スキップしてメイン コンテンツに移動

日本オリンピックミュージアム:幻となった1940年五輪と、戦争からの復興の象徴1964年東京オリンピック、コロナ下の2021年大会

新宿にある日本オリンピックミュージアムに来ました。

東京・新宿区にある日本オリンピックミュージアムは、オリンピックの歴史や理念、そしてスポーツの持つ力を体感的に学べる場所です。2019年(令和元年)9月にオープンし、国立競技場のすぐそばに位置していることから、オリンピックファンはもちろん、スポーツに関心のある多くの人々が訪れる注目のスポットとなっています。

ミュージアムの建物は、ガラスを多用した現代的なデザインが印象的で、館外には大きなオリンピックシンボルのモニュメントが設置されており、訪れた人たちのフォトスポットとして人気を集めています。展示は1階と2階に分かれており、オリンピックの創設から現在に至るまでの歩みを映像や資料、実物のトーチやメダルなどで辿ることができます。

特に目を引くのは、体験型の展示コーナーです。ここでは、アスリートの動きに挑戦できるシミュレーションや、走る・跳ぶといった動作を通してスポーツの難しさや面白さを実感できるコンテンツが用意されています。子どもから大人まで夢中になれる内容で、家族連れにもおすすめです。

また、日本で開催された1964年(昭和39年)と2021年(令和3年)の東京大会、1972年(昭和47年)の札幌大会、1998年(平成10年)の長野大会に関する資料も充実しており、それぞれの大会の特色や時代背景、選手たちの活躍が丁寧に紹介されています。パラリンピックに関する展示も設けられており、共生社会に向けた取り組みや、障がい者スポーツの魅力についても深く学ぶことができます。

ミュージアムの営業時間は朝10時から夕方5時までで、入館は閉館の30分前までとなっています。月曜日は休館日ですが、祝日の場合は開館し、翌日が休館となることもあります。入館料は大人500円、高校生以下は無料と、気軽に立ち寄れる価格設定なのも嬉しいポイントです。

日本オリンピックミュージアムは、オリンピックを通してスポーツの素晴らしさや人間の可能性に触れられる場所です。展示を見るだけでなく、実際に身体を動かしながら学べるユニークな空間となっており、訪れるたびに新たな発見があります。東京観光の一環として立ち寄ってみるのもおすすめです。

1964年東京オリンピック

オリンピックと聞くと、平和の祭典というイメージがまず浮かびますが、日本がその理念と向き合った歴史には、光と影の両面があります。とりわけ、1940年と1964年という二つの東京オリンピックには、深い対比とつながりが見られます。

1940年、東京はアジアで初めてオリンピック開催地に選ばれました。1936年のベルリン大会の直後、国際オリンピック委員会(IOC)の総会において、東京はローマとの投票を制して開催地に決定します。当時の日本は、国際社会の中で自らの存在感を示すために、このオリンピックを平和国家としてのアピールの場にしようと考えていました。

ところが、決定から間もなく、日中戦争が勃発し、状況は急変します。1937年(昭和12年)の盧溝橋事件をきっかけに中国との全面戦争に突入した日本は、次第に戦時体制へと移行していきます。オリンピックの準備に必要な資材や労働力も、戦争のために優先されるようになりました。国内では、軍部を中心に「平和の祭典より戦争を」とする声が高まり、IOCをはじめとする国際社会からも開催を疑問視する声が強まっていきます。

こうした中で、日本政府は1940年の開催権を返上する決断を下します。正式な通達は1938年7月に行われました。その後、開催地はローマへと変更されましたが、翌年には第二次世界大戦が始まり、結局ローマ大会も中止となってしまいます。1940年の東京オリンピックは、結果として「幻の五輪」として歴史に刻まれることになりました。

それから24年後の1964年(昭和39年)、日本は再びオリンピックの開催地として世界の注目を集めます。敗戦からの復興、高度経済成長の真っ只中にあった日本は、この大会を「平和国家としての再出発」を象徴する機会ととらえていました。戦争によって中止せざるを得なかった1940年の悔しさを乗り越え、今度こそ世界に胸を張って迎えた大会だったのです。

1964年の東京オリンピックは、インフラ整備を大きく進展させ、新幹線の開通や首都高速道路の整備など、今日の東京の基盤を形づくる契機となりました。また、衛星中継によって世界中に映像が届けられ、アジアで初めてのテレビ放送によるオリンピックとしても画期的な大会でした。

