征服することに成功しました。

その後もイスラームの教えはアラビア全土に広まりました。632年、最後の巡礼の旅を終えた彼は、アラファートの地で「別れの説教」を行います。そこでは、人々の平等、女性の尊重、信仰の大切さなどが語られ、彼の教えの総まとめのような内容でした。同年、彼はメディナで亡くなり、その墓は現在でもイスラーム世界最大の聖地のひとつとなっています。

ムハンマドは、イスラームにおいて「最後の預言者」とされています。彼の生涯と言葉、そして行いは後に「スンナ」として記録され、信仰の指針となりました。彼が遺した教えは、今日も世界中のムスリムの生活を導いています。

静かなる洞窟から響いた神の声は、いまや地球の隅々まで届いています。ムハンマドの物語は、信仰だけでなく、勇気と忍耐、そして人間の可能性について語りかけてくれるのです。

旅程

原宿駅

↓(徒歩)

東京ジャーミイ

↓(徒歩)

代々木上原駅

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