日本代表選手たちの活躍も目覚ましく、体操男子団体の金メダルや、女子バレーボール「東洋の魔女」の劇的な勝利は、日本中を熱狂させました。また、柔道がオリンピック競技として初めて採用された大会でもあり、武道の国・日本ならではの成果が印象的でした。

こうして1964年の東京オリンピックは、単なるスポーツイベントにとどまらず、日本の国際社会への復帰と経済的成長を象徴する歴史的な出来事となりました。1940年に果たせなかった夢を、1964年にようやく実現させた日本。その背景には、激動の時代を生き抜いた多くの人々の思いと努力がありました。

東京という都市が、20世紀の前半には戦争によって夢を断たれ、後半にはその夢を現実のものとした。この二つのオリンピックには、歴史の重みと、人間の希望、そして未来への意志が込められているのです。

旅程

千駄ケ谷駅

↓(徒歩)

日本オリンピックミュージアム

↓(徒歩)

信濃町駅

関連イベント


周辺のスポット

  • 国立競技場
  • ワタリウム美術館
  • 鳩森八幡神社
  • 明治記念館

地域の名物


関連スポット


リンク


コメント

このブログの人気の投稿

法隆寺:世界最古の木造建築と聖徳太子の遺産

京都・奈良観光に来ています。貸し切りのタクシーで刊行しており、法起寺と山背大兄王の墓所のあと、法隆寺に案内されました。 奈良県斑鳩町にある法隆寺(ほうりゅうじ)は、日本最古の仏教寺院の一つとして知られています。推古天皇15年(607年)に聖徳太子によって創建されたと伝えられ、1993年にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。創建当時は、斑鳩寺(いかるがでら / 鵤寺)と呼ばれていました。歴史の重みを感じるこの寺院は、日本の仏教美術や建築を語る上で欠かせない存在です。 法隆寺の伽藍は、西院伽藍と東院伽藍の二つのエリアに分かれています。西院伽藍には、世界最古の木造建築群が立ち並び、特に金堂と五重塔が有名です。金堂には飛鳥時代の代表的な仏像である釈迦三尊像が安置され、その表情や姿勢からは深い歴史と信仰の重みを感じることができます。五重塔は仏教建築の粋を集めたもので、塔内部には釈迦の入滅や舎利信仰を表す塑像群が残されています。 東院伽藍には、聖徳太子を祀る夢殿が建っています。夢殿は八角形の美しい建築様式を持ち、太子信仰の中心となる場所です。内部には秘仏・救世観音像が安置され、特定の期間のみ御開帳されることで知られています。また、法隆寺には百済観音と呼ばれる国宝の仏像も所蔵されており、その優雅な姿は多くの参拝者を魅了しています。 法隆寺の歴史をひも解くと、670年(天智9年)に火災で焼失し、その後再建されたとされています。これを巡って「法隆寺再建非再建論争」と呼ばれる学術的な議論が行われましたが、現在の伽藍は7世紀後半のものと考えられています。そのため、再建されたものではあるものの、非常に古い建築物として世界的にも貴重な文化財とされています。 法隆寺は単なる歴史的建造物ではなく、日本の仏教文化がどのように根付いていったのかを知る手がかりとなる場所です。その荘厳な雰囲気の中で、飛鳥時代の人々が抱いていた信仰や仏教の広がりを感じ取ることができます。奈良を訪れる際には、ぜひ足を運び、悠久の時を超えて受け継がれてきた法隆寺の魅力に触れてみてください。 文化財保護法 日本には数多くの歴史的建物や美術工芸品、伝統芸能や美しい自然環境など、次世代へと引き継ぐべき貴重な文化財があります。これらの文化財を守り、次の世代にも伝えていくために制定されたのが、「文化財保護法(ぶんかざいほごほう)...

桐生市の歴史的な建造物群:西桐生駅、蒲焼 泉新、矢野園、有鄰館、まちなか交流館、平田家住宅旧店舗、森合資会社事務所・店蔵・石蔵(旧穀蔵)、一の湯、旧桐生高等染織学校講堂、無鄰館、旧曽我織物工場

群馬県桐生市は、江戸時代から続く織物の町として知られ、かつて「桐生新町(きりゅうしんまち)」と呼ばれた歴史ある地域です。市内には桐生明治館や桐生織物記念館、桐生天満宮、織物参考館・紫といった代表的な施設だけでなく、今もなお往時の面影を色濃く残す歴史的建造物が数多く点在しています。これらの建造物群は、伝統的な町並みや商家、蔵などが連なり、まるで時代を遡ったかのような雰囲気を味わうことができます。 特に「桐生新町」は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、歴史と文化の香りを今に伝える貴重なエリアです。昔ながらの格子戸や石畳、重厚な蔵造りの家々が並ぶ風景は、歩くだけで桐生の長い歴史や人々の暮らしを感じさせてくれます。この記事では、そんな桐生新町の歴史的建造物群についてご紹介したいと思います。 西桐生駅 西桐生駅は、木造の趣ある駅舎が印象的な駅です。1928年(昭和3年)の開業以来、上毛電気鉄道の駅として、現在も多くの人々に利用されています。時代の移り変わりの中で、駅舎そのものは大きな改修を受けることなく、当時の面影を色濃く残しているため、歴史好きの方やレトロな雰囲気を味わいたい方にとって、心惹かれるスポットとなっています。 私が訪れた日は、真夏のような強い日差しが照りつける暑い日でした。ホームや駅舎の待合スペースでは、電車を待つ人々だけでなく、ベンチで休憩をとる方や、涼を求めて飲み物や軽食を楽しむ方の姿も見られました。昔ながらの木造駅舎にはどこか心地よい落ち着きがあり、旅の合間にほっと一息つくにはぴったりの空間です。 私も駅舎内の自動販売機でアイスクリームを買い、ベンチに腰掛けてしばし涼を取りました。外の暑さを忘れさせてくれるような、静かな時間が流れていたのが印象的です。長い歴史を持つ西桐生駅は、日常の中にそっと溶け込みつつ、訪れる人に昔懐かしい風景と、ひとときのやすらぎを与えてくれる場所だと感じました。 蒲焼 泉新 桐生の町を歩いていると、ふと香ばしいうなぎの香りが漂ってきました。そこにあるのが、天保元年(1829年)創業の老舗「蒲焼 泉新(いずしん)」です。長い歴史を持つうなぎ料理屋で、創業以来、地元の人々や旅人に親しまれてきました。建物自体がいつ建てられたものかははっきりとは分かりませんが、昭和61年に曳き移転されたという記録が残っており、それ以前からこの...

大阪・関西万博:夢洲に描かれた、テクノロジーと文化が交差する場所

4月から通信制の大学に入学したので、しばらくは旅行は月に一回ぐらいで我慢しようと思います。今月は始まったばかりの万博に行くことにしました。 2025年、再び大阪に世界が集まります。舞台となるのは、大阪湾に浮かぶ人工島・夢洲。ここで開催されるのが「2025年日本国際博覧会」、通称「大阪・関西万博」です。1970年に開催された伝説的な大阪万博から55年、今回は「いのち輝く未来社会のデザイン」という壮大なテーマのもと、人と地球、そして社会のあり方を問う万博が始まろうとしています。 会場の中央には「リング」と呼ばれる巨大な円形の構造物が設けられ、その周囲を各国のパビリオンや企業展示が囲みます。まるで未来都市のような空間で、来場者はぐるりと円を巡りながら、さまざまな価値観やテクノロジー、文化と出会うことになります。今回の万博では、150を超える国と地域が参加予定で、各国が独自の視点で「いのち」と「未来社会」に迫る展示を行います。 企業パビリオンでは、日本の最先端技術が一堂に会し、たとえば空飛ぶクルマや自動運転の次世代モビリティが実際に体験できる機会もあります。デジタル技術を駆使した展示や、環境配慮を徹底した建築・運営方法も注目されており、まさに未来社会の「実験場」として機能することが期待されています。 また、未来の社会課題に対する解決の糸口を探る場として、万博の副題には「未来社会の実験場(People's Living Lab)」という言葉が掲げられています。ここでは、技術だけではなく、人と人のつながりや、文化の融合、自然との共生といった、より根本的な問題についても来場者に問いかけてきます。 この万博のもうひとつの魅力が、公式キャラクター「ミャクミャク」です。一度見たら忘れられないユニークな姿は、生命の細胞と水の流れをイメージしており、「いのち」のコンセプトを象徴する存在として多くの人々に愛されています。 大阪・関西万博は、過去の栄光を振り返るだけのイベントではありません。これは、これからの日本、そして世界がどう生きていくのか、その道を模索するための舞台です。都市と自然、伝統と革新、個と共生のバランスをどう取るのか――夢洲の地で繰り広げられる6か月間の対話が、私たちにそのヒントを示してくれることでしょう。 GUNDAM NEXT FUTURE PAVILION 大阪・...